どうか健やかに幸せに 気持ちが、悪い。
足元がぐにゃぐにゃと回るような感覚。空がぐらぐらと揺れている気がする。頭が重くて身体は怠くて、沈み込んで行ってしまいそうだ。
──大学、休めばよかったな。
果てしなく長く感じる家路を辿りながら、蒼真はひっそりと心の中で呟いた。
朝から少し悪寒はしたのだ。その時点で今日の講義は諦めれば良かった。講義のレジュメなんて後で頭を下げてコピーさせて貰えば済む話だ。
身体は丈夫なほうだからと、過信したのが間違いだった。
弱った身体は冬の外気に晒され一気に調子を崩して、おかげで今とても気持ちが悪い。受けたはずの講義の内容もあやふやだ。
何とか一日もたせたものの、後悔しかない。頭の中で誰かが鍋でも打ち鳴らしているように、ガンガンと不快な感覚が響く。逃げ場がない。
口元を押さえて、よろよろと老人のように歩く。
ようやく下宿のアパートが見えてきた。早く帰って寝たい。
何とか辿り着いた先で、いつもは軽々と登る階段を手摺に縋ってのたのたと上がる。ああもう限界だ。
力の入らない手は鍵穴を何度か外し、何度目かでようやくがちゃりと鍵を回す。家に着いた、という安心感で気が抜けて、玄関に入ったところで床に転がった。火照った肌に、ひんやりとしたフローリングの感触が心地好い。
もう動きたくないな。しんどい。
こういう時、誰かいてくれたらいいのに。
ひどく心細くて、寂しい。なんだか無意味に泣き叫びたくなる。そんな気力はないからしないけど。
無理に一人で帰って来ないで誰かに連絡すればよかったか。
幼馴染みの顔が一瞬浮かんで、すぐに消えた。頼ればきっと助けてくれるだろうが、これ以上迷惑をかけたくはない。
というか、もう誰にも迷惑をかけたくない。自分が意図したことではないとはいえ、この魂は命に関わるような害を他人に及ぼしている。その上で日常的な面倒まで他人に見て貰おうなんて、虫の良い話だろう。あとこんな格好悪いところを見られたくないというのもある。
それでもやっぱり寂しくて、スマホに入っている連絡先を上から下へ流し見する。誰かに『気持ち悪。死にそ~』とか茶化したメッセージでも送ろうかとも思ったが、結局億劫になって止めてしまった。
まあ、家には帰って来たし。きっと、少し休めば回復するだろう。
少しだけ。うん、少しだけ。
重たくなってきた目蓋に逆らうのを放棄して、目を閉じる。
真っ暗な闇が、今はなんだか心地好かった。
■■■
「……んん……」
目が覚めて、最初に感じたのは眩しさだった。
あれ電気点けたっけ、と思いながら、ぼやけた視界でぱちぱちと瞬きをする。暖かくて柔らかい感触が心地好い。動きたくないなぁ、ともぞもぞと布団に潜り込む。
……ん?布団??
「蒼真?目が覚めたのか」
「──!??」
違和感を感じたところで予想外の声が降ってきて、一気に意識が覚醒した。ぎぎぎ、とぎこちなくそちらに顔を向けると、ばっちり目が合った。
その人間離れした美貌、見間違えようがない。
「有角……なんであんたが……」
「少し様子を見に来ただけだ。玄関で寝るな」
ぐうの音もでない。
蒼真の監視である有角が近くにいることは別に不自然ではないし、玄関で寝るのはよくない。ごもっともだ。
しかし、意外ではあった。仏頂面も突き放すような口調もいつも通りだが、玄関で倒れていた蒼真をベッドまで運んでくれたのはこの男なのだろうし、コートも綺麗にハンガーに掛けてある。
至れり尽くせりじゃないか。
有難いとは思うが、どちらかと言えば戸惑いが勝る。いや今までも有角は色々助けてはくれたが、それは魔王の魂だとか城だとかそういうもの絡みのことばかりだった。言葉はきついし態度は冷たいし、私生活でまで親切にしてくれるとは思っていなかった。
「……まだ少し熱はあるか」
有角の手が額に触れる。死人みたいに冷たい手は今はひんやりとして気持ちいい。意味のわからない状況ではあるが、不思議と拒否感はない。むしろ奇妙な安心感があった。
「気分は?あまり酷いようなら病院まで送るが」
「い、いや、大丈夫だよ。もうだいぶ良い」
それにしたって心配し過ぎじゃなかろうか。
少し寝たらだいぶ楽になったのは本当だ。まだ気怠さと熱っぽさは残っているが、病院に行く程のことはない。
というか、なんなんだ。監視ってそこまでしてくれるのか。親切過ぎて逆に怖い。
