「アルタイルさん……また来たんですか」
フランス北西部、ノルマンディー。印象派の描くような自然豊かな美しい町だ。観光や農業である意味有名な町の、訪ねてきたところはさらに奥まった田舎だった。
「バスもないのによく来る、わざわざねぇ」
「お前さんが折れてくれればこんな熱心に勧誘しなくて済むんだけどな」
「ハイリスクハイリターンは取らない主義。……僕も暇じゃないんだけど」
アルタイルさんは、ここのところ前にも増してよく来るようになった。僕が学園を卒業したからそこで会う機会がなくなったのだ。在学中はそれはそれで大層勧誘されていた。連絡先とかは一切教えなかったから、これで安心かと思いきや。一度親切心で手紙を出してから家に来られるようになった。本当に出さなきゃよかった。
なんだってこんな田舎まで、ただ1人の一般大学生を追うのだろう。僕が選んだのはこの国にいくつもあるような特別なカリキュラムもないただの大学。しかも教職課程。どこをとっても普遍的なはずだった。サークルは少し変わったものを立ち上げたけれど、それくらい。毎朝6時に起きて、毎日23時には寝る。学校に行って帰ってきて、趣味の時間を作ったり飯を作ったり。作るべくして僕が作った、矮小で平和な日常だ。
「まぁまぁ。それにしてもパソコンに向かうなんて珍しい」
「……フェモラータオオモモブトハムシについて調べてたんです。原産は中国、分布はアジアでヨーロッパには居ない虫。葛に生息する幼虫がこれまた中国の、杏仁豆腐? に味が似ているらしくて気になっています。機会があったらと思うのですが、流石にここまで持ってくると味が落ちそうですし、他国の生物を生きたまま持ち込むのも気が引けるからどうしたものか、……あ」
喋りすぎだ。気づいたときには遅かった。僕の言葉を聞いたアルタイルさんは、にやにやと面白いものを見つけた子供のような顔をしている。もしくは人の恥にニヤけるクソガキのような顔。
失敗した。いつもこうなのだ。普段から考えていることと同じことを言っているはずなのに、何が悪かったのか饒舌に喋りすぎてしまう。オタク気質というやつなのかもしれないが、とにかく良くないことをしている自覚はある。のに、口だけは勝手に動いてしまう。今までこの性質で失敗したことは少なくないから直さなきゃいけないけれど、なかなかどうして難しいものだ。
「連れてってやるよ。どこだ? 中国か、日本か、インドでもベトナムでもいいぜ」
「……この件に関してだけは保留で。フェモラータオオモモブトハムシは少し気になるところがあって、病原菌に強いと言われ始めているんですよ。幼虫は寄生昆虫以外にボーベリアやメタリジウムのような昆虫病原菌にやられて数を減らすはずなんです。でもこのフェモラータオオモモブトハムシはそれがほとんど起きていないと、まだ数少ないですが言われていて」
「科学的な理由があるかもしれないってことだな。面白いテーマじゃねぇの」
「そうでしょう。繭に何かあると思うんです。でも僕学生の身なので、遠出はちょっと」
真面目だな、と声がかかる。そうだ、僕は真面目なんだ。
「そのテーマにも真面目に取り組んだら有用な抗菌作用でも見つかるんじゃねぇ?」
「そこなんですよね。僕別に人間は助けたくないなぁって」
虫が好きだから研究してるわけで、人類の医学の発展とかマジで興味ないんだよね。そう口には出さないけれど。
「そも、アジア遠いし、飛行機苦手なんだよね。狭くて」
「席のクラスでもあげてやるよ」
「……それなら、アジア行く前にとって欲しいのがあるんだけど」
*
刺すように降り注ぐ太陽光と乳白色の砂。……ではなく、見慣れたウィーンの街だ。ヨーロッパの建造物は古くてさ、それは綺麗ではあるんだけれどまるで裸にされたような気分になる。
「というか、ついてくる必要あった……?」
「ウィーンな。俺も用事がある」
「はぁ……」
