この奇妙なる世界で愛の言葉を 奇妙なものだ。
悠久の時を生きる吸血鬼、ドラキュラ伯爵はかつてない新鮮さに人知れず心踊らせていた。
ある日突然放り込まれた、自分たちが元よりいた世界とは別のどこか。この珍妙な世界が何なのか、混沌の城を支配していたドラキュラですら答えは持っていない。
時代も場所も、なんなら世界の位相すら異なる者が集う謎の空間。慣れ親しんだ城と見慣れたハンターを見かける一方で、全く知らない場所で知らない一族が影も形もないヴァンパイアを追っている、不可思議な世界。
だが、悪くはない。
好奇心と、幾許かの情を乗せた視線の先には豪奢な長椅子。その上で、寄り添うように眠りこける人影が二つ。凭れるように、抱えるように。身を預けるように、護るように。
そこに確かに感じる庇護は、まるで親子の情愛のよう。
親子。そう、親子だ。
吸血鬼の前で堂々と眠りこけるその片割れがまっとうな人間であるはずもない。これはドラキュラ伯爵の一人息子、アルカードである。この名は父たるドラキュラが与えたものではないが、まあ本人がそう名乗りたいのなら名乗らせておけば良い。本質には関わりなきことだ。
鮮やかな深紅のベルベットのソファに、淡い月の如き金糸が落ちかかる様はなんとも美しく、ドラキュラは機嫌よくその髪を梳いた。指通りがよく艶やかなそれは、妻に似たのだろう。
優しくうつくしい妻、失ったはずの最愛の人さえ、この世界には存在していた。そうとあれば大量のベルモンドに構っている暇などない。
人間への憎しみが消えた訳ではないが、穏やかな時間を過ごすようになったドラキュラには、息子と争う理由も最早なかった。結果としてまた親子としての時間を過ごせているのだから、この訳のわからん世界には感謝すべきだろう。
さて、その息子である。
長らく離れていた子は記憶にあるより遥かに大人になって、今ではまるで子を護る親である。時の流れとは早いものだ。感慨深い。
しかしながら、息子が腕に抱いている白い髪の少年、孫などではない。
ドラキュラの来世である。
来須蒼真。自分が死に、魂が生まれ変わった存在。それが目の前にいるというのは、また奇妙なものだ。
ここに来て初めて会ったのだが(当たり前だ。自分が死なないと生まれ得ない存在に会ったことがあるはずもない)、なんともまあ。争いというものを知らぬ人間だった。その闇に満ちた魂を持ちながら、血の匂いがまったくしないのは驚嘆に値する。
おそらく、ずっと護られていたのだろう。危険に晒すまい、戦いに巻き込むまいと。血に塗れた道を歩ませまいと。
かつて自らの手で討った父の魂を、息子は護り続けていたのだろう。
そこまですることもあるまいに。
ドラキュラの肉体は滅び、血の繋がりは失せた。どこへなりと好きな所に行けば良かっただろうに、アルカードは父の魂の側を離れなかった。なんと愚かしく、愛おしいことか。
そうして息子が必死に護り続けた魂は実に自由で、ドラキュラとは似ても似つかなかった。
『一度見てみたかった』などと言って急に訪ねて来たのもあちらである。人々が畏れ、崇拝し、あるいは怒りを燃やした魔王を前にして『うわ。デケェ』などと緊張感の欠片もない事を口にした人間は初めてだった。愉快な小僧だ。付き添っていたアルカードのなんとも言えない表情が忘れられない。
今も何の警戒心もなく眠りこけていて、無邪気なものだ。
ぐっすりと眠っていた蒼真をつつこうとしたところで、自分と同じように青白い手が指先に絡む。
「………父上?」
そちらに顔を向ければ、いつの間に目を覚ましたのかアルカードがこちらを真っ直ぐ見ている。親愛の情に、わずかに警戒心の入り交じる視線。