「それならば良いが……起きられるか?少し水分を取っておけ」
訝しむ蒼真の様子には気付いてない様子で、有角がスポーツドリンクを差し出してくる。優しい。普段の態度を思うと不気味だが、申し出自体はありがたいので、もぞもぞと起き上がって手を出す。
ペットボトルを受け取る直前、有角が躊躇うように一度それを引っ込めたかと思うと、キャップを捻ってから渡してくれた。確かに今あまり力が入らないから助かるけれども。なんなんだ。
とりあえず疑問は頭の片隅に追いやって、ぐびぐびとスポーツ飲料を飲み干す。乾いた砂に水が染み込むように身体に潤いが行き渡る感覚。自覚はなかったが脱水気味だったらしい。生き返る。
「……ふぅ………」
落ち着いて一息ついたところで、ちらりと有角のほうに視線を向けた。やけに真剣にこちらを見ている。圧がすごい。
「えっと……俺、そんな死にそうに見えるかな……」
いつも厳しい人間が妙に優しくて、その上深刻そうな顔をしている。先の短い重病人にでもなった気分だ。
もっとも、有角にそんなつもりはなかったようで、虚を突かれたように少し目を見開いて、それから気まずげに目を逸らした。
「…………そんなつもりはなかったが。あまり病人の世話などしたことがなくてな……。何か不安にさせたなら、すまなかった」
「ああいや、別に。まあ、うん……あんた他人の看病とかするタイプじゃないよな」
有角は基本的に突き放したような態度を取るし、他人にあまり興味があるようには見えない。普段他人の世話をしない人間が、慣れないことをすると大袈裟になるらしい。
「……否定はしない。俺は病人の事などわからん。お前が玄関で倒れているのを見た時は胆が冷えたぞ」
有角の眉間に皺が寄る。じとりと睨めつけられて思わず視線を逸らした。なまじ顔立ちが整っているだけに怖い。一段低くなった声に、藪蛇だったかと首を竦める。
確かに、端から見たら事件みたいに見えたかもしれない。でもそこまで監視されているとは思っていなかったのだ。
「いやちょっとだけ休むつもりだったんだよ……帰って来た時はほんと具合悪くて…………」
「あんなところで寝ていたら悪化するだけだと思うが」
「う」
もごもごと言い訳をしてみても、あっさり切って捨てられた。駄目だこれは。この話題から離れないと説教コースだ。ただでさえ具合が悪いのに、そんな頭の痛い話はごめんだ。
「……でもさ、わざわざベッドまで運んでくれるなんて、あんたも優しいとこあんだな」
「………は?」
とりあえず話題を変えようと思ったのだが、有角は意味がわからない、という顔をする。きょとんと首を傾げている姿はなんとも間が抜けていて、本当に心当たりがないらしい。いつも難しい顔をしている有角の、そんな無防備な表情は初めて見た気がする。
いやなんでだよ。そんなおかしな事を言ったつもりはないんだが。
「え、だって、いくら監視って言ったって、看病するとこまでは仕事じゃないだろ」
知らぬ仲ではないし、倒れている蒼真を見捨てるほど有角も薄情ではないだろうが、別に病院に叩き込むなり誰か呼ぶなりして帰っても良かったはずだ。
それをこうして留まって、慣れない世話までしてくれているのだから、たぶんこの男の行動としては最大限優しい。
「まあ………仕事では、ないな………」
今初めて気付いた、みたいな顔をしているあたり、何も考えていなかったのかもしれないが。
「俺のこと心配したって事か?」
「調子に乗るな。お前のことで散々骨を折ったというのに、玄関で凍死などという結末が認められるか」
有角は不機嫌そうに悪態をつくが、言い訳としてはお粗末なほうだろう。口元が緩むのは抑えられなかった。
「いくら冬だからって流石に凍死はしないって」
「ふん。だとしても人など脆いものだ。肺炎にでもなって急変する可能性もないとは言えまい」
そりゃそうだけど。
でも結局それって、心配してくれてるんじゃなかろうか。
労力が無駄になるのが嫌だ、という言がもし本当だとしても、気にかけて世話してくれているのは事実なのだし。
ぼすん、と座ったまま布団に上半身を投げ出す。
「蒼真?」
身体が弱ると心も弱るもので、迷惑をかけたくないと思いながら、やっぱり誰かに気にかけて欲しい、なんて願いもあった。
この際有角でもいい。人の情というものに縋りたい、と思ってしまう。
「……ありがとな」
