Easy as Pie 庇われたと気づいた時には谷ヶ崎は地面に倒れていて、彼を刺した男の喉を掴んでへし折った燐童が駆け寄った時には、腹部に滲む赤はすでに滴るような量になっていた。
「……谷ヶ崎さんっ!」
駆け寄って、脱いだ上着で血まみれの腹部を押さえる。
「いてぇ、」
「そりゃそうでしょうよ!腹切られてんだから!……どうして僕を庇ったりなんかしたんです!」
「うるせえ。あのまま刺されてたらお前、死んでただろうが、」
だから自分の体を盾に庇ったのだと、谷ヶ崎は当たり前のように言った。
「文句は、聞かねえぞ」
「もうバカっ!」
「は、」
谷ヶ崎が息を吐くように笑う。傷が痛むのだろう。当たり前だ。大振りのナイフの先を引っ掛けるようにして切られた腹は、肉がぱっくりと裂けていて、出血量も多い。谷ヶ崎の反応も徐々に鈍くなっている。早く傷を塞がなければ……だが、どこで?
半グレ集団の始末を依頼され、彼らがたむろする波止場側の廃倉庫に来ていたが、この辺りは戦争による人口減と中王区の政策により、一帯が廃墟と化している。
戦後の復興が進んでいるのは隣の地区で、やたら立派な総合病院が一件あるが、駆け込んだところで「この顔にピンときて」通報されて終わりだ。
金で何でもやるような町医者を探すべきだが、そこまで谷ヶ崎がもつとは思えない。
半グレ集団もまだ半数近くが生きている。倉庫の外、木箱が積まれて死角になったところにいるおかげでその気配は遠いが、見つけられるのも時間の問題だろう。
燐童の背に冷たい汗が流れる。
「オイ、谷ヶ崎死んだか?」
近くにいたクソガキ共を片付けてきたのだろう有馬が、木箱の向こうから顔を出すなり恐ろしいことを平然と言った。
「ありまさん!」
「うるせえ燐童、耳元で大きな声、出すな。有馬も、勝手に、殺すな、」
いつもより力のない声だが、いつも通りに小言めいたことをいう谷ヶ崎に、目の奥がツンと痛くなった。
「ン、よし生きてんな。いま時空院のやつが車とかいるもんパクりに行ってるからよ、」
そばにしゃがんだ有馬は血に汚れ、随分と埃っぽくなったジャケットを脱いで裏返し、丸めたものを谷ヶ崎の頭の下に無造作に突っ込んだ。そして座り込んだ燐童の足の上に愛用の銃を置いた。
「それまで踏ん張れるな?」
「…ああ」
「ヨッシャ」
頷いた谷ヶ崎の頬をぺち、と甲で叩き、返す手で同じように燐童の頬も叩く。
「ありまさ、」
「また後でな」
口角をあげて珍しい笑顔を見せた有馬は、立ち上がって走り出すなり、途中にあった木箱をわざと蹴り倒し「オラどこ見てんだとっととかかって来いや!まとめて相手してやるからよ!」と声を張り上げた。
次いで聞こえてきた複数人の罵声や怒声、それからマイクの起動音。有馬が囮になってくれたのだと気づいたのは、それらの声が随分と遠くなってからだ。代わりに聞こえてきたのは車の走行音。
あちこちに擦り傷のある年代物の白いバンが、燐童たちのいる木箱の前にバックで停車する。
「伊吹〜まだ生きていますかぁ?」
運転席から降りてきたのは時空院で、有馬と同じような軽口を言いながら、にこにこと谷ヶ崎たちに手を振った。燐童はほっと息を吐く。
「…生きてる。見りゃわかんだろ」
「ええ。でも、かろうじてって感じ」
時空院が後部ドアを開く。ブルーシートが敷かれたそこに、2人がかりで谷ヶ崎を運び入れる。
谷ヶ崎のうめき声は随分と弱い。顔色も悪い。触れた手も冷たくて、意識ももう殆どないような状態だ。今から病院を探して間に合うのか。地面に落ちた血の量にぞっとする。
「阿久根くんぼうってしてないで、手伝って下さい」
「は、はい。何をすれば?」
「ここで伊吹の傷を塞ぎます」
