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    hnyk5174

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    hnyk5174

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    文仙|現パロ|モデルパロ
    ※当内容にR18表現は含まれていませんが、発行物はR18になります。

    部数アンケートはこちら↓
    https://forms.gle/VSeJZJvqs89S1ikN6

    9月の新刊の一部先行公開です   序章  

     街路樹の葉が色づき始め、風に乗ってひらりと舞い上がる。つい先日まで少し動いただけで汗ばむほどの陽気だったのに、今では頬を撫でる風は冷たく、夏の終わりを実感する。
     日中はまだ半袖でも平気だが、日が傾き始めると上着がほしくなる、そんな季節の変わり目。
     空は高く澄み渡り、夕暮れの光がビルのガラスに反射して、街全体が紅葉したかのように黄金色に染まっていた。

     ────きゃーっ!

     突然、通りの向こうから黄色い悲鳴が上がった。何事かと驚いて振り返ると、視界に飛び込んできたのは、交差点の角に掲げられた巨大な街頭ポスターだった。
     スーツに身を包んだ痩身の男が、切れ長の目でこちらを見据えている。口許にはまるで見る者を挑発するようなわずかな笑み。白い肌と黒絹のような髪が、夕陽に照らされていっそう際立っていた。
     モデルの〝SEN〟────最近、どこへ行ってもその姿を目にする。

    「見て見て! あのSEN、ビジュよすぎじゃない」
    「やば、かっこよすぎ……!」

     スマートフォンを構え、夢中でシャッターを切る制服姿の少女たち。彼女たちの悲鳴にも似た笑い声が、秋の空に溶けていく。
     文次郎はその様子を一瞥し、思わず苦笑いを浮かべた。確かにきれいな顔立ちをしているとは思うけれど……と。
     少女たちの悲鳴に背を向けて駅へと向かい、ちょうどホームに滑り込んできた電車に乗り込む。休日の車内は混んでいて、空いている席はなかった。壁際の隙間に身を預けて、ふと顔を上げると、車内の吊り広告にもまた、SENの姿があった。今度はシャンプーの広告のようで、柔らかな笑みを浮かべている。先ほどの鋭い視線とは対照的な、甘くやさしい表情だった。
     まるで、別人のようだと思う。
     乗り換えを経て言えの最寄り駅に着く頃には、空は茜色と藍色を混ぜ合わせたような色をしていた。駅前の街灯がぽつぽつと灯り始め、住宅街へと続く道には、夕飯の支度の匂いが漂っている。
     文次郎の住むマンションは、駅から十五分ほど歩いた静かな住宅街の一角にある。駅からはやや離れているものの、毎日のちょっとした運動だと思えば苦にはならない距離だ。
     同じ大学の友人たちのほとんどは大学近くの学生向け物件に住んでいるが、文次郎が選んだのは大学から少し離れたこの部屋だった。
     学生向けの物件は家賃が安くて便利である反面、部屋は狭く、壁も薄い。ひとりで暮らすにはそれで十分だと思う。しかし大学に進学すると同時に家を出て、恋人とルームシェアという名目で二人で暮らすには、それでは些か手狭だった。
     少し広めで、静かな場所を選んだ結果、今のマンションになった。
     緩やかな勾配の坂を登り切った先に見えてくる、白いタイル張りのマンション。オートロックのエントランスを抜け、エレベーターに乗り込んだ。
     共有廊下を抜けた一番奥の部屋。鍵を開けて玄関の扉を開けると、自動で明かりがパッと灯る。行儀よく脱ぎ揃えられた靴が一足。淡い照明の下、整然とした玄関にその存在がぽつんと浮かび上がった。
    「なんだ、帰っているのか」
