【犯人のなり方 ヤコウ=フーリオの場合】
今朝はユーマが先に起きていた。
点々と灯る間接照明に誘導されつつもしっかり段差に躓いて、寝ぼけ眼の幽体パートナーに有り難い嘲笑を頂きながらシンクの冷水を浴びる。正義を翳す濃紺の制服に腕を通せば、生乾きだったが今更だ。雨の街で服を乾かす方が難しい。
事務所の隅で騒音レベルの寝息を立てる同居人に落ちた毛布を掛けてやりながら「ご飯、買ってきますね」とメモを置く。ベッドには草臥れた書類が落花狼藉、ヤコウは昨夜日付を跨いでも尚此れに悪戦苦闘していたのだと思い出す。手伝いを申し出たが『子供はさっさと寝る。お前はお前のできることをしろ、明日の食料調達係とかな!』と大人の顔で躱されたのだ。先に渡された小遣いは何時もと変わらず、近場の安価な屋台でしか食事をしないのは如何なものか。
甲板に出れば昼夜も問わずネオンと雨粒が注がれ、鬱蒼とした人々のざわめきがある。此の街の特有か、眩い蛍光の化粧は何処か人の暴性を掻き立てる様であった。穏やかではない喧騒を縫う。其の中に混じって保安部の影もちらほらと、尻の座りが悪く、ユーマは帽子を目深に被り直した。
(それにしても…あんなイビキがしてる中熟睡ができてるの、順応してきてる感じするなぁ)
(ちょっとソレ、オレ様ちゃんにも適用されるじゃんやめてよ〜!)
視界の前後左右でふわふわと抗議する靄に苦笑しながら店先で熱いハトロン紙を受け取る。体格の良い強面の店主ともすっかり顔馴染みになってしまった。おまけの饅頭と偏食の小言も詰められ(商人がそれを謂っては終いではないのかとも思うが黙る)折角の朝食が冷める前に早足で帰路に就く。トタン塗れの迷路を潜って川の上の探偵事務所へ、出掛けてから戻るまでさしたる時間もなかった筈だが…艙口に見慣れぬ封筒が挟まっていた。防水の工夫はされているが手紙というのが何とも珍しい。連絡手段を制限されているカナイ区ではアポ無しの依頼人が秘密基地にも似た興信所へ赴く事が屡々だ。丁寧に封をされた白い書状の宛名には印字で「ヤコウ=フーリオ 様」とだけある。依頼人の情報を詮索する事も出来ないがまずは大人しく当人へ渡すべきだろうと持ち帰った。湿気に負けたエンパイアブルーが先程のユーマよろしく冷水の洗礼を受けていた。水滴の残る顔が出迎える。
「あ、起きられてたんですね。おはようございますヤコウ所長」
「おぉユーマ、メシ買いに行ってくれてたんだろ?ご苦労さん」
「『たまには肉まん以外の飯も食え』との伝言も預かってますよ。ボクもそれには賛成です」
「いやぁ〜枯れたオッサンには高価なぶれっくふぁあすとなんてもったいないからな。ここの肉まんで寿命を減らせるなら本望だよ」
「まったく……ボクの食費も削減してる言い訳にはなりませんからね」
蒸れた朝食に浮かれる横顔を咎める気にもなれず、ユーマは二人分のマグとコーヒーメーカーの電源を入れる。食卓に仕事の話は忍びなかったが、何となく依頼が気になってヤコウの前に封筒を重ねた。サングラス越しの瞳が郵便物を訝しむ。
「買い物に行って戻ってくるまでに挟まってたんです。急ぎの件かと思って」
「わかった、見ておくよありがとう」
横一文字に破かれた状袋の中身に何故か焦燥を駆られるのは記憶を無くす前の自らの性(さが)なのだろうか。顔色を変えぬ上司に湯気が昇る珈琲を差し出すが、伸ばしかけたヤコウの指は何かに吸い寄せられるように空を切った。「ユーマ、」と上擦った声が降る。
「ちょっと、悪いが席を外してくれるか?これでみんなとメシ食ってきてくれ」
渡された紙幣に驚く。ホテルのビュッフェを賄う額を惜しまず預けられている。
「えっ、構いませんけど…ボクがケチって言ったからですか」
「はは、違うちがう。依頼人のプライバシーのためってところかな。たまにはボーナスでも振るわなきゃ所長の印象操作だよ、な?」
「それならいいですけど……」
再び乾かぬコートを羽織る。平常と様子の違う此の人を放っておくのは些か気が引けた。最後まで依頼の内容を探ることもままならなかったが、興奮気味のヤコウの口角に、
「随分と機嫌がいいですね。大仕事ですか?」
「ああ、昔のツケが精算されそうでな、ボーナス、期待しとけよ?」
「楽しみにしてます。…では、行ってきますね」
夜行探偵事務所の探偵は生涯一人、そして其の探偵もまた、居なくなる――――――――…
手八丁口八丁は慣れたものだったがユーマの顔を見た限り成功しているかどうか。
一人きりの事務所で漸く酸素を与えられた気分だった。深呼吸代わりに、ヤコウは引き出しから新しい煙のパッケージを手繰る。血を忘れたかの様に震える指先はたった一本に火を付けるのにさえ時間を掛けた。気休めの煙だったがやはり味はしない。紫煙もそこそこに灰皿へ押し付けてしまう。
亡くしてから、随分と本数が増えた。迎えた事務所の面々も嘗ての君の様に禁煙を勧めてくるが、
(早く君に逢うための口実だからな、アイツらには悪いけど…禁煙は無理そうだよ)
気づけば胸元に忍ばせた写真の角をまた撫でていた。すっかり丸くなったポラロイドの四つ角は未練の証拠でもある。
超探偵を迎え入れた事で既に概ね『トリック』は完成しつつあった。突如として奪われ屠られ有耶無耶にされた恋人を数年掛けて「思い出」にしたと謂うのに。綺麗に羅列した真実は傷口を穿りヤコウを嘲笑うかの如き残虐を孕んだ。『動機』まで、与えられた。
(アイツらにはもっと探偵らしいところでも見せてやりたかったが……)
――――――――探偵(犯人)としての最後の晴れ舞台だ。人生を掛けた最高のハウダニットを、作ろう。