雛に触れられるのを嫌がる親鳥のようだな、と苦笑する。
まあ、我が子の嫌がる事をわざわざする必要もない。そのままアルカードの手を取った。人間との混血であるからか、ドラキュラと比べると細く繊細なつくりの手だ。だが妻と違って壊す心配はないので、やや力を込めて引く。
「……っ!?な……っ」
動揺の声。予想はしていたが、バランスを崩しかけたアルカードは、咄嗟に自分の身を支えるより蒼真を抱え直す事を選んだ。過保護なことだ。落としても怪我をするほどの高さもあるまいに。
だがドラキュラとて我が子を地面に叩きつける気はない。その腕の中の蒼真ごと、ひょいとアルカードを抱き上げた。
「……え」
ソファにどかりと腰を下ろして二人を膝に乗せる。視線を落とせば、真ん丸に目を見開いたアルカードと目が合った。困惑を通り越して混乱。取り繕うもののないその表情は、まだ手元に置いていた頃のことを思い出す。
「………父上。俺はもう、幼子では……」
降りたそうに息子は首を振るが、荷物を抱えた状態ではままならぬだろう。この小僧、この期に及んでアルカードにしっかりとしがみついて寝息を立てている。図太いな。
「そう言うな。私がこうしたいのだ」
父の我が儘を聞いてはくれぬか、と言えばアルカードは抵抗を諦めたようで黙って目を伏せた。そっと抱き寄せれば大人しく身を預けてくる。
「………」
「………」
沈黙。
思えば、最後に親子として触れ合ったのはいつだっただろうか。
幸せな記憶は血と死に埋もれて、遠い彼方だ。
どう接したものか、道を違えていた時間が長過ぎて、どうにもお互いぎこちなさが残る。
「…………」
「…………」
会話がない。
思えば昔から息子は物静かな質だった。主張すべき事はするが、普段の口数は少ない。幼い頃はあれこれと他愛のない事を父に報告しに来ていたが、ほんの子供のうちだけだった。
ここは自分が何か話さねば、と思うが今更なにを話すというのか。ここにはいない妻に心の中で問いかける。助けてくれリサ、息子と共通の話題が見つからない。いやないことはないが、ベルモンドの話はしたくない。
「………最近、どうだ」
だが今この場に妻はおらず、話を回してくれそうな来世も夢の中である。結局何も思い付かず、無難も無難、当たり障りのない世間話を振る。
「……どう、とは」
漠然とした問いにアルカードはドラキュラを見上げ、首を傾げる。意図を掴めない、という困惑がありありと読み取れる。そんな顔が見たい訳ではなかったのだが。
「………………元気か?」
「………………はい」
なんということだ。社交辞令のような会話をするだけで疲労困憊だ。しかも会話が続かない。
一応和解はしたものの、そういえば今まで息子と一対一になった事はなかった。息子も妻がいるところではもう少し口を利く。
嫌われているとかそういう話ではない。断じて。
むしろ好かれている自信はある。そうでなくば生まれ変わった魂まで護ろうとはすまい。
ドラキュラとしても、息子に対する恨みつらみなどない。そもそも彼が自分に逆らった時も、腹立たしさこそあれ、憎しみはなかった。力尽くにでも連れ戻したかった。
「そう硬くならずともよい。おまえは私の子だ。言いたいことがあれば言うがよい、何の遠慮もいらぬ」
だから別に、父を討ったことにそう気まずさを覚えなくても良いのだが。どうせ復活しているのであるし。
するりと指先で頬を撫ぜれば、アルカードは一瞬驚いたように身を竦ませた。
父は本当に何も気にしていないのだが。息子はそうは思っていないらしい。今のドラキュラを警戒はしていないがどこか距離がある。それほどまでに深い心の傷を負わせてしまったのは、すまないことをしてしまった。人間どもを虐殺したことに後悔も反省もないが、それだけは悪かったと思っている。
