ダイニングテーブルの食事を片付けて、アルマの所にはなかった電気ケトルでお湯を沸かす。
アズールはコーヒーだろうか? 勝手に紅茶を飲むイメージがあったが、コーヒーの方がよく口にするようだ。
しかし、コーヒー豆は見つかったが、コーヒーメーカーの使い方がわからない。フレドの家では、飲む前にミルで挽いてガラス製のドリッパーを使って、ペーパードリップでコーヒーを淹れていた。だから、コーヒーを淹れるのにこの五年近くたくさんのボタンを目の前に黒いコーヒーメーカーの前で固まっていると、顔の横からアズールの腕が伸びてきた。
「!?」驚いて振り返ると、ボクの身体に密着するような距離まで詰められて、ボクは少し焦った。
今さらだが、アズールと結婚し、こうして寝室に一つしかベッドがない状況を考えても、ボクは彼に求められたら、彼の妻という立場から、アズールに身体を許さなければならないのか?
昔よりほんの少し身長が高くなったアズールは、女性化したせいで男に戻っても貧相な身体のままのボクと比べると、どうしても差がついた。こんなことはないと考えたいが、もし、もしも彼に強引に迫られたら、魔力も筋肉も体格も圧倒的に足りないボクはきっと抵抗なんか出来ないだろう。
自分の胸元に手を押し当てて黙り込むと、アズールの指が背後のコーヒーメーカーのボタンを押した。
「さすがの僕も、そんなに怖がられたら傷つくのですが……」
「ご、ごめん……だけど、その、寝室……ベッドが一つしかなかったから」
それで全てを察したのか、あぁと言ったアズールは、棚からマグカップを取り出した。使い込まれたそれは、例の企業に務めていた時に職場で使っていたものらしい。
「あのベッドは、レオナさんからの結婚、引っ越し祝いの品です。だから無下にも出来ず……本当は、あなたと同じベッドで寝たら我慢できるか自身がなかった。だからもちろん、部屋のベッドは二つ購入するつもりだったんです」
本当に最後の最後まであんな嫌がらせをされるとは思わなかったと、アズールが大きくため息を付いた。
「夕焼けの草原での仕事は、それなりに楽しかったみたいだね」
「そうですね、あのまま卒業していたらきっと知らない世界でした。毎日毎日、お世辞にも良いとは言えない環境に、作業着にヘルメットを被って、地中深く、死にそうな熱さに耐えながら、最後の最後までどうにもならなかった硬い岩盤にあてた杭を、レオナさんに殴れと言われて、渾身の力で殴らされたりもしました」
殴ると聞いて驚いていると、昔は真っ直ぐだったキレイな指は、なんだか節が目立つ男らしい手に変わっていた。
「他にも、ある時はレオナさんの代わりにパーティーに出席してコネクションを作り、ある時は仕事をさぼったレオナさんの運転手として連れ回され、ほんと、対価以上の仕事をさせられました。まぁそのおかげで、アンフィトゥリーテ号の持ち主と知り合えて、友人価格で部屋を取れたのですが……船旅はどうでした?」
思い出したように、あの船の話をされ、ボクは「いい二日間だったよ」とアズールにお礼を言った。
「アスターもサミュエルも、大半をあのビルの中だけで暮らしていたから、本当にずっと楽しそうで、見ているボクも嬉しかった」
アズールが、ボクの顔を見ると、無言で白くなったボクの髪を一房撫でるように触りキスをした。そのままゆっくりとボクの腕を伝い降り、手のひらをやんわりと彼の手で掴まれ手のひらにキスをされた。
「リドルさんが、僕に抱かれてもいいと言うまでセックスしません……でも、このキスだけは、許して欲しい」
ナイトレイブンカレッジから、アズールがずっと繰り返しボクの手に平にしたキスの意味……自分のものになって欲しいという彼の懇願。頷くと、アズールにぎゅっと抱きしめられた。昔は、爽やかな香水の匂いがしたはずなのに、今は純粋にアズールの匂いがした。それを嫌じゃないと感じたボクは、先程から強くなる胸の痛みに気づかぬよう、アズールの前より広く感じる胸元に額を押し付けた。
