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    オートクチュールシリーズ4作目。書けたところまで!
    日和とジュンがちょっとギスギスしますがハッピーエンドです。
    凪砂、夏目、つむぎが出ます。

    オートクチュール・マリッジ 1~2/ひよジュン   1

     テーブルランプの照明を受けて、薬指のプラチナリングがつやりと輝いた。
     日和の部屋、クイーンサイズのベッドに足を投げ出したジュンは、静かな光沢を放つそれをぼうっと眺めていた。三ヶ月前――去年のクリスマス頃に、日和から「プロポーズの予約だね」という言葉とともに渡された大切な贈り物である。
     愛しい人からのプレゼントではあるが、ジュンはいまだに実感がわかなかった。薬指を甘く締めつける金属は、むずむずするようで形容しがたい、曖昧なかたちをしたジュンの心までは捉えきれていない。
    「そもそも、プロポーズの予約って何なんすか」
     おかしくって、ふはっと吐息のような笑い声が漏れる。エンゲージリングはプロポーズの言葉とともに渡すものだ。順番がごちゃごちゃになっているところを見るに、日和もいっぱいいっぱいだったのかもしれない。
    (というか、プロポーズの予約ってことは、ちゃんとプロポーズ本番もしてくれるってことっすよねぇ? でもあれ以来何も言ってこないんだよなぁ、おひいさん)
     ジュンは唇を尖らせてリングをじっと見つめる。そうしたところで、指輪が答えを示してくれるわけでもないのに。
     ジュンには三つの悩みがある。ひとつは、日和から「ちゃんとしたプロポーズは改めて」と宣告されたものの、三ヶ月経ったが何もアクションがないことだ。
    (まあ、色々準備とかおひいさんの心構えとかもあるだろうし、ここ最近は引っ越しとかで忙しかったし……)
     不安を誤魔化すように、ジュンは色々な可能性を考える。「都合のいい夢でも見たんですかねぇ」と嘆息するたび、薬指に大人しく収まっているリングを触って「いや、夢じゃない」と確認した。すっかり心の拠り所になっている。
     うんうん唸りながらベッドの上をゴロゴロ転がっていると、パジャマを着た日和が顔を出した。
    「ジュンくん、もう寝た?」
    「ひぇっ! お、おひいさん」
     ビクッと肩を跳ねさせたジュンに、日和は目を瞬かせる。
    「ああ、起きていたね。どうしたの?」
     ごろごろしていたけれどお腹でも痛いの、とベッドに歩み寄ってきた彼は首を傾げる。ジュンは笑って誤魔化した。
    「いえ、なんでも。あったまりました、って……」
     よくよく見れば、日和の血色のいい頬には濡れた髪が張りついている。グリーンブロンドはいつもよりも色を濃くして潤んでおり、ジュンは顔をしかめた。
    「春先とはいえ、ちゃんと乾かさないと風邪ひきますよ」
    「ジュンくんにやってもらおうと思って」
     日和はニコッと笑って、ジュンにドライヤーを差し出した。
    「ったく、髪くらい自分で乾かしてくださいよぉ」
     文句を言いつつベッドから降りて、日和からドライヤーを受け取る。ドレッサーのスツールに腰掛けた彼の後ろに立って、少し離したところから温風を当てた。
     日和の柔らかい猫毛は、するすると指を招き入れてくれる。何だかんだ言いつつもジュンは彼の髪を乾かすのが好きだ。日和にお願いされるのも悪い気はしないし、無防備な後頭部を見下ろせるのが信頼されているように思えて嬉しい。ジュンは基本的に世話好きなのだ。
    「髪、結構伸びましたねぇ。次の休みあたりにカット行きます?」
