2話「餌」氷の上に、氷よりも青白い顔をした奴が一人いる。その誰かさんは立ったままノートに何か書き込みながらも、時折、不審に体を揺らしていた。
「よぅ、スグリ」
「……」
「おうおう、だんまりかぃ。シカトはいけねぇよ、シカトは」
「……無視は、してない。何か用?」
「や~、散歩していたら、我らが最強チャンプ様を見つけたもんだから」
「……。用は?、」
スグリはノートは仕舞ったが、カキツバタの方を見なかった。
「んー。用ってほどじゃーないんだが」
「……、……」
何度も生唾を飲み込みながら苛々とした態度を示すスグリを見下ろしながら、カキツバタは何の用があったことにしようかと考えた。とりあえず、適当な言葉を重ねて時間をつなぐ。――御存知の通りオイラここの担当だからねぃ……色々知っておきたいことがあってねぃ……。
下がったままのスグリの手が、何かを誤魔化すようにグーとパーを繰り返す。ふと、スグリの視線が勢いよく反対方向に向き、急な立ち去る気配にカキツバタは言った。
「具合悪いだろ、チャンピオン」
「!、……、う」
鋭い視線が向けられたのは一瞬で、カキツバタがそれを認識した時には、既にスグリは俯いて手元の袋に嘔吐していた。袋を取り出したところもわからないくらいに、素早く――手慣れた動きだった。
「ぅ……、え、」
背中をそっとさすってみる。意外にもそれは拒絶されることなく、スグリの肩の力が抜けるのがわかった。
ひとしきり吐き終えると、取り繕う気が無くなったのか、這うようにして氷の割れ目に寄り、手で掬った水で口を濯いでそれも袋に吐き出した。袋をやりすぎなくらいに硬く縛り、スグリがのろのろと立ち上がる。
「……わかってて、話しかけただろ。意地悪、だよな」
紙のように完全に血の気の無くなった顔が虚ろな目のまま、彼は怒りのような表情の形を作る。もちろん、わかってて話しかけたというのは正しいし、限界が近いとわかってわざわざスグリを逃がさなかったのもそれまた正しい。意地悪というのも、本当は半分くらいは正しい。
「意地悪じゃーなくて、オイラここの担当だから、真面目~に起こりそうな問題に対処しようと思っただぜぃ」
ニヤ、と笑うと、焦点を取り戻したスグリの目が手元の袋に向けられ、ごめん、でも汚してないから、という小さな声が聞こえた。
「いやー、多少汚したってかまわんよ。何かのエサにでもなるだろーし。でも、体壊すまでやるのは良くねぇんじゃないかい」
エサという言葉に反応し露骨に嫌な顔をしたスグリが顔を背ける。
「……壊してはないし、必要なことだから」
「……。……あー、その袋、オイラんとこに捨ててけば?」
ふらりとした動作のままどこかへ向かおうとしたスグリを引き留める。スグリはある程度の質量を持ったその袋を眺め、ちらとカキツバタを見上げた。受け取ろうと手を伸ばしたカキツバタを見て、その目が少し見開かれる。しかし彼は袋をさりげなく隠すようにして、自分で捨てる、と言いながらポーラスクエアへの最短ルートとなる方向へ歩み始めた。
「……つらいんじゃないかい」
「……そのうち慣れる」
「慣れても、つらいもんはつらいだろぉ」
「それは、そうかもしれないけど、仕方ない」
スグリは義理堅い。自分が迷惑をかけたという自覚があるためか、普段よりも返事が返ってくる。カキツバタがそれをわかってわざわざ居合わせてみせたと、それすらわかっているのに関わらず。カキツバタは内心でチャンスだとほくそ笑む自分を自覚した。
「さすが最強チャンプ・スグリ様は覚悟が違うねぃ。……ただ、……そんなに根詰めて頑張って、それでも負けたら、どうすんだい。苦しむだけ苦しんで、自分の色んなモン賭けて……結果何も無かったら?」
それは真にスグリに対する警告であったが、一方でこの衣食住の保証された現代で、数多の人々を堕落させた言葉であることを、カキツバタは知っていた。
雪を踏む音と、ジャージの衣擦れの音、それから、例の袋が立てるビニール音。
温度の無い瞳がカキツバタを見上げた。
「……俺は、負けない」
「……そうかい」
それもそうか、とカキツバタは思った。考えてみれば自分が言うまでもない言葉ではあるかもしれない。きっと考えつかない人はいない。そして、考えないという判断をしたのだろう。この程度の揺さぶりでは動かないようだ。彼にとって多少の嘔吐くらいかまわないというなら、まだそれを考えざるを得ない状況でもないのだろう。
ポーラスクエアに着くと、スグリは上着に隠すように持っていた袋を自動販売機のそばのゴミ箱に中まで手を差し入れるようにして入れた。てっきり、水気の多い質量の、汚い音がするかと思ったが案外何の音も聞こえなかった。
そのままくるりと踵を返して何事も無かったかのような風を装い歩き去る背中を眺め、どうすっかねぃ、と呟いた。