風邪をひいた🐗の話「けほ…っ」
薄暗い自室に、小さな咳と息苦しさの混じった呼吸音が虚しく響く。祖母は友人達と年末年始旅行に出掛けた。孫を1人残していくことに申し訳なさそうにしながらも、自分は宿題も片付けなきゃいけないし仕事もあるから気にしないでと見送ったのが昨日。大晦日を1人で過ごすのは初めての事だったが、大事な時に留守番を頼まれたのは少し大人になった気がして1人で出来る家の掃除を終え、上機嫌に祖母が作り置きしてくれたご飯を食べ、宿題をやる合間にゲームを挟んだりして気ままな時間を過ごしていたはずだった。昨夜寝る前喉に違和感を覚え、まずいと思い焦って色んなケアを慌ててして寝てみたが負けた。朝起きたら、咳が止まらず意識がぼんやりとする。風邪を貰ったらしい。
「み、ず…」
次第に熱も上がってきたか、身体を起こすのもだるい。咳のし過ぎで乾いた喉を潤したくキッチンに水を飲みに行こうとベッドから起き上がった所で視界がぐにゃりと曲がって、そのままベッド下に落ちてしまった。
「いっ、てぇ………」
幸い、何処も怪我をした感じはしない。打ち付けた腰辺りが少し痣になるかもしれないが、今後仕事で着る予定の服を思い返せばなんら問題はなかった。それよりも、喉だ。早く治さないと、歌えないと、メンバーに迷惑がかかる。ぐっと身体に力を込め起き上がろうとしても、上手く力が入らず再び床にぺしゃりと崩れてしまう。
〜〜♪
その時、スマホの着信音が響く。枕元に置いていたはずが、ベッドから転げた時に一緒に落ちたらしい。悠は精一杯腕をのばしスマホを掴むと、画面を見て泣きそうになった。
「み、なみ…」
寝転んだまま、震える手で通話ボタンを押す。
『亥清さん?』
聞き慣れた、穏やかな声が耳に入ると自分の全てが情けなくなってきてでも途端に甘えたくなりきゅ、と唇を反射的に噛み締める。
『これからお家にご挨拶に伺ってもよろしいでしょうか?宿題も頑張ってるようなので、何かケーキでも買って…』
「たす、けて……」
『…亥清さん?』
泣かないよう、必死に絞り出した声は至極小さなものだった。
「たす、けて…っ、みなみぃ、おれ、風邪ひいて…っ、つらい、…ぅ、…けほっ、」
『…っ、家にいらっしゃるんですよね?直ぐに行きますから待っててください』
1度吐き出してしまった感情は止まらなかった。あれだけ我慢した涙は、優しい巳波の声で耳が満たされるといとも簡単に溢れ出てしまう。ずっと声を聞いていたかったけど、最後焦ったような声色に変わったのを最後に通話は途切れてしまう。
「みなみ…」
そっと力無くスマホを握るしか出来ない身体を憎たらしく思いながらも、悠は1度感情を吐き出したことで睡魔が襲ってくると重くなる瞼をゆっくりと落としていった。
* * *
「…ん、…亥清さん!」
「…ん、…ぁ、……み、なみ?」
「大丈夫ですか?起き上がれます?」
肩を軽く揺さぶられ、最後通話が途切れる前に聞いた巳波の声に似たものに問いかけられているのをぼんやりとした意識の中感じると、悠はゆっくり瞼を押し上げる。目の前には、眉を下げて心配そうにこちらを見詰める巳波の姿があり無意識に服の裾を軽く摘んでしまう。ちゃんと触れるから、これは現実で、今巳波が目の前に居てくれてると確認すると安堵の息を小さくつく。
「みず…飲みたくて、落ちた」
「スポーツ飲料買ってきました。取り敢えず起こしますよ」
「ん…」
脇に腕を回され身体を抱き上げられる。そのままベッドへと座らせられると、支えるように隣に巳波が座ってくれて体温と匂いが近くて落ち着いた。
「何でもっと早く連絡しないんです」
「あたま、回らなくて…ごめん」
「何か食べてお薬飲みましょう」
「…薬、嫌い」
「そんな顔しないの。ほら、取り敢えず飲んでください」
薬、のワードに子供のように顔を顰めながらもペットボトルにストローをさした状態で口許に持っていかれると、悠はゆっくり口をつけてひりつく喉の奥に甘くて冷たい飲み物を流し込んでいく。
「熱もありそうですね。亥清さんの家に何があるのか分からなかったので色々買ってきましたよ。おでこにこれも貼っちゃいましょう」
巳波の、悠よりも低い体温の手の甲がひたりと首筋にあてがわれるとひんやりとして気持ち良かった。でもそれは、熱さましのシートを額に貼る作業の為に直ぐに離れていってしまい、少し拗ねたように口を尖らせた悠は肩に凭れ甘えてみる。
「亥清さん、これでは私が動けませんよ」
「いい。傍にいて…安心するの」
「…全く、もう」
お強請りは成功した。巳波は溜息をつきながらも1度シートを取り出そうとしていた手を止めそれは悠の髪に回される。ピアノを弾く細く長くて大きな手が、柔らかな髪を優しく撫でてくれるのが心地よくて悠は好きだった。
「巳波、今日は帰っちゃうの?」
「こんな亥清さんを1人残して帰るなんて出来るはずないでしょう?泊まらせて貰います」
「…っ!へへ、やったぁ」
「もう、そんな嬉しそうな顔しないの。良い子ですから、少し休みましょう」
大晦日に1人かと思ったら、風邪をひいた事で大好きな人と一緒に過ごせる事になった。それはもう、悠にとって一大イベントに早変わりだ。思わず力無く頬を緩め笑うと、子供を叱るみたいに巳波に軽く鼻先を摘まれてしまう。すると直ぐに反省したようにしゅんと肩を竦める。
「…はぁい」
「私は悪い子な亥清さんも好きですが、良い子な亥清さんも大好きです」
「巳波に大好きでいて貰えるように、ちょっと休む」
「ええ、良く言えましたね」
巳波が立ち上がり布団を捲ると優しく悠の身体を横たわらせた。そしてご褒美とばかりに額にひとつ口付けると、悠は嬉しそうにそこに手をあてて無邪気に笑う。
「傍に居ますから、何かあったら呼んでください」
「うん…おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」
片手をとって布団の中で指を絡め握ればそっと悠も握り返す。異なった体温が混ざり合いひとつに溶けていく工程が心地良く安心して、再び悠を睡魔が襲い始める。
「…早く良くなって、亥清さん」
瞼は閉じられ、静かな寝息を立て始めた悠を見つめた巳波はおまじないをかけるようにぽつり呟き少しだけ布団から指先を覗かせるとそこに音を立てて軽く口付けた。
終