     そう尋ねるが、日和からの返事はなかった。頭がこく、こくと縦に小さく揺れたので、ジュンはスイッチを切って彼の顔を覗き込んだ。
    「おひいさん?」
    「ん……ああ、ごめん。うとうとしちゃった」
     は、と小さく息を吐いた日和のまぶたは、半分くらい下がっていた。
    「ジュンくんの手、気持ちよくって。もう終わった?」
    「光栄ですねぇ。もうちょっと我慢してくださいね」
     とろんとした声に小さく笑い、ジュンは再びドライヤーをオンにした。この調子だと今日もお預けかな、とちょっぴり残念な気持ちを抱きながら。
     二つ目の悩み――それはここ数日、日和がこの調子なのでセックスできないことだ。理由は単純で、仕事が忙しくて時間や気力がないからである。
     アパレル業界では三月と四月が春の繁忙期にあたる。新年度でテーラードジャケットを買い求める客がひっきりなしに訪れており、ここ数日は残業が増えていた。凪砂も日和のサポートで慌ただしく動いているし、コンサルタント会社の代表である茨は、新年度を迎える準備でそれ以上に忙しい。最近はほとんど顔を見なくなっている。
    「明日も朝からサロンでお仕立てだね。ビスポークのオーダーが立て続けに入っちゃって……ああ、そういえば今年の四月も巽くんが手伝いに来てくれることになったね」
    「たつみさん? どなたですか?」
     ドライヤーをオフにしてデスクに置くと、日和の肩をさすった。終わりましたの合図に、日和はンッと背伸びをした。
    「高校時代の友人。ご実家が教会なんだけれど、毎年この時期にアルバイトとして店を手伝いに来てくれるんだよね。今回は知り合いの服飾専門学校生も来てくれるんだって」
    「へえ、学生さんも来てくれるんすね。接客も?」
    「巽くんは接客に入ってくれて、学生くんたちは裏方メインだね。洋裁に関しては詳しいだろうし、サロンのお手伝いにも入ってもらうかも」
     日和は大きなあくびをして、スツールから立ち上がった。
    「さて、もう寝ようか」
     おいで。ベッドに移動した日和がジュンに囁く。ジュンはひそかに胸を高鳴らせながら、彼の隣に身体を滑り込ませた。
     そして、日和の手が伸びてきて――ジュンの頭をぽんぽんと撫でると、すぐに離れていった。
     ああ、やっぱり今日も「ない」のか。
     いつもはぎゅっと抱きしめてくれるのに、その気力もないらしい。彼は今にも寝落ちそうな顔でふにゃりと笑っている。
    「ジュンくんは明日お休みだっけ、ゆっくりするといいね」
    「すみません、おひいさんたち忙しいのに。何かあったら呼んでください」
    「ううん、オンオフはきちんとメリハリをつけるべきだからしっかり休むこと。ぼくたちを気遣う必要はないね。ゆっくり羽を伸ばしておいで」
    「……はい」
     頷いたジュンを見届けると、日和は掛け布団を肩まで引き上げた。
    「おやすみ、ジュンくん」
    「……おやすみなさい」
     照明が落ちて、部屋が暗闇に包まれる。ジュンは日和のほうに身体を向けたまま、じっと目を開いていた。
    (……おひいさん、指輪つけてなかったな)
     伸びてきた左手にリングは嵌められていなかった。日和は仕立てで高級かつ繊細な生地を扱うので、指ぬき以外の金属は基本的に手に付けない。
     出かけるときはつけてくれるし、普段はそこにあるドレッサーの引き出しに大切に仕舞われていることは、ジュンも知っている。
     納得できる理由はちゃんとあるのに、それをちゃんと受け入れていたのに。ここ最近は、もやもやしてしょうがない。
    (こんなに気にしてるの、オレだけなのかな)
     きゅう、と親指を握りこむ。
