一
「僕は結構です」
さらりと、ごく穏やかに返されて、面食らう。
星形にくりぬいた画用紙、一つ一つ切るのは結構な手間だった。
運動会実行委員の私だけじゃなく、有志のクラスメイトとおしゃべりしながら、切りカスだらけになって作ったもの。
配って回って、受け取られないとか、想定外で焦る。転校生である彼のためにかみ砕いてあげたくても、動揺して言葉は端的になる。
「あのさ、クラスみんなで書くやつだから。柊君は初めてだろうけど、そういう伝統なの。クラスの横断幕にするんだよ」
メッセージなんて幾らでも華やかにちりばめられる現代に、何たるアナログ。
幕って言うけどただのロール紙だし。
でも私は、この恒例行事が好きだった。何だったらちょっと憧れてたんだ。中学の、最上級生の証みたいなもので。二年生だった去年は、好きだった先輩のクラスにハートを一枚、紛れ込ませられないかなんて、きゃーきゃーして。
だから断るとかないから!
「伝統ですか……いいですね」
ドコかでナニかが刺さって、柊君は切れ長の目をちょびっと細めた。
「でしょ! 何でもいいんだよ、仲間への応援メッセージとか」
勢い込んだ私に、だけど彼は最後まで言わせてくれなかった。
「いませんから、その頃」
ご心配なく、と微笑んで、転校生の柊君は、あっという間に帰ってしまった。
ぽかんとする私が、残されただけ。
なんなんだよっ、もう!
(声はいいんだよな、声は……)
国語の授業で、あてられた箇所を読み上げる柊君の声は、まなざしと同じくらい涼しくて、実にいい声だった。習ってる子が歌うとその発声に一瞬びっくりする時の、そういう感じ。瞬間的に場違いさにギクッとして、でもいいなって思う。根本的に響きが、出てくるとこが違うみたいな。
隣の席で頬杖つきながらそれを聞いてるわけだけど、あんまりおもしろくない。
昨日まではよかったんだ。かっこいい転校生が来て、日々それなりにそわそわして、隣の席ラッキーって……。でも今は、あんまり素直に褒める気にならない。
(断るとか、するんだな)
それかぁーそれがモヤるのかぁー。
我ながらやなかんじ。
あんまり完璧にきれいで優しそうで、何でもソツなくこなしそうな柊君。キョゼツとかさぁー、ずるいよぉ。そんなことするキャラに見えない人に、突っぱねられるのって、結構くる。大げさなのかな私が。
優しく見えても、引かない。
彼はとうとう、星形の紙一枚、受け取らなかった。
ショック、である。
(頑張ってるのに)
イミない、って、言われたみたいな被害妄想をする。ちぇっちぇっ。どーせ田舎の学校ですよぉぉ。
運動会がある頃には、彼はもういないんだって。
この街には、巡業で来ただけなんだって。ジュンギョウって何?
彼のお家は、劇団なのだという。その都合なのか、前触れもなく休むし早退する。先生たちはどうも承知しているらしい。気にかけているのは周りだけで、柊君はごく当たり前の顔をしてさらりといなくなる。そうしてどこに行くんだろう。映画館ならわかるけど、演劇ってどこでやるの? なんて思っていたら、健康センターで見た、という男子がいた。
「お前そんなじーさんみたいなとこ行ってんの」
「うるせーな。ばーちゃんが好きなんだよ。連れてってやってんの」
そんな男子同士の軽口の合間に、漏れ聞こえる噂話。
要は大きいお風呂屋さんと旅館の間みたいな、そういう場所で。
彼は、女の子の格好をして踊っていたのだという。
この街じゃ、お年寄りの憩いの場みたいな、あの畳の間で。
似合わない、とは思えなかった。彼の風貌や劇団という名前からイメージした姿とはそりゃあちょっと違っていたけれど。想像上のヒノキの舞台から宴会座敷に姿を移しても、飄々と渡り歩く柊君の姿は、想像に難くない。
団員さんがものすごい量の買い出しをしている所を見た、という人もいた。
あんまりきちんとしてない感じの、嘘かホントかわからない話もあった。
そういうことがふわっと切れ切れに舞って、元々静かな好奇とお客様扱いで迎えられた彼という存在は、透き通ってしまった。
いても、いなくても。
波風立てず。
腫れものに触るような。
柊君の方でも、『わきまえている』ようだった。
参加すれども主張せず。時間になるとさっさと帰る。時には授業があってもお構いなしでお迎えが来る。彼は私達と違う時間割で動いている、ゲーノージンだった。
誰も、悪く思ってなんかない。
サボったり、出しゃばったりしない彼のこと、きらいになる要素がない。
でも――その、埒外、ってことだ。
実をいうと私も、後からわかったけれど彼らがこの街にやって来た日のご一行様を見た。乾いた風の吹く日で、砂埃を立てながらやって来た大きなトラック。何事かと思った。驚く間もなく、みるみるうちに積み荷は降ろされて、見事な手際になんかの業者かと思ったら、みんな身内でやってるって聞いたのにはまた驚いた。いろんな人がいて、ひとくちでくくれる感じじゃないけれど、柊君は一人だけ子供で、目立ってたから覚えてた。「坊、坊」って呼ばれて、笑っている彼は、今学校で見る姿と全然違っている。
(楽しくないのかな、学校は)
やっぱり、柊君には劇団がホントの世界なんだろうか。
「あの――」
「えっなに」