電車に乗り込む。郊外から都心に出るときなんてほとんど席は空いているものだと思っていたけれど、意外と埋まっているものだ。それにしても、僕の家からウィーンに来るのは大変。飛行機に乗るのが、という問題は強力なパトロンによって解消されたが、何せノルマンディーの実家は田舎である。飛行機に乗っている時間よりも、空港に行くまでの時間がよっぽど長かった。
「、どこまで着いてくる気。僕は兄さまに用事があるんですよ」
「気になるじゃねぇか。お前さんの兄でユーリアの兄でもある男ってのがさ」
もはやストーカーだ、と会話を区切る。
地下鉄の壁が流れていくのを見ながらぼんやりと考える。この地下鉄には湧水とかあって、そこから地下水性の生き物とか滲み出ていたりしないだろうか。いや、いたとしても水虫やプラナリア程度だろう、こんな都会では。
兄さまのアトリエは汚いんだ。すごく汚い。布やらなんやらが散乱していて足の踏み場は動線のみで、常に段ボールだプラ容器だので埋め尽くされている。当然生活をする場ではないし、食料もない。
電車が揺れれば、己の体も揺れる。今ここで電車が大事故を起こしたら身の回りのみんなも僕もぐちゃぐちゃだ。鉄と肉の混ざり合った様子はさぞ不快なんだろう。
地下水性の生き物は、目が退化していたり色素の薄いものが多い。それは生きていく上で必要のない機能を削ぎ落として歩んできた進化の軌跡。いつだって今が完全であり、不完全なのだ。僕はそういう不完全なものを、とても愛しく思う。
「飯を、食べてから行きましょう」
「昼時か。お前さんが言うなら」
「僕がお腹減ったんだ。あと兄さまにもテイクアウトを買っていってあげる。アトリエにはキッチンとかないから」
何がいいと聞かれる。なんでもいい。
「こういう出先なら片手で食べられる方がいいかな。食べながら行こう」
ウィーンの街並みは綺麗だと思う。建築がどうとか装飾がどうとかの話ではない。ウィーン分離派とかモダンとかの話ではない。かつての城壁に沿った街並みが空から見ると美しいのだ。これを誰かに言って、肯定されるとは思えないから、誰にも言わないけれど。
駅を出ると人がごった返している。観光客や地元の人間が入り乱れて進んでいる。僕らもそれに紛れて進んでいくのだ。今日のような暑い日にはアイスクリームを食べながら歩く人の姿もちらほら。アイスなんてしばらく食べていない。最後に食べたのはいつだっただろう? 思い出せないくらい前だ。
アトリエまでは歩いてすぐ。電話をかけながら、目的地までは早歩き。
「兄さま? うん、うん……。もう着くからまともな服着て。うん、……はい、はい」
石造りの道路がブーツに固く当たる。ごつごつと。森の中で歩きやすい靴は街中では少しだけ歩きにくい。
アトリエの扉を開く。相変わらず薄暗い室内は、思い浮かべた通りにごちゃごちゃとしていた。ここで生活が成り立つのかと思うくらい散乱している。ゴミなのか違うものなのかよくわからない紙屑や布や彫刻のなり損ないみたいな意味不明な像があちこちにあるし、足の踏み場を見つける方が難しく思えるほどだ。
「Ça fait longtemps qu'on ne s'est pas vus Ma petite Mila Tu m'as beaucoup manqué.」
久しぶり会いたかったよ。僕の可愛いミラ。
部屋に入るなり抱きつかれる。離してもらおうと身じろぐけれど全然離れない。兄さんは結構馬鹿力なのだ。僕が弱いのかもしれないけれど。
「兄さま、客人だよ……」
「Oh là là. 失礼、話は聞いてるよ。アルタイルくんだったかな」
僕に抱きついていた手を緩め、客人を迎えに出ていく。僕は崩れ落ちるように椅子に座った。
「荷物はそこ置いたからね、頼まれてたやつ。カメラも返すね」
「Oui. いつもありがとう」