     ジュンの三つ目の悩み。彼との結婚を意識するようになってから、些細なことで気落ちするようになった。
     日和がどこまでジュンとの将来を描いているのかが不明瞭なのだ。彼は大切なことほど言葉にしてくれない。
     同性婚ができない日本でどうやって結婚するというのか。海外に移住するつもりなのか。それとも、そこまで本格的なものじゃなくて、形として指輪を交換するだけ、あるいはパートナーシップを結ぶだけのつもりなのか。
     中途半端に将来への期待を持たせる日和に、最近は苛立ちさえ覚える始末だ。これはさすがに八つ当たりだと思っているのでジュンも彼には伝えていない。仕事が忙しくてそれどころでもないし。
     それでも、もう少し。もう少しだけでいいから、オレのことを気にかけてほしい。
     寂しいと思う気持ちや、将来を不安に思いぐちゃぐちゃになる感情が抑えられない。
     これが、マリッジブルーというものなのだろうか。
    (……はあ。もう寝よ)
     ごちゃごちゃと一人で考え込んでも埒が明かない。恨みがましく見つめる先の暗闇からは、いつの間にかスウスウと健やかな寝息が聞こえてくる。おひいさんの薄情者。
     ジュンは頭まで布団を被り、まぶたを閉じた。

      

       2

     休日休暇は持ち回りなので、店休日にでもしない限りジュンと日和の休みが被ることはない。最後にオフが重なったのは正月休みで、もうずいぶんと前のことだ。
    「ありがとうございました。また来ます」
     ジュンは店員に頭を下げ、店から外に出た。
     三月も末だし、気晴らしにスニーカーを新調しよう。そう思って街に繰り出し、何軒か靴屋を見て回ったが、ジュンの心を動かす逸品にはなかなか出会えなかった。
    (なぁんか、気分が乗らないんすよねぇ……)
     というより、昨晩のことを引きずっていて靴を選ぶ気持ちになれない。今日はこのまま街をぶらついて、帰りにスーパーで食料や日用品の買い物をして終わりそうだ。
     鬱屈とした気持ちが晴れないまま、ジュンは当て所なく街を彷徨った。大通りに交差する細い道の前を通りがかったところで、ふと言い争う声が聞こえてきた。
    「先に吹っかけてきたのはそっちでショ!」
    「胡散臭い商売してんじゃねぇよ、目障りなんだよ!」
    「別にお前らには関係ないだロ!」
     若い男たちが何やら喧嘩をしているらしい。路地を覗き込むと、大学生らしき三人の不良が、黒いフードを被った小柄な人物に絡んでいた。声から察するに少年だろうか。
    「アンタたち何やってんすか! 警察呼びますよ!」
     ジュンが声を張り上げると、不良たちがギクリと身体を強張らせる。通行人も「なに、警察?」「ケンカだって」とジュンの後ろから路地を覗き込んだ。
    「チッ、人が集まってきやがった」
    「スカしてんじゃねーぞ!」
     去り際に不良の一人が肩をぶつけてきたが、ジュンはそこそこ鍛えているので、相手は反動をくらってよろけた。悔しそうに去っていく不良に構わず、ジュンはフードの人物に歩み寄る。
    「大丈夫ですか」
    「うン、ありがとウ」
     そう言って、少年は被っていたフードを取り去った。銀色のメッシュが入った鮮烈な赤い髪の、ミステリアスな美青年だ。不良たちの背丈が高かったので小柄に見えたが案外そうでもなかった。ひょっとしたら自分より年上かもしれない。
     青年は薄い唇に笑みを浮かべた。
    「助かったから是非お礼をさせてくれなイ? 借りを作ったままなのは性に合わないんダ」
    「そんな、借りだなんて。たまたま通りがかっただけですよぉ」
    「たまたま通りがかった人間は他にもたくさん居たけれド、助けようとして動いてくれたのはキミだけだっタ。そこにボクは敬意を表したいんだヨ」