ぼうっとしてたら、そのきれいな顔した柊君に肘をつつかれた。
「ここです」
押し開かれた教科書の上を、細い指が指す。
「げ」
慌てて立ち上がって、教えられた箇所をつっかえながら読み上げる。
あてられてたの、全然気付かなかった。運動会準備も結構だが勉強も頼むぞと、お小言をちょうだいしてからしおしおと席に着く。
「ありがと」
「いえ、教科書は?」
「う、忘れた。ごめんだけど今日は見せて」
ひそひそと囁けば、柊君は目をまん丸にした。
「えっ、なにごめん。図々しかった?」
「いえ、そうじゃなくて。言うことはあっても、言われたのは初めてで」
「何それ転校のプロ?」
思わずぷぷぷと笑ってしまう。
つられたように、柊君は、少しくだけた笑みを見せた。
「そう。でも全国の教科書を集めるわけにはいかないから――この学校は国語が二つ前の所と同じで、いい偶然です。これなら僕も少しはついていける」
「うん?」
「あんまりよくないです、成績」
「うっそ見えない」
先生の目を盗んだ軽口の応酬に、柊君は肩をすくめる。
考えてみれば当たり前だ。短いスパンで転校していたら、それに授業を欠席することも多いし、じっくり勉強するなんてきっととても難しいことなのだろう。
「やりたくないわけじゃないんですよ」
「うん」
見せてもらった教科書に目を落とし、私は茶化さないで頷いた。所々に書き込みがあった。家に忘れてきた私の教科書よりも、ずっと努力の跡が残っていた。
柊君への見方を、私は少々改めた。もっとこう、芸能一本! って感じなのかと思っていた。
「普通なんだね意外と」
「褒めてます?」
「わかんない」
本当にわからなかった。よくわからない。柊君のこと。でも――。
次の言葉を言う前に、教室のドアが開いた。他の学年の先生が立っていた。
「柊」
教壇に立っていた、国語科の先生が、柊君の名前を呼んだ。タイムアップだ。はい、と控えめな返事をして彼は立ち上がる。
「どうぞ」
私に向かって小さく囁き、教科書を押しやった。「そんな――」問答はできなかった。柊君は机の上の筆記用具とノートだけ鞄にしまって、滑るように教室を出て行った。ドアはカラカラと音を立ててしめられ、ほんのひと時浮ついた教室の空気は、何事もなかったように再び沈殿した。
はじめから、なんにも、なかったみたいに。
教科書を抱えて、私は健康センターにやってきた。
制服はさすがに気が引けたから、地味めの目立たない私服に着替えてきた。こそこそする必要なんてないのに、なんだかスパイにでもなった気分だ。
「柊君に教科書を返したくて」
誰に言ったらいいのかわからなくて、お金を払う手前でそんなことを言ったから、受付の人が困惑する。私も困っている。入場料を払うのはやぶさかではないが、払って中に入って、会えるのかもよくわからない。ぎこちなく詰まった入口に、てぬぐいを頭に巻いた大人の人が通りかかって、私達を上から下まで眺めてパッと笑った。学校にも、商店街にもない、よその匂いがした。
「坊の友達? ちょうど今から出ますよ」
「え、あ――観に来た、わけじゃ」
「学割あります」
心得た受付の、アシストが冴えわたっている。ちくしょう商売上手め。
湯上りで館内着姿になったおじいちゃんおばあちゃんの後ろに隠れるようにして、照明の落とされた宴会場にそっと足を踏み入れる。ごはんの匂いがした。お腹はすいているはずなのに、食欲をそそられないのは、お酒の匂いが混じっているからだろうか。油もの、漬け物、掃除されてるけど使い込まれた畳、そういうくぐもった気配。天井で銀色のミラーボールが、カラフルな光を反射してぐるぐる回っていた。何時代だ、ここは。
光が壊れて広がって、くるくるてらてら回る中を、華やかな着物姿の女の子が舞っていた。顔周りでキラキラしたかんざしが絶えず光る。一目でカツラだとわかるのに、それはその美しさを少しも減らせはしなかった。袖から伸びて曲線を描く手が、ぽうっと白く浮かび上がっている。入口に立ち尽くしたまま、私はそれを見た。
(ひいらぎくん)
それは、それは――誰かの夢の中に、無遠慮に入ってしまったような心地がした。
最初に感じた居心地の悪さとは、全く違っていた。
きれいなきれいなものを、こんなところで盗み見てしまった。
仕方ない、きれいなんだもの。
隠したって、暗くたって、わかる。見つかってしまうだろう、こんなにきれいで。音もなく滑る動き。確かに重みを感じるのに現実感のない、桜の精みたいな。いるの、いないの、どこにもいないの――。
ダサいと思ったはずのミラーボールの光が、幻想的で。まるで柊君を讃えて歓迎しているようだった。
ふわりと夢みたいにふくらんだ光が、突然不自然にひしゃげた。柊君が動きを止めたのだ。あ、と意識が引き戻される。立ち上がった人影に向かって、柊君が小上がりの舞台でぺこりと丁寧に頭を下げた。私はそれ以上いられずに、教科書の入った手提げを持ったまま飛び出した。今度こそ、見てはいけないものを見てしまった気がした。人影が捧げ持ち、柊君の衣装に押し込んだのは割り箸だった。その先に挟まれていたのはお札だ。お正月の獅子舞に、大人がおひねりを投げ込むのを見たことがある。見たこと、ある。だけど全然別物だ、友達がその対象に、なっているのは。