その日の晩は、アズールが料理を作ってくれた。なんというか、ボクが彼に以前食べさせたミネストローネが恥ずかしくなるぐらいに、本当に美味しかった。
さすがは珊瑚の海一番のリストランテの母親を持つと、そう思わずにはいられなかった。
今日のために、市場で買ってきた一キロの新鮮な骨付きのお肉を豪快に焼いて、アスターとサミュエルの目を輝かせた。
「ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナです」と、なにやら魔法のような名前のボリューム満点のTボーンステーキは、火の通り加減も絶妙で、さっぱりしていてしつこくなく、一瞬でアスターとサミュエルのお腹に消えてしまった。ボクもあともう一切れ食べたいと思ってしまうほど本当に美味しかった。
食事を片付けている間にアスターとサミュエルの二人をお風呂に入れてもらえば、バスルームからは壁やドアを超えて楽しそうにはしゃぐ声が聞こえ、バチャバチャと水の跳ねる音、そして最後の最後で「大人しくしろ!」と怒ったアズールの声とともに、まだ髪がびしょ濡れの二人がキッチンまで走ってきた。
「かあさん、とうさんすごかった!」
アスターとミュエルが、目を輝かせてはしゃいでいる後ろ、バスローブ姿のアズールが、早歩きでバスタオルを手にリビングに戻ってきた。
「とうさんの何がすごかったの?」
ボクが二人に目線を合わせるために膝をつき、二人の濡れた髪を指で撫でつける。
「あのねー、とうさんのちっ——!」
赤い顔をしたアズールが二人の口を手で覆い「それは三人だけの秘密だろ!」と言えば、二人は「そうだった!」と口に人差し指を当てて「かあさんにはひみつー!」と走って逃げてしまった。
なんでボクだけ仲間はずれなんだと唇を尖らせたら、アズールはそれに気づかないふりをして、子供たちの髪を乾かすべく、二人を捕まえにリビングに向かってしまった。
その後、ボクもお風呂に入り髪を乾かして寝室に向かうと、ベッドの中央でアスターとサミュエルが寝息を立てて眠っていた。サイドテーブルには絵本が四冊も積み上がっている。
「お疲れ様」そう労えば、疲労の溜まったアズールが、眠そうな顔でボクを見た。
「リドルさん……あなた良く今までやってこれましたね」
「普段ボク相手ならそこまでじゃないんだろうけれど、二人は今日キミに会うのを本当に楽しみにしていたから……」
ベッドの端に座りアスターの柔らかな銀髪と、サミュエルのさらりとしたターコイズブルーの髪を撫でる。二人の寝顔は、いつも以上に満足気でボクも嬉しい。
「僕は……あなたの思う子供達の父親でしたか?」
ベッドに横になったアズールは、天井を見つめながらどこか不安そうにボクに聞いてきた。
「ボクは、自分の本当のお父様に会ったことがないから……なにが一般的に正しい父親なのかは分からない。けれどもアスターもサミュエルもキミを父親と受け入れてくれた。今はそれでいいと思うんだ」
「あなたも……子供たちも……幸せに……しま……す、から……」
限界が来たのか、全て言い切る前にアズールも夢の中へと落ちてしまった。眼鏡を外すことも忘れてしまうなんて。本当に疲れていたみたいだ。
ボクは、彼の眼鏡を外して、サイドテーブルに積み上がった絵本の上に置いて、ベッドサイドランプを消す。その時には、ここに来る前の不安なんて全部消し飛んでしまった。うん、きっと大丈夫だ。ボクは彼とここでやっていける。
「アズール、キミを信じてよかった……」
ボクは、彼の形の良い額に、子供たちにするようなおやすみのキスをして、アズールとボクで子供たちを挟むようにベッドに入った。