この想いがあなたとおんなじならいいな。って思う反面、言葉にするのが怖かった。
俺は途中から薄々だけど、気持ちが通い合っているんじゃないかなんて思っていたんだ。だって、びっくりするほど優しいから。優しいのは誰にだってそうだけど、あんまりにも許してくれる。それはわがままにだけじゃなくて、心身のパーソナルスペース的な意味でも。
臆病なほどに優しく触れてくる手が、その顔が。出会った頃や他の大勢の人と接する時のそれとは違うことだなんて、流石にわかってた。絆されてくれていたりしないかなって。
けどやっぱり怖かったのは、彼と俺の生きる世界の違うこと。
ディーディリヒさんが、学校の外でどんなふうに過ごしているのか。詮索する気はないから知らないけれど、俺とは違う。たとえ気持ちが同じだとしても、怖かったの。
だってもうすぐ卒業しちゃうでしょう。
1日、いちにちと。その日が近づいていくのにも関わらず、俺たちは2人ともその日について一言も話すことができなかった。
✳︎
コンコンコン。
建前のノックを3回鳴らして、魔術で施錠を解きながらディーディリヒさんの部屋へと入った。時刻は深夜。外も廊下も真っ暗で、部屋の中も真っ暗。
いないわけない。ここ数日は教室にいたから。寝てたら? そうしたら布団に潜り込んでやるだけだ。
まるで当然のように、自室のように部屋に足を踏み込めば、気配で察したのだろう。ガタン、と音を立てたあとこちらへ向かってくる足音がする。
「ティボルト君、ど、したの……こんな夜中に」
「お話があるんです」
「……明日で、いいかな。部屋まで送るから」
肩を掴む手がばかみたいに熱い。それに、どもるみたいな口調はどこかで呂律が回っていなくて、おぼつかない。お酒を飲んでいたんだと思う。それもたくさん。
深夜に部屋を訪ねることが結構あるから、深酒中にお邪魔してしまう時もあったけれど。そういう時の彼はいつもバツの悪そうな顔をする。あまり見せたくない姿ではあるんだと思う。まぁそりゃそうだよね。カッコつけたがりなところがあるもん。それに、自責的な人だから。
でも、俺はそういう時の彼のことが気に入っている。いつも言ったりしないこと、やったりしないこと。どうせどれだけ酔ってても一線を越すようなやらかしなんてできないんだから。取り繕えない姿を見られて愉快なの。あえて深夜を選ぶこともあるくらい。
今日も、そう。
昼間にはあなた、話してくれそうもないこと。何かあるんでしょう? 聞きにきてあげたの。踏み込まないようにしていた。聞かないようにしていたけれど。それで逃げたらもう終わってしまうんだよ。だから。
「ダメです、今話さなきゃダメなの、聞いてよぅ」
絶対に帰ってやらないと言わんばかり。ぐっと力を込めて踏み締めてみたら、やんわりとした静止は諦められたようだった。
怒るかな、強く言われたら嫌だな。でも、今日諦めるわけには行かないから。
真っ暗な廊下をジリジリと押し入っていく。リビングには空いたお酒が転がっていて、やけになったことの動かぬ証拠になっていた。それに灰皿も。ああこんなに。肺が痛くならないのかな。
「っけほ、」
「あ、ごめん煙臭いね。窓開けるから」
「ん"、」
窓に向かう足を引き止める。服をガッチリと掴むから、あなたはどんな言い逃れもできないよ。そういう意味を込めてじっと見つめるだけ。
二進も三進も行かない様子に彼は少しだけ困ったようだったけど、困って、苦笑いをしてから行き場のない手で俺の頭を撫でた。やっぱりどこか素面だったらしないことだった。
「どうしたの、眠れなかった? 寝ちゃおうよ、話は今度にして、」
「来るなら、いいよ。その、今度があるなら、待てるもん」
でも、ないんでしょう。その今度って。もうすぐ卒業しちゃうんだから。卒業しちゃえばきっとあなたの電話番号は全く繋がらなくなって、それで終わりで。もしかしたらそれは、前の自分たちに戻るだけなのかもしれないけれど。
