7話「相手」スグリは激しい憤りに体を震わせてカキツバタを睨んだ。
確かに今日は練習試合だ。あくまで練習試合であって、リーグのランクは変動しないことにしている。新しい戦略を試したり、新しいチームを試したり、「より強くなるための」練習ができるようにだ。
あまりに弛んでいる部員が多いから、規則を変えて、この練習試合を最低週1回はすることを義務付けた。自分自身は積極的に他の部員の相手をしているから当然もっとやっている。レベル差がありすぎると大した練習にもならないので、ランクを持っている部員は公式試合で使った手持ちは使わないというルールも決めた。相手を見て手持ちのレベルや構成を変えて、相手にとっても学びのあるバトルにしようと心掛けている。
しかし、そういう配慮にも関わらず、相変わらず部員達は何も考えていなさそうな、しかも最低限このレベルまで上げておけと言ったラインすら下回るような手持ちで、戦略性の見受けられない行き当たりばったりの指示出しばかりだった。
今日の一試合目、カキツバタの前にやった部員もその最たるもので、先ほど叱責したばかりだった。
だから、二試合目、久しぶりにランクの無い部員ではなく、四天王のカキツバタが相手だったから、ようやくまともな試合ができると思っていた。なのに。
「なんだよ、そのチーム! 俺相手に!」
それなのに、あまりにも、あまりにも勝負にもならない、それどころか先ほどの部員よりもふざけた試合をしてくれたカキツバタは、両手を頭の後ろに回して馬鹿にするようにニヤニヤと笑っていた。
「ん~、タスキがむしゃらでんこうせっかっていう戦略があるって聞いてねぃ。試してみたくなったんさ。ま、ダブルバトル向きじゃーなかったけどねぃ」
「あたりまえ、だよなあ?!」
よしんばそれで1体倒したところで、レベル5がそれから何をするというのか。ついでに言えば今回は、がむしゃらすらできないまま、こちらの先攻2体のワイドブレイカーとなみのりによってそのまま沈んでいた。
「まーまー、練習試合ってこういうもんだろぉ? オイラはタスキがむしゃらを試せて満足、スグリはオイラがノルマこなして満足。」
「ふざけっ…!」
「スグリもオイラも、お互い好きなことやってるだけだぜぃ。練習なんだから、好きにやる。楽しくやる。それの何が悪い?」
カキツバタは、明らかに嘲笑とわかるような嫌らしい笑みを浮かべた。
「練習にもなってない! それでも元チャンピオン?!」
「元チャンピオンでも現チャンピオンでも、オイラはオイラ、スグリはスグリ。もう一度言うがねぃ、オイラは、いま、スグリの決めたノルマに、付き合ってやってるんだぜぃ?」
「そんなこと言ってるからいつまで経っても弱いんだよ! やる気が無いならなんでここにいる? 3留までしてそれ、四天王としても恥ずかしくないのか」
「ハッハッハ」
ぐ、と拳を握り込む。怒りを抑えられず顔を伏せていると、上から、今度はあまりわざとらしさのない、息で笑う音が聞こえた。
「おお、怖い。我らが最強チャンピオン様は、言うこと聞かないオイラのこと、ブン殴っちまうのかい?」
「……?」
視線を上げると、カキツバタが顎をしゃくって、握っていた拳を示した。カキツバタは目元からは笑みを消し、しかし口元だけで笑っていた。
「……ちゃんとした喧嘩、したことないんだろぃ? ちゃあんと手加減してやっから、ここらでひとつ、ツバっさんがやり方教えて……」
「やめ!! やめやめやめ!! スグリ、バトル楽しみにしてたんだから! カキツバタ先輩が悪いですって!」
アカマツがフライパンを振り回しながら飛び込んできたので、後ろに引く。カキツバタもフライパンに当たりそうになって、うぉ、と言いながら一歩下がった。
「スグリ! 俺とやろ! 俺まだまだ足りなかったし!」
ビュン、と音まで立ててフライパンの上のボールが目の前に突き出される。それに対して、ああ、と生返事で応じながら、カキツバタの言ったことを考えた。
確かに、カキツバタの言う通り、他人に手を上げるということについて、物語ではない生身の話としては、覚えがなかった。時々姉は手が出るよと脅してくるが、せいぜい覚えている範囲では頬を摘ままれ伸ばされた程度だ。壁や地面は何度も殴ったことがある。でも、本当に殴りたかったのは、自分のことだった。だから、殴った後の拳の痛みは一つの目的に応じた結果だった。……そう、今まで自分では、思っていた。
しかし、もしかしたら、違ったのだろうか?
