タカは飢えても穂を摘まず 中 翌日の早朝、まだ日の昇る前に鷹山は一人沢へ行った。鷹山が毎朝沢に行くのは、もちろん目を覚まし寝ている間にかいた汗を流すためでもあるが、一番の目的は身体を清めることだ。鍛冶場に入り刀を打つ前に、心身共に全身を清め、雑念を払う。服を脱いで沢へ入ると、その水は身体を芯まで突き刺すように冷たかった。鷹山はそのまま沢の中へ進んでいき、胸まで浸かると大きく深呼吸をした。山中の沢の勢いは強く、気を抜けば押し流される。鷹山は目を閉じてゆっくりと手を合わせた。凍てつくような沢の流れと、その音だけが鷹山の感覚を支配していた。鷹山の心に迷いはないものの、未だ不安が残っていた。鷹山はその不安を掻き消すように、何度も沢の水を頭から被った。そして再び大きく深呼吸して凍てついた空気を吸い込み、白い息を細く長く吐き出すと、沢から出て服を着、屋敷へ戻って行った。
屋敷へ戻ると、朝から豪勢な料理が山ほど食卓に並んでいた。
「これからしばらく食べられなくなるでしょう?今沢山食べて、おなかいっぱいにしていって下さい!」
鷹山は手拭いで髪を拭きながら腰を下ろした。三人は食卓を囲んだ。下手をすれば最後の食事になる料理を前に、鷹山とアリョールは神妙な面持ちで手を合わせた。
「「「いただきます。」」」
肉の煮込み、油淋鶏、だまこ汁、レバーパテ、白ご飯、冬瓜の水晶煮、山菜おひたし、鱶鰭と大根の餡掛け煮、卵焼き、茸のソテー、他にも食べ切れないほどの料理があった。鷹山はまずだまこ汁をひとすすりし、中の肉を箸でつまんで一口食べて言った。
「これは…兎か?」
鷹山に言われ、美鶴は笑顔で答えた。
「はい!さっきアリョールが仕留めてきたんですよ!」
美鶴の言葉にアリョールは得意げに腕を組んでふふんと鼻を鳴らした。しかし鷹山は微妙な表情でアリョールを見て言った。
「…お前、免許持ってるのか?」
鷹山の問いかけにアリョールは首を傾げて言った。
「?メンキョってなんだ?」
鷹山は眉間に手を当ててため息をついて言った。
「日本では私有地でも動物を獲るのに免許がいるんだぞ。」
「えっ」
「ゲ」
美鶴は目を見開いて口元に手を当てた。アリョールは口笛を吹きながら両手を後ろに隠した。鷹山は眉間に皺を寄せたまま椀を持ち上げて言った。
「もういい…どうせお前はこれからもう一つ法を犯すことになるんだからな。」
鷹山の言葉にアリョールの表情はみるみる強ばっていった。
「……まさか…」
「作刀も免許がなければ本当はできん。」
「Ёбтвоюмать(ふざけんな!)おい、ミツル!お前分かってたなら止めろよ!」
アリョールは拳を握りしめて立ち上がり怒鳴り散らした。美鶴は申し訳なさそうにしゅんとして言った。
「すみません、私有地なら狩猟は無免許でも可能だと思ってました…フィンランドでは多少制限はありますが可能なので……。というかアリョール、あなたいつ捕まってもおかしくない状況みたいですね。無免許運転に無免許狩猟、おまけに無免許作刀……」
無免許運転に関しては鷹山の指示、無免許狩猟は美鶴の許可、無免許作刀は全員の意思。居間に気まずい沈黙が流れた。
「…こんなことを言うのは社会人として有るまじきことですが………僕達の誰かが言わない限りバレませんよ…………」
「…そうだな…」
「雪齋作りの途中でオレが飢え死んだら問題ナシだしな。」
「「それこそ警察沙汰だろ・でしょ」」
「真に受けるなヨ。ロシアンジョークだ。」
アリョールの笑えない冗談に絶句し、三人は食事を続けた。
食事の片付けを終えた後、鷹山とアリョールは作務衣を着て、玄関の前に立った。鷹山は見送りに来た美鶴を振り返って言った。
「いってくる。」
「はい。お気を付けて。」