「やっぱりいやなんです、お願い」
せめて、俺の納得できるように話してほしい。
駄々をこねるかぐずるかするようだ。イヤイヤと小さい子のように強請った。なんでだろう、難しい話とか、嫌な話がしたいわけじゃないのに。あなたは俺を突き放したり無理やり剥がしたりできないから、また苦しそうな顔をするんだろうな。
俺が俯いてしまったから顔は見えないけれど、見たくなかった。怖くて。
その心の強張りに俺の方が耐えきれなくなって、恐る恐るに抱きしめる。一瞬怯えた相手に取り縋るなんて滑稽だと思うけど。ディーディリヒさんも俺の体の震えを抑え込むようにしてくれた。側から見たらほとんど埋もれているように見えたはずだ。
彼の腕の中で彼が何か言うのを待っている間、酷く動揺した動悸だけが聴覚を支配していた。自分がどれだけ無理を敷いているのかをただ実感している。彼は何か迷っているようで、俺が諦めるのを待っているのかもしれない。とにかく押し黙って、時間にしたら短い間のことなのかもしれないけど、俺にとっては長い間に思えた。
ややあって、深いため息のような、空気を吐き切ってから、誰に言うでもない独り言みたいな調子で一言呟かれる。
どのくらいなら待てるかな、と。
「……1ヶ月、くらい?」
「じゃぁ……駄目だなぁ」
「どうして、」
口を紡げばそれだけ、抱きしめる力が強くなる。俺の知らない力強さだった。息苦しさを覚えるほどの懐抱は、彼の取り繕えなくなることを示している。
この自制心が剥がれ落ちそうなのを促したい。だからなんとか腕だけ解放してもらって、頬を掴まえた。
「どこか遠いところに行ってしまうんですか。それは、絶対に、例えば俺を、連れていけないところ?」
とっかかりを作ってあげれば、白状しやすいんじゃないか。そんな浅はかな考えで踏み込んだラインは、1番嫌遠していたものだけど。
ディーディリヒさんはやっと断念したらしい。いや、踏ん切りがついたと言った方がいいかな。
「……うん」
再度強く抱きしめられて、耳元で懺悔するかのような声がする。今までずっと、俺のあからさまな誤魔化しを、見ないふりさせてごめん。なんて。
「銃を、持ってたの知ってるよね。それを使いに行くから、……絶対に連れてなんていけない」
それでも少し遠い言い回し。それでもわかる、そうだよ、ずっと見ないふりをしていた。あなたの体の傷跡を見るたびに頭のどこかではわかってた。
「君には、俺の知らないところでいいから、安全なところで生きて欲しいと思ったから」
だから、本当は。こんなところまで踏み込ませたくはなかったんだけど。
彼は、俺の肩を押して体を離した。向き合って、目は合わずに。話はそこで途切れた。
その苦悶の顔はあんまりにも悲痛なところがあって。ということは多分、全部本音で。
それで、俺の頭はこんな時にも恋愛的に愚かであって、少しずつ確信めいたものが支配していった。
「……どうして?」
「好き、だから」
頑なに目を合わせない彼と、その合わない目を見つめる俺。まるで噛み合わない視線。あなたのその言葉だけをずっと願っていたのに。
気持ちの答え合わせがこんなに嬉しくないことと同時だなんて考えもしなかった。
「ひどい、」
思わず零れた言葉は、別れが目前だと言う無慈悲な事実に対してのものであってあなたに向けたものではない。でもそれをあなたは否定と受け取ったようだった。申し訳なさそうに笑うと、肩を掴む手を離してしまう。途端に逃げる手のひらの熱さ。
「ひどいです、ずるい。こんな土壇場になって言い逃げでもする気なんですか、俺があなたに恋したのは、ずっと前だったのに」
感情が堰を切ったように溢れてきた。言えって迫っておきながらこれは、理不尽だとわかっている。けれど、どうしても止められなかった。
じゃあ例えば、もしそんな危ないところ行かなかったら、あなたは俺とまだ一緒にいようとしてくれたんですか。して、くれないんじゃないですか。卒業したらそれで終わりだって、確かに最初はそうだったけど。
