同居人 if(同居人げんみ✖️)同居人(ニャルを召喚できたif)
別に、この胡散臭い呪文を唱える必要はなかったのだ。催眠を解く方法は理解できたのだから、余計なリスクを踏むよりも堅実に出れる手段をとった方が明らかに良いだろう。
そう考えた筈だった。だが、どうにも違和感が心臓を撫ぜる。
「先生? どうしたんすか?」
知らずのうちに強張った表情を光晴が覗き込む。その姿を見て尚のこと思考が揺らいだ。これ以上倫理観が無く身の安全も保証されていない空間に光晴を置いておく訳にはいかない。いかないのだが。何か決定的な事を見落としている気がしてならない。
「……光晴、その、ごめんなさい。少し出るのが遅くはなるのだけどこの呪文っていうのを試していいかしら」
気づけば考えるよりも先に口にしていた。だがどうしてもこの違和感を無視してしまうと、取り返しのつかない事が起こる。と、探偵としての直感が警鐘を鳴らしている。
「え⁉︎ うーん、でも先生がそう言うなら理由があるって事っすもんね。勿論俺は着いて行きますよ!」
「……ありがとう、必ず無事に帰るわよ」
礼を言いながらも、正直一番違和感を感じていたのは今目の前にいる光晴の態度だった。
確かに昔から土井乱歩の行動は全て肯定してくれていたが、ここまで聞き分けが良かっただろうか。家族に対し自分からコンプレックスを抱えていた子どもだとは分かっていたが、自分の意見を一切言わない様な人間になるよう学ばせた覚えは無い。
むしろ自己主張ができるよう、リハビリをさせる意味で助手として雇ったというのに今の光晴はまるで人形の様にすら感じる。
一生懸命魔法陣を書くための準備を手伝おうとしている光晴は、確かに目の前にいる筈なのに。じっと見ていれば、光晴は不思議そうに土井乱歩を見返した。
「先生? どうしたんですか、あっもしかして変なの食べてるからお腹壊しちゃいました⁉︎」
少し抜けた気遣いに、少しだけ口元が緩んだ。当の本人にはその気はないが、この真っすぐさに何度助けられただろうか。
「違うわ、少し考え事をしていただけ」
「なら良かったっす!」
人間を食らう化け物と屍肉に囲まれた建物に閉じ込められても、光晴は相変わらず太陽の様に笑いかけた。
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結論から言ってしまえばニャルラトホテプを召喚したのは正解だった。屋敷から出てしまった後では、一般人である土井乱歩に血液や死体など準備ができるはずもない。そのまま、死んでしまった光晴を助けることは出来なかっただろう。
そう振り返りながら、土井乱歩は一人事務所でティーカップを揺らす。鬼嶋が狂わず、光晴が事故に巻き込まれなかった平和な世界は存外普通だった。
タバコも一本位は吸いたい気分だったが、あと数分もしない内に助手がやってくるので紅茶だけで我慢する。
そうして隙間の時間を潰していれば、ビルの一室である土井探偵事務所の階段を上がってくる足音が聞こえてきた。
「先生、おはようございます〜!」
記憶の中と変わらない笑顔で、金髪の青年は屈託なく笑いながら事務所の扉を開ける。身体にはいつものウエストポーチと、事前に持ってくるよう言いつけておいた大きなボストンバッグを片手に持っていた。普段なら荷物を置いて、紅茶を淹れた後には調べた情報を依頼人に報告する為にまとめ直すか、書類整理を行う……のが探偵助手である光晴のルーティンだ。だが今日はすでに乱歩は紅茶を飲んでいるし、報告書もデスクへまとめられている。
「急にでっかいカバン持ってこいって言われましたけど、何に使うんすか? ……ってあれっ? ごめんなさい先生、それ……俺の仕事全部やってもらっちゃった感じっすよね?」