「……父上は──」
「うむ?」
それでもまあ、父と会話を試みてくれるのだから良い息子である。穏やかな視線にドラキュラを責める色はなく、ただ静かに凪いでいる。
「──母上と恙無くお過ごしでしょうか。幸せにやっておられますか?」
案じるような言葉とは裏腹に、心配や不安といった感情はそこになく、これは単なる確認だ。
「勿論だ。案ずるな、今度こそ誰にも奪わせはせぬ」
「良かった」
それでも断言してやれば、息子は安心したように微笑む。それは父が大人しくしていてくれるのかの確認でもあったのかもしれないが、まあそんなことはどうでもいい。息子がそれで心の平穏を得られるなら構わない。
「父上と母上が幸せならそれで充分。俺のことはあまりお気になさらず」
何故そうなる。
満ち足りた顔でするりと逃げようとするアルカードを、ぐいと抱き寄せ掴まえる。
「どこへ行く」
「いや少し蔵書庫に用があるのを思い出して」
蔵書庫、という単語にそこを預かる老人の顔が浮かぶ。昔から息子は爺、爺、とあれに懐いていた。息子が中々帰って来ないと嘆くドラキュラに、アルカード様?ちょくちょく顔を見せてくれますが?などと平然と宣ったのも記憶に新しい。思い出すと我知らず腕に力が籠る。
「あの守銭奴をあまり調子に乗らせるな」
「爺はいつでもあの調子でしょう。どうかご寛恕を。あれはあれで役に立つので」
まあ性格のクセが強いが使える者ではある。それが余計に腹が立つのだが。いつの間にやらここでも商売を始めていて、儲かっているようだった。魔王の配下がヴァンパイアハンターと金銭のやり取りをするな。一度締めたほうがいい。
だが可愛い息子に困った顔で見上げられれば、追及の手は緩めるしかなかった。爺め。宝石没収の刑はまだ先にしておいてやる。
「……まあ、よい。蔵書庫に行きたくば行け」
ぱっ、とアルカードから手を離す。
意外と粘らなかったな?という顔をする息子に内心苦笑しながら、代わりにひょいと来世を摘まみ上げた。アルカードが目を真ん丸に見開く。
「父上!!」
「これは置いていけ。帰りにまた寄るがよい」
あからさまに顔色を変える息子に、早く行けとひらひら手を振る。アルカードは物言いたげな顔をしていたが、あれこれ言ったところで詮無いと判断したらしい。結局一礼して部屋を出ていった。俗流と交わっても仕草の優雅さはまったく失われておらず、それに幾ばくかの安堵と満足を覚える。
しかしもう少し反発するかと思ったが、そうでもなかった。方便の類いではなく本当に蔵書庫に用があったのかもしれない。おのれ爺め。
それはさておき。これは妥当な提案だろう。わざわざ蔵書庫まで荷物を抱えていくこともあるまい。そのまま帰られない為の人質、などではない。ないとも。
「さて。いつまで狸寝入りを続ける気だ?」
「あれ、バレてた?」
膝の上でドラキュラのマントを毛布代わりにしていた蒼真に声をかければ、当然のように返事がある。
ひょいと身を起こした蒼真はまったく悪びれない様子で笑ってみせた。悪戯が見つかった子供よりも反省の色がない。ドラキュラ伯爵に対してこのような甘ったれた態度を取る人間は他にいないだろう。
「寝たふりで盗み聞きとは良い趣味だな」
「親子水入らずの邪魔するほど野暮じゃないんだよ」
ああ言えばこう言う。皮肉を投げ掛けてもまったく堪えた様子はない。
「……ここまで付いてきておいてよく言う」
「しょうがないだろ、あいつ一人じゃなかなか帰ろうとしないし。俺が行くって言うと一緒に来てくれるけどさ」
「………………」