兄は、満足そうに荷物の中身を確認しては奥の部屋に引っ込んでいった。アルタイルさんは、様子を見るように視線を左右に揺らしている。
「、写真ですよ、写真。森や自然の写真を撮ったんです」
「写真を、わざわざ? しかも届けるのに飛行機まで乗ったときた」
「僕の方が自然の美しさを知っていますから。カメラも精密機械ですし、あと兄さまがどうしても直接がいいって言うからね」
「お前さんは、何がなんでも人の頼みを断るタイプかと思ってたよ」
変なことを言う。僕は真摯だから出来る範囲の頼まれごとは断らないよ、と言ってもアルタイルさんは笑うだけだった。
「身内に甘い自覚はありますけどね。あとは、本当に出来る範囲のことは断ってないでしょう、別に」
「まぁ、確かに。なるほど、頷くラインが見えてきた」
「そういう狙いがあるなら断ります。そもそも、僕は自己犠牲って言葉が大っ嫌いなんですよ」
「だと思った」
他人がどうかなんて関係ない。僕は自分がやりたいからやっているんだ。誰かが僕の知らないところでどうなろうと知ったこっちゃないけれど、目の前で死なれちゃ後味が悪い。だからある程度助けはするけれど、自分のキャパを超えて他人に手を貸そうとする人間は嫌いだ。例えば極端な話、知らない子供を庇って死んだ馬鹿な人間を世間はどう見るだろう? 馬鹿な外野は賞賛するけれど、家族は泣き悲しみ庇われた子供を恨み、子供の親は困惑し、子供はトラウマを植え付けられる。地獄でしかないだろ。また自分はいいから他人を、なんてのも反吐が出るね。己の自己肯定感についての自傷行為を他人を使ってやるなと言いたい。
「俺は馬鹿な人間が好きだぜ」
「……僕は見ていてイライラするかな。こんなんじゃ教鞭振るえないかもね」
「、は? 教鞭?」
ガチャリ。扉が開く音。兄さまが戻ってきた。
「確認したよ! バッチリだね!」
随分とご満悦そうだ。彼の周りに小さな妖精でも浮かんでいるようだった。カメラは無事に役目を果たしたらしい。よかった。
「じゃ、帰ります。またそのうち」
「えっ、早くないか!? もう行くのかい」
「納期前でしょ。これ食べて残りの仕事も頑張って」
駅前で買ったサンドイッチを紙袋ごと兄さまに預ける。兄さまは待って待ってと、僕の服の裾を掴もうとしたりまた抱きつこうとしたりする。
この人スキンシップ多いんだよねぇ。別にいいけれど。ただ彼はベタベタしたりはしないタイプなので、頻度は多いが不快感は少ないのがいい。
「お客人とももう少し語らいたいよ!」
そんなこと言われても、仕事が残っているでしょう。やるべき事があるうちはダメ。
「アルタイルくん! 君はもう少しここにいないかい? お茶菓子くらいならあるよ、普段のユーリアのこと教えてくれよ」
「この人仕事したくないだけですから。行きましょう」
「は、仲の良いことで」
くつくつと笑いながら、着いてきてくれるだけ今は僕の味方らしい。まぁそうでなくても置いていくだけだ。
兄さまは、玄関まではしつこく引き留めたけれど別れの挨拶は意外とケロッとしていた。そりゃそうだ、今世の別れじゃないんだもの。いつものハグといつものビズを交わして、また今度と囁かれる。兄さまはそれでも多少名残惜しそうに手を振った。
来た道を戻るように歩く。同じ道だ。時刻もさほど変わらない。大人と子供と、時々犬が歩く街。小鳥の囀りとか、風の音とかも時折遠くに聞こえてくる。
駅に向かっている。けれど飛行機まではまだまだ時間があった。
「何かまだ用事でも?」
「?、ウィーンと来て他に用事があるのはアルタイルさんじゃないんですか」
また考え込むようにアルタイルさんは視線を下げた。この人はすぐに考え込む、本当に。僕には真似できない芸当だな。見習う気もないけど。
伊達メガネ越しに見たあなたの顔は、すぐにいつものあくどい笑顔に戻るのだ。
「優しい奴だよ、お前さんは充分にな」
「チィッ……」
本日何度目かの舌打ちである。