     特徴的な話し方をする青年は、傍にあった椅子に座った。黒い布が被せられた小さなテーブルには水晶玉が鎮座しており、ちょっぴり、いやかなり怪しい。
    「占い……ですか?」
    「うン。どうぞ座っテ。そんなに警戒しなくても取って食ったりしないヨ。キミは、こういうのは初めてかナ」
     青年に椅子を勧められ、ジュンはぺこりと会釈して腰掛けた。何だか落ち着かなくて、左手の薬指を触った。
    「はい。えっと、でもオレ、そんなに持ち合わせがなくて」
    「真面目だネ、お礼なんだからお代は結構だヨ。そうだネ――」
     青年は目を伏せ、じっと水晶玉を見つめる。それからジュンを見据えた。
    「キミは今、結婚についての悩みを抱えていル。マリッジブルーというやつダ」
    「え……」
     ジュンはぽかんと口を開く。まさにそうだったからだ。
     占い師の青年はゆるりと目を細めた。そうして、ゆっくりと語りかけるように言葉をつむぐ。
    「キミは、恋人と歩む未来に不安を抱えている。本当に、このまま相手と結婚してもいいのか。本当に自分は……そして相手は、自分と結ばれて幸せになれるのか……」
     そう、まったくその通りだ。日和のことは愛しているが、本当に幸せになれるのだろうか? エンゲージリングを贈られて舞い上がっていたが、将来の幸福が約束されたわけじゃない。そして自分だけじゃなくて、日和にとっても本当に幸せなのか――
    「……っ」
     思考の渦に吸い込まれる。心の中にある日和への愛情が、複雑に形を変える。ふわふわとして定まらない。
     俯いたジュンが下唇を噛んだ、その時。
     ぽん、と肩を叩かれる感覚で、ジュンは我に返った。
    「……心理学用語で、バーナム効果って言ってね」
    「!」
     占い師の眉間にしわが寄った。
    「一般的に言われている事象を、さも自分だけに当てはまることのように思い込んでしまう。そういうものだよ、ジュン」
     名前を呼ばれ、慌てて背後を振り仰ぐ。そこに立っていたのは凪砂で、ジュンは面食らった。
    「ナギ先輩? どうしてここに……店は?」
    「今日は買い付けの用事があって、移動していたところ。そうしたらジュンの姿が見えたから、何をしているのか気になって。邪魔をするつもりはなかったのだけれど」
     凪砂はジュンの肩に手を置いたまま、視線を青年に向けた。
    「相手は夏目くんだったんだね。久しぶり」
     その言葉に、ジュンは目を丸くした。
    「お知り合いなんすか?」
    「うん。大学のとき所属していた劇団サークルの後輩」
    「……『fine』。またボクたちの邪魔をするつもりなノ」
     夏目と呼ばれた占い師の青年が、苛烈な憎悪を滲ませた目で凪砂を睨み上げる。ジュンは二人を交互に見た。
    「ふぃーね……?」
    「英智くんが大学時代に立ち上げた、小さな会社の名前だよ。今は彼が手掛ける紅茶ブランドの名前になっているようだけれど」
     凪砂の手がそっと離れる。
    「君はまだ占い師を続けているんだね」
    「悪イ? 職業差別だなんてキミはいつの時代の人間かナ」
    「別に差別しているつもりはないのだけれど。私は君の観察眼――ジュンの薬指を見て、最初に婚礼への不安を言い当てた慧眼を評価しているよ」
    「相変わらず偉そうにものを言うネ」
     夏目に舌打ちされ、凪砂は不思議そうに首を傾げた。彼からジュンに視線を移した夏目は目を眇める。
    「キミ、乱センパイの知り合いだったノ」
    「ええとまあ、そうです。知り合いというか」
