ふわふわとして甘く、「魈」
凛とした声に喚ばれ、風に乗り音もなく夜叉は舞い降りた。
穏やかな響きと喚ばれた場所からして危険が迫って召喚されたわけでは無いと判断し、声の主の前に傅く。
「……魈、召喚に応じ参上いたしました」
「急に呼び出して済まなかった。先程旅人にもらったから傷まないうちにと思ってな」
何のことだと顔を上げれば、声の主――鍾離の手には白いなにかを乗せた皿がある。
ふわりと漂う甘い香りと、上に四角く切られた果実と清心の花が乗せられていることから菓子だろうと検討はついたが、人間の文化に疎い魈にはそれがなんだか分からなかった。
「ケーキというものだ。璃月ではあまり流通していないからお前が知らないのも無理はない。旅人がたくさん作っては配っていたので俺も一つもらったところだ」
「……なるほど……?」
そういえば先日「誕生日だからいっぱい作るんだ」と機嫌の良さそうな顔をした旅人が素材回収に東奔西走していたことを思い出した。
生辰の贈り物はされる方なのではとも思ったが、自分のときも晶蝶を山程押し付けたので黙っておくことにした。
旅人が楽しいならそれでいいのだろう。
「甘いものは好きだろう?」
「嫌いではありませぬが。鍾離様が頂いたものなのでは?」
魈が杏仁豆腐を好むのは味よりも夢に似たその食感ゆえだが、味がわからないわけではない。
杏仁霜の香りと牛乳の優しい甘さはそれなりに気に入っていたし、目の前のケーキからも牛乳に近い香りがする。
旅人の手製というのもあり興味が全くないといえば嘘になるが、そもそも魈は食事への関心が薄い。
わざわざ鍾離がもらったものを食べたいという気にはならなかった。
「それなんだがな、他のものに比べて一回り大きいものを寄越されたんだ。おそらくお前と分けることを想定されている」
確かに魈は旅人から何も渡されていない。
食にこだわらないのを知っているからかと思っていたが、なるほどやられた。
あの旅人は時々妙に気を使うところがある。今回も恐らくは鍾離の言うとおりだろう。
そこまで手を回されているとなると断る理由が無くなってしまう。
苦虫を噛み潰した顔をしていると、諦めたのを察したのか鍾離が楽しそうに笑いながら魈を席へ促した。
鍾離によって丁寧に切り分けられたケーキは断面が白と黄色と朱の層になっている。
相変わらず手の込んだものを作るとまじまじ眺めていると、かしゃりと軽い音がして皿の上に銀の食器が置かれた。
「以前露店で見かけて購入したフォンテーヌの銀食器だが……使い方はわかるか?」
レンゲよりも小ぶりで上品な銀のそれ。
先が三又に分かれた槍のようで、突き刺すものかと首を傾げた。
緩い曲線を描いてはいるがレンゲのようにものをすくうにはあまり向いていない。
刃物ほどの鋭さはないが、薄く平たい形であるならば柔らかいものを切り分けることもできるだろう。
「おおよそは、おそらく。切ったり刺したりするものかと……」
鍾離は満足げに正解だと呟き、自分の皿のケーキを一口分切り分けて刺して見せる。
「このように使うものだ。箸とは異なる形だがなかなか便利だろう」
刺したものを、目の前に差し出されている。
「鍾離様、その、理解はできましたが」
穏やかに微笑んだまま、突き出したケーキを下げる気配がない。
何を要求されているかはわかっているので観念して口を開けると、案の定口の中にケーキを押し込まれた。
杏仁豆腐とは違うふわふわの生地は思いの外舌触りがよく、牛乳とスイートフラワーの香りがするクリームが程よくしっとりとした食感にしているらしい。
生地の間に挟まれた果肉は、先日モンドで素材取りに付き合ったヴァルベリーとラズベリーだろうか。
柔らかな果肉を噛みしめればケーキを引き立てる華やかな甘味と爽やかな酸味に自然と頬が緩む。
「気に入ったようだな。旅人にも後ほど礼を言っておこう」
ハッとしてケーキを飲み込み目線を鍾離に戻すと、うんうんと頷いて同じくケーキを口に運んでいるところだった。
毒味ならばそう仰っていただければ、とも思ったが、旅人の手製ならば毒の心配も味の心配も必要がない。
そもそもそのような心配があるものを彼はわざわざもらってきたりしないだろう。
「鍾離様、何故我に……?」
「そうだな、その顔が見たかったからだろうか。それに親しい者にこうやって食べ物を与えるのも一種の愛情表現と聞いてな、試してみたくなった」
なんともいえない顔で言葉の意味を噛み砕こうとしている魈を見て、また鍾離は楽しそうに笑う。
そしてふと気づいたように手を伸ばし、魈の口元を親指で拭ったかと思うとその指をぺろりと舐めてみせた。
体温でやや溶けたクリームを舐め取る赤い舌が妙に扇情的で、魈は胸の奥にざわつきを覚えてふいと目を逸らしてしまった。
「クリームがついてしまったな。……はは、こうしていると幼子のようだ」
「……我は幼子ではありませぬ」
「そうだな、だが俺からすれば皆愛しい子のようなものだ」
はたしてこのテイワットにあなたよりも歳を重ねた生き物は存在するのだろうか。
呆れたように少しばかり皺の寄った魈の眉間を指で伸ばし、鍾離が目を細める。
「しかしまぁ、確かに幼子はそのように熱を持った目はしないだろうな」
気づかれていた。
かっと頬が熱くなるのを感じて思わず隠すように俯くと、くつくつと鍾離が喉の奥で笑う声が聞こえる。
「ははは、それを食べ終わったら旅人への贈り物を見繕いに行こう。付き合ってくれるだろう?」
「…………御意に」
「旅人も今日くらいはのんびりしているだろうから喚ばれることもあるまい。買い物だけと言わず、一日……そうだな、明日の夜明けまで時間を貰っても構わないか?」
こくりと頷き再び口に入れたケーキは、驚くことに全く味を感じなかった。