「今は違う、のに、」
「君が! 俺といるせいで何かあったら、どうすればいい……?」
「だ、から。ここでさよならなんですか。そん、ひゃっ」
ふわり。ふいに宙に浮く体。浮遊感に耐えかねて首元に強く抱きついたら、それに応えるように肩と膝裏をそれぞれ強く支えられて、軽々と抱えられてしまった。
急に体勢が変わったこと、それから性急な抱え方に喉の奥から怯えのこもった声が出ていった。それは顔の近づいた彼には届いていたはずだけど、その足は部屋の出口に向かって踏み出される。
きっと追い出してしまう、ではなくて。俺の部屋に無理やり送り届けでもしようとしているのだと思う。酔って回らない頭をフルに回して出した結果。なのはわかるけれど。
いやだ、やめて、おろして。必死に訴えてもまるで聞こえていないようだった。こわい、と訴えても。体はしっかりと支えられて落ちることはないのだろう。けれど、そうじゃなくて。
「っぐす、……」
ついに目尻から涙が溢れた。彼の有無を言わさないような態度を俺は知らなかったから。
静かに引き攣るような呼吸を繰り返して、肩を震わせて。堪えながら泣いていたけれど、呼吸はやがて嗚咽に変わる。
泣き出した俺を見ても、最初は動じずに何を考えているかわからない様子で足を止めなかった。けれど、ドアに差し掛かったところで堪えきれずに声を上げて泣かれだしたら、途端にハッとしたような顔をする。
「ご、めん、……ごめんね、怖かったね」
しゃがんだかと思うと。そのまま床に下された。申し訳なさで逃げてしまいたいと言わんばかりの体を引き寄せて縋り付く。縋り付く。今度は先ほどの力強さが嘘のような、何かとても脆いものでも触るような手つきだった。
頬にはらはらと伝う涙は誰にも拭われることなく落下していく。
「やだよ、もう会えないなんていや、……俺は、あなたのせいで客観的に不幸になったとして、俺にとっては不幸じゃないんです」
「そうじゃない。ダメだよ、幸せに……暮らしてほしいんだよ」
「馬鹿に、っ、してるんですか。あなたがいない場所で俺、幸せになりたくない」
この1年、よりも少し長い間。家族といる時とはまた違う、とっても楽しかった。幸せだった。それが誰でもよかったわけないじゃない。
「俺と一緒にいて幸せで、でも死んで、ってそれは、ダメに決まってるでしょ。生きてほしいんだよ」
「あなたがいない生き方をして死ぬことに抵抗なんかできないっ、」
離れるくらいなら連れてって、いっそ不幸にさせてよ。それが幸せなんだよ。でも、違うの、あなたと生きていくのがいいんだ、ほんとうは。じゃないと嫌だ。じゃないと幸せなんかじゃないし生きていたくもない。
しゃくり上げながら、自分勝手でめちゃくちゃな理論を展開させる俺に、彼は背中を優しく叩いてくれていた。それでも止まらずにいると、そっと頬に触れられる。その指先が震えている気がして、彼の方を見た。
そこには、初めて見る表情があった。
困惑とか焦燥とか、とにかく、今まで見たことのないものがごっちゃになっている。俺の知らない感情がそこにあった。
俺がこの人を困らせている。それだけはわかった。
途端に頭が冷えていく。こんなことを言っていいはずがなかった。
「……馬鹿みたい」
最後になってこんなに本音を言って傷つけてしまうなら。普段から言っておけばよかった。後悔しても遅いし、今更何を言ったって言い訳にしかならない。もう全部遅いんだろうか。何もかもが。
でも、やっぱり、それでも。あなたが好き。
*
その後も散々泣き喚いて、結局は疲れて眠ってしまったらしい。目を覚ますとベッドの上で、くしゃくしゃのシーツが真っ先に目に入った。彼のコートを握りしめて眠っていたせいで、ずいぶん安心して眠ってしまっていたらしい。