     そう呟きながら文次郎はその隣に靴を並べて脱ぎ、リビングの扉を開けた。
     まず視界に飛び込んできたのは、ソファから、にゅう、と伸びている二本の足だった。その足元には無造作に脱ぎ捨てられた服が散らばっていて、それを見た文次郎の眉間に反射的に皺が寄る。けれど、見慣れた光景であり、呆れはするものの、特段怒りはない。
    「……仙蔵、脱いだ服は畳むか洗濯機に入れろって何度言ったら分かるんだ」
     ため息混じりに言いながら服を拾い上げ、ソファを覗き込む。
     そこには雑誌を広げて仰向けに寝転ぶ男──仙蔵がいた。丈の長いTシャツに、ハーフパンツ。白く、男性にしては細い足が、無防備に晒されていた。
    「おかえり、文次郎」
     顔の前から雑誌をどけ、寝転んだままの姿勢で仙蔵は笑みを浮かべて言った。
     白い肌、切れ長の目、黒絹の髪──街頭ポスターに写っていたSENだった。しかし、気の抜けた服装と無防備な姿は、どう見ても写真の人間とは似ても似つかない。
     どうしてこれがあそこまで化けるのか。文次郎はいつもながら、不思議でならなかった。
     だが、写真を見て頬を染めていた女子高生たちの夢を壊してしまって申し訳ないけれど、残念ながらこれが本来の仙蔵の姿だ。美貌は本物だが、生活態度はかなりずぼらで、服装には無頓着。掃除は苦手で、食事にも無関心──放って置くと一、二食抜くのは当たり前で、空腹が限界になるとカップラーメンに手を伸ばす。
     文次郎からしてみれば、こっちの方が見慣れた姿なのだが。
    「そう言えばさっき、お前が写ったポスターを見かけたぞ」
     仙蔵の足を押しのけるようにしてソファに腰を下ろし、先ほど拾った服を畳む。
    「そんなもの見なくても、文次郎には本物がいるじゃないか」
     寝転がったまま仙蔵は不敵な笑みを浮かべ、誘うように文次郎へと手を伸ばした。こっちへ来いとでも言うように伸ばされた手。先ほどのあの女子高生たちが見たら悲鳴のひとつでも上げそうな笑みに、しかし文次郎は眉間に皺を寄せた。そんな文次郎の反応がおかしいのか、仙蔵はからからと笑う。
    「まだ手を洗っていない」
    「いいじゃないか、それくらい」
    「よくない」
     不服そうに唇を尖らせる仙蔵の胸に畳んだ服を押しつけると、文次郎は立ち上がった。そのままの足で洗面所へ向かう。
     背後から、ぺたぺたと足音を立てながらついてくる気配を感じながらも、それには気づかないふりをして手を洗う。しかしそれが気に入らなかったのか、次の瞬間、ぴたりと背中にぬくもりが触れた。顔を上げて鏡越しに仙蔵の顔を見やると、拗ねた子どものような表情をしている。
    「今朝は早くから撮影だったんだ」
    「知っている」
     朝に弱い仙蔵を叩き起こして送り出したのは、他でもない文次郎だ。
    「頑張ったんだ。ご褒美くらいあってもいいと思うんだが」
    「ご褒美、ねえ……」
     早起きをして世話を焼いたのは文次郎の方だ。不必要な早起きにつき合い、無駄な労力を強いられたのだから、むしろ褒美がほしいのは自分の方だと、文次郎は思う。
     そう思いながら文次郎は体を反転させ、仙蔵と向き合う。そして、口端に軽く唇を落とした。
     まあ、これくらいだろう、と。けれど、返ってきたのは不満げな表情だった。
    「……まさか、今ので終わりのつもりじゃないだろうな?」
    「そりゃあそうだ」
     仕事とはいえ、早起きをしただけでご褒美を強請るなんて図々しいにも程がある。
    「いやだ、もっと」
     子どものように駄々を捏ねる仙蔵が、今度は自ら文次郎の唇を塞いだ。食らいつくように重ねられた唇。そのままぬるりと舌が差し込まれた。体に回されていた腕はいつの間にか首に絡められる。ごく至近距離で向けられた挑発するような視線に、文次郎は拒絶することなく、むしろ自ら仙蔵の体を抱き上げると、そのままの足で寝室へと向かった。




