いといとし いとのさき 1
腕がダメなら足を縛ってもいいですか、と言うと彼はあからさまに眉を顰めた。
午前零時十五分。ほの暗い寝室の広いベッドの上。夜の暗がりにも鮮やかな赤い髪が四方に散っている。濡れ髪をそのままにベッドに横たわる彼に跨り、組み敷いて、俺はまた同じ言葉を紡いで続けた。
「腕は嫌なんでしょう? だったら足首でもいいですから。ね、縛ってもいいですか?」
「良いワケないだロ。寝言は寝てから言エ、このクソモジャ」
「もちろん。起きてますから寝言なんかじゃぁないですよ?」
「…………だったラなお悪いヨ」
馬鹿なこと言ってないでさっさと退いテ。重いんだかラ、と身体を押し退けられて、仕方なく彼の隣に身体を横たえた。ぎしり、とベッドが軋む。
縛りたい。
彼を縛り付けたい――という欲求が芽生えたのは一体いつからだっただろう。
はじめて彼を縛りたいと思ったのは一年前の春。たしか、桜が咲いていた頃だったと思う。
ライブの直前で、俺は夏目くんのほつれた衣装を縫い直していた。
赤く、花が咲いたようにほどけた裾飾りをしばらく眺めて、似た色をいくつか取り出し、色を合わせて針を入れる。
刺してとおして、刺してとおして、また刺して。丁寧に、ほどけた飾りを縫い直す。
いつもと同じ、慣れた作業。
いつもと同じ、ただの衣装直し――だったはずなのに。
「ネェ、センパイ。まダァ?」
「あともう少しですよ」
「もウ。飾りひとつ直すのに何時間掛けてるのサ」
「何時間って大袈裟ですねぇ。もう少しで終わりますから。ね、ほら、あと少し」
「……そのセリフ、さっきも聞いた気がするんだけド――、アッ」
夏目くんが短く声を上げ、「ネェ」と俺を呼んだ。
「はいはい。今度はどうしました?」
「フフッ。センパイ、ネェ、見テ、こレ」
言いながら、彼はテーブルに散乱する赤い糸束のひとつを手に取り、くるりと自身の小指に巻きつけた。
「…………ぁ」
あのときの衝動をどう言葉で表現すれば正しく伝えられるのか、今でもよくわからない。
白く細い彼の小指にぎちぎちと食い込む赤い糸に、ぞっ、と鳥肌が立った。
「――ネェ、こレ、まるで『運命の赤い糸』みたいじゃなイ? なぁんテ……ネェ、センパイ。フフッ。ドキドキしタ?」
彼にしてみればそれはただの暇つぶし、もしくは他愛のないイタズラのつもりだっただろうけれど、あのとき、あの瞬間から俺はどうしようもない欲求に囚われた。
縛りたい。こうして。あの小指みたいに。彼を。夏目くんを。
「あぁ、そっか。もっと早くにこうして、こう、彼を――縛り付けてしまえば良かったんだ」
これは荒唐無稽な話なのだが、どうやら俺にはむかしから、「運命の赤い糸」と呼ばれるモノが目に見えていた。
蛇の舌のようにだらりと垂れた、赤い糸。
ときに千切れ、ときに絡まり、ときに果てなく伸びるその糸は老若男女問わず誰の指にもあるもので、だからこそ俺は、それはすべての人に見えているモノだと思っていた――けれど。
「あんたってほんと、変なこと言うのね」
「え?」
「どこにも糸なんてついてないじゃない。変なことばっかり言わないで、忙しいんだから」
「え、でも」
「でもじゃないの。ほら、よく見て。ないでしょう? どこに糸があるっていうのよ」
「母さん、見えないの?」
「はぁ? だから見えないってさっきからずっと言ってるでしょう」
うんざりと言う母の目には、たしかに赤い糸は映っていないようだった。しかし、そんな母の小指には、うぞうぞと蠢く奇妙な赤い糸がたしかに絡みついていた。