起きあがろうとして、瞼に手のひらが乗せられる。びっくりしていると、聞き慣れた声が降ってきた。まだ夢の中にいるのかと思ったけど、その手は温かくて、ちゃんと現実だと教えてくれる。
「……行っちゃうの」
「もう少し」
「2度とここへは戻ってきてくれませんか」
「あと一回くらいはここへ来るよ」
優しい声色だった。その声を聞いていると、何もかもがどうでも良くなってしまう。この重苦しい穏やかな憂鬱は、あなたの抱えてるものとは比にならないかもしれないけれど。
行ってほしくないよ。そんな危険なところには。でもあなたにはあなたの事情があって。自ら望んで、では、ない、よね。なら俺がごねたって嫌がられるだけだ。
「ここに来た時、5分でもいいから、絶対、俺に会いにきてね」
約束、と小指を差し出すと、一瞬戸惑った後に絡めてくれた。
塞がれた視界の向こう側で、彼がどんな顔をしていたかはわからなかったけど。きっと俺が想像するよりずっと寂しい顔をしてくれているはずだから。それでいい。今この瞬間はそれでいいから。
もっとあなたを困らせてしまうわがまま言えば良かった。こんなに好きになる前に、伝えればよかった。俺があなたに抱いている感情を。それで振られてしまったらきっとこんなに苦しくなかったのに。
「俺、あなたの手が好き。こんなに優しく触れてくれる人いないよ」
「うん、」
「一緒にいると落ち着くの」
「俺もそう思ってる」
そうだよね。だってあなたもいつの間にか深く眠ってくれるようになったから。俺もそうだったよ。寝ぼけたまま、ぼんやりとした頭で呟いた言葉にも、彼は律儀に返事をしてくれる。そのやりとりが何よりも心地よかった。
好きだと言ってくれたことだけで満足できたら良かったのに。その言葉を貰えただけ、他のことは我慢できるはずだったのに。あなたはいつも俺にとびきり優しくて自分のできることならなんでもしてくれそうに見えるから、欲張りになっちゃうの。
本当は、俺があなたのこと全部管理したいくらいなんだから。
「すきだよ」
瞼の上の手のひらはいつも通りに暖かい。二日酔いで頭は痛くないだろうか。仕事へ行くなら時間は大丈夫だろうか。今日のごはんは何を食べようか。俺のこと忘れないでいてくれるかな。ぐるぐると、思考はどうでもいいことと重大なことの区別がつかないほど疲弊している。
でも俺、あなたと一緒に生きてみたいって思ってしまったから、これだけは諦めたりしないよ。
好きだよと俺が言って、彼の方も何か言おうとしている気配がした。でも、それを遮るように続ける。
「ユーリアって呼んで、」
ティボルトじゃない。ずっと役名のような偽名を名乗っていたから。本当の名前なんて今までずっと知りたくなかったけれど、ちゃんと生きようとしてようやく父に聞けたんだ。呼んで欲しい、俺のこと。あなたに。
「ユーリア君」
彼の顔が近づいた気がした。それはとても短い間だったけど、名前を呼ぶ瞬間。顔と顔がすぐそこにあって、そこから名前を呼ぶ囁くような小さな声が聞こえた。
ごめんねと謝る頃には、遠ざかってしまったようだけど。
「ごめん」
今度は、はっきりとした言葉。もう時間がない。俺はこの人を手放さないといけない。離れたくないよ。
「待っていて……とは言えないけど。卒業する前に絶対、俺は勝手にユーリア君のこと探すよ」
「ええ、俺も勝手に、待っていますから」
手が離されて、後ろ姿だけが見える。その背中が扉の向こう側へと消えて、見えなくなるまでじっと見つめていた。ドアが閉まる直前、こちらを振り返りそうになって辞めてしまう。そのまま足音が遠ざかる。
あなたの部屋で、ここにいる時使っているベッドで、あなたのコートを抱きしめながら。あなただけがいなくなってしまった。
*
窓際にはハンガーにあの赤いコートがかけられている。結局彼が着ていかずに出て行ったから。
部屋の中はしんと静まり返っていて、ベッドの脇には引き寄せたテーブルの上に、冷え切ったマグが置いてある。これは昨日の。そして隣に追いやったのはおとといの。