       一章  


            1

     立花仙蔵がモデルの仕事を始めたのは、大学に入学してしばらく経った時だった。
     きっかけは、買い物に出かけた際にスカウトされた──なんてよくある、面白くもなんともない話で。モデルなんて微塵も興味のなかった仙蔵は、当然のように断った。しかしどうしても仙蔵を逃したくなかったその人は、頼みに頼んで、結局仙蔵の方が折れたのだ。
     最初は、有名雑誌の一ページだけだった。けれどその中性的な顔立ちと、どこか憂いを帯びた表情が目を惹き、たちまち話題となった。次は見開きに、その次は表紙を飾り、今では駅前の広告や、本屋やコンビニの雑誌コーナーでその姿を見かける。ほんの数ヶ月での出来事だ。
    「真新しいものに興味があるだけだろう。どうせすぐに落ち着く」
     これだけ話題になっても、当の本人はまるで他人事のように肩を竦めて言った。
     しかし初めこそ乗り気ではなかった仙蔵だが、一度やると決めたら中途半端なことはしない。自分の相貌が整っている自覚があり、どうすれば自分の魅力を最大限に伝えられるかも分かっている。
     仙蔵の言葉とは裏腹に、人気は落ち着くどころか、広まっていく一方だった。

    「しかしまあ、よく撮れてるよな」

     仙蔵の写真が掲載されている雑誌をぱらぱらと捲りながら、文次郎は心底感心したように言う。
     仕草も、角度も、表情も、何もかもが完璧で隙がない。普段傍にいる人間とはまるで別人だ。文次郎も仙蔵の容姿が整っている点においては同意だが、普段のだらしのない姿を知っているだけに、実感がわかない。
     文次郎の太ももを枕にして寝転がっていた仙蔵は、そんな文次郎の言葉に怒ることはせず、むしろ、ははっとおかしそうに笑った。
    「元の素材がいいからな」
     仙蔵は当然のように言って、ちらりと文次郎を見上げた。その眼差しには自信と挑発、そして甘えが混ざっていた。
    「よく言う」
     文次郎は苦笑しながら雑誌を閉じ、傍らに置いた。空いたその手を仙蔵の頭に置き、ゆっくりと撫でる。指通りのいい髪に指をとおすと、仙蔵はまるで猫のように心地よさそうに目を細めた。そんな反応に、文次郎の口許が緩む。
     世間がどれだけ仙蔵に注目をしようとも、この表情を見ることが出来るのは自分だけだという優越感。自分がこの顔をさせているのだという、喜び。
    「……もんじろう」
     囁くように仙蔵が名前を呼び、たったそれだけで仙蔵の望みを文次郎は汲み取る。
     背中を丸めるようにして、やんわりと唇を重ねると、仙蔵は満足そうに笑った。その笑みに、じわりと胸の奥が熱くなり、文次郎は幸せを噛み締める。
     仙蔵と恋仲になり、一緒の部屋で暮らすことが今では当たり前になっているけれど、時々こうして仙蔵が傍にいることが、不思議に思うことがある。
     文次郎と仙蔵が出会ったのは、二人が高校に入学したその日だった。
     新入生たちが体育館に集まった入学式で、壇上で新入生代表の挨拶をしていたのが仙蔵だった。文次郎はそれを、舞台の下から眺めていたのを覚えている。
     頭の高い位置でひとつにまとめた髪の毛先が、背中の半ば辺りで揺れていた。天井から糸で吊るされているかのように、背筋を真っ直ぐに伸ばして立つ姿は、遠目にも目を引いた。
     華やかで、堂々としていて、凛とした空気を纏い、周囲からどんな視線を向けられても気にしないような、そんな雰囲気。
     それが、文次郎が仙蔵に対して抱いた第一印象だった。
     そんな仙蔵に対して文次郎は、どちらかといえば目立たず静かに過ごしていたいタイプだ。引っ込み思案だとか、人の目が苦手というわけではない。単純に目立ちたくない──というよりも、そもそも仙蔵のように人の目を惹きつけるような何かを持っているわけではない。
     言ってしまえば、真逆のタイプ。
     勝手に苦手意識を抱いて距離を置こうとは思わないけれど、特に何もしなくても、この先の学校生活で関わり合いになることもないだろう。そう、思っていた。
     ところが入学式を終えて教室に入ると、その仙蔵は文次郎のすぐ後ろの席だった。
     しかし文次郎が一方的に抱いていた近寄りがたい印象とは違い、話しかけてみると仙蔵は拍子抜けするほど気さくで、冗談もよく言う。
     そして、人との距離の詰め方や接し方が驚くほどに上手だった。学校生活が始まってから一週間も経たないうちに、呼び方が「潮江くん」から「文次郎」へと変わっていたことに、しばらく気づかなかったほどに。
     下手をすると馴れ馴れしく感じるその態度も、一切の嫌味がなく、自然と許してしまう。
     席が近かったこともあるけれど、よく話すようになり、つるむようになるまで、然程時間はいらなかった。
     眉目秀麗、文武両道でありながら、それを一切鼻にかけることのない仙蔵の周りには、男女問わずいつも人がいた。それなのに何故か仙蔵は文次郎の隣を好んだ。
    「文次郎の近くが一番落ち着くんだ」
     なんて、冗談か本気か分からないけれど、仙蔵はそう言って笑った。
     仙蔵とは三年間同じクラスで、喧嘩をすることも当然あったけれど、それもいつの間にか元に戻っていた。
     文次郎の近くが一番落ち着くんだ────仙蔵がそう言った言葉が、よく分かる。文次郎もまた、仙蔵の近くが一番落ち着いて、一番心地がよかった。

     そんな相手に、先に恋心を抱いたのはどちらだっただろう。

     高校二年生の夏休み。一緒に宿題をしようと文次郎の部屋に仙蔵がやってきた。
     仙蔵は定期考査で学年三位に入るほどの成績だったが、文次郎も十位に入るくらいで、成績はお互いに悪くはない。黙々と勉強は進められる。一緒に宿題をする必要もなかった。
     それでも仙蔵から一緒にしないかと誘われれば、断る理由なんてなかった。
     窓の外から聞こえる蝉の泣き声。
     エアコンの室外機の音。
     カリカリとお互いのシャープペンを走らせる音。
     静かな息遣い。
    「うー……ん」
     そこに、文次郎の小さな唸り声。無意識で小さな声だったが、仙蔵に聞こえないはずがない。
    「どうした。分からないところでもあったのか?」
     手を止めて、仙蔵が文次郎の手元を覗き込むように、少し腰を浮かせた。

     偶然手が触れたから────なんて、理由にするにはあまりにもベタで。

     触れた指先に文次郎が体を硬直させて、そんな反応を窺うように仙蔵が指を絡めた。冷房で冷えた指先がじんわりと熱を帯び、汗ばむ。文次郎は仙蔵を止めなかった。仙蔵がさらに身を乗り出して、しばし見つめ合う。心の奥を見透かすような、真っ直ぐな視線。友人としてどう考えてもおかしな距離感。けれど、不快感はない。むしろその眼差しに魅入られる。喉が鳴った。唾液を嚥下する音がやけに大きく響いた。
     少し、仙蔵が動いて、文次郎の口の端に触れるだけのキスをした。
     ほんの一瞬。掠めるだけ。けれど今までで一番近いところに仙蔵の顔があって、柔らかな香りが鼻孔を掠め──それが仙蔵の香りだと理解した瞬間、文次郎の心臓が跳ね上がった。

