8話「覆書類」「あっ」
紙袋が破れ、書類と本があたりに散乱した。確かに書類を山ほど詰めた上に図書館から借りた本まで押し込んでしまったし、その上に大した高級品でもないその紙袋は何回も使った後だったから、本来予想できたことだった。
なぜ布製の袋を持ってこなかったのか、自分は何をやっているんだ、そう悔みながら廊下に広がった書類をかき集める。
せっかく整理したのに、クリップも外れて順番がめちゃくちゃだ。廊下は、テラリウム帰りの学生の靴の汚れで水や泥が付いている。少し離れたところで書類にじんわり水が浸み込んでいくのも見える。
ひとまず端の方まで飛んで行った書類を手元に寄せていくと、端の方をそろそろと他の学生が通り始める。
通行の邪魔になっていることは知っているし、資料を踏まれても困る。だから早く集めないといけないのだが、紙袋は破れてしまったから、なんとか手元で持ち運びが可能なくらいにひとまとめにしきらないといけない。しかし、焦って山積みにすれば、山が崩れてしまう。
自分が昨日罵倒したリーグ部員が遠巻きに見ているのは、気付いていた。
彼が、しばらく、何かしそうでしないような意図の読めない動きをしていたのも見えていた。
そして結局、彼が廊下を渡ることを諦めて引き返して行ったことも、知っていた。
でも、そのとき自分には、その動きが、手伝おうかどうか逡巡した末に辞めたということを認識できていなかったし、だから責めるつもりは、本当に、全く無かったのだ。
それからリーグ部の部室に行ったのも、ぶちまけた廊下から部屋よりも教室よりも図書館よりもどこからも近くて、廊下で湿った書類を軽く乾かしながら整理したかっただけだ。本当に、その部員を追いかけて責めるつもりなんか、これっぽっちも無かった。思いつきもしないくらいに無かった。
もっと言えば、――自分の体調さえ気遣ってなかった自分に、他人の体調、まして心の調子なんて、何も見えていなかった。
書類を、リーグ部のテーブルに、乱暴にも聞こえるような音を立てて放ったのは認める。書類をぶちまけてしまった自分のミスに腹を立てていたし、書類の順番が乱れたことも、どこかしら濡れたり乱れたりしたであろうことも、時間を無駄にしたことにも、苛立っていた。
でも、本当に、その部員に腹を立ててわざわざ部室まで追いかけた挙句、当てつけにテーブルに書類を叩きつけたというわけじゃないのだ。
だから、彼がなぜか横で土下座をはじめて、変な、震える声で謝り始めたのも、今考えればおかしな話かもしれないが、自分とは無関係のことだと思ってしまい、書類整理のことでいっぱいの頭には入っていなかった。言われてみれば、部室で土下座なんて異常事態だし、もちろんそんなこと、自分も自分からさせようとしたことなんて一度も無いが、ただ、自分に関係しない他の部員同士でそれが起こるなんて、それこそどう考えたってありえないことではあった。
だから、他者の目には、無視しているように見えるのも、それは仕方が無いことだった。
「……黙って見てたけど、それはさすがに酷いんじゃねぇかい、スグリよう」
「えっ?」
そこで、初めて気が付いたのだ。カキツバタの冷たい視線と、土下座したまま肩を震わせる部員と、俯く他の部員達に。
もしその一瞬で正しい状況把握ができたのならば良かった。しかし、その事態に及んでなお、自分はまだ無関係で、逆に何かに巻き込まれようとしているかのように捉えてしまった。
「は? いきなり何? 関係ないでしょ。そっちで勝手にやってれば」
「オマエさん……」
土下座していたリーグ部員が顔を上げる。目元と、顔が真っ赤で、濡れていて、要するに泣いていて、びっくりした。
「え?……」
そのリーグ部員は立ち上がり、顔を腕で覆い隠し、走って部室から出て行った。それを追うように、他の部員が次々に出ていく。溜息とか、舌打ちとか、その彼を気遣う声とか、そういうのが遠くに聞こえた。残ったのは、自分と書類と、カキツバタだけだった。
「スグリよう、いっくら強くったって、人傷つけて良い理由にはなんねえだろ」
「何が……?」
「人の心より、この紙切れの方が大事かい? ああまぁ確かに、チャンピオン様が寝食削って調べ上げた結果には価値があるだろうけどな」
カキツバタが指し示した書類は、広げた中でも一番汚れていて、下半分は読むのも厳しいくらいではあったが、頑張れば読めるだろうし、そもそも内容は別に取り返しのつくものだ。何を言っているのだろうか。
「オマエさんだって、ちょっと前まではそういう立場じゃなかったかい? なのにあんな風に人泣かせて、つらい思いさせて……」
困惑しながらも、おそらく、紙袋を破いてしまった自分のミスで、書類も汚れ、時間を無駄にし、部員が泣いて、カキツバタが怒ったという因果の流れは、なんとなく察した。なんで自分は布の袋を使わなかったのだろうか。なんで袋が一杯なのに図書館で本を借りたのだろうか。なんで自分は何事もうまくやれないのだろうか。
「……。オマエさんも、似たような顔か」
ふと目の力を抜いたカキツバタに、自分もいつの間にか緊張していた体の力が抜ける。上手く立っていられない気がして、椅子を引いて座ると、すぐ隣にカキツバタも座った。
「何があった?」
困ったように眉を下げたカキツバタの表情からはどういう感情を読み取れば良いのだったか。
「書類と本、俺が紙袋なんかで持って帰ろうとしたから、紙袋が破けた」
「それで?」
「拾った」
「どうやって?」
「手で。こうやって」
テーブルの上の書類に手を伸ばし、先ほどしたように、かき寄せる。もう全て乾いていたが、多少皺が付き、ボコボコしていた。
「一人でかい?」
「一人で」
「周りに人はいなかったのかい?」
「周り? いたよ」
さっさと書類を整理して、さっさと練習を続けたかった。こうして座って、こんなペースで人と話をしていたら、眠くなってしまう。でも、どうも頭がうまく働かない。さっさと、時間の無駄だと拒絶して書類を整理すればいいのに、質問されるから答えてしまう。
「誰がいた?」
「知らない人たちと、さっき泣いてた彼もいた」
「誰も手伝わなかった?」
「ああ、うん」
カキツバタが妙に優しい声を出した。
「スグリは、それが嫌だったかい?」
「嫌って? 何が?」
「……そっかぁ」
カキツバタが伸びをした。もうこの禅問答は終わりということで良いのだろうか。
眠気を堪えて席を立とうとすると、隣のカキツバタが先に席を立ち、立ち上がらせないとでも言わんばかりに上から軽く肩を抑えてきた。
「オイラ、ちょっと、出てくるから、スグリはここにいろぃ」
「は? それこそ嫌だけど」
「いいから」
カキツバタが目の前の書類を押しやり、そのスペースに自分の食べかけのお菓子を滑らせてきた。
「喰っていいから」
「……食べかけを?」
「個別包装だから問題ねえだろぃ?」
どうせ食べたくもないし、どうでもいいことだった。無視していれば、手をヒラヒラさせながら、彼は出て行った。
だから、自分は、書類をあらかた整理して、部室にストックしていたビニール手提げ袋を今度こそ破れないように二重にして、その中に書類を入れて。
誰も居なくなった部室を出て行ったのだ。
『誤解』を解くための、傷ついた部員達との仲直りの場が設定されようとしていたなんて、わからなかったから。