意味がわからず呆然と時空院を見る。彼の手には小さな穴がいくつも空いた特徴的なアルミニウムのケースがあり、後部座席のアシストグリップには点滴パックがいくつもぶら下がっていた。
まさか総合病院から奪ってきたのだろうか。それなら相当の騒ぎになっていそうだが、辺りからは有馬と半グレの揉める声が時折聞こえる程度だ。
燐童の疑問に構わず、時空院は座席に置いていたコンビニ袋から親指大ほどの小さな薬瓶とポンプ、注射針を取り出すと、慣れた手つきで複数の薬剤を吸い出して点滴パックへ注入していく。
「抗生剤と鎮静剤、あとはおまけのビタミン各種です。ルートが取れたらすぐに始めますから、阿久根くんは傷口の洗浄をして下さい」
「……分かりました」
ハサミと生理食塩水のパックを受け取る。躊躇する暇なんて無かった。谷ヶ崎の血に塗れたシャツをハサミで割き、腹部を露出させる。
真っ赤だ。点滴パックに針の太めの注射針を刺して、そこから生理食塩水を搾り出す要領で汚れた傷口を洗う。
薄まった血がだらだらと後部座席から流れ落ち、地面に細い川をつくりはじめるころ、ようやく時空院が「それくらいで結構」と言った。
ナイフが横に滑ったのだろう傷は、腹の中程から脇腹にかけて十数センチほど。幸いにも内臓には届いていないようだったが、出血が多い。脈拍に合わせて切れた血管から、どく、どくと血があふれる。
時空院は谷ヶ崎の腕を取ると留置針を刺し、あっという間にルートを確保してしまう。それから「気休めですが」と上腕に注射を打った。
「痛み止めです。申し訳ないですが、ここに麻酔なんて上等なものはありませんからね」
両手に消毒液がぶっかけられ、滅菌グローブを投げられる。
「阿久根くん、助手を。まずは出血箇所を探して止血します。モスキート鉗子、そう、そのハサミのような器具です。それで血管を挟んで留めて」
言われるままに傷口にガーゼを当て、切れた血管を探しては鉗子で挟んで止血する。
痛むのだろう。谷ヶ崎がうめき声をあげ唇を噛むと、すかさず時空院がその口にタオルを押し込んだ。
「噛むならこれを噛んでいなさいすぐ終わりますから」
どこかのマッドサイエンティストのような仕草で滅菌グローブをはめながら、にっこりと笑った時空院は、鉗子で縫合針を摘んで構えるなり、切れた血管を素早く縫い始めた。
断裂した部分に引っ掛けるようにフック状の縫合針を突き刺し、くるりくるりと糸を巻いて縛る。
「ここ、なるべく縛ってあるところギリギリで切って。
「こんな1ミリもないくらいで大丈夫なんですか…?」
「長めに残したらお腹の中がチクチクしちゃうでしょ」
体に吸収される糸だから抜糸の必要はないらしい。刺して巻きつけて縛って、切る。血が止まっているのを確認して鉗子を外す。繰り返し十数回。
「生食かけて」
残っていた生理食塩水を言われるまま傷口にかける。滲んでいた血が流れ、あらわになった傷口を2人でじっと見つめる。
新しい出血は、無い。
「阿久根くんそこの抗生剤ぶっかけて。次は傷口を縫い合わせます」
20ミリのポンプに用意されていた抗生剤を傷口にかけて、小さなメス刃を手にした時空院が皮膚の汚れた箇所や、歪に千切れた箇所を丁寧に除去したあと、肉と皮膚を寄せて縫合していく。驚くほど手際がいい。
「伊吹は気にしないだろうけど、私が嫌なので、なるべく綺麗に縫いますね」
指示されたるまま指で傷口を寄せるように固定すれば、そこに針が突き立てられ、糸が通る。それをまた幾度か繰り返し。
「糸切って。これは長めに残して」
腹の中に使われた糸とは違う、少し太くて硬めの糸だ。これは溶けないものらしい。
指示された通りに動きながら、痛そうだな早く終わってほしいな、どこか麻痺したようになった胸の中でひたすらそう思った。