    「この子は会社の後輩で、日和くんの婚約者なんだ」
    「ちょ、ナギ先輩! 皆まで言わなくても……!」
     顔を赤くしたジュンに、夏目は舌を出した。
    「うげ、よりにもよって相手は巴センパイ? キミも大概、趣味が悪いネ」
     呆れたように言って夏目は立ち上がった。そして彼に腕を掴まれて、上に引っ張られる。
     すとんと素直に立ち上がったジュンは目を丸くした。何だか身体が軽くなったような、不思議な感じだ。
    「えっと……?」
    「興が削がれたから、今日はもう帰っテ。さっきのお礼に一言だけアドバイスをするなラ――」
     夏目はジュンの鼻先に、ピシッと指を突き付けた。
    「占うまでもないネ。あの人が恋人なら、キミはもっと自分に素直になったほうが良イ。言いたいことをちゃんと言わないと、あの傍若無人に一生振り回されて終わるヨ」
    「うっ……」
     夏目の言葉は心の深いところに刺さった。しかし、こうまで恋人を悪く言われては黙っていられない。
    「た、確かにおひいさんは自分勝手ですけど、でも愛情深いひとです。今は忙しいから、ちゃんと話せないだけで……」
    「キミたちの事情なんて知らないヨ。でも、忙しさを理由に対話を試みないのは怠慢ダ。人間、いくら愛し合っていても言葉を交わさずには理解し合えないんだかラ」
    「あう……」
     一蹴された。そして、夏目の言うことは確かにその通りだ。
     凪砂は一歩離れたところから静かにジュンを見守っている。顔を見れば、穏やかな微笑を浮かべていた。
     日和を一番近いところから見守ってきた彼のその表情は、ジュンの背中を押してくれているような気がした。
    「……そう、ですね。有難うございます。ちゃんと話し合ってみます」
    「ふん」
     夏目はしっしと追い払うように手を振った。冷たいのか優しいのか分からない人だ。ジュンはぺこりと頭を下げると、凪砂とともに歩き出した。
     薄桃色の桜の花びらが、石畳の上をぱらぱらと走り抜けていく。顔を照らす夕日はあたたかい。
    「じゃあ、私はこの後もお客さんと打ち合わせがあるから。……日和くんと、話ができるといいね」
     凪砂にぽんぽんと頭を撫でられ、ジュンはこくりと頷く。凪砂は満足そうに微笑むと、手を振って人ごみの中に消えた。
    (そうですよね。オレたちは、ちゃんと話し合うことが大切だ)
     去年の冬、日和の家のことや大学時代のことを少し話してもらったのを思い出す。あの時も色々悩んでいたっけ。
     知りたいと思うのなら、知るための行動を起こすことが必要だ。悩むばかりでは、待っているばかりでは何も変わらないのだから。
     ジュンはポケットからスマホを取り出した。時間を確認すると、十八時を過ぎたところだった。
     日和の好物を売っている店はまだ開いているだろうか。ジュンは検索アプリをタップして、テキストボックスに「キッシュ」と打ち込んだ。

       *

     一時間後。ケーキ箱を抱えたジュンは、サロンのドアの前でひとつ深呼吸をした。
     ブティックはとっくに閉店しているが、日和はまだ家に戻っていなかった。サロンの明かりがついていたので、今日も残って仕事をしているようだ。
     手土産は準備した。休憩しませんかと声を掛けて、応接スペースに紅茶を用意して、空気が和んだところで話を切り出す。よし。
     ジュンはパチンとほっぺたを叩いて気合いを入れる。それから、三回ノックした。
    「おひいさん、お疲れ様です」
    「ジュンくん⁉」
     中から驚いた声が聞こえてジュンは面食らう。自分がここに来るのがそんなに意外だろうか?