    「……好きだ」

     蝉の泣き声と、室外機の音に混じって、仙蔵が小さな声で言った。
     風が吹いたら掻き消されてしまいそうなほど小さな声だったけれど、文次郎は聞き逃さなかった。
     白い頬を薄っすらと赤く染め、伏し目がちな瞳で文次郎に目を向ける。普段とはまるで違う仙蔵の様子に、文次郎は心臓を鷲掴みにされるのを感じた。
     きっかけは仙蔵の告白だったけれど、それはただ気づくきっかけになったに過ぎない。気づいていなかっただけで、文次郎も仙蔵のことが好きだった。そうでなければい、いくら恋愛経験が皆無とはいえ、同性の、ただの同級生だと思っていた相手に告白をされて、肯いたりはしないだろう。
     その日から、二人の関係に「恋人」という言葉が加わった。しかし、何か大きな変化があったわけではない。これまでどおり、少しずつ、ゆっくりと、関係を築いてきたと、文次郎は思う。
     進学先の大学が同じだったのは、一緒にいたいという気持ちがまったくなかったわけではない。ただ、それだけで将来に関わる大切な選択をするほど、二人とも浅慮ではなかった。お互いが希望している学部があり、学力的にも申し分ないと納得した上での選択だった。
     家から大学までは少し距離があり、決して通えない距離ではないけれど、毎日の通学に時間を取られるのは勿体ない。それならいっそ、ルームシェアでもしないかと文次郎が提案をすると、仙蔵は嬉しそうに肯いた。
     互いの家を行き来していたこともあり、親たちもすんなりと承諾してくれた。
    「文次郎くんと一緒なら安心ね」
     と仙蔵の母親に言われた時は、多少の罪悪感が芽生えたけれど。
     そうして春から始まったこの部屋での暮らしにも、家事にも、大学生活にも、それから仙蔵と二人での日々にも、ようやく慣れてきたところだった。
    「そうだ、今週の土日のどちらか空いているか?」
     仙蔵の髪に指をすべらせていた文次郎が、思い出したように言った。
    「両方とも空いているが」
    「最近涼しくなってきただろ。早めに冬用の布団を買いに行こうと思うんだが」
     一緒に行くか、と文次郎が言い終わるよりも先に、仙蔵の表情がぱっと明るくなる。
    「行く」
     ころりと笑った仙蔵に、文次郎もつられて笑みを浮かべた。


            2

     十月も終わりに近づくと、街はすっかり秋めいた装いになる。
     街路樹のイチョウの葉が見事だった。
     これがもう少し経つと葉を落とし、今度は色とりどりの電飾を巻きつけられる。まだあと二ヶ月ある、なんて思っていても、きっと今年もあっという間に終わるのだろう。
     ショーウィンドウには厚手のコートや冬服が並び、大通りを行き交う人々も、少しずつ冬支度を始めている。
     そんな中、薄手のコートを着た仙蔵が、文次郎の隣でぶるりと身震いした。
    「うー……今日寒くないか?」
    「だから家を出る時、寒いつっただろうが」
    「文次郎だって似たような服装じゃないか」
    「肉つきが違うんだよ」
     仙蔵の言うとおり、文次郎が羽織っているのも薄手の上着だが、特に寒いとは感じない。そう文次郎が答えると、仙蔵は不服そうに唇を尖らせた。そんな顔をされてもどうしようもない。
     唸る仙蔵を適当に宥めながら、駅前の広場を抜け、ショッピングモールへと向かう。その途中のことだった。二人に──正確には仙蔵に向けて──二人組の大学生くらいの女性が声をかけてきた。
    「あ、あの……もしかして、モデルSENくんですよね?」
     急に話しかけられ、仙蔵は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせた。それからすぐに柔らかな笑みを浮かべる。
    「ええ」
     途端、女性二人の表情が輝く。
    「わあ、本物だ……!」
    「あのっ、写真いいですか?」
    「もちろん」
     突然はなしかけられたにも関わらず、仙蔵は快諾する。ちらりと一瞬視線を向けられて、文次郎は静かに仙蔵から距離を取った。近くの壁にもたれかかり、眺める。人当たりのいい笑みを浮かべ、握手に応えたり、丁寧に受け答えをしているところを見ると、相変わらず猫かぶりが上手いなと思ってしまう。愛想がよくて外面のいい仙蔵だが、その笑顔で人との距離感の線引をきちんとしている。
     許せるところまでは許し、踏み込まれたたくないところには踏み込ませない。高校の頃から仙蔵を見てきた文次郎にはよく分かる。
    「待たせてしまってすまない」
     程なくして話は終わったのか、女性たちと別れた仙蔵が、軽く手を上げて文次郎の元に戻ってきた。いつもどおりの表情。文次郎が見慣れた、仙蔵の姿。仙蔵が文次郎にだけ許す、距離感。
    「すっかり有名人だな」
     少しだけ口角を上げて揶揄うように言うと、仙蔵は、すっと目を細めた。
    「なんだ、やきもちか?」
    「なんでそうなるんだ」
     揶揄おうとしたのに、逆に揶揄うように返されてしまえ、文次郎は眉間に皺を寄せた。
     一緒に歩いていて、こうして仙蔵が話しかけられる場面を、最近ではよく目にするようになった。そのことで仙蔵を遠くに感じる、なんてことはない。ただ、文次郎の知らない笑顔を目にする度に、腹の奥底で何かが渦巻くのを感じていた。自分の方が仙蔵に許されているのに、少しでも他に目を向けてほしくないと思うなんて、あまりにも心が狭くいて嫌になる。
    「変装とかはしないのか?」
    「変装って」
     仙蔵がおかしそうに笑う。
    「そんな必要ないだろう。芸能人じゃあるまいし」
     仙蔵は小さく肩を竦めた。
    「変装っつーか、帽子を被ったり、サングラスかけたり、マスクしたり……」
    「文次郎はわたしを変質者にしたいのか」
    「誰も全部やれなんて言ってねぇよ」
     ははっ、と声を上げて笑われて、文次郎はぶすくれたように返した。
    「こうして一緒に出かけている時に話しかけられるのが嫌だと文次郎が言うのなら、どれかひとつくらいはしてもいいが……文次郎は嫌か?」
    「…………」
     文次郎は黙る。
     二人でいる時に呼び止められることは、別に嫌ではない。時間に余裕のない時にされると煩わしく感じることもあるけれど、それは仙蔵が悪いわけではない。人の目に止まる仕事をしているのだから仕方がない。逆に今日のように急いでいない時は構わないと思う。他に目を向けてほしくないと心の狭いことを思うこともあるけれど、それと同時に猫を被った仙蔵の姿を見るのは面白い。
     結局のところ、嫌ではないのだ。初めこそ興味がないと言っていた仙蔵が、なんだかんだと楽しそうに笑っている姿を見ることが。
    「……別に嫌じゃない」
     本心だったが、口調が少しぶっきらぼうになった。けれど仙蔵が気にした様子はない。ただ、嬉しそうに目を細めて、文次郎の顔を覗き込む。
    「わたしを心配してくれているんだよな。ありがとう」
     自分にだけ見せる表情。それだけで胸にあった支え(つっか)がどこかに流れていくのを感じるのだから、自分も単純だなと呆れながら、文次郎は歩き出した。