布団から這い出ると冷えた空気が肌を刺した。寝起きのぼんやりとした意識のまんま、そこらへんに落ちていた衣類を身につけていく。ゆったりした黒い寝巻きの。全然外出る気なんてないし、それで充分だ。
カーテンを開ける。もう外は薄暗くて、部屋の中に曇り空の隙間から覗く夕日がちらちら入り込んできた。その淡い眩しさにすら目を細めめ、光から逃げて、部屋の奥側。棚上のケトルに水を入れて電源を入れた。
湯を沸かす間に顔を洗って歯を磨く。そういえば、インスタントのココアの袋はあれで使いきりだ。
ズボラなのは重々承知。この一連の流れに丁重な生活の仕草なんて一つもない。それでも俺にとっては必要な儀式みたいなものだ。ベッドの上、お布団っていう洞窟のモンスターから人間になるための。まず一つのきっかけ。
カップは置き去りにして、ソファに身を沈める。傍のスマホを手に取れば、何をするでもなく画面を眺めて。
でもちょっと机の上が汚すぎるかな。マグカップが3つ、ペットボトルと、お薬と本と。下敷きに何かの紙が挟まっていて。あと、お兄さまが持ってきた鍵と、知らないお家の住所。とお財布、リップ。全部適当に置いちゃうから何もかもがぐちゃぐちゃになっている。ちゃんとしまっておかないと。
もうすぐ荷物まとめないとなのになぁ。全然片付けられそうにもないや。寮を出て実家の方に行くなら、国が変わるし、海を渡る。荷物は最低限にしないといけないのに。どうにもこうにも何も捨てられそうになかった。
そう、何も。情が移ってしまうともう離れられない。これは生まれつきの性格なんだと思う。
スクロールされて変わり変わるスマホの画面は、大事なことを伝えてはこない。他人の日々の生活が流れていくだけ。特に面白みのないニュースばかり。今日も世界は平和です。そんな感じ。
小さくため息をつく。すると、ちょうどタイミングよくスマホが震えた。着信だった。相手の名前を見て、反射的に切りそうになる。それはお兄さまからの電話だったからだ。
「……お兄さま」
「Allô Ma princesse. 起きたかい?」
おはよう、と挨拶を交わすけれど、今は16時だ。着信、午前中にもあったんだな、きっと。俺のことを心配してかけてくれたに違いない。
一昨日。お兄さまが俺のことを訪ねてきた。泣き腫らした酷い顔だから会いたくないとごねたのち、学園内には自分のような部外者が入れないと説得されて。結局駅の近くまで引っ張り出されて。カフェで再開した時また泣いた。顔を合わせてい1,2時間はずっと泣いてたんだ。
「君にはいくらでも大丈夫だよと諭してあげなきゃいけないからね。涙は落ち着いたかな」
スピーカーから聞こえる声は相変わらず優しくて、俺はやっぱりそれに甘えてしまうのだ。
「その鍵をね、彼に渡しなさい。住所とね、着いていけないなら帰る巣に君がなってしまえよ」
机の上で鈍く光る鍵。少し古めの型。それはウィーン市内のとある一軒家だった。いや、一軒家と言っていいのかわからない。少し変わった形状の家。なんでもお父様が持ってた物件で一般常識的な広さのものはそれだけだったと。1人、もしくは2人で住むにはちょうど良さそうなお家。だけれどそれは知らない街の住所で。
「こんなところすめません、ひとりじゃ」
「ふむ、……物語でね、実家で逢瀬を果たしていい結果になることがあったかい」
いつもより少し厳しい口調で言い放たれて。その通りすぎて言葉もなかった。
お兄さまは俺のことを本当にわかっている。俺以上に。物語に喩えられるほうが俺の理解を得やすいってこと。
「怖くないよ」
「こわい、」
「大丈夫だから」
子供のように駄々を捏ねる俺に、彼はただひたすらに優しい声で語りかける。
「いらないって、困らせちゃったら、どうしよう」
「もう2度と会えないのは嫌だって相手も思ってるんだろう」
