「これが新しい品種で作ってみた果実酒。この雨季に漬けたばかりだからまだ熟成が足りないけどこれはこれでさっぱりしてて良いな。こっちは海の木の実。綺麗な波の色だろう? 少し甘過ぎるかもしれないが癖の強い蒸留酒を割って飲むとなかなか美味いんだ」
前触れもなく城を訪れたフィガロが次々と取り出す南の国の土産物をオズは眉ひとつ動かさずに眺めていた。北の国の風景そのものをアミュレットとして持ち歩くほどフィガロが生まれ故郷の北の地を離れることは多く、さまざまな土地を一時的な住処として渡り歩いてきた男だった。
この男が南の国を開拓に手を貸し始めてからは夏の暑さに耐え兼ねて、と城を訪うことが増えた。何かの実験でもしているのか、自然豊かな沼地で栽培した果物や魚、酒を携えてふらりと訪れる。毎年決まってということもない。双子たちが住む氷の街に寄ることもあったのだろう。雪積もる景色を眺めては『北の国に帰ってきた』と感慨深く吐き出した声に乗った鮮やかな喜色をよく覚えていた。
ただ近頃は夏の湿気を口実にしていた所為か、冬の最中に顔を見せるのは珍しかった。この季節は羊飼いも山を下りている。暇を潰す当ては幾らでもあるはずだった。
「見ろよこれ、双子鳥がすごく大きくなっちゃってさ、卵も倍くらいの大きさなんだ。双子先生ならオムレツにしたがるかな。そうだ、前に落とし卵をパンに乗せたレシピを教えて貰って、あれ固茹でにしたのが結構好きでさ。ああ、それは診察のお礼にって村の人から貰って……」
フィガロが饒舌なのは今に始まったことではない。賑やかで世話焼きで人間の営みを好み、長い時を生きながら時代に合わせ表情を変え、時代に溶け込むのが上手かった。
酒瓶を握る指先の白さにオズが目を留めると同時に、取りとめのないお喋りが止む。
「……なあ、オズ」
今夜チレッタが二人目の子を産むのだと、フィガロはそう言って満月に僅かに足りない月を背にして微かに笑った。
「朝まで俺を帰さないで」
何を、と問うようにオズがゆっくりと瞬く。ただ一言すら発さない唇にフィガロは今度こそはっきりと苦笑した。
「邪魔するなって追い出されたんだよ」
とん、と指先が触れるとひとりでにコルクが抜けた。宙に浮いたグラスに注がれた酒を呷る眼差しは寂寥を帯び諦観に満ちていた。
「そりゃ反対はしたけど、チレッタが頑として譲らなかったんだ。これ以上俺に出来ることはない」
「予言の子か。おまえは堕ろせと言ったのだろう」
「それはもう謝ったって。物凄く怒られたからな。ナイフもフライパンも飛んで来て……ああ、あの魔道具も、ミスラにあげたってさ」
水晶の髑髏を掲げて温厚な南の魔女は無理があると新婚の彼女を揶揄ったのはほんの数年前だ。すっかり南の穏やかな風土に染まった彼女が、最期まで手放さなかった魔道具。
「悔いがあるのか」
「いや、ちゃんと仲直りした。別れも済ませてきた。今夜、俺はいない方がいいだろうって話して、それで」
俯いたフィガロの頭がオズの肩口に押し当てられる。柔い髪の感触が鼻先を擽った。
「……邪魔を、しそうだからここに来た」
温度を失くした指先は微かに震えていた。熱を分け与えるように掌で包み込み、それでは足りず唇に押し当てる。顔を上げたフィガロの瞳が真っ直ぐにオズを捉えた。
「……違ったか」
違わない、と呟いた唇を触れ合わせる。閉じた目蓋を再び開けた時には寝室に転移していた。
「ん、……ぅ、」
啄むような口付けは繰り返すうちに深くなり、頬に触れた掌が耳や首筋を撫でる。そういう誘いで間違いはなかったがもっと性急に、酷くされたってよかった。こんなにも丁寧に触れてくるとは思わずに狼狽える。