    「お仕事中失礼します。えっと、差し入れを持ってきました。開けても大丈夫ですか?」
    「待って!」
     日和の鋭い声に重ねて、中から「わあ」と知らない声がした。お客さんがいたのかと、ジュンは慌てた。
    「あっ、し、失礼しました! お客様がいらして……」
     そう言って引き下がろうとしたときだった。ガチャリと音がして、人ひとり分の隙間が空いた。
    「すみません。日和くん、今ちょっと手が離せなくって」
     中から現れたのは、ふわふわの癖毛を後ろで結わえた穏やかな美青年だった。フチのあるメガネをかけていて、レンズの奥のオリーブ色の双眸が、申し訳なさそうに撓む。
     日和を親しげに呼ぶ青年に、ジュンは首を傾げる。
    「おひいさ……オーナーのお知り合いですか?」
    「そうですね、知り合いというか……」
     微笑んだ青年が言いかけたところで、がくんと頭が揺れて中に消えた。ジュンは目を白黒させる。
    「わあ!」
    「つむぎくんってば、勝手に開けないで!」
    「いたた……もう、首根っこを引っ張るのは止めてくださいよ~」
     奥から聞こえた文句を他所に、日和が顔を出した。恋人の顔を見て安心したのも束の間、ふと視線を下げたジュンは息を呑んだ。
     日和の着衣が乱れていた。いつもなら第一ボタンまできっちり留められているワイシャツは胸元まで肌蹴ており、ジレのボタンも外されている。おまけにシャツの裾から覗くバックルが外れて、ベルトの先端が腰でゆらゆらと揺れていた。
     明らかに一度脱衣をして、慌てて着なおした様子だった。
    「え……?」
     ぽかんと口を開けるジュンに、日和はニコッと笑顔を貼りつけた。
    「ジュンくん? どうしたの、今日はお休みだよね」
    「え? あ、えっと、差し入れを、持ってきたんですけど」
    「ああ……お気遣いは嬉しいけれど、大丈夫だね。まだしばらく手が離せないから、あとでいただいてもいいかな」
     日和はどこか焦っているように見えた。早く出ていけという雰囲気が滲み出ている。
     ジュンは気圧され、一歩足を引いた。
    「――す、みません。これ、部屋に持って上がっときますね」
    「うん。そうしてもらえると嬉しいね。晩ご飯までには戻るから」
     それだけ言うと、日和はすぐ中に戻っていった。しかもガチャリと鍵までかけてしまった。
    「……は?」
     ――いや。
     いやいやいや。どういうことだ?
     ジュンはふらふらと歩きだした。脳内は大混乱なのに、一年通った家への帰り道は身体がきちんと覚えている。エレベーターを使ってあっという間に玄関に辿り着き、いつものように鍵を開けて中に入った。
     靴を履いたまま、ジュンは立ち尽くす。
    (……マジでどういうことだ?)
     つむぎと呼ばれた青年が服を脱いでいたのなら、客として採寸をしていたのだと分かる。ここは服を仕立てるサロンなのだから。
     しかし。
    (何でおひいさんが服を脱いで……?)
     しかもズボンまで脱いでいた様子も見受けられた。ここで仕立てるのはジャケットであって、下まで脱ぐ必要はないはずだ。
     ならば何故、日和はあの青年と二人きりの空間で服を脱いでいたのか。青年が言いかけた、「そうですね、知り合いというか」に続く言葉は何だったのか。そして何故、日和はジュンを見てあんなに焦っていたのか。
    (――どう見ても浮気、だよな?)
     シンプルな二文字が脳内に浮かぶ。何だかもう、それしか考えられなかった。
     日和が浮気している。
     自分の店で、ジュンと二人で暮らしている部屋の階下で、堂々と。信じられないが、見てしまったものはしょうがない。
     ――いや、しょうがないわけがない。オレは、おひいさんの恋人だ。
    「……ふざけんなよ」
     ふつふつと怒りがわいた。晩御飯までには戻るって、じゃあそれまではあの人と続きをするってことか? オレがここにいるのに? どれだけ面の皮が厚いんだ?