重いだとか迷惑だとか、否定されたらって思うよね。でもきっと全然、そんなこと思ってないから。君の想像って世界一当てにならない。会いにきてくれるって言ってたね、人ってのはそこまで意味のない世辞は言わないよ。
俺の不安症を少しずつハンカチで拭うように、お兄さまが言葉を並べる。その音声は、ところどころでノイズキャンセルを通り抜けたミシンの音混じりだった。
納期がやばい、と言っていたか。本当にギリギリな中飛んできてくれたんだろう。一昨日だって眉毛も描かず隈も消さず、ノーセットの頭に地味で機能性だけの上着だった。それでも目立っていたけれど。
「いつまでも僕が甘やかしてあげてもいい、わけではない……」
寂しいけれどね、って小さく呟く。独り言みたいだ。
「君の素直な気持ちなら、きっと受け取ってくれるよ。大丈夫。僕は君の幸せを愛してる」
さようなら、僕のお姫様。最後に聞こえたのは、まるで子守唄のような。落ち着いた声だった。
ぼうっとしながら聞いていたから、電話の切れた後もしばらくスマホを耳にあてていた。
でも、いつの間にかお湯が沸いていたようで。ケトルがピーッと甲高い音を立てるのを聞いて我に返った。無くなりかけてるからと言ってカップにココアの粉を入れすぎたな、と思いながらお湯を注ぐ。ぐるぐるかき混ぜて、完成。
一口飲んで、ソファに横になる。お兄さまの声がまだ頭の中で反響している。あの人の言うことは、俺には難しくて。何が言いたいのかあんまりわからないでいる。
それでも、彼の言葉はいつもいい方向に導いてくれる。心配してくれていたのだろうし。
不安で怖くてたまらないけど、この鍵を渡さなくちゃ。そうだ、手紙にでも添えて。便箋ならないことはないから。
机の上のものを軽く床へどかして棚から便箋を、鞄からペンケースを引っ張り出す。この便箋を買った時は誰に手紙を出したっけ。もう忘れてしまった。
どんなことを書こうか。言いたいことならたくさんある。伝えたい思いならいくらでもある。
けれど、素直な気持ちを贈るだけでは困らせてしまうだけだろう。気遣って、遠慮して。
「……だからダメなんだろうけど」
自分の悪い癖だ。結局相手を思うあまり、本当のことを隠してしまうのだ。そんなんじゃだめなのに。
それなら、シンプルにいこう。うん、それがいい。
『Ich mag dich sehr. 』一言だけ。あなたに誤解されたくないのは、これだけだ。
厚紙に鍵を挟んで、開けてみないと何が入ってるのかわからないようにしよう。絶対来て、なんて言ったら、強制しているみたいだから。そして、封筒に入れる。あとは、彼がここに来るのを待つだけだ。いつ来るかはわからないし、もしかしたら来れないかもしれない。
いやいや、約束したし。必ず行くって言ってくれたんだから。信じよう。
俺はまたソファに身を沈めて、目を閉じた。
次に目が覚めた時にはすっかり夜になっていた。電気をつけていない部屋は真っ暗で、寝る前に開けたカーテンが遮らず、月明かりが部屋に差し込んでいた。
「……起きた?」
すぐ近くで声がした。慌てて顔を挙げる。はしたないことにもソファで居眠りしている俺を、控えめな視線で見下げていたのは他でもなく待ち望んでいた人だった。
「でぃ、ぃひさっ」
慌てて起きあがろうとして、ソファから手を踏み外した。
落ちる、と思ったけれど、強い衝撃はこなかった。
「あ、ッぶな、」
目の前は床で、半身はひっくり返っているけれど、痛くない。ディーディリヒさんの反射神経がもう少し悪かったら頭を床に打ち付けていたかも。宙ぶらりんな体が不安定だ。
「お、起こしてぇ」
「ああ……ごめんごめん、痛くなかった?」
大丈夫です、と答えようとしたけれど、喉がひゅうと鳴るだけだった。
抱き抱えられるようにして、ゆっくりと身体を起こす。そのまま抱きめられた。お尻がソファから少し浮いていて、まるでぬいぐるみにでもなった気分になる。背中と頭に回された腕は力強くて、暖かくて。やっぱり落ち着く匂いがする。
