あなたを愛しています。◇◆◇
滝のような雨が降っていた夜のことを今でも鮮明に思い出すことが出来る。コンクリートを叩く雨の音と目の前の走るトウマの足音、苦しそうに呼吸を繰り返す音。まるで冬の体温のように冷たくなったトウマの手首を掴み、自分の胸元へ手繰り寄せれば濡れた布の感触が広がった。9cm低い体をこれでもかという程力強く抱き締め、己の元から離れないよう捕まえる。肩越しに聞こえる悲痛な声も、俺から離れようと胸を叩く拳も何もかも受け止めたかった。更に力強く抱き締めれば抵抗していた拳は垂れ下がり、俺の耳元にはトウマの体温からは考えられない程熱い息がかかり、そしてそれを繋ぐようにトウマの嘔吐く声が聞こえ始める。その声はまるで音符の書かれていない楽譜のように途切れるが、俺からすれば最高のラブソングで。
「トラのことッ…が…好き、好き、なんだ」
ようやく見せてくれたトウマの顔はお世辞にも綺麗とは言えなかった。初対面の人間には怖がられがちなつり上がった目は情けなく垂れ下がり、薄い瞼は泣き続けていたせいで腫れ上がっている。ぐしゃぐしゃの顔を俺に見せまいと拭った途端、右手の甲と鼻先に鼻水の糸が張り、雨の中走ったせいか唇は青ざめてしまっていた。
そんな傍から見たらだらしなくて汚くてかっこよくも可愛くもない姿だというのに、無性に俺はトウマに同じ音を返したくなったのだ。きっとトウマから見た俺も同じような顔をしているはずだから。
巳波に頼もうじゃないか、俺はこんな言葉でしか愛を伝えることが出来ない。巳波に書いてもらおう、こんな俺たちの愛を証明する歌を。…そんな歌を歌いたいと言ったら巳波は怒るだろうか。
「トウマ、俺もトウマのことが好きなんだ。愛してる、トウマと恋人になりたい」
「トラ…ッ?、嘘つかな…」
「こんな顔してる男の言葉を、嘘だなんて言わないでくれ」
「ッ、トラ、女の子好きだろッ…!もしやっぱり違かったなんて俺言われたらッ…!」
耐えられない、トウマの紡がれるはずだった言葉を唇で飲み込む。冷たい頬を両手で包み込み、トウマが吐き出そうとする馬鹿な言葉を全て飲み込んでやる。上唇を噛んで舌先を啄み、もう一度深く深く口付けた。キスだけで腰を抜かしそうになっている男が何を心配しているのか。呼吸の仕方の分かっていないトウマの腰を抱き、長いキスを終えて目元の涙を親指で拭う。先程の青白い顔から夜でも分かる程真っ赤に染まったトウマの顔、こんな男を愛しいと思わないはずがなかった。
「いいのか、トウマ。俺は女を知ってるが…お前は女を知らないだろ?俺こそ不安だ、トウマが女の方がやっぱり良かったなんて思ったら」
「ッ、言わねぇ!そんなことッ、トラと付き合えるのに!言うわけねぇじゃんッ!馬鹿野郎!」
「ほら、同じだ」
トウマの指先と自分の指先を絡める。親指から人差し指へ中指薬指、そして小指同士を絡め互いの視界に入る位置へと見せつけた。赤い糸なんて信じてもいないが、トウマの安心する材料になるのならば見えないものにすら縋りつきたかった。子供同士がする大人になれば忘れてしまうような約束の仕方、だが大人の俺たちには呪いよりも強い呪いになる。
鼓膜に響くトウマの緊張の伝わる息遣い、俺のこのうるさい程鳴る心臓の音はどのくらいトウマに伝わってしまっているのだろうか。まるで2人きりの世界だとでも証明したがる思春期の子供のように、トウマの瞳には俺だけが映っていればいいなんて思ってしまう。自分に向けた嘲笑が唇から溢れたと同時に向けられるトウマの視線、お前のことを笑ったわけじゃないと伝えるようにもう一度触れるだけのキスをする。
数秒触れた唇を離せば、トウマの濡れた瞳がふわりと柔らかく微笑んだ。そんな顔が愛しくて俺は「好きだ」の言葉と共にもう一度口付けた。
「俺も、トラのことが好き」
あぁ、こんな2文字の言葉に涙を流す男のことをトウマは好きだと言ってくれるのか。雨が降っていて良かった、きっとこの涙はトウマにバレていないだろうから。
その後はびしょ濡れのまま2人で手を繋いで俺の家まで帰り、その流れでトウマと俺はベッドへ雪崩込んだ。初めてだというのに艶やかな声を上げて啼くトウマの姿はこの話の中では俺だけのものにさせてほしい。
これから俺が話すのはとある2人の恋の話、時間が許す限りこのページをめくってくれ。
◇◆◇
「おはようございます、御堂さん」