            *

     ショッピングモールも寝具売り場は、昨日急激に気温が下がったこともあってか、思いの外賑わっていた。冬用の掛け布団や毛布が山積みになって並び、あちこちで家族連れや恋人たちが品定めしている。
     その中に混ざって、仙蔵が真剣な顔つきで選んでいた。実際に触りながら吟味する姿を、文次郎は斜め後ろから眺めていた。眠れればなんでもいいので、仙蔵のようにこだわりはない。納得するものを選べばいいと思っているし、そのために何時間待ってもいいと思っている。
     売り場の一角には定番の寝具だけでなく、あったかグッズなんて謳い文句と共にいろんな商品が並んでいた。実家に澄んでいた去年までは寝具コーナーにくる機会なんてなかったので、物珍しさはある。
    「文次郎、これすごく気持ちがいい」
     しゃがみ込んだまま、仙蔵が文次郎を呼んだ。
    「お、本当だ」
     隣にしゃがみ込んで、同じように触れてみる。肌触りが柔らかくて気持ちがいい。
    「じゃあ毛布はこれで決まりだな」
     そう言って、仙蔵は当たり前のようにダブルサイズの毛布を手に取った。それを見て文次郎が呆れたように眉を顰める。
    「また俺の部屋で寝るつもりかよ」
     仙蔵がきょとんと、不思議そうに瞬いた。
    「何か不満か?」
    「……いや、別に」
     悪びれた様子もなく首を傾げる仙蔵に、文次郎はやれやれと肩を竦める。
     今の部屋を選ぶ時、それぞれのスペースがほしいという話になった。朝同じ家を出て、大学を過ごし、また同じ家に帰ってくる。いくらつき合っているからといって、あまりにもずっと一緒にいては息が詰まるのではないかと。実際には学部は違うし、当然受ける講義も違う。重なった授業の合間に会うこともあるけれど、お互いに交友関係はある。四六時中一緒というわけではないけれど、それでも共に過ごす時間は多い。
     元々、文次郎も仙蔵も一人で過ごすことが苦にならない。むしろ、適度に一人でいる時間がほしいタイプだ。それに万が一喧嘩をした際に物理的な距離を取れないのはよくないだろうという話し合いの結果、2LDKの部屋を借りた。もちろんベッドもそれぞれの部屋にある。
     しかし実際蓋を開けてみると、仙蔵は生活のほとんどをリビングか文次郎の部屋で過ごしている。自分の部屋のベッドを使ったのは最初の数日と、喧嘩をした時の数回だけ。それが以外は文次郎の部屋で寝るのが当たり前になっていた。
     夏の間は「エアコン代の節約になるから」だとかなんとか、もっともらしい理由を口にしていたけれど、結局はくっついて寝ていたせいで、正直快適だったとは言えない。
     今も、冬用の寝具を選びながら、当然のように文次郎のベッドで寝る前提で話を進めている。文次郎が拒否しなければ、きっとこのまま春まで──いや、来年も、その先も、ずっと同じベッドで眠るつもりなのだろう。
    「不満は……別にないが」
     これといって不満は特にない。
     一緒に暮らすまでは絶対に一人の時間がほしいと思っていたけれど、案外仙蔵の存在は苦ではなかった。苦ではないと言うと失礼に聞こえるかもしれないが、思っていた以上に、一人の時間がないことが、嫌ではなかった。
     本当に強いて言うのであれば、ダブルサイズのベッドとはいえ、成人間近の男二人が寝るには少々狭いということくらいだ。寝返りを打つ度に肩がぶつかるし、こう見えて仙蔵は寝相が悪い。夜中に何度か蹴りを食らったことがある。
     だが、今さら大きなベッドを買い直すわけにはいかないし、そんなことをすれば文次郎の部屋のほとんどのスペースをベッドに占領されてしまう。いくらなんでもそれだけは避けたい。だから二人は、ひたりとくっついて眠るのだ。
     狭いと口にしながら。
     しかし、口で言うほど、嫌ではなかった。仙蔵を抱き締めて眠るあの時間が、文次郎は好きだった。人の体温が、こんなにも安堵するものなのかと驚くほどに。本人にそれを言うと調子に乗るので絶対に言ったりはしないけれど。
    「ならいいじゃないか。一緒に寝ればあたたかいし」
     そんな子どもみたいな言い訳を仙蔵はする。毛布を抱き締めながら言うものだから、その仕草が相まって、余計に子どものように見えた。思わず吹き出す。
    「へーへー、じゃあこれにするか」
    「これで冬も安心だな」
     仙蔵は満足そうに肯く。仙蔵の手から文次郎は当然のように毛布を受け取った。
     いい買い物ができてよかったと笑う仙蔵の笑顔に、文次郎もつられて口許を緩ませた。

