神とて知らぬもの 神々の山嶺、と呼ばれる山脈があった。
冬には氷雪に閉ざされる急峻の山並みは麓の、ひいては山中の人々の畏敬を集め、やがてひとりの男神、デルウハを成した。麓に流れついた異国の人間の言葉で名付けられ、稀に見られる容姿も薄紅の髪に薄荷色の瞳と伝えられた。
小さな社も建ち、実りを供えられ祈りを捧げられた。
山々への信仰は篤く、時と共に信者達はおかしな勘違いをするようになったのであるが。
ある日のことである。供物が途絶えて久しい頃、漫然と過ごしていたある日のこと。
己に向けられた言葉のうち、苛立ちと悲嘆と……やけっぱちの願いを聞き入れて顕現したのである。
赤茶の髪の娘だった。歳の頃は十歳ほど。痩せた体つき、絹の服になけなしといった有様の装飾をされて、手足を縛られ少し見ぬうちに荒れ果てた社殿に転がされて現われた男神を睨みつけているのであった。
ささくれた板張りの床堪えたと見えてむずかるように身を捩らせている。
「ほら! にこがここまでしてるのよ、雨のひとつやふたつ降らせなさいよ!」
手の一振りで戒めを解けば、まだ油断はしないぞと言わんばかりに手をほぐしつつ睨みつける。さながら子猫の威嚇のようであったが。
「雨乞いか? 俺に天候を左右する権能はないが水脈の場所なら教えてやる。住まいは? ついでに送ってやる」
死の穢れを厭うてのことだった。獣が人の味を覚えると村を襲う。そうすると不都合も多いのである。
提案に女は村の場所を答えこそしたが、そのあとに弱々しくかぶりを振る。
「帰れないわ……口減しだもの。前にも自力で戻った子がいたけど……」
どうでもいいことである。山の恵みがなければ獣は食い合うものだ。人はそうしないものだが、結局命を奪うのであれば意味もあるまいに。
「そうか。ここには好きにいて構わんが」
「いいの? 本当?」
「どうせここにはほとんど人も来ないからな。この裏を少し歩けば沢もあるし、食い物は供物を多少は食ってもいいがなるべく自分でなんとかしろ。お前が食べる量なら大差ないからな」
なんだ、と露骨に落胆を見せる。
「食べ物はないし、沢の水はそのままは飲めないのよ」
供物は途絶えて社は荒れ果てている。確かに、このにこという娘の食い扶持はない。「なんでもするわ。神様のお嫁さんになれって言われてきたの。それじゃだめ?」
「なんでも、ね」
貧相な体つきは力仕事にも向くまい。花嫁を娶るわけもなく。
「使い走りでもいいのよ。あんたの代わりにお告げをしにいったりだとか……」
言い募る顔は必死だが、哀願とも思えず訝しむ。
「そこまで死にたくないか」
「いやよ。あんな奴らにいいようにされて終わりなんて」
「そういうもんかね」
人を神使に据えるなど聞いたこともない。娶ると言っても人の身のままだ。この女の命を救う術たり得ないが……。
「……山の反対側は雨には困ってないし、よそ者でもお前のやりようによっては受け入れられるだろ。連れて行ってやるからそこで暮らせ。向こうの社殿で巫女になれるようはからってもいい」
いいの? と尋ねるので首肯で答える。ここで死なれても獣の食い扶持になるだけだ。
◇◇◇
宮司の所ににこを預けてどれほど経ったろうか。
ある日のことである。ひどい哀願と悲嘆と苛立ちをぶつけられるのを感じ取り、出所に向かうと預けた社の社殿ににこがいたのである。
夜であった。泣き腫らして、寝巻き姿のまま社殿の中でうずくまっている。ほんの少し前のことに思えたが、少し成長して年頃の娘になっているようだった。
「あんた、来てくれたの」
格子越しに銀の月光が差し込んで彼女を照らす。
「様子を見に来ただけだ」
「あれから養子に入ったの、でも嫁ぐことになって……あんたが忘れられなくて」
「山またいで連れて行っただけだろ」
潤んだ目に紅潮した頬、妙に汗ばんだ体、呼気からは酒のにおいがする。何か盛られでもしたか。
「あんたがいい。最初はあんたのお嫁さんになるって家を出されたのよ」
とりすがる体は火照っているようだった。この熱を逃す相手に選ばれたということか。言葉に嘘はないようだったが。
どうしたもんかね、と泣きつく女の赤く染まった顔を見下ろして、その細い肩に手をかけた。