「きれいなのに――」
日の暮れ始めた商店街の片隅で、やり場のない苦い気持ちを、そんなふうにぽつりと、ひとりでこぼした。夢みたいにきれいなのに、全部がひとつづきでどうしたらいいのかわからない。見てはいけないものを見てしまった気がしたし、そんなふうに思うことが裏切りだとも、自分が抵抗をする。
「きれい、なのに」
膝を抱えて、呟くしかできなかった。
柊君は、しばらく学校に来なかった。
駅で見かけたという噂もあり、この街だけでなくどこかを行き来しているのかもしれない。
久しぶりに来たのは、いよいよ明日が運動会という日で、みんな当たり障りなく接しているけれど、学校全体がソワソワしているというのに、彼に触れる時だけ空気はどこか白けていた。
その柊君は今、英語を喋ってる。
こんな田舎でも時折やって来るALTの日。順番が回って来たら、照れや拙さを茶化して誤魔化したり、一生懸命になりすぎて空回ったり、そういうクラスメイトが多い中、彼は堂々としたものだった。見たことないけど、それが大きなホールでも、宴会座敷でも、教室でも、相手が誰だろうが、彼は変わらないのかもしれなかった。まるでずっとそうしてきたみたいに。さざめくのは周りだけ。
ドレッシングや化粧水を、振っても振っても二層に分かれるような、感じ。
水に落とされたオイルの一滴は、見えない手がつまみ上げるみたいに、はじかれて、混ざらない、追い出される。その一滴がどんなにきれいな色をしていても、関係ない。
(べつの、ものだから)
それが私の結論めいたものだった。別世界の友達。
見てはいけない、夢の中の男の子。
だけど夢であるはずの彼が隣の席に座っているから、私はコツコツと机をたたいて注意を向けさせ、短く聞いた。
「英語は得意なの?」
「口立てだと思えば……」
成績よくないなんて嘘じゃん、という意味を込めて言ったのに、彼は照れていた。そういう顔、する? 普通に。急すぎて戸惑う。
柊君のいろんな顔を知る程、私達は長く一緒にいない。成績も、志望校も知らない。
クチタテって何、と聞きたかったけど、あんまり自然に言われたから聞けなかった。常識を尋ねるなんて、ものを知らないみたいで恥ずかしい。代わりにそっと、一番気になっていたことを聞いた。
「明日、休むの?」
「今日で最後です」
明日は晴れです、と同じ調子だった。
あんまりつつがなくて、呆れた。確かに二時間目からやって来たけれど、彼のいない朝礼でもそんな話はなかった。帰りには担任から一言くらい、あるのだろうか。
「プロだとそんなもの?」
「そうありたいですね」
「ふうん」
それが、私達がかわした言葉の最後だった。言いたいことが言えるほど仲良しでもないし、元気でねって言うには早すぎた。
私はただ委員会として最終の打ち合わせをして、明日に備えて早く帰る。
教科書は鞄から全部抜いて、タオルや着替えやお弁当とか、そういったものが入るスペースを作る。ハチマキと、コームもセットで入れておかなければいけない。雑に積み上げたノートの隙間からプログラムを引っ張り出した時、黄色い色紙の星がヒラリと落ちた。
『僕は、結構です』
落ちた星を拾い上げる。とうとう受け取られなかった。思い出とか、絆とか、仲間の証とか、青春だとか。そういう象徴の、ちょっとしたひときれ。クラスの横断幕は、彼なしで完成して、もうとっくに貼り出されている。
受け取るだけ受け取って、出さなきゃいいのに。
適当に、書いちゃえばいいのに。
何という不器用で、誠実な答えだったのだろうか。
私も、言えばよかった。何書いてもいいんだよ休みでもいいんだよって。ジュンギョウってクチタテって何って聞けばよかった。あの何でもなさそうな顔をして、答えてくれたかもしれない。
必死に背けていた目線が焦点をしぼられて、重なり合った教科書の一冊にあてられる。
(返してない)
間に合うだろうか、私は。
指の間で、黄色い星に小さな皺が寄る。
二
市民劇団になる、ということを、父から直接聞かされた。
今決まっている予定を終え次第、はばたき市に向かうのだそうだ。
驚いたのは事実だけれど、僕に告げられた時点でそれらは既に決定事項だった。そのためにどうしていくか、ということしか、話し合いの余地はない。
一つ所にずっと留まるのも、転校せずに学校生活を送るのも、未知の領域で、現実感がなく、いやだともうれしいとも明確には思えなかった。不安だけが絡みつく。務まるのか、成り立つのか、変えられるのか。
劇団そのもの以外に大きな変化は、学校だ。
高校には行かないものだと思っていた。中学校までは全国どこにいても保証されるが、高校はそうではない。これからもこうして、劇団ひいらぎとして生きていくのなら、高校に通うのは難しいことだ。言われずともそう考えてきたのだから、よりによって知らない街の、これから定住する土地の、名門高校に通うだなんて。冗談がすぎる。
(学力が足りるわけがない)
試験は受けてもらうよ、とはばたき学園の理事長は言った。
呼ばれて行ったその場所は温かく、守られていることを僕は知った。差し出されたものを恭しく受け取る以外に、できることはなかった。
(他のことで貢献できないだろうか)
そんなことを考えては嘆息した。
