【同居人】透明な善性 ※ネタバレなし 人並みに当たり前に生きている気でいた。恵まれていたかと問われると答えに詰まってしまうが、それでも自身の境遇を悲観するほどではなかった。それが己の見解。母のいなくなった部屋で一人外を眺めながら、誰に話すこともなく完結した思考の末路だった。
ところが周囲の人々は、自分が生まれ持った境遇を話すと決まって悲しそうな顔をする。保健室の先生や、事情を聞きに来た担任、クラスメイト。生命として当たり前に善性を持ち、同情してくれる人々は、決まってこちらを気にかけてくれていた。
その行動に疑問があるわけではない。理解はできた。だが同意はできなかった。覆ることのない乖離がそこにはあった。他者に何を言われても、一向に自分の境遇が「憂慮されるべき」ものであると結論づけることはできなかった。だって必要がなかったから。憂慮されずとも生活は回っていたし、将来も高卒で働けば問題ないと想定がついていた。必要なものが過不足なく取り揃えられた現状。これ以上何かを得ようという欲求が自分にはなかったのだ。ただ、それだけのこと……なのだが。
「かわいそうに、感情が麻痺しているんだ」
「君はもっと幸せになっていいのに」
「大人しくていい子ね」
「もっと意欲的だったらな」
「そうやって誰かに構ってもらいたいの?」
その「それだけ」に人は色をつけたがる。
伸びて来た絵筆なんて、自分にとっては須く無価値でしかない。彼らの色彩は自分の中にはないもので、それ故に感謝も同意も嫌悪もない。なんとも思わない。だから、一度受け取りはしても、それらはすぐに剥がれてしまった。
結局残るのは、どこまでも空虚で、色も形もない「それだけ」。
それだけで、心は十二分に満たされていた。
「……全ッ然、よくないですよこれ!」
さて、珍しく物思いに耽っていた視界は、悲痛そうな勢いのある言及によって現実に引き戻される。
なんの話をしていたんだったか。机の上に先日上司から貰い受けたばかりの資料が撒かれている。ああ、そうだ。次のバイトの日程を決めようと思って、それで。
「なんですかこの案件! どう見たって条件おかしいでしょ?」
そっか、気になるから見せてって言われて、まとめた資料を見てもらっていたんだ。目の前にいる喜志くんに。
「…………おかしいかな」
「おかしいですよ。誰でも面倒事を押し付けられたんだってわかります」
「そうでもないと思うけど……こういう依頼人って割といるし」
「居たとしても看過すべきじゃありません。先輩はなんでもホイホイ引き受けすぎだ!」
まったくアンタって人は……と呆れ気味に彼は言う。火傷で暗く色の変わった肌は、そのほとんどが包帯で隠されているものの、よく動く表情筋のお陰で持ち主の感情を仔細に表してくれている。
「とにかく日程を詰める前に、一度上の人と話してきてください」
「うん、わかった。喜志くんが言うならそうするよ」
「ッーーー! だから、そうじゃなくて先輩にはもっと自分の身を案じて欲しいって意味で俺は……」
伝えようとして口を噤む。真っ直ぐなこの後輩にはいつも気を遣わせてばかりだ。今もこちらにわかる言葉を必死に探してくれている。
「大丈夫、ちゃんとわかってるよ」
「えぇ……本当ですか?」
この言葉に嘘はない。共感に至らないだけで彼が何を伝えたかったのかは「他者の目線を通して」理解はしていた。
いや理解できていると、思いたいのかもしれない。余計な心労を感じなくて済むように。
「まぁそれならいいんですけど………でも本当いい加減気をつけてくださいね。また依頼人に殴られるようなことがあったら、今度こそ先輩の事務所を正式に訴えてやりますから」
「なにもそこまでしなくても」
「そこまでするレベルなんですって」
「でも僕の自業自得だし」
「自業自得の責任まで取るのが会社ってもんでしょうが!」
「………そっか」
会話の隙を埋めるようにコーヒーを流し込む。じんわりとした苦味にようやく目が覚めてくるような心地がして、同時に先程までの回想が脳裏を掠めた。
「ねぇ、喜志くん」
「ん? なんですか?」
疑問はするりと口に出た。
「喜志くんは俺にどうなって欲しい?」
一瞬包帯の奥の顔がぎょっと目を見開くのが見えた。地雷を踏んだ、わけではなさそうだ。
「えっと………」
「言いたくなければいいよ」
色々と思考を巡らせている。急かしてはいないことを暗に示すように、またコーヒーを口に含んだ。わざとゆっくり味わってカップを置き、顔を上げると目が合った。
「医者見習いとしての見地から言うのなら、先輩の今の状況は特に問題のない範疇ではあります」
「………そうなんだ」
「はい。食事も睡眠も摂れていて、仕事に大きなストレスもない。人の言うことを聞きすぎる嫌いはありますが、生活に支障が出るか否かの線引きはできてる。自己防衛の概念があって、自我も確立されていて、希死念慮もない。
何より先輩自身が「現状に問題はない」と判断しているんです。悪化するなら治療の必要がありますが、そうでないなら緊急性は薄いと判断されるでしょう」
澱みなく発せられた診断は、彼らしく理路整然としていた。同時に自分の内情に近しいものを言い当てられ呆然とする。
彼の口から出て来たものと、自分の内にあるものが乖離していない。何故だかとても腑に落ちる。
「………ですが」
一呼吸、その間に声音が強く光を帯びたような気がした。
「俺としては不服です。先輩が何とも思わなくても、現状が最良とは俺は思わない」
「………なるほど。つまり?」
彼が差し出したのは、色のついた絵筆ではなかった。
「無理に変われとは言いません。その代わり俺も折れる気はないので、そのつもりで」
例えるなら、光源だろうか。
真っ白なクロスに置かれたビンが、光の屈折によって輪郭を露わにするように。色を必要としない自意識に実体をもたらしたのは、どこまでも客観的で論理的。それでいて徹頭徹尾芯の通った宣戦布告だった。
(要するに………好きにしていいけど、口出し無用ってことか)
なんだかとても腑に落ちて、思わず表情が緩んでしまう。彼に言わせれば「腑抜けた顔」だそうなのだが自分ではよくわからない。
「いい子だね喜志くんは」
「………揶揄ってます?」
「………そう聞こえた?」
「はぁ〜本当この人……」
「大丈夫だよ。ちゃんとわかってるから」
「そう言って毎回同じこと繰り返すじゃないですか!」
「次から気をつける」
「出た常套句!」
語気を強めつつ、一線を引く真摯な態度は昔から変わらない。彼ならきっと、いや間違いなく素敵な医者になる。
「揶揄ってなんかないよ」
近い将来が少しだけ楽しみになった。
「本当に、そう思ったんだ」