「おはよ、虎於」
「あぁ、おはよう。巳波も悠も早いな、前現場から2人一緒だったのか?」
「うん、ほら次の春にやるドラマが俺と巳波W主演だから」
2人がけのソファーに隣同士で並ぶ悠と巳波、悠の手元にある台本を巳波が覗き込むような体勢で並ぶ2人の姿は今の俺にとって珍しい光景ではなかった。そもそも台本は巳波にも配られているし、巳波と悠の演じる役は違うのだから書き込んである注意点なども違うはずだ。それでも2人は俺とトウマが2人で並んで座るのが周りから不自然に見えないようにと、俺たちよりも早く楽屋に入って2人がけのソファーに並んで座る。そんな光景が当たり前になって2年が過ぎようとしていた。
身一つで2人の座る向かいのソファーに腰掛け、悠と巳波が台本読みをする様子を見つめる。結成から5年、未成年だった悠と巳波も既に成人を迎え、仕事の幅も5年前と比べ広がっていた。悠は巳波の指導の成果もあってか俳優業も担い、巳波は昔と変わらず俳優業も作曲もこなし、トウマはあの性格もあってかバラエティに単独で呼ばれることも増えた。俺は数年前からモデルとしての仕事も増え、事務所の押しもあってか単独で表紙を飾ることも多くなった。今ではこうやって4人集まって仕事が出来ることも少なくなってしまい、少しばかり寂しささえ感じる。
それでも4人でアイドルでいたいという根本の思いは変わらない俺たちはズールとしての活動を第1に仕事を受けていた。今日集まったのも秋に向けてのツアーの新曲の話と悠と巳波のW主演のドラマの主題歌の話だろう。
「狗丸さんは別現場が長引いているんですか?」
「トウマ何か仕事個別で受けてたっけ?俺トウマと会うの2ヶ月ぶりなんだけど…」
「トウマこの前もグルチャで言ってただろ、あのアイラインの仕事受けたんだよ」
「ふはっ、…あの虎於と喧嘩したって言ってたやつ?」
「ふふ、亥清さんが意地悪言うから御堂さんのお顔が曇ってしまいましたよ」
悠が笑ったと同時に開いていた台本を閉じ、巳波の隣から立ち上がると俺の空いていた隣の席に腰掛けた。悠の体重を支えるように形を変えたソファー、5年も経てば体も態度も大きくなった悠は楽しげに俺の顔を覗き込む。黄金色の大きな瞳が三日月型に弧を描き、俺の名前を呼ぶがここで苛立っていては最年少に馬鹿にされる。俺は組んでいた足を組み直し、より深くソファーへと腰掛けた。
挑発にのってこなかった俺が面白くなかったのか、悠はつまらないとでも言いたげな声色で「ちぇ」と呟き、背もたれに体の重心を預ける。そんな俺たちのことを巳波はクスクスと笑いながら見つめていた。
「でも早いよなぁ、トウマと虎於が付き合ってもう2年?」
「おふたりとも雨に濡れて風邪をひかれたと言われた時はようやくかと思いましたしね」
「トウマとはちゃんと家で会えてるの?」
悠の言葉に俺は首を横に振る。
トウマと俺は同じ家に住んでいる訳ではない。現場が違えば会うこともなく、最近は単独での仕事が多いトウマと俺はなかなか逢瀬を重ねられずにいた。最後に会ったのは2週間前、しかもスタジオですれ違う程度だ。毎日連絡こそとっているがそれだけでは物足りない。トウマと視線を通わせて、手を握って、細腰を抱き締めて、呼吸が苦しくなるほどのキスを送りたい。蕩けた表情で俺の名前を呼ぶトウマをこれほどかというほど愛してやりたいのに。
力強く握った拳が自身の力で痛みを訴える。そんな俺のことを見て悠と巳波が呆れたようにため息をついた。数ヶ月前から幾度となく言われている言葉をもう一度2人から吐かれる。
「そんな狗丸さんのこと閉じ込めたくて仕方ないみたいな顔してるなら早く同棲すればいいじゃないですか」
「トウマのマンションの更新日だってそろそろなんじゃないの?」
「…そうなんだが、…トウマを前にすると何も言えなくなるんだ」
「はぁ?」「はい?」
トウマを前にすると言葉が出てこなくなる。
数年前まで本音でなくとも口から壊れたミュージックプレイヤーのように吐き出されていた数々の愛の言葉、それがトウマと付き合い始めた頃から唇に糸を通されたのかと思うくらいに言うことが出来なくなった。トウマの仕草に可愛いと言いたくても、トウマの言葉に嬉しいと言いたくても、トウマにふとした瞬間愛してると伝えたくても言葉が出てこない。
サンプル終(ここまでしか原稿が終わってません)