ドーナツホールの続きから食べる③(つづき)控えめな目覚まし時計の音に目を覚ます。
朝4時、部屋を出るのは4時半なので、もう起きないといけない。
身支度をして外に出ると、同じように出稼ぎに来ているやつと鉢合わせ、軽く会釈をする。
「おはようございます」
「寒いですね」
冬の海は、寒い。けれどあまり抵抗を感じないのは、出身のせいだろうか。
吐く息が白い。今日は風がない分、寒さは比較的マシだった。
港に向かう間に何人かと合流して、連れだって船に向かう。
寄り集まった人たちは、みんな事情があって、あまり深入りしてこないことが楽だった。
前いたところは、よそから来た人が少なくて、家族に入れてもらったような、こちらから少し距離をとっていたところがあったが、ここは自然とみんな距離が少し離れている。少し会社勤めをしていたときに似ている。
あれから、駆られるような、昔の自分に脅かされたような気持ちは落ち着いた。死ぬような怯えがあったのだと、冷静になった今は思う。自分が二つに分離してしまって、分かれたやつに、自分が殺されてしまうような錯覚。
今思えば突拍子もない話で、分離をしたのではなく隠されていたものが現れたのだが、自分が殺されてしまうと思ったことには変わりがなかった。
今は横並びになった自分が、少しずつ重なっていくような感じだ。溶ける感じではなく、ガラスが重なるような、どちらも透けて重なるような。それがあまりに自然な重なり方をして、不快感は薄い。不思議な感覚だった。
セリが終わって、今日の仕事が終わる。
船長の家に行って他の出稼ぎのやつと朝ご飯をご馳走になっていると、奥さんが封筒を手にやってきた。
「月島さん、ご苦労様」
ここにきてから、初めての給料だ。
他のやつにも封筒が渡されて、一様に疲れた空気が和らいだ。
奥にいた船長に挨拶をして、他のやつと一緒に家を出た。
朝食の後にはよく船の調整の手伝いや、他の手伝いを頼まれることがあるが、今日は呼び止められなかった。明日まで自由時間だ。
心なしか気分が浮つく。部屋に戻って、少し迷って、封筒を開けた。
会社員時代よりは減ったが、少し前は無給で働いていたことを思うと気分が大分違う。
本を買おうか。なにかいいものを買おうか。どこかへ行こうか。
今一番困っていることは、生活の足だ。
普通に仕事をする上では全く困っていないが、少し出かけたり、買い物に行ったり、コンビニに行きたいと思っただけで途端に制約が増える。
改めて不便を実感すると、ちょっとげんなりしてしまった。
子どものころは普通だった不便が、今ではこんなに面倒に感じるとは。
しかしいかに困っていたとしても、いつまでこの生活を続けるかも分からない中で、中古でも大きい買い物をする気になれなかった。
とりあえず買い物は今度船長か奥さんについでに乗せて行ってもらおうと決めて、封筒を仕舞う。
鯉登さんが、初任給でコーヒーを奢ってくれたことを、思い出した。
いきなり胸がつかえたように、呼吸が浅くなって、じわりと汗が滲む。
今どうしているだろうか。元気にしているだろうか。
何かをきっかけにふと鯉登さんのことを思い出す度、胸が苦しい。会社勤めのころのことを思い出しても大丈夫になったのに、鯉登さんのことだけは駄目だった。
目を瞑る。呼吸を整える。
何も用はないが、外に出よう。このまま一人でいる方が、苦しい。
「月島さん!今暇ですか?」
「はい」
とりあえずスーパーに向かっている間に、いつも魚を卸す料理屋から大将が顔を出した。
「どうしました?」
「ちょっと人手が足りなくて」
「俺で出来ることなら」
「とりあえず人参の皮向いてください!」
本当に人手が足りないらしい、バタバタと大将が俺でも出来るくらいの作業に色んな仕事を分解していく。
いつも見る見習いがいない。怪我だろうか。飛んでしまったんだろうか。
黙々と皮をむいたり鍋の様子を見ていたり、鍋を洗ったりしていると、あっという間に昼時の開店の時間になって、店がざわつく。他にできることがないので、冷蔵庫から物を出したり、下がってきた皿と鍋をひたすら洗っていると、いつの間にかランチの営業が終わった。
「助かりました……ご飯食べて行ってください」
「ありがとうございます」
遠慮なく賄いをいただくことにして、カウンターに座る。
「どうしたんですか」
「いつも来てるやつの嫁さんが産気づいて、病院行かせたんです」
「ああ……」
怪我でも飛んだわけでもなくてよかった。
「予定日より1週間以上早いから、まだ人の手配ができてなくて」
「なるほど」
「そこで月島さん」
にっこりと大将が頬杖をついてこちらを見た。ちょっと鶴見さんみたいな感じがある。
言わんとすることはなんとなく分かった。
「……なるほど?」
「話が早くて助かります」
「船長に聞いてみないことには……」
「話しつけときますね!!」
元気よく大将が出て行った。
行動が早い。
とりあえず船長の良しがもらえればそれでいいので、賄いの海鮮丼を食べる。
ここは米が美味しくていい。
バタバタと大将が走って帰ってきた。
「とりあえず1週間はOKだそうです!」
「おお……分かりました」
ああ、そうだと思って、大将に向く。
「給料入ったんで、手ごろな包丁セットのおすすめないですか?」
部屋に戻ってから、包丁のカタログを見る。
突然の手伝いだったが、いつもと違う感じがして楽しかった。
会社にいたときは後片付けが面倒だったから外食や惣菜ばかりだったが、作ること自体は嫌いじゃなかった。ご飯だけは炊きたてがよくて、炊いていたし。
自分だけじゃなくて、人を笑顔にできることがいいなと思った。
影がちらつくのを振り払う。
捨てて行った自分になんの資格もない。
どんな風に過ごしているか考えたくもないけれど、できれば元気でいてほしい。
ここに、あなたがいない。
あなたが、いないことが、影を追うことが、あなたがいた証拠になっていて、これで本当にいいんだろうか?と自問自答する。
やったことは覆らないけれど、これからのことは全部自分が選び取ることだ。
このままで、いいのか?
今では自分はどうやってあの人のことを見ていたか、思い出せない。
思い出すのは一緒に働いていた鯉登さんのことだけでなく、明治の鯉登さんのことも多い。会ったことはないと思っていたが、鯉登さんが覚えていたら、実は会っていたことになる。
二人の対応は真逆だけれど。
どんな気持ちで、そうしていたのか。聞かずに飛び出してきてしまった。
あの時は真っ直ぐに見たくて、見られなくて、眩しくて、…幸せで、
だから、だからこそ、自分が選び取ったものじゃなかったと、疑ってしまったことが怖かった。
誰かに決められたことだと思うことが怖かった。例えそれが自分だったとしても。自分の亡霊だとしても。
ぱたんとカタログを閉じる。
自分の亡霊は、泣いているだろうか。