真実の言葉はバター「――いつか、お前達にも会わせたい」
それが、父の口癖だった。
◆
「ノコル」
ピヨの声に立ち止まる。けれど振り返らずに、「何だ」と短く答えた。
「大丈夫か」
「何が」
短く、けれど苛立ちを孕んだ声。自制出来ない怒りが、腹の奥でぐるぐると回っている。
それも全て、突然現れた、あの男のせいである。
漆黒の髪に、漆黒の瞳。やけに発音が良く、言葉のひとつひとつが頭の奥に響く男。五月蠅くて、忌まわしい、最も出会いたくなかった存在。
――乃木憂助。
ノゴーン・ベキである、乃木卓の本当の息子。
彼が、自らの力でここに辿り着いたのは、つい先日の話だった。
「いいのか、お前」
「喜ばしいことだろ」
DNA検査の結果を知ったバトラカは表情こそ分からないが、声には歓喜の色が滲んでいた。
父であるノゴーン・ベキも、乃木憂助のもとからすぐに立ち去ったものの、感極まって震えていたことくらい気づいている。あれに対して、「どうして」と叫んだ乃木憂助が馬鹿なのだ。酷く腹立たしかった。
あの場で、誰よりも動揺を隠せなかったというのに。
『――なぁ、兄弟』
先ほどの牢獄にて、あの男を引き寄せ、俺が吐き出したセリフだ。
子供染みたことをしてしまったという自覚はある。しかし、何かを話していなければ、様々なものが溢れ出してしまいそうだった。
ああ、腹が立つ。
俺が願っても手に入らないものを生まれた瞬間から手にしていた男が。
父のことはまるで自分のことのように分かるはずなのに、どう足掻いてもこの体に父の血は流れていない。
あの人の息子だと口先でいくらでも言えるのに、真実、俺はあの人の息子じゃない。
『いつか、お前達にも会わせたい』
それは、かつて、俺とアディエルに父が言った言葉だ。
アディエルは、俺と兄弟のように育った男。優しくて誠実な男だったと思う。だから結婚をして、ジャミーンという可愛らしい女の子までもうけることが出来た。そんな彼も、もういない。
父は、俺とアディエルを抱えながら、時折、自分に息子がいたという話を聞かせてくれた。
名前は、ユウスケ。
俺よりも七つ年上。
アディエルははっきりとした年齢が分からなかったが、ユウスケが生きていたら、次男はアディエルだと父は笑っていた。
そう、笑っていた。とても悲しそうな瞳で。
――いつかなんて、俺はいらなかった。
「俺はあいつを信用していない。別班の任務で来た可能性は未だ捨てきれない。――ピヨ、見逃すなよ」
頷く大柄の男、ピヨに目配せをしてその場から素早く立ち去っていく。いつもより早足なのは、これ以上、ピヨに何か言及されたくなかったからだ。
ピヨとは兄弟のように育ったわけではないが、それでも兄貴分であることに変わりない。
テントを結成してから、幾度となく意見を交わした相手。深い信頼があると同時に、あんな大柄な体でありながら、ピヨは人の感情の機微に聡い。俺の表情ひとつで、きっと感情を読み取ってしまう。そして、意外にも世話焼きな彼は、余計な口出しをしてくるに違いない。
ピヨは間違ったことを言わない。けれど、今だけはその正論を浴びる勇気はなかった。
向かった先は自室だ。バルカの夜は酷く寒い。部屋に入るなり、椅子にかけてあった上着を羽織り、部屋の正面名飾られた漆黒の旗の前に立ち、白く描かれた家紋を睨み付けた。
これは、乃木家の家紋と呼ばれる代物だ。
六角形の上部に亀裂が入り、中心に円がある。これは、乃木亀甲と呼ばれる家紋だ。
長く続く乃木家の大切なシンボル。父は、これが記されている刀をとても大切にしていた。
いつ何時も、父がそれを手放すことはなく、時折、じっと見つめては物思いに耽っているようだった。その姿は、俺が知らない父のようで、不安で、悔しくて、腹立たしかった。
思い悩んだとき、決意したとき、そんな時ほど父はそれを見つめていた。
その時の父は、まるで知らない人のようだった。
だから、それを「犯行声明」として残す目印にしようと言い出したのだ。それを特別な代物でなくすために。
父は迷っていたが俺が説得した。
酷い言葉で何度も父を傷つけながら、日本を、家族を捨てろと迫ったのは記憶に新しい。思い悩む父の姿は、今も脳裏に浮かんでくる。
ノゴーン・ベキは、「正義」の男だった。
何処までも気高く、優しい男。自慢の父である。
(――けれど、俺はそれを)
握った拳は、血流が止まり白くなっていた。体が酷く強張っているのを感じる。
ああ、まただ。
父のことになると、どうしても感情のコントロールが利かなくなってしまう。
物心がついた頃から、彼を父として慕ってきた。しかし、そんな彼と血の繋がりがないと知ったのは、物事の分別がつくようになった頃のこと。何気なく母親の存在を訊ねた時に、父以外の人から知らされた。
けれど、別に良かったのだ。
血の繋がりなんて関係ない。
何故なら、ノゴーン・ベキには本当の家族はいないから。
妻は拷問の末死に絶え、息子は人身売買の末、病気で死んでしまった。
死体は見ていない。けれど、父の絶望は底知れぬものだったと思う。あの人の愛情は、とても深いところにあるから。
それでも父は、息子が日本で生きて暮らしていることに望みをかけた。バトラカに命じて何度も渡日させて探し回ったが、「乃木憂助」という子供を見つけることは出来なかった。
俺はその度に安心していた。
どうせ生きているはずがない。
そんな言葉を何度も飲み込んで、俺の顔を見て優しく笑う父を小さな手で抱き締めた。
――ああ、ユウスケ。一生、見つからないで。
この優しい人を俺にちょうだい。
俺だけのお父さんで居させて。
俺は、ずっと願っていた。
それだけが、俺の幸せだったから。
ユウスケが見つからない限り、ノゴーン・ベキは乃木卓には戻れない。戻る必要も無い。だから、日本を彼から遠ざけ続けた。
時には美辞麗句を並べ、時には父を見捨てた公安を酷く糾弾して。
だから、この旗を目印に据えたのは、最後の仕上げだった。
これが俺の最期の賭けだったのだ。
『――僕は、ノゴーン・ベキの息子です!』
けれど、俺はその賭けに負けたのだ。
「クソ……ッ」
壁に掲げられた旗を強い力で殴りつける。そんなことをしても、ただ自分が痛いだけだと知りながらも、体の奥底がマグマのように沸き上がる怒りと悲しみが抑えられなかった。
けれど、同時に。
『――いつか、お前達にも会わせたい』
父の今生の夢を叶えてあげられた。
その事実に、目頭が熱くなった。
◆真実の言葉はバター
真実の言葉こそ、バターのように価値がある。
モンゴルで「バター」は非常に価値が高いものとされる