劇団が、いつだって世界の中心だった。それを取り巻く範囲でしか、学校生活は送ってこなかった。係や委員や、クラブとか、所属したことがあっても何かが果たせたことはない。少なくともそれが、僕から僕への評価だった。
最初からそうだったわけではない、と思う。
学芸会、合唱コンクール、運動会。
役割があれば一生懸命練習した。タイミングが合えば、両親が見に来てくれることもあった。
けれどそんなことはごく稀で、普通の練習にすら満足に参加できないのが常だった。
できたとて、練習すればするほど、本番への未練も、周りからの落胆も大きくなる。自分が悔しがるのは勝手だけれど、クラスメイトが割を食うのは困る。最初から、自分を勘定に入れてもらわないことが一番穏便な解決法だと、悟るのに時間はかからなかった。あきらめきれないことも、あったけれど。
『僕は結構です』
あの時も、できるだけ丁寧に、返した。
元々、このメンバーにいるはずのない一枚だ。場所を空けてもらうのも、通り一遍の言葉を書くのも、なんだか違う気がした。書いてしまえば、「これは誰?」と思われても貼り出される。いろいろと心苦しい。
僕の反応に、紙を手渡してくれたクラスメイトは、驚いた顔をした。驚いて、それから少し怒っていたと思う。実行委員だと言っていたから、無理もない。それでも手厳しい言葉までは言って来ないその子の、ごく自然に強い立ち方が眩しく思えた。この街に根をもつ、同い年の人。
(いい街だ)
いいとかわるいとか、ないけれど。
気安い会話や、長く愛されてきた店の佇まい。お世話になっている入浴施設も、その一つ。
その中で僕は、ほんの一幕、間借りしているだけの人間だ。フィナーレに立ち会うことは、できない。
クライマックスのない演目。
最後まで読み上げられることのない脚本。
一景で終わる出番。
そんなことは人生にきっとありふれている。誰にだってあることだ。それが、僕は人より多いだけ。
班で修学旅行の調べ学習をしても、当日には別の学校にいる。
応援歌を作ったって、応援合戦に加わることはない。
皆が校庭で焼き物をする時に、僕が焼くべき作品はない。
かまくらが出来上がる時、自分はそこにいないのだ。
(どうして、今になって)
叶う未来が見えそうで、困る。揺れる自分に、戸惑う。
どうしてもやりたかったわけでは、ないはずだ。
「夜ノ介さん、出番です」
は、と思考の沼から目線を上げる。
舞台袖で目隠しの布をそっと押さえて、団員が声をかけた。
「出ます」
坊ちゃん、坊、やの、夜ノ介。
古株の団員からは、ずっとそんなふうに、家族同然で来た。
父という、圧倒的な座長を置いての、家族だった。
それが変わる。変わり始めている。自分が、その立ち場に。最大の難関が、見えない手で締め付けようとする。
できるのか、と不安になることは許されない。やらなければならない。
ライトの下に滑り出て、重荷を背負う。それでも魅せて――、見せなければ。
踏み出し、見て、伸ばして。
入った、という感覚があった。
演じていて、舞っていて。稽古と本番に関わらず、その感覚は時折訪れる。短かったり、長かったりした。過ぎてしまえば一呼吸分に思える。けれど何より幸福な刹那だ。手は手に、僕は僕を抜け出し、娘として、そのものになる。自分が消えて、自分が在る。
(あ。)
目の前を映さない、空をいっぱいにした視界に影が見えた。
(割れる)
束の間完全だった世界は介入を許して、ライトの眩しさが戻る。途端に娘の皮は半分剥がれて、僕は、看板役者の柊夜ノ介として礼をとった。帯に差し込まれた割り箸には、ひねった札が挟み込まれている。
この街に来たのは、贔屓筋のご縁からだった。街に歓迎してくれたその顔を、潰すわけにはいかない。もとより、物心つく前から舞台で子役として喝采を浴びてきた。ご祝儀なら、箒で掻き集める程景気よく、いただけるようであらねばならない。芝居を終えて、ショウタイムならば、いっそう厭う謂れはなかった。
ただ、今、自分ではない域で踊れたのにと。
何かがつかめそうだった一瞬を、逃したことだけ残念だった。
芸を求めることと、生活の糧を得ることとの隔たりを、これからもっと感じていくのだろうと、まばらな拍手の中で微笑みながら、淡く考える。
「引っ越しが、ちょうど運動会の日なのね」
プリントを眺めて母が残念そうに言うのに、少し考えて答えた。
「道は混まないと思います。車は禁止だから」
「そういう話じゃなくってよ。夜ノ介さん、何の種目だったの?」
「さあ……」
「練習はしたんでしょう」
「選抜されるほどに、なってみたいですけどね」
「もう」
「ははっ。母さんの方が、残念みたいに聞こえる」
母から、どこか少女じみた所のある仕草でたしなめられて、僕は笑って見せた。本当にはならない慰めも、過度な悲観もしない。あるがままに残念がる母とのやり取りで、ぐらついていた天秤が平衡を取り戻していく気がした。
たとえ一時の在籍でも、学校からのお知らせはきちんと目を通す人だった。その一点だけからも僕は十分に母の思いを受けていると感じられたし、だからこそ、なんでもないことのようにも振る舞えた。
学校行事や面談には和装で現れ、短い間とわかっていても僕の通う場所への挨拶は欠かさない。そういう母を、誇らしくも、ありがたく思う。