うぞり。うぞり。
「ふしぎ。へんな糸」
糸は、見えるだけでなく、指で摘むことが出来た。
つまむと、びくりと揺れて、うねりながらとぐろを巻いた。
「……うえぇ。気持ち悪い」
糸は、血のように赤く、どこか不気味だった。
糸は、うぞりうぞりと、まるで生き物のように常に蠢いていた。
糸は、糸は、
「つむぎ、まだ糸は見えるのかい? 父さんには見えないんだけどなぁ」
「だからそんな糸ないって言ってるでしょう? 本当に気持ち悪い子ね、あんたって」
「青葉って嘘つきだよな。変な糸が見えるってそればっか。そんなだから嫌われるんだよ」
糸は、俺以外の誰にも見えないモノだった。
うぞり。うぞり。うぞり。
たしかにそこに存在しているのに、「糸が見える」と口にすれば、奇異の目を向けられた。だからという訳でもないが、俺もそのうちに「糸が見える」と口にすることはなくなった。奇異の目を向けられることはけっして愉快なことではなかったし、自分の頭がおかしいだけかもしれない、と思うようにもなっていた。それでも、糸はあり続けた。家はもちろん、学校にいても、ダンススクールにいても、どこにいても糸はそこかしこで蠢いていた。
「……ほんと、気持ち悪いんですよね、これ」
何年も、何年も、俺ばかりが糸を見つめていた。そんな折だった。
――これ、切ったらどうなるんだろう?
ふと、そんな好奇心が頭を擡げた。
切ったら、どうなるのだろう。このうぞうぞと蠢く薄気味の悪いモノをもし、切ったら。
ひょっとしたら見えなくなるかもしれない。もう、こんな気持ち悪いモノを見なくても済むようになるかもしれないだなんて。淡い期待と好奇心の結果はお察しのとおり。
「どうして私、あなたと結婚していたのかしら。ねぇ、私たち、別れましょうか」
「そうしよう」
赤い糸を断ち切ってすぐ、母は父を捨て、父も母を捨てた。
あまりにも突然のことだった。
「……センパイ? セ~ンパイ?」
「へ? あぁ、はい。どうしました?」
「どうしました、はこっちのセリフだヨ。なニ。どうしたノ、ボーッとしテ」
そんなにボクの足、縛りたかったノ? 呆れたように彼が言う。
いつのまにか少し、ぼぅっとしていたようだった。むかしのことを思い出すのはあまり好きではない。ふるりと頭を振って、過去の残滓を振り飛ばす。
ほの暗い寝室の、広いベッドの上。暗がりにも目に鮮やかな赤い彼の髪が散っていた。
赤い、まるで運命の赤い糸のような髪が。その赤いひと房を手に取り、俺はゆっくりと自分の小指に巻きつけた。
「ン? なァにそレ。フフ。可愛いことするじゃン。ひょっとしてそレ、『運命の赤い糸』のつもりだったりすル?」
「ふふ。そうだって言ったらどうします? 俺が君の運命だったら嫌、ですか?」
言いながら、俺は巻きつけた彼の赤い髪に唇を寄せて、くぃと引き寄せた。
「……ッ、痛いなァ、もォ」
「ふふ。大袈裟。ほんとはそんなに痛くないでしょう? それよりもねぇ、答えて、夏目くん。俺がもし君の運命だったら。君は嫌、ですか?」
もし俺が、君の運命だったら。
言うと、暗がりの中、蜂蜜色の瞳がゆらりと揺れた。彼の薄い唇が楽しげに持ち上がる。
「だったラ逆に訊くけド、もしボクの運命があなたじゃなかったラ。もし、あなたの運命がボクじゃなかったラ――あなた、どうするノ? ボクのコト、諦めル?」
「へ、ぁ?」
問われて、答える前にくるりと体勢を変えられた。ベッドが一度、大きく揺れた。天井と、楽しげな彼と、彼のその左の小指がぼんやりと暗がりに浮かび上がる。