「…………大丈夫か?熱が上がったか?」
失礼なやつだ。あからさまに不審がる態度に、もはや怒るより笑い出したくなる。うん、頭を撫でる手が優しくて心地好くて、許してしまったとかではない。決して。
「クソ野郎。迷惑かけても罪悪感が少なくて助かるよ」
まあ、憎まれ口の一つくらいは叩きたくもなるが。でもこれは有角がわるいと思う。
「蒼真」
それでも、頭を撫でる手は変わらず優しく、名を呼ぶ声は珍しく穏やかだ。有角も流石に病人相手にこの程度の事で怒る気はないらしい。
「お前に何かあれば悲しむ者はいる。苦しい時は人を頼ればいい。それは迷惑などではない」
「………そう、かな。でも、俺は………俺が、普通に生きてて許されるのかな」
何も知らなかった頃には戻れない。
今のこの生活も監視と警戒の上に成り立っているものだろう。その上で、普通の人間のように、誰かと共にいることが許されるというのだろうか。
「俺は……本当は一人でいるべきなんじゃないか?俺と一緒にいるだけで危険に巻き込まれるなら……俺がいつか化け物になるかもしれないなら……っ」
自分の中で箍が外れて何かが溢れ出す。気が狂ったみたいに、がばりと上体を起こして捲し立てるのを止められない。言葉にしたら自分でも認めてしまいそうで、ずっと目を逸らしていたそれは、一度口にしてしまうとすらすらと口から滑り落ちた。
「俺は、もう誰も俺のせいでっ、」
「蒼真!落ち着け」
途中で有角に遮られて、輪郭を持っていたはずの言葉は散り散りに解けて消えた。何も言えなくなって、ただ有角の肩に指をかけてぜいぜいと荒い息を吐く。苦しいのは体調のせいか、それとも他の何かか。
蒼真の息が整うまで待って、有角が静かに話し始める。
「……ヨーコやユリウスは自分の身くらい自分で守れる。あのハマーとかいう男もそうだろう」
「……うん」
落ち着いた声はすっと自分の中に染み込んだ。ゆっくりと背を擦られて、少し落ち着いて来る。
そうするとなんだか喚き散らしたことが急に恥ずかしくなって来た。どうかしていた。熱のせいだってことにしておきたい。
「弥那の事であれば心配するな。俺が守る。お前を害そうとするもの全て、俺の力全てをもって打ち払う。だからお前がお前の人生を諦める必要など、何処にもない」
きゅっ、と胸の奥が締め付けられるような感覚。じわりと目の裏が熱くなる。
いいのだろうか。
手放さなくても、諦めなくても。
「……でもそれ、あんたの負担でかくないか……?」
「それが俺の仕事だ。お前が気にする必要はない」
有角は事も無げに言うが、やはり一抹の懸念は残る。そもそも既に監視という枠を逸脱している気もする。
「蒼真。俺の望みはドラキュラの魂が覚醒せず、眠りについたままであることだ」
訝しげに見上げる蒼真の視線に気付いたのだろう。有角にしては珍しく、ちゃんと説明してくれるつもりらしい。
「お前の心身が脅かされ、魔王として復活することなどあってはならん」
するりと蒼真の頬を冷たい手が撫でる。子をあやすようなその手に、反発を覚えなかったのはきっと具合が悪いからだ。
「お前が健やかに、幸せに生きている内は魔王を望むことなどあるまい。俺としてはその方が都合が良い」
お前の幸せと自分の利害は一致している、だから守るのだと。
それだけというにはあまりに優しい手で視線で声で。
何故だか無性に、泣きたくなった。
けれどその齟齬も自分の衝動も見ないふりして、有角の肩にしがみついた。
「……蒼真?」
「今だけ、だから……」
理由なんて、何でもいい。
今はただ、誰かに頼りたかった。寄りかかっても許してくれる誰かが欲しかった。お互いそれでいいのだということにしてしまいたかった。
有角は何も言わず、ただ静かに蒼真を抱き締めて頭を撫でてくれている。
「蒼真。少し心が弱っているのだろう。もう休め」
優しい声と言葉、それから頭を撫でる手に誘われて、ゆっくりと意識が微睡んでいく。
ああ、もう何も考えたくない。
目を閉じて、睡魔に身を委ねる。
暗闇の中で、何か確かなものを掴んだような夢を見た。
「蒼真。そろそろ起きろ」
「んー……?」
「いい加減手を離せ、動けん」
「あ、ごめ……いや振り払ってくれてよかったんだけど」
「よく眠っていたからな。何か食べるか?」
「あ、ありがと。何か作ってくれんの?」
「レトルトに決まっているだろう」
「だろうね」