繰り返し聞かされてきた、箱入り娘だった母と、身一つの役者でしかなかった父との駆け落ち同然のなれそめは、あながち脚色され過ぎてもいないだろう。
体の強い方ではない母。
学齢期を細切れに過ごして来た僕。
劇団そのものを作り替える決断の根っこには、家族への父なりの願いがあることを、言われずとも承知している。口に出さないことこそが、感謝であり一線だった。
「言わないからいいってこともないでしょう」
母の言葉はあまりにも心と地続きで、会話の流れとわかっているのにドキリとする。
「残念な時は、残念がった方がすっきりするわ」
わかったろうに、僕の動揺には触れず、すました顔でお茶を飲んでいるのだから、かなわない。
「そういえば、あなたのお友達が来てたって聞いたけど」
「え?」
初耳だった。首をひねる僕へ、私もまた聞きなんだけど、と母が続ける。
「何か返すものがあったそうよ。あなたが踊るのを見ていたみたいだけど、いつの間にかいなくなっちゃったって。まあ、お家でお夕飯もあるでしょうしねぇ」
(返すもの――ああ、教科書)
思い当るが、意外な心持ちがする。もっと、ずっと小さい頃は、小学校の友達やその家族が見に来ることもあった。けれど中学生になってからは、さすがに揶揄い混じり以外で、正面切って公演を観に来る友人はほとんどいない。
「ふふっ、ちょっと刺激が強すぎたかしら?」
なんてことの無い素振りで言う母を前に、そうかもしれないなと思う。
今日は、少しはよく踊れたかもしれないし、そう感じたのは自分だけかもしれないし。
特にここでは、劇場のようなステージとも違う舞台だ。宴に花を添えると言えば聞こえはいいが、一般的な中学生には一種アングラな雰囲気にさえ、見えたかもしれない。劇団ひいらぎにとっては、付き合いの長い場所だったとしても。
けれど、はばたき市では、あの立派なホールを使って公演をするのだ。なんだか途方もない気がしてくる。
はばたき市には何度か下見に足を運んでいるが、その度に僕は圧倒された。
いろんな土地を回って来た。けれど、はばたき市は稀有な街だった。およそ文化的なものはほとんど全て揃っていると言ってもいい。学割や地域の情報誌を活用すれば、僕のような子供でもそれらへ気軽にアクセスすることができる。
大衆演劇を基礎とした市民劇団という、途方もないことをする下地が、確かにこの街にはあった。
(きれいな所だな)
来るたびにそう思う。街も、海も、山も、建物だって。歩き回りながら、僕は目を奪われた。
このクリーンさを、父は僕たちに――家族と団員を含めた皆に――くれたかったのかもしれない。昨日の出来事が感傷に輪をかけているのか、そんなことを考えた。
時代の中で、団員数が減り、所帯をもとうとする者もいる。作り上げてきたものを一旦壊してでも、土地に根差し、生きていくことを決断した。
(だったら、ますます僕が応えなければ)
父が隠居を決め込むならば、『ひいらぎ』の名が残るのは、座長となる僕だけだ。その責は重い。
(市民の皆さんに受け入れてもらえるのだろうか。いや、喜んでいただかなくては)
「ああそうだ、これをどうぞ」
ついぐるぐると張りつめていた思考を、穏やかな声が遮った。
はばたき学園の理事長室。僕の進学はほぼ決定事項で、入試に向けた資料の受け取りなど、もろもろの準備をすませに来たのだった。何せ柊家は、住所不定とは言わないが、短期間で住まいが変わる。通信環境だってその場による。取り寄せの申し込みをするよりも、直接受け取った方が確実だった。
資料の入った厚みのある封筒とは別に、紙の束が渡された。
「過去問ですよ。ああ、説明会で皆さんにお配りしているものだから、安心してください。地元の書店なら、もっと以前のものも売っているようですが」
「ありがとうございます」
並んだ父と一緒に礼を言って受け取る。ざっと目を走らせて、僕は青ざめた。国語、社会なら少しは。けれど数学や理科はそんな期待を打ち砕いてあまりある。流し見しているのもあるけれど、問題の要点すらとれないことに僕は焦った。ちっとも、太刀打ちできる気がしない。
(一旦、見なかったことにしよう)
目を閉じて、己の不甲斐なさに恥じ入りながら、情けなくも封筒と一緒にしまい込む。願ってくれる周りのためにも、一点でも多く獲らなければいけない。けれどその後は、これを並以上に突破する同級生と、肩を並べて過ごすのだ。三年間、他のどこへも行かず。眩暈がしてくる。
暗澹たる僕の気持ちはお構いなしで、父と理事長は楽しそうだった。輝かしい、希望に満ちた学校生活と未来が見えているみたいだった。確かにそんな予感をさせる校舎ではあるけれど、見学がてら玄関に向かう僕の足は重い。ため息が出そうになった一瞬前、歓声が聞こえて振り返った。窓の向こうに広がるグラウンドで、揃いの体操着を着た生徒たちが見える。つられて振り返った理事長が目を細めた。
「体育祭が近いんです」
「体育祭……」
ここもか、と不思議な一致に奇妙な気持ちになる。
運動会にふさわしい時期なんてありふれていて、重なっても何ら不思議はないはずなのに。ああ、けれどこの学校なら、僕も体育祭に出られるのだろうか?