     ジュンは拳を握った。今すぐ戻って、サロンのドアを叩いて、どういうことか説明しろって言うべきなんだ。自分にはきっとその権利がある。
     しかし、ジュンの怒りは長続きしなかった。燃え上がった火はすぐに小さくなって、代わりにやってきたのは途方もない虚脱感と、悲しみだった。
     どうして。オレのことを好きって言ったじゃないですか。
     プロポーズの予約だって、指輪をくれたんじゃないんですか。
     ジュンは薬指を見た。上品なプラチナリングが、相変わらず無垢な輝きを放っている。
    (……分かんないですよ。アンタが何を考えてんのか)
     ――あの傍若無人に、一生振り回されて終わるよ。
     夏目の言葉が脳内に響いた。確かに日和はわがままなところがあって、気分屋で、ジュンの気持ちなどお構いなしにジュンを振り回す。それに対してまったく悪気はない。
     それでいいと思ったんだ。そういうところをひっくるめて、日和のことが好きになったんだから。
    (……そうだ。分からないから、話をしようとしたんだった)
     冷めきってしまったキッシュは、そのために買ってきたんだろう。
     日和の説明を待とう。浮気だと決めつけるのは早合点だ。オレの勘違いで、何かのっぴきならない理由があるのかもしれない。
     日和を信じたい。ジュンがそう考えなおしてグッと顔を上げたところで、外からパタパタと音がした。
    「――ジュンくん!」
     背後のドアがガチャリと開いて、日和が駆け込んできた。振り返る前に後ろから抱きしめられ、ジュンはたたらを踏む。
    「わっ⁉ お、おひいさん?」
    「さっきはごめんね、気が動転しちゃって……突き放すようなことをしちゃったって、あれじゃ誤解されますよって、つむぎくんに言われて」
     ああ、やっぱり。オレの勘違いだった。ジュンは泣きそうなほど安心した。笑って、背後から回された日和の腕をぽんぽんと叩く。
    「おひいさん、大丈夫だからとりあえず落ち着いて。中に入りましょ」
     振り返ると、眉を八の字に下げた日和が腕を上げたまま佇んでいた。
    「ええと。途中で抜け出してきたから、まだ戻れないの」
    「そうなんですね。あの人はお客さんですか?」
     靴を脱いで、日和と正面から向き合う。彼は首を振った。
    「ううん。ぼくの大学時代の友人だね」
    「つむぎさん、って言ってましたよね。おひいさんの服、乱れてましたけど……あの人と何をしてたんですか」
     緊張して、語尾に変な力がこもってしまった。でも、きっと日和はそんなジュンを否定してくれる。綺麗な紫の目を丸くして、「なぁに、まさか浮気を疑っているのかね? おかしなジュンくん!」って、笑い飛ばして――
    「……言えないね」
     笑い飛ばして、欲しかったのに。
     ジュンの表情が固まった。
    「……どうして」
    「どうしても。でも、これだけは分かって。ぼくたちは疚しいことはしていないし、ぼくが愛しているのはジュンくんだね」
     そう言って伸びてきた手。咄嗟に、それを払いのけた。
     日和が息を呑む気配がしたが、ジュンは顔を上げられなかった。
    「なんで……何で言えないんですか。何もないなら、教えてくれたって良いじゃないですか」
    「ジュンくん」
    「アンタ、いつもそうだ。肝心なことほど説明してくれないですよね。何も知らないまま振り回されるオレの気持ち、考えたことあるんですか」
     震える声は縋りつくように響く。しかし日和は首を振った。
    「ごめんね。でも本当に、今は言えないの。お願いだから聞き分けて」
     日和に拒まれた。それどころか、まるで自分がわがままを、間違ったことを言っているような口ぶりで諭された。
     ジュンの心がシンと凪いだ。
    「――分かりました」
     思ったよりも低い声が出た。踵を返して、日和に背中を向ける。
     これ以上、彼の顔を見たくなかった。
    「オレ、今日からしばらく自分の部屋で寝ます」
    「ジュンく」
    「明日早いので、先にメシ食って寝ます。つむぎサンと何してるのか知りませんけど、ほどほどにしてくださいよぉ」
    「ちょっと、ジュンくん!」
     日和に呼び止められたが無視した。キッシュをダイニングテーブルに置いて、シンと冷えた自室に入り、ドアを閉める。
     言葉にできない感情が腹の底に渦巻いていて、でもそれはびっくりするぐらい静かだった。まるでブラックホールが現れたようだ。
     ジュンは左手を見下ろした。そして、薬指に嵌められたリングをつまみ、指から引き抜く。
     リングを握った右手を、振りかぶった。
    「……ッ」
     床に叩きつけてやろうと思った。けれども出来なかった。
     だってそれは、日和からもらった愛の証だ。それを蔑ろになんて出来ない。
     ジュンはどうしたって、日和のことが好きだった。
    「クソ……!」
     視界が滲む。おひいさんのばか。薄情者。
     壁際に置かれたデスクに指輪を置くと、ジュンはベッドに寝転がり、掛け布団を頭から被った。


    つづく
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