俺は悪くないと言わんばかりに口を尖らしている蒼真の頭を、何とも言えない感情にかきたてられてぐしゃぐしゃとかき回した。尻尾を踏まれた猫のような声が上がったが無視をする。
「何なんだよもう……」
不満そうな声も無視する。
「何か言えって」
無視する。
「……なあ。もしかして拗ねてる??」
マントをぐいぐいと引っ張られるのが鬱陶しい。うるさい子供だ、と蒼真の頬をつまむ。
「あれはお前には随分と優しいようだな」
「いひゃい、いひゃいっ。ひゃめろよ!あーもう、いい年して嫉妬すんなって!あいつが帰って来ないのは『父と母の邪魔はしたくない』とか言ってるからだよ」
蒼真の言葉に、胸中に苦いものが広がる。
家族なのだ、そんなことを気にする必要はあるまいに。
「邪魔などと思うはずがなかろう。あれは私の……いや、私と妻の大切な一人息子だ」
息子の傷は思った以上に深かったらしい。そしてそれを刻んだのは他ならぬドラキュラ自身なのだ。
ぎり、と奥歯に力が籠る。
不甲斐ないことだ。絶対的な力を誇る魔王といえど、我が子の扱いひとつわからない。
「だったら本人に直接言えよ、『愛してる。お前が大切だ、いつでも帰ってこい』って」
「…………」
三流芝居のような陳腐な台詞だ。世の父親はそんなことを言っているのだろうか。
疑惑の視線を向けると、蒼真もまた訝しげに首を傾げた。
「…………え、言えない?愛してない……?」
「そうではない。我が子が可愛くない訳あるまい。愛しているとも。だが会話のきっかけというものがな…………」
嘘だろ信じられない、というような顔をする蒼真の頭を上から押さえつけたが、一向に大人しくなる気配はない。
「いや言えよ。頑張れよ」
「うるさい。何なのだ貴様は他人の家庭に」
このドラキュラにこんな口を利く者はこれだけだろう。だが余人であればいざ知らず、これに生意気な口を利かれてもそこまで嫌な気はしなかった。この言い合いも戯れのようなものである。同じ魂のよしみというものか。
「そこはあれ、前世来世だし……あんたの事は知らないけどあんたの息子には世話になったし……」
ぷらぷらと、ドラキュラの膝の上で蒼真が足を揺らす。
きっとこの来世にとっても同じことだ。蒼真とドラキュラは魂というもので結ばれていて、またアルカードを通して繋がっている。
「あいつ、あんたの事が好きなんだよ。殺し合わなくていいなら、幸せになって欲しいよ、俺は」
あんたもそうだろ?と当然のように言う蒼真に、ドラキュラは深々と溜め息を吐いた。癪には障るが認めざるを得ない。
「…………善処はしよう」
遠くから、慣れ親しんだ気配がする。そろそろアルカードが蔵書庫から戻ってきたのだろう。愛おしき我が子の帰還だ。さて、どう迎えたものか。
長らく、ドラキュラが待つのは自分を滅ぼしに来る敵対者ばかりだった。それがただの親として子を待つ日がまた来ようとは。
傷つけあった過去が消える事はなく、親子の仲としては歪だろう。だが歪であっても、またこうして共に在ることができる日々が降って湧いたのは奇跡である。その機会をむざむざと逃がす手はないというもの。
焦ることはない。ゆっくりと、取り零したものを拾い集めて行けばいい。
蒼真の言う通り、『愛している』といつか言葉にできるまで。
多くの人間を屠ってきたこのドラキュラが、我が子ひとりに頭を悩ませるとは形無しもいいところだが、どう声をかけようかと考える時間は穏やかで、悪くはない。
近づいてくる足音に、蒼真をひょいと抱えて立ち上がり、扉へと向かう。
夢ならどうか覚めてくれるな。
失ったはずのものがここにはある。手放したはずの幸せが、ここにはあるのだから。
素晴らしきかな、この世界。
愛しきものに愛の言葉を。この奇妙なる世界に、感謝を。