思ってもみなかった発想に、小さく喉が鳴る。
「生徒が希望すれば、土日も部活動に学校は解放していますよ。所属も自由です。運動部、文化部、生徒会も」
「生徒会?」
縁のなかった言葉が、どうしてか耳に残った。理事長はますます朗らかに微笑んだ。
「興味があるかな」
「いえ、僕のような、出席日数の危うい生徒には務まるものではないと思います」
慌てて打ち消したが、向けられた愛情深いまなざしは変わらなかった。
「役割はさまざまだよ。放課後のパソコン仕事、行事の準備、あいさつ運動や、美化活動。自分ができることを考えて参加しているのは、どの生徒も同じだ」
「自分に、できること……」
やらなければいけないこと、ではない。
できること。
理事長の言葉と、窓の向こうの活気。
そのどちらもが自分ごとになるなんて信じられない一方で、淡い希望もまた、胸の内に灯り始めていた。
『そんなふうに思っていたのか』
――出席日数の危うい、という発言について、後から父がポツリとこぼした。
他意はなかったし、申し訳ないような気もしたが、ただの事実だった。悲観でも、希望でもない。参加資格は、そこで精一杯頑張り続けた人間に優先されるべきだった。
つまり、欠席続きだった僕が、運動会の前日にひょっこり姿を現して、多少居心地の悪い思いをするのは当然なのである。それでもあの入試問題で一点でも多く得るために、いやいや、せめて問題の意味がとれて立ち向かえるようになるために、授業を休む選択肢はなかった。
ふいに、机がノックでもするように鳴らされた。
隣の席のクラスメイトが、そっと尋ねた。会話をするのは、ずいぶん久しぶりだった。
「英語は得意なの?」
あてられた直後で、頭の中が上手く切り替えられない。
「口立てだと思えば……」
国語もそうだが、読んだり話したりする授業では、つい熱が入ってしまう。もちろん本当の稽古のようにはならないし、しないけれど。体に染みついた習いというやつ。稽古と違って、叱責されることも、しくじってしまいにされそうになることもないので、ずいぶん気楽だ。
ただしこれはきっと、足の速い人が体育で張り切るようなもので、指摘されると気恥ずかしい。一人赤面する僕に、それ以上話題を広げることはできなかった。口立て稽古って、芝居をやらない人にも通じるのだろうか。用語も転じて一般的な語彙になっていることがあるから、聞き返されない限りわからない。
「明日、休むの?」
考えていたのと違うことを聞かれた。前に断ったことは、事実だ。
「今日で最後です」
考えるまでもないのですぐに答えた。この街で、劇団はばたきの務めは終えたのだ。これもまた単なる事実だった。
「プロだとそんなもの?」
転校のプロ、と言われたことを思い出し、ちょっと可笑しくなる。
「そうありたいですね」
これも事実。
心動かされずに、できることを積み重ねていけたらいいのに。どうも最近の僕は、くよくよ考えてばかりでいけない、と思う。気を引き締めなければ、この先やっていけないのではないだろうか。
「ふうん」
クラスメイトは、含みのある声だった。何か言いたげなので続きを待ったが、会話はそこで終わってしまった。ハッキリ言ってももらえない自分にはがっかりしたけれど、仕方ない。今日でお別れの転校生と、悶着を起こしたい人なんていやしない。
(あ、教科書)
気が付いたのは、帰宅してからだった。
貴重な一冊ではあったが、どうしようもない。
引っ越しの朝は早く、今まで生活の場としていたものはあっという間に空っぽになる。余計なことをしたり、出向いたりする時間はなかった。差し上げたものと思うことにした。
翌朝、両親と一緒に、舞台としても逗留所としても世話になった人達へ挨拶回りをしていく。途中で、遠くの空に破裂音がした。色のない花火。今日の運動会を実施するという合図だそうだ。そうか、無事にできるのかと思うと、自分は出られなくても嬉しかった。あの横断幕も、きちんと日の目を見るのだろう。感慨はもう遠く、そのことにホッとしながら車へ乗り込む。荷物を積み上げていた団員の一人が、僕と目が合い駆け寄って来た。
「坊、この前の友達がまた来てましたよ」
「えっ」
驚く僕の手へ、ひょいと包みがのせられた。中には、一冊の教科書が入っていた。わざわざ、返しに来てくれたのか。こんな早朝に。
「『柊君に、まだ間に合いますか』って。隅に置けないですねぇ。なんか泣きそうでしたよ? もうすぐ来ますよって伝えたんですが、運動会だとかですごく急いでて。連呼されると照れていけないや。あんまり呼ばれるから、うちは皆ひいらぎですよって――」
「あんたね! 坊の友達からかってんじゃないようっ」
別の団員がぺちりと割って入る。軽口はまるで芝居みたいだ。いつもの、内輪のやり取り。
「ほらっ騒いでないで出発!」
そこかしこで、あわただしくエンジンがかかる。開いた窓から、朝の涼しい風が吹き込んで、教科書のふちをめくっていく。
「間に合う……か」
ふと思い出す。そう願いながら、走ったことがあったのを。小学生の時だった。
何度目かの、出られない運動会。しかし、無理とは言い切れない時間で、僕もまだ諦め難かった。