自分を殴りたかったことも否定できないとは思っているが、それが本当に全てだっただろうか?
それはおぞましい思いつきも思えたが、反面、理解できないものでもなかった。
「……カキツバタは、俺を殴りたいって思ってる?」
「だから!やめだって!!」
「ヘッヘ……。直球だねぃ」
改めて、大きな体をした先輩の姿を眺める。実際に、現実に殴り合ったら、どうやっても自分が負けるだろうことは容易に想像がついた。それでも、手を出すという選択肢は、確かに一応存在するのだ。ただ殴り合うことや、あるいは他者に痛みを与えたいという、そのこと自体が目的ならば。
一方、カキツバタが挑発するだけで自分から殴りにこないのはなぜだろうか。そのうえ手加減するなどと言っているのはなぜなのか。
カキツバタからすれば、必ず勝てる勝負なのに。
だからこそなのだろうか。
たとえ、いくら殴りたいという衝動が存在したとしても、それよりも更に、それで勝ちたいとは全く思えないくらいに、実力差が見えているから。
絶対に勝てる、弱い相手とやる勝負は、つまらないし、自分が悪いことをしているような気になるからだ。
奪ったお面を、バトルに勝ったら返すと言って、なぜ相手は、それでも勝負を渋ったか。
バトルに勝った方が鬼の相棒になれると言って、なぜ相手は、困った顔でゼイユを見たか。
「おいおいおいおいスグリ!! 本当にやめろって!!」
見ればアカマツが、硬く握った自分の拳を手で無理矢理ほぐそうとしていた。ぐいと手が開かせられ、なぜかそのままアカマツとの握手の形で固定される。
その後ろで、どことなくギラついたカキツバタと目が合い、スグリは眉を下げた。
「……ごめん、別のこと考えてた」
「……ハァ。そうですかい」
「ホント? スグリ、もうとりあえず今日は終わりにしよ! そんなことよりピクニックして俺特製の激辛サンド食おうぜ!」
アカマツにガシリと肩を組まれて連行される。アカマツがひっきりなしに話しかけてきて、しかもいちいち返事を求めてくるので、そして、それ以上考えたって良いことがないとわかっていたので、考えることをやめた。
二人の後ろ姿を見送り、カキツバタは、ため息を吐いた。もしここにタロやゼイユを筆頭とする女性陣が居たら非難の嵐だっただろうが、今日は何か女子だけでどこかへ行く予定があったようで、幸いにして居なかった。練習不足の手持ちを出してスグリに怒鳴られた部員1人とアカマツが居ただけだった。その出席率の悪さもスグリの苛立ちに拍車を掛けたのだろう。それに引きずられて自分も、どこかいつもよりも苛立ってしまった、ような気がする。つまり、これが空気を悪くするということだ。だからこういうのは嫌なのだ。
ガシガシと頭を掻く。
スグリが言うように、自分はスグリを殴りたかったのだろうか?
確かに苛立っていたことは認める。だが、スグリの拳は自分のことを殴りたくて震えているものだと思い込み、そのご期待に応えようと挑発し返した部分も大いにあると思う。
彼に殴られてもピンピンしている自分は想像できたが、どうも自分が彼のどこかを殴る姿は、想像できなかった。
じゃあ何か。ただ殴られたかったとでも? そんなはずはないだろう。ならば喧嘩をしたいだけ? その上まさか本当にスグリに喧嘩の仕方を教えて、ちゃんとした喧嘩でもしたいって? そんなことが有り得るだろうか? だとしたらなぜ?
「オイラまでおかしくなってきちまってるかい?」
「え、あ、えっと、そんなことは、ないと、たぶん、思いますけど……」
近くにいた例の部員に話を振ると、彼は言葉を濁した。
部の雰囲気どころか、変わりたくないこの自分まで変えられつつあるとしたら、それは由々しき事態である。
何とはなしにボールから出した硬質のドラゴンの姿は当然ながらいつも通りだった。
「チャンピオン様に怒られないように、ちょっくらオイラと練習してくか?」
「は、はい、お願いします!」
後輩に色々なことを教えることは、そもそも元々嫌いではなかった。
だが、そういえば。
もう誰の顔も思い出せない先輩も、同輩も、3留している間に全員卒業してしまっていた。
だから、後輩以外の――例えば同格の相手に対してかつて自分はどう接していたかを、もう覚えていないことに、今気が付いた。