「……はぇ? 夏目くん?」
「さっきの続キ。あなたこそ答えてヨ。もしボクがあなたの運命じゃなかったラ、あなたはボクを諦めるノ? 諦めテ、手放しちゃウ?」
「……どうしてそんなひどいこと訊くんですか」
本当になんてひどいことを訊くのだろう、と自分のことは棚に上げて思わず口にすると、夏目くんもやはり同じことを思ったようで「あなただってボクに同じことを訊いたでしょウ」と呆れたように言って笑った。
「まァ、いいヤ。とりあえずあなたの質問には答えてあげル。ボクの運命はあなただシ、あなたの運命もボクに決まってるんだかラ、嫌も何もないヨ。これで満足?」
「……むぅ。なんか適当」
「はァ? 適当じゃないでショ。今の答えのいったい何が不満なのサ。ほんっト、あなたってむかしからどうでもいいくだらないことばっかり気にするシ、どうでもいいことで悩むよネ? 面倒臭イ」
「……面倒臭くなんてないですもん」
「面倒臭いヨ。何を悩んでるかしらないけど毎晩まいばん馬鹿みたいにボクを縛り付けてサァ。そんなことシなくたってボクは何処へも行かないシ、ちゃんとあなたを愛してるヨ、センパイ。愛してル。あなたがボクの運命ダ」
言って、俺の頬を撫で、柔く微笑む彼の左の小指からは、だらりと赤い糸が伸びていた。
――遠くへ。
俺の小指ではない、どこか遠くへと彼の赤い糸は伸びていた。
もちろん、彼がそれを知ることはない。糸が見えるのは俺だけなのだから。だから彼は何も知らないまま、今日も俺への愛を囁いている。
「センパイ。愛してるヨ。ずっと、むかしかラ」
「……俺も。俺だってずっとむかしから君を愛していますよ」
「当たり前でショ。ア、それより引っ越しの準備はもう出来たノ? 業者は手配しタ? 来週、ちゃんと引っ越せル?」
「えぇ、大丈夫ですよ。荷物も詰め終わってますし、業者の手配もちゃんと終わってます。ただ、光くんが『どうして』『寂しい』って泣いちゃって。それだけが気がかりなんですけど」
「ふぅン、そうなんダ。仲、良いんだネ? ふぅン。ヘェ?」
「……ふふ。妬いてくれるんですか?」
「普通に妬くヨ。なニ、ボクが妬かないとでも思ったノ? そんな薄情なセンパイには……こうしてやルッ!」
「わっ、ふふっ。おでこにちゅうなんて、また随分可愛いことをするんですね。そんなに俺のこと、好きですか?」
「好きだヨ。愛してル。さっきからずっと言ってるでショ。好きだヨ。好キ。愛してル」
「えへへ。嬉しい」
ベッドの上でふたり、くだらない戯れを繰り返す。
「センパイは? ボクに言ってくれないノ? 好きっテ。愛してるっテ」
「えぇ~……俺だってさっき言いましたよ?」
「もっと言っテ」
「もぉ。仕方ないですね。愛してます。本当に、俺は君のことを愛していますよ。苦しいくらい。ずっと、何があっても愛してます。愛してる、のに」
はらりと溢れた彼の赤い髪に手を伸ばし、小指に絡めて、強く引き寄せる。
「のニ? のニ、なぁニ? 何が言いたいノ?」
「いえ、なんでもありません。ただ愛してますよって。愛してます、夏目くん。でも君の糸は」
君の運命の赤い糸は、俺には繋がっていないんです。
だから君の運命の相手は俺じゃない。そしてきっと、俺の運命も君じゃない。
それがわかっているから俺は――……
「夏目くん。ねぇ、やっぱり君を縛ってもいいですか? ね、少しだけだから」
今日も彼を縛り付ける。
偽りの赤い糸で、無理やり、俺の傍に。