            *

     毛布と敷布団を購入し、二人はモールの外に出た。空調の効いていた室内にいたせいで、外の空気が先ほどよりも冷たく感じる。
     機嫌よく鼻歌を歌う仙蔵と並んで、駅へと続く並木道を歩いていた。冬の日暮れは早く、ほんの少し傾き始めている。陽に照らされたイチョウの葉が、黄金色に輝いていた。ちょうど見頃なこの時期、スマートフォンのカメラを向けている人が大勢いる。
     風が吹く度に、はらりと葉が舞い落ち、足元に積もっていく。落ちている銀杏の実を踏まないようにだけ気をつけながら歩いていると、ふと隣を歩く仙蔵が立ち止まった。半歩遅れて文次郎も立ち止まり、振り返る。
    「どうした?」
    「文次郎、あれ飲みたい」
     指を差す先には、テイクアウト専門の小さなカフェスタンドがある。ホットドリンクのメニューが並び、湯気の立つカップを手にした人たちが、近くのベンチでひと息ついていた。
     確かにこの寒さでは温かい飲み物が恋しくなるのも仕方がない。
    「別に構わんが」
    「文次郎は?」
    「俺はいいから自分の分だけ買ってこい」
     仙蔵が手にしていた袋を受け取ると、嬉しそうに列に並ぶのを見送る。
     立ち止まると、冷たい風が吹き抜けていって、自分も何か飲めばよかっただろうかと少しばかり後悔する。けれど今さら自分のもとあとを追うのも面倒臭くて、結局その場に留まった。
     しばらくして、仙蔵がカップを片手に戻ってくる。
    「何にしたんだ?」
    「ホットチョコレート」
    「またそんな甘そうなものを……」
     呆れた文次郎の視線を横目に、仙蔵はふーふーと息を吹きかけながら、カップを両手で包み込む。どう見ても甘そうなそれをひと口ほしいとは思わないけれど、冷えた指先を温めてくれそうなカップは少し羨ましい。
     そんな文次郎の視線を勘違いした仙蔵が小首を傾げる。
    「なんだ、やっぱりほしいのか?」
    「いらん」
     文次郎が甘いものが得意ではないことくらい分かっているだろうに。
    「そう言えば荷物を持たせたままだったな」
     カップを片手に持ち直して、仙蔵は開いた手を差し出してくる。けれど文次郎が袋を離したせいで仙蔵の手が袋を掴むことなく空を掻いた。
    「いい。別にこれくらい重たくもなんともねぇし。こぼされる方が迷惑だ」
    「……わたしはそんなにそそっかしくないのだが?」
     心外だと言うように眉頭を寄せたかと思ったら、仙蔵は行き場を失っていた自分の手を、文次郎の腕に絡ませた。
    「あっ、おい」
     文次郎が慌てた声を上げる。しかし無理に腕をほどいてカップの中身がこぼれたらと咄嗟に思い直し、されるがままだった。
    「照れなくてもこれくらい、いつものことじゃないか」
     んふふ、と屈託のない笑みを浮かべ、仙蔵は甘えるように文次郎の肩に軽く頭を預ける。
     こんな風に寄り添うのが嬉しいような、気恥ずかしいような、なんとも言えない気分で。そんな自分の中にある照れを隠すようにそっぽを向く。耳がわずかに赤く見えるのは、夕陽のせいだろうか。
    「……こぼすなよ」
     ぶっきらぼうな物言いに、仙蔵は口許に弧を描く。
    「だから大丈夫だと言っているだろう。わたしを何だと思っているんだ」
     体の右側に寄り添う仙蔵のぬくもりが、冬風に冷えた体を温めてくれる。どうしても緩んでしまいそうな口許をきゅっと引き締めて、仙蔵が歩きやすいようにと荷物を片手に持ち替えた。


            3

     帰宅すると、仙蔵は買ってきた布団を抱えて文次郎の部屋に向かう。夏用の布団を引き剥がし、新品の敷布団を広げ、毛布をかけると部屋の空気が一気に冬の装いになる。
    「おお……ふかふかだ」
     満足げに肯くと、仙蔵はそのままごろりとベッドに寝転がった。顔を埋め、毛並みのいい毛布に頬を擦り寄せる。
    「あ、まだ風呂も入ってないのに」
     遅れて部屋にやってきた文次郎が窘めるように言うけれど、仙蔵は気にした様子はない。
    「いいじゃないか、少しくらい」
    「んなこと言ってお前、絶対このまま寝るだろ」
    「文次郎も寝転がったらどうだ。気持ちがいいぞ」
     傍らに立って、見下ろす。正直、少し羨ましい。けれど風呂に入っていないのに布団に寝転がるのは些か抵抗があった。潔癖というわけではない。そこまで繊細な性格はしていない。むしろその辺りを気にするのは仙蔵の方と思われがちだが、意外と大雑把な性格をしている。仙蔵がそんな風だから、余計に文次郎の方が気にするのかもしれない。
    「ほら」
    「うおっ」
     仙蔵が上半身を起こしたかと思ったら、手首を掴み、再び後ろに倒れるその勢いのまま、文次郎を引っ張った。無防備に倒れ込む。仙蔵を押し潰さないように咄嗟に体を捻った。
     何をするんだ、危ないだろうと文句のひとつでも言おうと思ったのに、肌に触れる毛の感触が思ったよりも気持ちがよくて、文次郎は押し黙った。
    「どうだ、気持ちがいいだろう?」
     何故か仙蔵が得意げな顔をして言う。
    「……まあ」
    「かわいい奴め」
     渋々と認めれば、仙蔵はおかしそうに笑い、それから文次郎に擦り寄る。自然と手が伸び、その体を抱き寄せると、腕の中で仙蔵が顔を上げ、それからどちらからともなく唇を寄せた。
     触れるだけの口づけ。けれど仙蔵の纏う雰囲気が、室内の空気が、それまでと変わるのをしっかりと文次郎は肌で感じ取っていた。
     躊躇する。今帰ってきたばかりなのだ。風呂に入っていなければ、夕飯も食べていない。しかも今日買ってきたばかりの布団の上。
    「せんぞ────」
     一旦待てと、名前を呼ぼうとしたけれど、言い終わる前に、もう一度唇を塞がれる。今度は先ほどよりも深く。明らかに、そういう意図を持ったキスだった。
    「ちょ……っ、待て、帰ってきたばかりだろ、」
    「何か問題でも? まさか疲れたなんて言うつもりじゃないだろうな」
     わずかに細められった、挑発的な視線。ぐ、と喉の奥が鳴る。
     誘うのは仙蔵からなのに、あとで文句を言われるのは文次郎の方なのだ。けれど、理不尽と思いながらも止められない。
    「……あとで文句言っても知らないからな」
     そう言って仙蔵の体を押し倒してキスをすると、文次郎の体の下で仙蔵は楽しそうに笑った。