土曜の昼公演を終えて、一縷の望みをかけてグラウンドへ、走ったのだ。
もちろん、全てはプログラム通りに進んでいて、僕の出番はとっくに終わっていた。みんなで踊るダンスも、組対抗の大玉転がしも。玉入れのコツを教えてくれた同級生ももういない。片付けにさざめく校庭を、息を切らせて見に行っただけ。それでおしまい。続きはない。
「次は……間に合うのかな、僕も」
膝の上で頬杖をつき、勢いよく走る窓の外の、なるべく遠くを見る。近すぎないことが肝要だった。視界が狭まっていいことなんて、ない。ぼやけても、誤魔化せる。自分の身にだって。こみ上げてくる何かなんて、ない。
こんな時、登場人物たちはどんな顔をするのだろう。今の気持ちをよく覚えておこうと思った。置き換えて、いつか、どこかで、またこの感情と出会う日が来るだろう。
(今は、いらない)
ぼやけかけた視界を、瞬きで追い払う。
叶わなかった星が一つ、挟み込まれたページを擦り抜けて、手を伸ばすことはできずに、乾いた風へ鮮やかに舞った。
三
「これ! これを書こうと思って来たんだよ」
大学帰りに駅から走って息を切らせて、小波美奈子はえへんと胸を張った。
劇団はばたきの、七夕公演にちなんだ装飾がされた、イベントホールのホワイエ。最終日に滑り込み、胸を張るような状況でもないのだが、彼女はいたって満足そうだった。
「そんなに楽しみにしてくれたんですか?」
「もちろん! 季節のイベントは絶対参加!」
ぐっと拳を握って、嬉しそうに笑う。
はばたき学園では友人として、卒業以来は恋人として、彼女には『予想外』を更新され続けている。柊夜ノ介は思わず笑いだした。
「あーっ、人が楽しいこと笑うの、よくない。イベントは大事だよ?」
「すみません。あなたにかかると、何でもとびきり楽しくなるんだなと」
「ふふっ、そうでしょうそうでしょう。とびきり気合い入れて描くから、夜ノ介くんも一緒に楽しむといいのよ」
「僕は、出るんですが」
「だからだよ」
美奈子はうきうきと手の中でペンを回した。ずいぶん張り切っているようだ。
『願い事をどうぞ』と示された長机で、箱の中の色とりどりの紙から、慎重に一枚をつまみだす。星形のそれを楽しそうにひらりとさせて、まだ何もない星の上を期待に満ちた瞳が撫でている。
「楽しいアイディアだよね。これ、書いたら今日のお芝居の中で使われるんでしょう。みんなの願いが、舞台を作る一部になるなんて……ほんとに素敵」
「はい。僕が卒業して最初の大きな公演です。はばたき市の皆さんと一緒に、作り上げたいんです。芝居も、劇団も」
「うん」
嬉しそうに、美奈子は笑う。
運動不得意! 走って疲れた! とへこたれたさっきまでの表情も、朗らかに楽しさへ向かう前向きさも、夜ノ介を翻弄する屈託のなさも、全てが鮮やかだ。
ひょいと手元を覗けば、「見ないで」と怒られた。何やら文字を綴った横に、絵を描き足しているようだ。卒業してからも、相変わらず彼女は絵を描いている。絵を描く彼女の横顔が、夜ノ介は好きだった。道は違えど、自分と同じく夢中になるものがある。だから二人は、手を繋いで歩いて行ける。彼女がそばにいてくれて、自分を選んでくれて、どんなに幸福か。きっと、彼女にも本当にはわからないだろうと思う。
ペンを走らせていた美奈子が、視線に気付いて夜ノ介へ目を向け、悪戯っぽくまたたいた。彼女の瞳にこそ、きらきらと星が散っているようだ。
「ね、夜ノ介くんも一緒に書こうよ」
瞳に吸い込まれていた夜ノ介は、その言葉にきょとんとする。
「僕は、出るんですが」
「だからだよ!」
戸惑う夜ノ介に、もう一枚引き出した星を、有無を言わさず押し付けた。
手の中でカサリと乾いた感触の、黄色い星に何かが誘引されて、置いて来た、形のないものに焦点が合う。
『僕は、結構です』
瞬間、取り落としたペンが、からからと転がる。星がひらりと、擦り抜けた。
「あーっ! 大事なお願い事が! ……夜ノ介くん?」
慌てて両手のひらでキャッチし、埃を払うようにして大騒ぎしていた美奈子が急に、気遣わし気に夜ノ介を見上げた。人気の少ないホワイエで、美奈子と二人きりになったような錯覚をする。他の人には見せられない、大切な感傷の蓋が、開いてしまう。押し留めるか迷った。この後に公演を控えている。感情的になりたくはない。けれど今を逃したら、もう開けられない気がした。
(大事な、願い)
美奈子の言葉を反復する。短冊を模したカードが投函された、簡素なボックスを見つめた。この中に、いくつもの星が既に入っているはずだった。
いつも来てくれるご贔屓様、少しずつ増えてきたこの街で出会ってくれた人、キッズデーの小学生、団員の近しい人、公演に足を運んでくれた様々な人の願いが詰まっている。どの星も、舞台の上で一緒に輝く手筈になっていた。
「書けば、よかったな」
静かに呟く。
「何を?」
隣で、美奈子の目が静かに待っていた。夜ノ介の言葉は、今ここを指してはいなかった。昔話が始まる。夜ノ介の思い出話という、変わり映えのない、いつもの結末をよく知るはずの美奈子の瞳が、それを聞かせてと待っている。夜ノ介の言葉で語られるのを、信じて、ただそばで。だから夜ノ介は、何気ない調子で口を開くことができた。
