無彩の街に、花束を「カーシュって、母の日はおかあさんに何してあげるの?」
コルチャに借りた赤い船でテルミナに向かう途中で、横に並んで一緒にオールを漕いでいるセルジュが何気なく顔を覗き込んで聞いてきた。
こちらを見つめる海の色の青い大きな瞳が今日も愛らしい。
「あー…馴染みの花屋で適当に買って、それを渡すくれえだな。大概花屋のオバハンがいいやつ見繕ってくれるし、蛇骨祭の前は警備体制を整えるんで忙しいからよ」
「そうなんだあ。…ふふふ」
返答を受けたセルジュは何故か嬉しそうだ。
実際のところ、嘘ではない。幼い頃から家族ぐるみで世話になっている花屋が、巡回で立ち寄った際に「今年はこれがおすすめよ」と言いながら、頭を悩ませる暇もなく花束を包んでくれるのが毎年恒例になっている。実家に立ち寄ったついでに花でも渡しておけば、無事の便りにもなるというものだ。
——ただ、母の日なんざ二ヶ月以上も前に終わっているのに、何故今になって聞くんだ?
「でさあ。カーシュ、もうひとりおかあさんいるよね」
セルジュが話題にしているのは、別世界——セルジュが元々いた世界の方の母親のことだ。常に父親と強気で言い合っている『本当の』母親に比べると、息子が行方不明になったこと、父が営む鍛冶屋が閉店したこと、パレポリの圧政などが重なり、いつも不安そうな表情を浮かべている印象だった。『死海から帰ってきたカーシュ』を演じた時、滅多に涙を見せない母が大粒の涙を零しているのを見てなんとも言えない気分になった。
そのやりとりを横で見ていたセルジュは、以後あちらの世界に行ってはやたらテルミナに行きたがる。
「…まさかてめえ、『向こうのおふくろにも母の日の何かをやってやれ』、なんて言わねえよな?」
セルジュに問いかけると、返答の代わりに笑みを浮かべてきた。
パレポリの支配下に置かれたテルミナを闊歩するのは危険なのだが、セルジュはその辺りをあまり気にしていないようだ。
釘を刺してやらねば。
「あのなあ、悔しいが向こうの世界じゃ龍騎士団は行方不明ってことになってんだ。俺が頻繁に行き来してることでパレポリの奴らに見つかったら無事じゃ済まねえぞ」
「…でも、ふたりいるのに片方のおかあさんに何もしてあげないのはかわいそうだよ。もしも、こっちの世界にボクのかあさんが生きてたら、何かしてあげたいよ」
オールを漕ぐセルジュの顔は真剣だ。こちらの世界では、世界が分たれる原因となったセルジュが亡くなっているのは当然ながら、セルジュの母親も同じく亡くなっているとのことだ。
それを引き合いに出されては、何も言えなくなってしまう。
「…ちっ、しょうがねえな! もうすぐテルミナに着くから、そこで花買って向こうのおふくろにも渡しゃいいんだな!」
「うん、すてきだね!」
オールを漕ぐという重労働をこなしながら、満面の笑みで返答するセルジュ。…悔しいが、とても可愛い。この笑顔が見たくて色良い返事をしてしまった。
「塔へ行く手がかりがまだ見つからねえんだ、サクッと終わらせるぞ!」
暑さと照れで急激に赤みを増す顔を誤魔化したくて、オールを漕ぐスピードを早める。
「うん、わかった! やっぱり優しいね、カーシュ!」
「うるせえ、大人をからかうんじゃねえ!」
両親絡みのことはいじって良いと判断したのか、やたら嬉しそうに話しかけてくるセルジュ。
…それくらい気を許してくれたことが嬉しいのだが。
「おふくろ、これ…母の日にしちゃ遅くなっちまったけど、よかったら飾ってくれ」
数時間後。
もうひとりの母親へ。
テルミナで買った豪華な赤い花束を渡した。
あのあと、花屋の女店主に「母の日の要領でまた適当に見繕ってくれ」と頼んだところ、「今日は綺麗なのが残ってるからおまけしてあげるわよ!」と、やたら張り切った花束を作られてしまった。
少し季節が外れているため、夏の花が中心ではあるが見栄えのあるものが出来上がった。それを見てセルジュが「きっとおかあさんも喜ぶね」と無邪気に笑った。
そして、その豪華な花束を差し出された別世界の母親は案の定泣き出してしまった。
顔を覆って泣く母親の肩を、父親は優しく摩る。
「良かったなあ、おめえ。カーシュが無事に戻ってきただけじゃなくて、こんなに立派な花束までくれてよ」
「ほんとに…ほんとにねえ。大佐たちが行方知れずになってからのテルミナは、活気も彩りもなくてね。でも、あんたがこうしてくれるだけで、もうあたしは…」
「…」
別人のように優しい父親にも、言葉を詰まらせながら涙を流し続ける母親にも言葉が出てこなくなる。
…最近知ったことだが、もう片方の俺は死んだも同然らしい。
姿はあるのに触れることもできず、最後には死海ごと消滅したと聞いた。
向こうの世界の父親が初めてこちらの世界に来て俺を見たときに、感情を爆発させて喜んでいた。
——三年間、便りも寄越さないガキの帰りを待つ両親の心境は、そしてたとえ別世界の存在でも生きていると知れた時の心境は、如何程だったのだろうか。
「喜んでもらえてよかったね。ボクも嬉しい」
セルジュが、船を漕いでいる時から眠り続けているツマルを抱きしめながらそっと耳打ちする。
優しく耳を撫でる囁き声が心地良い。
この少年は、人の喜びを祝福できる。
そんな奴がそばにいると…自然と、こちらまで優しい気持ちになれるようだ。
もう少し親孝行してやろう。
自身が命を失ったことすら気づけていないであろう死海の俺の分も、
親孝行したくてもできない、小さなセルジュの分も。