南の国には似合わないからと随分と軽装になったシャツの釦が一つずつ外される。夜は長い。朝は遠い。急に落ち着かなくなって目を逸らした。
「オズ。……やっぱり、止めよう。悪かった、帰るよ」
肩を押し退けて上体を起こす。乱れた服をかき寄せて立ち上がろうとする。その手をオズが掴んだ。
「おまえが、帰すなと」
「俺が帰らないとチレッタが死ぬだろ」
何を言い出すのか、と惑うようにオズの瞳が揺れる。もう出来ることはないと、確かにそう言った口がまるで操られたかのように正反対の言葉を口走る。
「医者なんだよ。南で、医者やってるんだ。ルチルだって、俺が取り上げた。放してくれ、帰る。チレッタが、」
「戻って何をするつもりだ」
何って命を救うんだ。彼女が選んだ運命を捻じ曲げてまだ産まれる前の腹の子の息を止めて、彼女が――彼女がミチルと名付けた、子を。この手で。彼女の運命を。
「北の、……北の大魔女がそのような憐憫を望むか」
彼女はもう南の魔法使いだ、と反論しようとして躊躇う。何が所属する国を決めるのだろう。生まれだろうか、住んだ年数だろうか、精霊の加護か。月に選ばれでもしない限りはその土地の魔法使いだとは言い切れない。
オズは彼女を北の大魔女と称した。葉巻の甘い香りを纏い北の極夜を切り裂くように駆けた金の閃光。大食いで悪食で何でも消し炭にしていた彼女が恋をして、朝から子供に卵を茹でる母になる日が来るとは千年前は考えもしなかった。
「知らなかったな。おまえ、チレッタのこと結構好きだったんだ」
「……おまえの方が、好きだろう」
低く、思い詰めたような声音がすとんと胸に落ちる。真実を言い当てられたようで、逸らした瞳を静かに閉じた。
誇り高き魔女を看取るのは幼い息子ひとりでいいと彼女が決めた。弟子にも許さなかった。出来ることは何もない。
「帰すな、と……」
オズがそう繰り返す。帰さないと言える男ではないことはよく知っていた。
「朝になれば、南まで送る」
チレッタは今夜石になる。その石は誰も食べない。彼女が最期に選んだ土地は南の国だからだ。
***
「診療所か」
「いや、雲の街で」
雲の街はチレッタが住むと決めた街だった。診療所がある湖の側の集落とは少しばかり離れている。南では魔法使いが重宝されるから適度に住処が分かれていた方が都合がいいとフィガロから頼んで移住して貰った魔法使いは彼女だけではない。まだ北暮らしの癖が抜けなくて『縄張りが離れているのはいいね』とお互いに笑っていた。
「ここでいい。世話になったな」
「……ああ」
「うん」
言葉通り南の国まで転移魔法で送り届けたオズを見送る。岩山の合間に草原が広がり、小さな家々が立ち並ぶ穏やかな景色とは不釣り合いな男は振り返りもせず姿を消した。
「……おまえの方が、好きだって」
雲の隙間から朝の陽の光が覗く。南の国は冬の風の冷たささえ優しかった。
「そりゃ俺の方が好きに決まってるだろ。オズなんか戯れに千年口説かれてただけじゃないか。チレッタにミスラ以上に好きな男が出来るなんて誰も思っていなかったよ。俺が南で暮らさないかって誘って、それで出逢って結婚してルチルが生まれて、俺の方がずっと、チレッタと親しかった」
長く生きて来て、死に分かれるのは慣れたつもりだったが同じく長命の魔女の最期は少しばかり堪えるものがあった。
「そんなわかりきったこと言うなんて、オズもどうかしてたのかな」
おかしな夜だった。旧い魔法使いの命と引き換えに新しい魔法使いが産まれる。朝が来ても陽が昇らない極夜の中で、大きな大きな月だけがそれを祝福していた。病の沼の奇妙な土壌の双子鳥でもないのに昨夜の月は一際大きく、神秘的に輝いていた。そんな運命の夜だった。
End.