美鶴はいつも通りの笑顔でそう言った。鷹山は美鶴を真っ直ぐ見つめて言った。
「……美鶴、俺は絶対に諦めたりしない。」
そう言った鷹山に美鶴は変わらぬ笑顔で頷いて言った。
「ええ、信じてます。一人でお留守番できると約束しましたから。」
鷹山は、美鶴が聞かせてくれた、幼い頃に交わしたその約束に思いを馳せながら言った。
「戻ったらもっと色々話してくれ。昔のことを。」
「はい。もちろん。」
鷹山は美鶴の手をとって近付いた。美鶴も鷹山の手を握り返して、目を閉じた。鷹山はゆっくりと顔を近付け、美鶴の唇にキスをした。アリョールはそんな二人を右手で隠して気まずそうに目を背けた。鷹山はもう一度、行ってくると言って、アリョールと共に屋敷を出ていった。
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日本刀作りはまず、玉鋼を水減し(みずへし)するところから始まる。水減しとは、玉鋼を炭素量の多い部分と少ない部分に分ける作業のことである。玉鋼を火床(ほど)に入れ、ほんのり赤らむくらいの低温に熱する。この時低温で行わなければいけないのは、玉鋼は砂鉄からできており、鋼の粒子が集合しただけの状態で粒子同士がなじんでいないため、いきなり高温で打つとばらばらに砕けてしまうからである。熱した玉鋼を三ミリから六ミリほどの厚さに延ばしたら、水に入れ急激に冷却する。すると、炭素量の多い部分は自然に砕ける。これが水減しと言われる所以である。鋼は炭素量が多いと固くなり、少ないと柔らかくなる。日本刀は「切れ味良く、折れにくい」ことが特徴で、炭素量の多い鋼を使った皮鉄(かわがね)で、炭素量が少ない鋼を使った心鉄(しんがね)を覆うことによって、刃は固く切れやすく、芯が柔らかく衝撃を吸収・分散して折れにくくなる。
鷹山はアリョールが黒雲母を砕いている間に、玉鋼の水減しを行った。鳶翔から与ったその玉鋼は見た目に対して通常のものより軽かった。いつものように熱しようと火床に入れると、通常に比べてより早く赤くなり始めた。鷹山は注意深く玉鋼を熱して、高温にならないうちに火床から取り出した。どうやらこの玉鋼の方にも、砂鉄だけでなく熱伝導率の高い金属が含まれているようだった。温度調節が今回の鍛刀の肝となるのだと、玉鋼を打ち伸ばしながら鷹山は改めて思った。
水減しで自然に砕けなかった部分は、小割りといって、小槌で叩いて砕く作業を行う。小割りが終わり玉鋼を分け終わったら、皮鉄と心鉄でそれぞれ細かく砕き、テコ棒という棒の持ち手の先に鋼を積み重ね、刀を丈夫にするための折り返し鍛錬を行う。
通常であれば、より純粋な鋼でできた丈夫な刀を作るために、折り返し鍛錬の際に鋼の中から不純物を取り除きやすいように、鋼をより細かく砕き、工夫しながら積み重ねる必要があるが、今回の鷹山達の鍛錬ではその不純物を含ませなければならない。積み重ねる前に、炭素量の多い鋼を一度熱し、そこに砕いた黒雲母を少しずつ混ぜて低温で打ち馴染ませていく。その後黒雲母を混ぜた皮鉄を再び三から六ミリに打ち広げ、急激に冷やし固めて、大きめに砕き、テコ棒の先に積み重ねる。積み重ねが終われば、積み沸し(つみわかし)という作業に入る。
積み沸しは、折り返し鍛錬のために積んだ鋼を熱する作業である。沸しとは、鋼の中心まで熱が伝わった状態を業界用語で「鋼が沸く」と言うことに由来している。まずは積んだ鋼が崩れないように、濡れた和紙で全体を包んで固定し、そこに藁灰をまぶして鋼が空気に触れないようにし、鋼自体が燃えることを防ぐ。通常であればさらにそこに泥水をかけ、熱伝導率を上げて効率良く沸しを行うが、今回は使っている金属が既に熱伝導率が高いことからそれは行わない。