目を丸くしながら光晴は申し訳なさそうに謝罪する。始業前に勝手に乱歩がしたことであって、彼に非は無い。だが心の底から「俺の仕事を先生にさせちゃったな」と考えている。その素直さは光晴の美徳だ。だが、できればもう少し処世術を身につけさせてやりたかったと探偵は心の中でため息を吐いた。
「別にいいわよ。一応アタシだって整理や簡単な家事位できるんだし」
「先生はやらないだけですもんね!」
「そうね、今までは光晴がやっててくれたから。……けどそれも昨日までよ。光晴、もうここには来なくていいわ。アンタを正式に解雇する。解雇予告手当も用意したわ」
「え」
とさり、と中身が空っぽのボストンバッグが肩口からずり落ちて床へと落ちる。だが光晴はそれを拾うそぶりすら見せない。開き切った瞳孔に、ぶわりと吹き出る汗。人間の心理に長けていない者でも一目で分かるほどに、絶望の色をその身体で浮かべていた。
「な、なんでそんな、急に? え、えっと……、ああ! これもいつものやつっすよね? やだな先生、俺辞めないって言ってるじゃないですか」
思わず体調を気にかける言葉を言ってしまいそうになる位、光晴の顔は血の気が引いている。だがその元凶が心配するのはお門違いだ。なんて事はないと言わんばかりに、ソファに座りながらもう一度ぬるくなった紅茶を先に飲む。
「急じゃないし、今日のはいつもの注意じゃないわ。正式にアンタは土井探偵事務所の助手じゃなくなるの」
「せ、せんせ。なんで? 俺、確かに先生の助手としてちゃんと出来てないかもだけど、でもっ絶対役に立ちますから! なんでもします、先生、だから」
もつれる足のまま、なお椅子から立ち上がらない土井乱歩の元まで辿り着いた光晴はそのまま膝下に座り込む。そして続く声は、ほとんど音となっていなかった。だがそれでも聞き取れた。聞き取れてしまった。
「先生まで、俺を捨てないでください……」
「……助手じゃなくなったって、縁が切れる訳じゃないわ。ただ今までみたいに付きっきりじゃなくなるだけ。でもそれが本来の姿よ。探偵を本気でしたいのなら止めないけれど、光晴。アンタはそうじゃない。そうでしょう? そもそも、そんな半端な覚悟の子どもを今まで危険な目に遭わせてしまう助手として置いてたのがそもそもおかしかったのよ」
「せんせ、俺、おかしくても危険でも、いいです。縁が切れる訳じゃないって言ってるけど、でも頼りにされる事はなくなります、よね。せんせいに褒めてもらえなく、なるっす、よね」
必死に土井乱歩を見上げるその瞳からは、ボロボロと絶え間なく涙が溢れていく。それを見て良心が痛まない訳が無かった。例え健全さを欠いて歪んでしまっているとしても、光晴は出会った時から本心で乱歩を慕っている。
今では守らなければ、と当たり前の様に考えているし、自立する為の手伝いをしなければとも思っている。だからこそ、痛む良心を無視してでも、突き放さなくてはいけなかった。
「光晴。アンタが良くったってもね、アタシはおかしいのも危険な目に遭わせるのもごめんなのよ。……これ以上、困らせないで?」
それがとどめだった。カヒュッ、と光晴の喉から上手く息を吸い込めなかった嫌な音が聞こえた。
第三者から見れば、ひどく薄情に映るだろう。寂しそうにしていた子どもに手を差し伸べておきながら、結局はこちらの都合で一方的に手放すのだから。だがこれが間違った方法だとは露とも考えていない。鬼嶋の一件がなくとも、いつかは辞めさせるつもりだった。だから、これはその時期が早まっただけだ。
ひしゃげたボストンバッグを置き去りにしたまま走り去っていく光晴の背中を見送る。開け放たれた事務所の扉からは冬の冷気が足元から迫ってきたが、どうしてもすぐには閉じに行く気は起こらなかった。