プラテネス指の先も折れ曲がった縮緬を、働き者の白魚だとあの人はとても真っ直ぐな笑顔で笑うので、閣下は本当に趣味が悪うございますと最後の最後まで言うことができなかった。
鯉登音之進という男は、見た目も頭も剣の腕もいい。性格はすこし癇癪持ちで激情型ではあったものの、上には息子の様に可愛がられ、下には兄の様に慕われていた。
そんなお人だから神様はきっと一つ瑕疵を与えたくなったのだろう。彼は年嵩の醜男を好んで食う悪食だった。
それも偏食で、鼻の低い坊主頭の顎髭しか食わない。当初はすぐに飽きると思っていたがいくつになっても変わらぬ偏食に、月島はいよいよ腹を括った。
表立っては言われなかったが、鯉登の内君が月島であることを周囲の人間は気づいていたのだろう。鯉登に何かのお願いをしたい時、人は決まって月島の元を訪ねた。
「どうか大尉にお伝えください」
「何卒、少佐殿に先日の不備を謝罪したく」
「閣下に一度、話を繋いでいただくだけで良いのです」
どうかどうかと袖章さまざまな御仁が揃いも揃って下士官上がりの老ぼれに頭を下げてくる。しかし頑固さなら月島も負けない。どんな要求であろうと首を縦に振ることはけしてなかった。
「知ってるか。お前、陰でかぐや殿などと言われてるぞ」
ある時の晩。久しぶりに帰宅した鯉登を労るため酌をしていると、月島はふとそんなことを言われた。
鯉登はにやにやと意地の悪い顔を浮かべて月島の反応を肴に酒を楽しんでいるようだった。
「人から神とは、随分とまあ出世したものだ。私など到底足元にも及ばんな」
「私はかぐや姫などではありません」
「竹から生まれてないからか?」
「いいえ。あなたの求愛を受けたからです。あれは誰の声にも耳を貸さずに月へ還るでしょう。私はそんなことしておりません」
一緒になさらないでいただきたい。
月島の言葉に鯉登は目尻の皺を顔いっぱいに広げたあと、大声で笑った。盃を置き、月島の腕を引くと、己の腕の中に囲いそして顎をすくった。
「月島はいくつになってもむぞうていかん」
「それなら閣下はいつになっても聞かん坊で仕方がない人です」
「わいん前だけじゃって——月島ぁ」
いいか。
「——はい」
鯉登の言葉に、月島は目を閉じた。
いくら立場がつまであっても、龍の寵愛を一身に受けても、月島は男である。結局のところ同じ墓にも入れなければ、何も成すことはできない。
どんなに注がれたところで枯れて褪せて、砂のように消えてくだけだ。残るものは何もない。
「月島ァ、置いてかんでくれ——おいを独りにせんでくれ」
すっかり白髪になった愛しい人は涙をいっぱいに溜めて月島の骨のような指に縋った。鯉登の指先は土で薄汚れてかさついていた。一度は閣下にまでなった御仁だというのに、一つの大敗で鯉登は何もかも無くしてしまった。
——せめて自分が女であったら。いや、せめて奥方をとっていたら。残せたものもあっただろうに。
月島は幸せだった。不幸な生い立ちからは想像がつかないほどに晩年は幸福だった。それでも、鯉登に残せるものは何もない。いや、鯉登は残せたはずなのに、その機会を全て月島が奪ってしまった。例えそれが鯉登自身の望んだことだとしても、月島はそれがもったいなくて仕方なかった。
いよいよ鯉登の泣きそうな声も聞こえなくなって、月島は白む意識のなか強く思った。
次の世でもし、この人に会うことがあればその時は絶対に関わらないでおこう。
きっとこの人のことだから、自分を見つけたらまた悪食をしてしまうかもしれない。月島月島とまた幼児のように自分についてきてしまうかもしれない。
その姿が目の裏に容易に浮かんで、月島は思わず笑ってしまう。
——ああ、もう本当に。悪趣味で仕様がなくて、愛しい御人だった。