その後、テコ棒を火床に入れ、積み沸しを行っていく。鞴で火床に風を送りながら火の強さや温度を調節する。この際生じる火花や音によって、鋼の状態を把握し、鞴を使って微細に火力を調節する。そして鋼が沸いたら仮付けという作業に入る。仮付けは、取り出した鋼を大槌で叩くことで沸しが十分であるか判断する作業で、沸しが不十分だと鋼が砕けてしまうため、沸しと仮付けの作業は慎重に行う必要がある。沸しと大槌で叩く作業を繰り返し、鋼を鍛着させ一体化させていく。その後本来であれば、本沸しという作業で不純物を取り除いていくが今回は行わない。
それらの作業が一通り終われば、折り返し鍛錬のために大槌で鋼を叩き固め、そうしていよいよ、いわゆる皆が想像する刀作りである折り返し鍛錬に入る。折り返し鍛錬は、何度も折り混ぜることで鋼の炭素濃度を均一にし、火花を散らすことで不純物を取り除き、より丈夫な刀を作るために行われる。鋼を長方形に伸ばしたあと、真ん中に切れ目を入れてそこから折り返すことで鍛えていく。この折り返し方には、同一方向に折り曲げ続ける「一文字鍛え」と、縦横交互に折り曲げる「十文字鍛え」があり、どちらで鍛えるかは刀匠の選択次第だが、陸流では何回鍛えたかより分かりやすくするため、十文字鍛えを採用することが多い。折り返し鍛錬は回数が多ければ多いほど刀の肌目が細かくなり、強度が上がる。
この作業は本来複数人で行うのが主で、最も重要な役割である「横座」はその鍛刀場の刀匠が行い、テコ棒と小鎚を持って、大槌を振るう「先手」にどの場所をどのくらいの強さで打てばいいかを示す。慣用句として用いられる「相槌を打つ」は、先手が横座の指示に従って鋼を打つことを意味する業界用語からきている。しかし、普段一人で作業している鷹山は横座の立ち位置で片手で大槌を振るうという人間離れした芸当をしている。
皮鉄、心鉄共に折り返しが終われば、心鉄を皮鉄で包み熱し付ける造込みを行う。これにより、芯は柔らかく、刃は硬い構造になるため、「切れ味よく、折れにくい」日本刀の特徴的な性質を持たせることができる。造込みにも種類があり、上記のような心鉄を皮鉄で包み込むものを「甲伏せ」といい、最も一般的な手法になっている。他にも「まくり」や「本三枚」、「四方詰め」などがある。
造込みで刀身の構造が整えば、鋼を熱しながら刀身の形に打ち伸ばしていく素延べの作業に入る。この時、鋼に無理な力がかかり疵をつくることを防ぐため、ただ熱するのではなく、鋼を沸した状態に保ちながら徐々に打ち伸ばす必要がある。加えて、沸しながら打つことで鋼の精錬も行うことができる。ある程度打ち伸ばせば、切先を作るため先端を斜めに切り落とすが、完成時に切先となる方向とは逆に切り落とし、切り落とした方の反対側から打ち広げ、最終的な切先の形に仕上げていく。これをしないと、折り返し鍛錬でつけた肌目が切先部分で途切れてしまい、切先の強度が落ちてしまう。
刀身の形ができたら、さらに日本刀の形に仕上げる火造りの工程に入る。火造りでは刀の「造り」である、細かな形を整えていく。主に刀身の身幅や重ねなどを決める工程で、各時代の刀の造りはこれによって決まる。時代ごとの刀の造りは、その時代刀にどんな役割が求められていたかで違いがあり、刀一振でもその時代の歴史を物語っている。現代は刀は美術品としての扱いのため、刀工達は好みの時代の造りに合わせて火造りを行う。
鷹山はいわゆる新々刀と祖言われる幕末の刀工、水心子正秀の造りを好んでいた。太平の世でその強靭さを失っていった刀作りを見直し、刀の本質に向き合い、人を斬ることを目的としていた刀の形に近づこうとする、復古刀の精神を鷹山も心に留めていた。
