お母様と二人で暮らす家は、薔薇の王国都市部よりバスで20分ほど離れた中流層が住まう住宅街だ。薔薇の王国の景観法に則った、小さな庭のある白漆喰の壁に緑屋根の2階建ての家……僕はそこで生まれ育ち、15年と少しという時を過ごした。
7月にミドルスクールを卒業し、先月やっと15歳になったばかりの僕にとって、お母様と暮らすこの家は、ボクのすべてだった。
僕は、そんな家を今日出ようとしていた。
「いい事リドル、全寮制の学園であろうと、お母様との約束はきちんと守ること、いいわね?」
「はい、お母様」
「あぁ! 心配だわ!! あなたは私がしっかり監視していないとズルをしかねないもの」
トントンと机の上を指先で叩きながら、苛立ちを隠せないお母様は、ボクが8歳の時に起こした過ちを、まるで昨日のことのようにお話になられる。
今はもうそんな過ちは起こしません、世界の……そして、お母様と交わしたルールを守り、ボクは今日まで生きてきたのだから。
しかし、お母様に意見など許されるはずもなく、ボクは目を伏せた。これはきっと、ボクがお母様にとって未だ信用に足る息子では無いからだ。全てはボクのせいなんだと、そう納得するしか無い。
「お母様は今日は夜まで仕事があります、見送りができないからといって、家名にインクを落とすような事だけはしないように……さぁ、もう部屋に戻って、今日の分の勉強をしなさい。帰ってきたら確認するから、いつものようにリビングのテーブルの上に置いておくように」
「はい、お母様」
失礼しますと頭を下げて、2階の自室に戻れば、幾分か呼吸がしやすくなった。
いつものように学習机に向かえば、目の前の薄いレースカーテンの向こう、ボクがまた逃げ出さないように取り付けられた面格子の隙間から見える景色。それがいつもと少し違うような気がする。
それはきっと、今日、迎えの黒い馬車が来れば、ボクは全寮制の名門校、ナイトレイブンカレッジに入学するからだ。
魔法師養成学校でも名門中の名門、王侯貴族や名のある魔法師が卒業した実績のあるそこから入学許可書が届いたのは少し前のことだ。
元々は、薔薇の王国の王立魔法学院に首席入学が決まっていたボクは、この許可書が届いた時、胸の中でワッと花が咲き乱れ、興奮に頬が熱を持ったのを覚えている。
ナイトレイブンカレッジからの入学許可書は、魔法士として一定以上の素質がある事を認められたという証明だったからだ。
それをお母様に見ていただけば、きっとボクがお母様の子であることを誇らしく思っていただけるかも知れないと、ボクは仕事から帰宅されたお母様に一番最初にその入学許可書を見ていただいた。
「お母様、今日ボク宛に、賢者の島にあるナイトレイブンカレッジから入学許可書が届いたんです……!」
手渡した許可書を読んだお母様は、“だからどうした”とでも言いたげな表情でボクを見る。
「許可書が届くのは当たり前です、あなたは私が、そうなるように育てたんですから。それでいちいち騒ぐなんて……はしたないと思いなさい」
バッと跳ね除けられ、ボクはすぐさま反省して「申し訳ございません」と背を折って謝った。
「しかし、そうですね……こちらの王立学院よりも、魔法に関する事はこちらのほうがより学べるでしょう。いいわ、ナイトレイブンカレッジに行くことを許可します」
先ほどしぼんだ気持ちが花咲くように膨れ、ボクはお母様にまた“はしたない”と言われないように、気持ちをグッと押し込めて「ありがとうございます」とお礼を述べた。
それからは早いものだった。
入学に必要な物をリストにして調べ購入し、学園に持っていくトランクに詰める作業は心をウキウキとさせた。
あちらにも洋服店はあるだろうけれど、お母様は薔薇の王国の老舗ブランドの洋服以外身につけることを許されない。そこには、新しい服の他に下着や靴下、そして制服に合わせた靴を発注し、新しいノートやインクも買い揃えた。
ペンに関しては、入学と同時に生徒に渡される身分証に当たるマジカルペンを使用することになるので、新しいものは購入しなかった。
必要なものが揃えば、次は学園について学ばねばならない。
ナイトレイブンカレッジは、入学当日闇の鏡により寮を選定される。7つある寮で一番ボクの精神に近い寮を調べれば、どう考えてもハートの女王の“厳格”な精神に基づく“ハーツラビュル”寮しかない。なら、この寮に独自にあるという“ハートの女王の女王の法律”も、寮生に選ばれれば知らないでは許されないだろうと、前もって勉強する事にした。
こうして、迎えの馬車が来るまでの2ヶ月近くを、ボクは今か今かと密かに楽しみに生活していた。
お母様の元を離れての学園生活。年間レクリエーション表を見れば、今までお母様に参加を禁止されていた行事や、聞いたこともない行事も記載されてあった。
学園で友人を作っても、お母様に怒られないだろうか? ミドルスクールまでは勉学の邪魔だと言われた部活動も……勉強をこれまで以上に頑張ればしてもいいと、お母様に許可していただけるだろうか?
ナイトレイブンカレッジに入学して、やってみたいことが両の手では足りない事に気づく。
きっと、お母様のルールを守り、寮のルールを守れば、楽しい学園生活を過ごせるかも知れない。
「楽しみだな……」
漏らした言葉は、静まり返った部屋に消え、残ったのは時計がチクタクと鳴る音だけだ。
その音で、勉強時間を無駄に使ってしまったことを思い出し、ボクは急いで、今日お母様に進めておくようにと言われた範囲の参考書を開き、ノートにペンを走らせた。
それから10数時間後。辺りがうす暗くなった頃、家の前に青毛の馬が引いた馬車が現れた。
ボクはお母様に言われたとおりに、本日分の勉強したところまでの報告書を書き置き、リビングのテーブルに一揃し。最後に「行ってきます」という言葉にボクの名前を添えて置いてきた。
指定された真新しいナイトレイブンカレッジの式典服は、腕を通すとまだなんだかむず痒い。
美しいデザインが施された棺桶の中に収まれば、きっと次目を開けた時は、ボクはもうナイトレイブンカレッジにいる。
ドクドクと脈打つ心臓に手を置き、ボクはゆっくりとまぶたを閉じ、ガラガラと木製のタイヤが地面を掻く音を聞きながら、この先どんな事が待ち構えているのか、胸を躍らせた。