最後の糸が切られる。
時計を見ればバンが到着してから1時間半ほどが経過していた。辺りもしんとしていて、先ほどまで聞こえていた半グレたちの悲鳴ももう無い。
血まみれの器具をアルミケースへ無造作に放り込んだ時空院は、窓を背にぐったりと座り込んだ。
外した滅菌グローブを投げ捨てて「はあ疲れた」と言い、続けて木箱の向こうに「君もお疲れ様でした」と声をかける。
暗闇から現れたのはいかにも草臥れた様子の有馬だ。マイクは起動状態だが、不自然に明滅している。長時間の連続使用で、オーバーフローを起こしているのだ。
使用者の有馬にも強烈な負荷がかかったはずだ。極度の興奮状態により毛細血管が切れたのだろう。鼻から溢れた血を無造作に拭って、ふらふらと歩いてくるなり、後部座席のスペースに倒れ込んだ。
「うっ」
その頭部がアルミケースにぶつかって、中身がぶちまけられる。そのまま転がって、天をむいたケースの側面に『動物病院』の印刷があるのに気づいた有馬が「だはは!」と鼻血を飛ばしながら笑い、
「どーぶつ!びょういん!」
復唱した。
「明日避妊手術の予定だった、ハスキー犬のユキコちゃんのをお借りしてきました」
なるほど動物病院なら、器具や薬剤を盗み出すのも比較的簡単だったろう。
「避妊手術延期になってしまのは申し訳ないですが、伊吹のためですから。ごめんなさいね」
「ひっ、ひっ」
時空院の軽口にしばらく喉を鳴らしてひきつったように笑っていた有馬は、けれど唐突に動かなくなった。
「有馬さん…っ」
呼びかけに反応はない。完全に気を失っている。
有馬のラップアビュリティは先制攻撃が基本。奇襲を仕掛けて撹乱し、広範囲の攻撃で多数を仕留めるものだ。マイクの形状そのまま、短く切ったショットガンのように、対多数の戦闘で本領を発揮するが、長時間の運用には反動が大きく向かない。有馬自身も自分の特性をよく理解していて、いつもであれば先制攻撃に使用し、その後は谷ヶ崎や時空院のサポートに回ることが多かった。
それなのにチームのためにたった1人で戦った。
……僕のせいで谷ヶ崎さんも、有馬さんも、こんな…。
「阿久根くん」
呆然と座り込んだ燐童を、時空院がいつも通りの声で呼ぶ。ハッと顔をあげてそちらを見る。
「申し訳ないが私も限界です」
その顔色は青白く、いかにも温度がない様子で。
「実は足を撃たれていまして。伊吹ほどではないが、それなりに重症です」
そんな、どうして、子供のように意味のない問いかけをしようとした燐童の声を、塞ぐように時空院が続ける。
「だから君に頼みます」
「っ」
無意識に丸めていた背筋が伸びる。
動きを止めていた頭に血が通い出す感覚。治療をのぞめる場所。必要な資金。当座の隠れ家。全員が生き残るためにやるべきことが何パターンも組み上がっていく。
「ええ、任せてください」
時空院は「さすがに疲れました」とため息をつくなり、そのまま気を失ってしまう。撃たれらしいその太ももは、キツく巻きつけた布ごと真っ赤に染まっていた。
急がなければならない。
燐童は3人が転がった後部座席から運転席に移動し、エンジンをかける。
「……、」
一度だけ、シンと静まり返った背後を振り返った。
血まみれで倒れる3人の悪党たち。
ここで死ねば、喜ぶ人間はきっと大勢いるだろう。
でも、これが燐童が中王区に裏切られて以来、否定して、でも心のおく底ではずっと欲しがっていたものだ。
絶対に失うわけにはいかなかった。
視線を転じれば、波止場の向こう、海と空の境界線がわずかに明るくなっているのが見えた。
じきに夜が明けてしまう。
光に背を向け、闇を目指すように、燐童は車を発進させた。