「短い間通っていた中学校で、運動会の寄せ書きがあったんです。当日までその学校にいられないとわかっていたし、場所を空けてもらうのも、当たり障りのないことを書くのも気が引けて、僕は書きませんでした。だけど、差し出す側になって初めて知りました。僕は、書いて欲しいと思っています。なじみのお客様にも、一期一会の誰かにも」
『いませんから、その頃』
はらはらとよみがえる、自分の言葉。
あの時は、一生懸命に守っては、結果的に痕跡を消していた。いなくなることを受け入れるのに、そんなふうにしかできなかったけれど。
「ただ、書けばよかったんだ。だって、僕はそこにいたんだから」
もう間に合わない後悔に、胸が締め付けられた。乾いた夜ノ介の頬に、体温の低い、少しだけひんやりとした指が触れた。曇った視界を拭う力のある、小さな手だった。
「いるね。今はここに」
確かな声をしていた。美奈子はそういう人だった。
「書こうよ。一緒に」
改めて手渡された紙は、取り落として癖がついていたけれど、確かに同じ星の一枚だった。表を撫でて、夜ノ介は静かに頷いた。
「はい」
美奈子と並んで、ペンをとる。書きながら、何でもないことのように彼女は言った。
「でも、ちょっとわかるよ。書いたら、余計にさみしくなっちゃうものね」
ぎくりとして、密かに息をのんだ。気の抜けない恋人である。思えば最初から、放っておいてくれない強情な人だった。大きな荷物を抱えた夜ノ介が、平静を装いたくても一人になれない。表面を取り繕っただけでは許してくれない感傷が、じりじりと喉を掠れさせたけれど、ここで聞かないふりはできなかった。
「余計に、さみしい?」
彼女にも、そんなことがあるのだろうか。
「離れてるってもうわかっているのに、またわかっちゃうじゃない?」
「……うん」
彼女自身はこの街で生まれ育って、けれど周りが全員そうではない。彼女と仲のよかった同級生には、海の向こうへ飛び出した人もいたはずだ。
「さみしいけど、そうじゃないと嬉しくなれないから。書けない手紙は伝わらないし。送ったらそんなに怖くはないんだよ」
「――すごい人ですね、あなたって」
「ん?」
夜ノ介に強烈な衝撃を与えておきながら、本人がまったく気付いていないのもいつものことだった。泣き笑いのため息をつく夜ノ介に、生真面目な恋人は首を傾げた。
わかったふりをして、取り澄まして過ごしてきた。
いないものとして、透明になんてなりたくないのに、そう扱われるように振る舞った。自分からなら、少しは悲しまずにいられるから。けれど、そんなことをして、打ち消せるわけがない。
(書けばよかったんだ)
たったそれだけのことを、噛みしめる。
どんなに傷付いたとしても、ただ輪に入ればよかったのだ。間に合わずとも走っていい。恐れずに、証を残してよかったのだと、何もかも飛び越して、言われた気がした。
(ごめん)
初めてこみ上げる言葉は、いつかの誰かに、そして自分自身に。
間に合わなくても、呼ばれなくても。
確かにそこにいた一人として。
ペンを置き、今度こそカードを箱へ、細い口から落として納める。手を離れてしまえば確かに呆気ない。それでもまだ余韻に高鳴るまま、横に立つ美奈子と向き合った。
夜ノ介が三年間、時には隣で、時には情けない姿も見せて、過ごして来た日々の証を、心に握る人。だからこそ二人は結ばれて、今もこうして共にいる。
その強いまなざしが、いつも勇気をくれる。道はここだと教えてくれる。
彼女のそばでなら、恐れるものはないはずだ。
答えのない問いも、過ぎ去った過去も。
今と昔とをぐるぐる回って速まる鼓動へ、風を受けるようにして立ち向かい、夜ノ介は静かに囁いた。
ずっと、ずっと、聞きたかったこと。
「僕は――間に合った?」
あの日も、別の日も。幾つもの別れと、できない約束に向かって。ずっと訊けなかったこと。そらさない目が、夜ノ介をあたたかく勇気づけていた。
「うん」
お互いにだけ聞こえる小さな声が、結び合う。
ささやかな悲しさのふちが、なかったことにはならなくても、ささくれた跡をようやく撫でてやることができた気がした。
「ありがとう」
心から、想いを込めてやっと言えた。
そばにいて、ここにいるよと光を灯す人へ。二人なら、繋いだ手と手で輪になれる。
「ねえ、何て書いたの?」
「秘密です。あなたは?」
「言わない」
くすっと笑って、美奈子もまた小さな紙を箱に入れた。
「叶うからきっとわかるよ。夜ノ介くんと一緒に舞台にいるんだもん」
こんなふうに言われたら、きっとそうだろうと思えてしまう。
彼女が踏み出して、ヒールがコツンと小さな音を立てた。並んで歩けば、二人で笑みがこぼれる。
願いの星は、今度こそキラキラと、舞台の上で瞬くだろう。それはきっと、舞台に立つ夜ノ介と、彼女と、今日のこの日を出会ってくれる、すべての人の目の前で。
(だからどうぞ、ご一緒に)
言わない願いを込めたまま、手に手を取って歩き出す。彼女と共に、これからもこの街で願いを結ぶ、一人と一人であるために。