火造りの後は、せんで形を整え、焼入れを行って刃文や反りをつくる。焼入れの際は、粘土や木炭、砥石の粉を混ぜた焼刃土を刀身に塗る。その配合は刀工が独自に研究したものになる。棟には厚く刃には薄く、全体を完全に覆うように土を塗り、狙った刃文になるように工夫しながら土を置く作業を土置きという。焼刃土が十分に乾燥すれば、土が落ちないよう慎重に刀身を熱する。その際に使う炭は炭きりで細かく均等に切った炭を使う。刀身全体に均等に熱が伝わるよう、刀身を火床に抜き差しする。全体が八百度弱まで熱されたら水の中に入れ一気に冷やす。この際、焼刃土を薄く塗った刃の部分は急速に冷やされ、厚く塗った棟はゆっくりと冷やされる。この時の温度差で刃と棟の鉄の組成が変わり、日本刀独特の反りが生じる。さらに、焼入れの際の刀身の温度の高低によって、沸出来か匂出来かが決まる。これは刃文に現れる鉄の結晶の大きさの違いで、沸出来の方が結晶が大きく、匂出来は小さい。結晶の小さい匂出来の方が切れ味が向上し刀身が折れにくくなると言われているため、高位の武士が使用したとされる古刀は匂出来が多い。
最後に鍛冶押(かじとぎ)を行い刀身を研磨し、刀の柄になる茎(なかご)にヤスリをかける茎仕立てを行って、銘切りをすればようやっと一振の日本刀の完成である。
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作業を行いながら鷹山は疑問に思った。詠削に比べ雪齋は戦いに向けて作られた刀にしてはあまりにも折れやすいつくりだ。まるで、雪齋は刀としてではなく、ただ詠削の力を抑えるためだけに作られたおまけのようだった。何故忠蘭はわざわざそんなことをしたのか。もしかすると、忠蘭は最初、詠削だけを作ったのではないか。どうしても他人の手に渡ってしまう刀を、持ち主の命を掌握することで間接的に自分のものにするために。否、そんな回りくどい理由ではなくもっと直接的な……。そして、その歪んだ想いを諌める気持ちから雪齋を作ったのではないか。鷹山はそこまで思いを巡らせて目を細めた。いくら考えても所詮は憶測に過ぎない。しかし、雪齋を作るには忠蘭が刀に込めた思いに向き合う必要がある。妖刀が妖刀であるためには、作り手の確かな腕前とそこに込められる強い思いが必要不可欠だ。真実は当人以外の誰にも分からない。しかし、詠削の記憶の中で見た忠蘭は、二振りの刀の主である月衡に対し恩義を感じ、忠誠心を持っていたことは確かだった。少なくとも刀は月衡を思って作ったのだろう。ならば、鷹山が今打っている刀に込める思いは決まっている。花雫の人々やこの里、自分の大切なものの平穏を守ること、そして、使命に蝕まれる詠削を闇から救い出し支えること。自分の記憶を削ぎ取られていたとしても、何百年もの間たった一振で花雫家の人々を護ってきた詠削は、鷹山にとってもはや家族のような存在に思えた。里も、家族も、最愛の人も、自分の居場所も、それを奪おうとするものも、まとめて全部守ってみせる。鷹山はそんな強い思いを胸に刀を打ち続けた。
作刀を初めて一日が経過すると、腹が空き、吹き出る汗が気持ち悪く、鎚を握る腕が熱を持って痛んだ。二日経つと上半身の筋肉が悲鳴を上げ、喉が乾燥してきた。流れる汗や唾液を飲み込んでひたすら打ち続けた。三日経つと身体の痛みはもはや気にならなくなって、腕が無意識に動き続けるようになった。睡魔が襲ってきて集中力が切れてくれば、鎚を持つ手を再び強く握り直し、地面をドンと踏み付けて、己に喝を入れた。唾液は次第に粘り気をおび始め、汗の量も減ってきた。鷹山とアリョールは上裸で鋼を打ち続けた。身体から湯気が上がり、こめかみに血管が浮き上がった。瞬きをすれば途端に気を失ってしまいそうで、見開いたままの目は乾燥し充血していた。そうして、鷹山とアリョールが鍛冶場に入ってから六日が過ぎた。