    (中略)



            4

     気づけば、部屋の中はすっかり暗くなっていた。カーテンの隙間から差し込む街灯の明かりが、ぼんやりと室内を照らしている。
     薄暗がりの中で目を覚ました文次郎は、寝起き特有のぼんやりとした思考で、どうやらあのまま寝落ちたのだと理解する。隣では静かに寝息を立てて仙蔵が眠っていた。仙蔵が毛布を独り占めしているせいで、文次郎の体はすっかり冷え切っている。
     気怠さの残る体を起こして、欠伸をひとつ噛み殺す。それからベッドの上と下に脱ぎ散らかされていた服を身につけた。
     二人分の体液で汚れた真新しいシーツを早く洗濯機に放り込みたいところだが、今取り上げると仙蔵が目を覚ましてしまうだろう。疲れが滲むその顔を見ていると、もう少しそっとしておきたい。
     毛布の書い直しにならないことをそっと祈りながら、スマートフォンに手を伸ばした。時間を確認するために画面をつけると、思いの外明るくて、反射的に目を瞑った。明るさで仙蔵を起こしてしまわないよう静かにリビングに移動すると部屋の明かりをつけ、再度スマートフォンを確認する。二十一時半。すかり寝こけてしまっていたらしい。
     夕飯も食べ損ねている。そのことを思い出した途端、急に腹が空いて、ぐう、と空腹を訴えてくる。今から何かを作る気にも、デリバリーを頼む気にもなれない。かといって、何も食べないのもたえられそうにない。
     冷凍のご飯があった気がする。解凍してお茶漬けにでもしよう。
     そう決めて、キッチンへ向かいながらスマートフォンの通知欄を確認していた文次郎は、新着のメッセージのひとつに目を止めた。

     食満留三郎────高校時代の同級生だった。

     久しぶりに目にする名前に、文次郎は眉を顰める。
     留三郎とは顔を合わせる度に言い合いの喧嘩をしていて、学校ではちょっとした名物になっていた。喧嘩ばかりしていたけれど、本気で仲が悪かったわけではなく、どちらかといえば同族嫌悪に近い。
     高校の三年間は仙蔵と留三郎、それから留三郎の幼馴染の善法寺伊作の四人で一緒にいることが多かった。留三郎たちとは進学先が異なり、始めのうちこそメッセージのやり取りをしていたけれど、次第にその頻度は減り、最近ではすっかり疎遠になってしまっていた。
     それが、珍しい。
     何かあったのだろうかと首を傾げながらメッセージアプリを開く。
    〈これ、お前と仙蔵だよな?〉
     簡潔な文と共に送られてきていたのは、SNSのスクリーンショットだった。
     仙蔵の写真だった。目線はカメラとはまったく違う方向に向いていて、明らかに隠し撮りだと分かる。何より目を引いたのは、仙蔵の隣に並んでいる人物だった。顔には誰だか分からないようにモザイク加工がされているが、流石に自分で自分が分からないほど鈍くはない。留三郎もこれが文次郎だと分かるくらいなのだから。
     服装からして、写真は今日撮られたものだろう。屈託のない笑みを浮かべた仙蔵が、文次郎と腕を組んで歩いている写真だった。
     それだけならいい。仙蔵曰く、正面から声をかけてくる人もいれば、遠巻きにカメラを向けてくる人も一定数いるらしい。困ってはいるものの、知らない間に撮られてしまうとどうしようもない。
     この写真もそうだろう。文次郎も仙蔵もまったく気がつかなかった。
     それは別にいい。モザイクがかけられているとはいえ、見知らぬ人に勝手に写真を撮られたという気味の悪さはあるけれど、問題はそこではない。
     写真は『モデルのSENがおじさんと歩いてた。ショック』という言葉と共に投稿されていて、その下にはいくつものコメントが並んでいた。

     ──SENってもしかしておじ専だったりする?
     ──てかこれパパ活じゃないの?
     ──援助交際かもよ
     ──SENのこと推してたのにショック……

