誤字本「先生。えっちしよう」
そう言ったタルタリヤは、黒い液体の入った小瓶を指で摘まんで揺らした。たぷんたぷんと揺れるその液体はどう見ても水ではなく、鍾離は少しばかり目を細める。先ほどまで、美味しい料理に舌鼓を打っていた筈なのに、鍾離の家まで来た途端これだ。重たい息を吐き出しそうになるのも仕方ないだろう。
「公子殿。お前はもうちょっとまともな誘い方は出来ないのか」
そう言って視線を窓の外へと向ければ、璃月の美しい夜景が視界に入る。現在、稲妻では祭りが開かれていると言っていたが、璃月港の夜の街並みは、毎日が祭りだとでも言うように賑やかだった。淡い暖色系の明りを灯す提灯に、楽しそうに笑いあう恋人達。その全てが鍾離の心を穏やかにしてくれるというのに、視線を戻せば口に手を当てたまま悩む男がいる。
「まともな誘い方……。セックス? 性行為……エッチ……情事……。はっ! 先生! 俺と一発どう?」
鍾離の口からは我慢できずに、重たい息が溢れた。きっと期待するだけ無駄なんだと、自分の長年の経験が言っている。とりあえず、彼はきっと幼子から成長していないと思った方が良い。鍾離は全てを諦めて優しく微笑んだ。
「公子殿。一応聞くが、その手に持っている液体はなんだ?」
「え? 黒いローション」
「ほう……。ん? ……すまない。もう一度良いか?」
一瞬、音が右から左へと高速で駆け抜けた気がする。聞いてはいけない言葉と脳が認識したのか、あるいは……。
「え? だから、黒いローションだよ! 六千年以上生きてきたから、耳が遠くなっちゃった?」
聞いてはいけない言葉ではなく、聞きたくない言葉だったようだ。けらけらと楽しそうに笑うタルタリヤに、鍾離は頭痛を感じながら額に手を当てる。ズキズキと痛むその視界でタルタリヤを見れば、彼は少しだけ赤い顔をしていた。
その瞬間、思い出したのは先ほどの食事の風景。タルタリヤがいつもより酒を飲んでいたような気がする。そうと分かれば、鍾離は深い息だけ吐いてタルタリヤの手を掴む。
「公子殿。お前はどうやら酔っぱらっているようだ」
呆れたような音を零しながら、そのまま寝台へと歩を進める鍾離に、タルタリヤは目を大きくして、小瓶を揺らした。
「せんせ~! 大胆! えっちする!」
「しないぞ」
「えー! 据え膳食わぬは男の恥だよ! なんでぇー!」
よたよたと歩きながらそう言ったタルタリヤに、鍾離はついつい目が細くなる。脳裏に吞兵衛詩人が浮かんだような気がしたが、きっと気のせいだと言い聞かせながら歩く足は、いつもより少しだけ早かった。
そうして寝台へと行き、タルタリヤを投げると、タルタリヤは情けない声を出して布団の海に飛び込む。
「ふぎゃっ! せんせ~……。乱暴~。そんなんじゃぁ、俺、興奮しな……いや、するな?」
「すまない。寝てくれ」
ごろんと寝転がったタルタリヤは、くすくすと笑って小瓶を揺らす。その姿はまるで猫のようなそれで、鍾離はもう一度溜息を零した。気分が良いのか寝る気の無さそうなタルタリヤは、一人で何かを喋っている。この男を寝かせる為の策を考えていると、ふいに小瓶が目に付いた。
黒いローションなど聞いた事がない。表で出回らない品だったとしたら、体に害があるかもしれないと口を開いた鍾離に、タルタリヤはにんまりと笑った。
「その黒いローションとやらはどうやって手に入れたんだ?」
「あ、なに? 気になる? ……んふふ……。これねぇ~……。俺が作った!」
けらけら笑いながら足をじたばたさせるタルタリヤに、鍾離は体全身が石化でもしたような感覚に陥った。ピシッと体が固まり、思考回路が停止する。そんな鍾離を置いて行くように、タルタリヤはもう一度ごろんっと寝返りをして、俯せの姿勢のまま小瓶を指で転がした。
「最初は、先生の事を考えて、岩スライムの原液を入れたんだけど。岩スライムはもしかして粘着的には硬い? 俺の尻死ぬ? って思って、炎スライムの原液も入れたんだ。でも、炎スライムって熱くね? ってなって~……じゃあ氷だぁ! ……あれ、氷は冷たいよな? ……水も入れよう。ぬるぬるしそうだし。……じゃあ! 全部集めて入れよう! って思って、全部のスライム原液を入れて混ぜたんだ!」
一人で楽しそうに話すタルタリヤは、まるで暴走列車のように鍾離を置いていく。キラキラと眩しい笑顔から飛び出すとんでもない言葉に、鍾離はまた頭痛を感じて頭を押さえた。
「何から説明したら良いのか分からないが、それでは黒にならないだろう……。黒は何を入れたんだ?」
「タコスミ」
「たこすみ」
けらけら笑っていた筈のタルタリヤが、急に真顔でこちら見る。頬は未だ赤いのに、深淵の瞳はどこまでも暗く、流石の鍾離も少しだけ後ろに下がった。
「スライムを狩って……狩って……狩りまくったんだ。でね。あれ? 俺なにしてんだろう? って思ったんだよ。先生、俺はただ、ローションという名のスライム原液を先生にぶちまけてからネタ明かしをして、先生が失神する姿を見たいだけなのに、原液まみれになってんの俺じゃね? って気付いたら……もう、たこを捕まえるしかなかったよね。たこに無理やり墨を吐かせて、この小瓶に入れたまでは良いよ……。え、俺これに触りたくないんだけど……って思ったから、取り敢えず先生にぶっかけたいんだけどいい?」
虚ろな目で笑いながら近づくタルタリヤに、鍾離は全力でシールドを張る。自分も酔っぱらっていたら、遠慮なくタルタリヤの顔面を殴れるが流石に素面だと難しい。腹にするか、手刀にするかを本気で悩んでいたら、タルタリヤがにっこりと笑って、こちらに瓶を投げた。
「せんせい……。さぁ! えっちしよう!」
シールドにべちゃっとついた黒いどろどろ。鍾離の身体はその光景に震え上がり、混乱する頭の中で目の前の男の腹に拳を入れた。
その瞬間、ごふっという声が聞こえ、酔っ払いが一人床に倒れる。そんな事さえ気にならない鍾離は一人、手で顔を覆いその場で蹲った。ふるふると体を震わせ、シールドが剥がれたのと同時にべチャッと落ちたそれに怯える。
彼もまた、自覚がないだけで、しこたま酒を飲んだ酔っ払いに過ぎない。
ただ、タルタリヤと大きく違うのは、彼は決して今日の事を忘れない。
「明日の朝……、思う存分抱き潰してやろう」
そう言いながら、黒い液体を見て怯えた鍾離の姿は、やはりただの酔っ払いにしか見えなかった。