「いたぁい」
わざとらしく言っても、珍しいことに離されたりしなかった。いつもならすぐにハッとして離すのに。
押し黙ったまま肩口に頭を埋めたまま。けれどまぁ、俺も離れようとは思わなかった。
少しの間、沈黙が流れる。お互い何も喋らない。ただただ、静かに時間が流れていく。このまま時が止まってしまうか、2人の心臓が一斉に止まってしまえばいいのに。そうすれば、ずっと一緒にいれるのに。
「この先のあなたのことが心配です」
「……はは、俺もだよ」
「む」
ぽつり、ぽつり、会話が始まる。いつもより、ちょっとぎこちない。
何日かぶり、ではあるけれど。それは俺たちの間に空いた期間としてはそう長いものでもない。もっと期間の開くことなんて珍しくはないから。
けれど、今回ばかりは、離れていた時に自分のことを考えていてくれたんじゃないかって。そんな戯言。もしこの先離れてもあなたの心に自分が食い込んでいるのなら、こんなに嬉しいことはないな。
「……降ろしてください」
とはいえ、全然力が抜けないからずっと浮いている。またバランスを崩しそうで怖い。
やっと降ろされて、改めて向き合う。なんだか余計に気疲れしているような様子だった。後ろめたいようなことでもしているみたいな顔。隈もひどい。
「寒いですか、ほっぺたが冷たいですよ」
「多少ね」
彼の頬を両手で包んでみる。思ったよりも冷たい。さっきまで外にいたんだろうか。いつからいるのかわからないな。
「始発で発つんだ」
まだここにいるけど。夜明けには出ていくかな。
時計を見ながら告げられる。そんなに早くから。タイムミリットはあと数時間だ。そしたら多分もう卒業してしまって終わり。
せっかく、ようやく想いが通じたのにな。そんなのは、そんなのは嫌だから。意を決して、渡そうと。ソファの上で姿勢を整える。
「そこの机の上にあるの、あなたにあげる」
指差した先の封筒。鍵と一言入ったお手紙もどき。卒業したあとも自分とあなたを繋ぎ止められる、かもしれないもの。
「ラブレター、です。受け取って、それで、1人になったら、開けて」
恥ずかしくて俯きながら話す。視線は感じているから、きっとじっとこちらを見られている。彼はしばらく黙り込んだ後、封筒を手に取った。
これで、もう、最後なのかな。すごいな、全然息ができない。
「ありがとう」
「なくしたり、捨てても、怒りませんから」
「しないよ」
中身がわからないうちはどうとでも言えるでしょう。なんて軽口を叩きたかったけれど、息が詰まって無理だった。
悲しいな。なんでもっと早く言ってしまわなかったんだろう。どうしてあなたは行ってしまうのだろう。例えば自分がもっと強く頼れる人ですらあれば、離れずにいられただろうか。あなたの秘密主義には自分にも原因があったんじゃないかって。そんなことばかり考えていて、さらに申し訳なる。もうどうしたらいいかわかんないんだ。
「ごめんね」
優しい声が聞こえて顔をあげる。その言葉の意味は、わからない。
「いえ。あなたが無事でいられますように」
これは、俺の精一杯の虚勢。全部嘘。演技にすぎない。笑顔も。
本当は行かないでくれって縋って叫びたい。けれど、他でもないあなたにそんなこと言えない。言えるわけがなかった。せめて笑って送り出してあげるから、安心できるように振る舞ってあげるから。だからどうか帰ってきて。素直じゃないけど、素直な気持ちだよ。
あなたはそれに気付いているのかな。見ないふりしてね。今までの俺があなたにそうしたように。
「Ich denke immer an dich.」
母国語で伝える。英語じゃなくても、母国語でも、あなたにはすんなりと伝わるから。だから、この言葉も。
ディーディリヒさんは目を丸くした後、少しだけ笑った。
「Ich auch.」
同じ言語。でも俺より垢抜けた発音だった。