     あまりにも好き勝手に書かれた内容に、スマートフォンを持つ手が震えた。
    〈なんだこれ〉
     呆然としながら、文次郎は震える指で返信を打つ。
    〈ついさっき伊作が見つけたんだよ〉
     返事はすぐに返ってきた。
     留三郎と伊作は、数少ない、文次郎と仙蔵がつき合っていることを知っている人物だ。
    〈今ちょっとした話題になってるぞ〉
     呆然と画面を見つめている間に、立て続けに新着のメッセージを受信する。
    〈お前ら……つーか、仙蔵は高校の時からお前にこんな感じだったもんな〉
     昔から仙蔵の距離感は近い方だったと思う。けれど周囲も、文次郎自身もあまりにも日常化していたせいで、それを疑問に思ったことがなかった。実際のところ周りがどう思っていたかは分からないが、少なくとも文次郎はなんとも思っていなかった。何よりも仙蔵のことが好きだったから、気にしたこともなかった。
     大学でもそうだ。最初から仙蔵がそうだったから、周りは何も言わなかった。「お前たち仲いいよな」と言われることはあったけれど、そういう距離感なのだと理解していた。
     だが、改めて客観的にこうして見てみると、確かに距離が近い。
     文次郎と仙蔵の関係を知らない人たちが見たら、そういう風に見えるのかもしれない。
     同性の恋愛が世間一般的に寛大になりつつあるが、だが、今回の問題はそういうことではない。SENであることが問題なのだ。
     本当に二人がつき合っているかどうかや、文次郎の実際の年齢だとか、そんなことはこのコメントを書いている人たちにとっては真相がどうかなんて関係ない。面白そうだから、気に入らないから、ただなんとなく、他人事だから、そんな軽い気持ちで好き勝手言うことができるのだ。
     だが、だからと言ってこんな風に晒し上げていい理由にはならない。
     文次郎の顔にモザイクをかけるという配慮はされているが、そんなことはどうだってよかった。自分はどうでもいい。仙蔵が晒されていることの方が、文次郎にとっては問題だった。
     自分が何か言われるのも、周りからどう思われようとも構わない。昔から年相応に見えないと言われることには慣れている。仙蔵との関係だって、やましいことはひとつもない。パパ活でも援助交際でもなく、同級生が普通につき合っているだけだ。言いたいやつには言わせておけばいいと思っている。
     けれど、その誹謗中傷の的が仙蔵になるのだけは嫌だった。
     幸い、仙蔵も文次郎と同様にSNSの類はやっていない。このまま気づかないところで鎮火してくれるのを待つことができたらいいけれど、恐らくそうも言っていられない。一過性のものかもしれないが、今後も仙蔵が今の仕事を続けていき、そして文次郎とつき合っている限り、同じ問題が繰り返すだろう。そんなことは文次郎も分かっている。
    〈悪いが、仙蔵にはこのことは言わないでおいてくれ〉
    〈隠せる話じゃねぇだろ。つーか当事者だぞ〉
    〈そんなことは分かってる。だが、少しだけ待ってくれ〉
     きっと、文次郎が自分が何を言われてもいいと思うように、仙蔵も同じように思うだろう。言いたい奴には好きに言わせておけばいいと、からからと笑いながら一蹴するに違いない。実際、仙蔵は気にしない。そういう区別がしっかりしている。どうでもいい人から何かを言われたところで、一々それに傷ついたりしない。そんな仙蔵の性格を、文次郎はよく知っている。
     留三郎からこんなメッセージが来たと言えば、仙蔵は笑い話にしてくれるだろう。文次郎とつき合っていることが全世界に発信されてしまったなと、冗談のように笑う姿が容易に想像できる。
     分かっている。そんな重く捉える話ではない。頭では分かっている。
     それでも、こんな風に仙蔵に好奇の目が向けられるのがたまらなく嫌だった。今後もこんなことが起こり得るのがたえられなかった。SNSというネットの海に放り込まれてしまった以上、文次郎一人にどうにかできる問題ではない。それでもどうにかしなければと思ったのだ。

    「…………はあ」

     深い溜め息と共にスマートフォンを伏せたのと同時に、背後で物音がした。
    「……もんじろう」
     寝起きの声。
     振り返ると、仙蔵が寝ぼけ眼で立っていた。文次郎のTシャツを着て、髪はくちゃくちゃに乱れている。完全に気の抜けた姿。文次郎の前だけの、無防備な姿。その姿に、かえって安堵した。
    「何をしているんだ?」
    「いや、ちょっと連絡が来てたから返信してたんだ」
     仙蔵の寝ぼけた顔に、張っていた気がほんの少し緩む。
     誘うように手を差し出せば、仙蔵は子どもみたいな笑顔を浮かべて、向かい合うようにして文次郎の膝の上に乗ってきた。その体を抱き締める。
    「文次郎、腹が空いた」
    「そういやあ、そうだったな」
     留三郎からのメッセージですっかり空腹だということを忘れていた。
    「何食いたい?」
     自分一人ならともかく、仙蔵も食べるなら何かデリバリーするかと、置いたスマートフォンに手を伸ばしかけるが、
    「ラーメンが食べたい」
    「お前……こんな時間にそんなもの食べていいのかよ」
     肌だとか体型だとか気にしなくていいのかと訊ねれば、仙蔵はおかしそうに笑う。
    「文次郎がそんなことを気にするなんてな」
    「仙蔵の心配をしているんだバカタレ」
     自分だったら、何も気にすることはない。
    「茶漬けにしておけ」
    「ええ……この時間に食べるラーメンが背徳的で美味しいのに」
    「それは分からんでもない」
     せめて仙蔵の前では普段どおりでいたいと、胸の奥底で渦巻く嫌なざわつきを、文次郎はそっと押し込めた。


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