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    忘れ得ぬ、雪軒、A英など。支部から作品移動したもの有り。

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    A英/1枚の愛からシリーズまとめ上。
    支部にて投稿していた1〜4をまとめたものです。

    1枚の愛から1〜41枚の愛から



    カシャっと世界を切り取る音がする。
    そっと覗いていた小さな窓から目を離し、奥村英二は目の前に広がる風景をじっと見つめた。後ろに束ねた黒髪が風に揺れる。
    眩しく滲む光は空も街も何もかもを照らす。光の波が夜空を薄め、淡い色が広がる。強く燃え盛る太陽がこのときだけはひどく穏やかに感じられる瞬間だった。
    騒がしく、ぎゅうぎゅう詰めのこの街を染め上げる。
    変わることなく繰り返される光を何度も見てきた。その度に英二の胸の奥には何かが揺らいでいた。
    まるでこの街の夜明けのように、その一瞬だけに顔を覗かせる。呆然となるほどの安堵と僅かな焦燥。
    それはずっと、彼がカメラを手にし夜明けの空を撮った十年前から変わらないものだった。




    カフェのテラス席、行き交う人々をなんとなしに目を向けるとその人だかりの向こうから見知った顔がこちらに向かってきた。
    「久しぶりだねマックス」
    「おう、しばらくぶりだな」
    向かいの席に腰掛け、近付いてきた店員に注文を済ますとマックスは緩く笑みを浮かべた。
    「そっちは変わりないか」
    「おかげさまでね。仕事も増えてきたしなんとかやってるよ」
    英二の答えに、マックスはそうかと安堵をこぼす。
    「いやしかしお前もうすぐ30近かったっけ 相変わらずだな」
    「もう若々しいって長所として受け入れることにしたよ」
    「酒買うのに困ったら呼んでもいいぞ」
    「遠慮しとく」
    苦々しい顔でマックスを睨むが効果はないようだった。
    マックスはこの地で英二が頼れる頼もしい存在の1人だった。こうしてからかってきたりもするが、そこには確かに慈しみがある。
    「先週の写真も評判良かったぞ。次も頼んだよ」
    「それはこちらこそ。全力でやらせてもらうさ」
    マックスが言ったのは彼も編集に携わる雑誌のことだ。
    奥村英二は写真家としてこの街に名を馳せていた。まだ国外ではあまり知られていないが人気は確実に、増えている。雑誌には定期的に英二の写真が掲載され、それを目当てに雑誌を手にする者も少なくない。英二の写真が雑誌に載るのはもちろん彼の実力だがきっかけはマックスだった。英二に写真を教えてくれたカメラマンとマックスが友人だったことが大きい。



    英二が写真と出会うのは大学生の頃だった。当時棒高跳びの選手として活動していたが怪我を理由にスランプに陥ってしまった。塞ぎ込む英二をニューヨークという異国の地に連れて行ったのはとあるカメラマンだ。
    伊部俊一というカメラマンは英二の写真で写真家としての一歩を踏み出せたと度々英二に感謝を伝えていた。スランプに苦しむ英二をなんとかしてやりたいと、新しい環境へと連れ出したのだ。
    そのとき英二は初めてカメラを手にした。撮られることはあっても撮ることはなかったのでもちろん知識も経験もない。伊部には悪いが異国の地でできることも少ないからと身近なカメラを持ってみた、それくらいの気持ちだった。
    長いフライトで時差ボケのせいで日が昇る前に目が覚めてしまったときのことだ。英二はときどき伊部からカメラの操作について聞いたことがあった。その知識を頼りにカメラを手にした。
    「記念だと思って好きに撮ってごらんよ」
    渡米前に渡されたカメラは昔伊部が使っていたものだという。家族への土産話として写真を撮るのもいいかなと思った。
    なんてことない夜明け。
    朝練前の走り込みや試合のために早く家を出たとき、何度も見てきた。
    ホテルの大きな窓から見下ろす街並みは日本の都会のようで全く違っていた。そっとベッドを抜け出しビルの向こう側に溢れ出す光を見た。
    見様見真似でファインダーを覗き込む。
    徐々に空の色を変え、薄暗かった街を白く染めた。
    金色の光だ。
    綺麗だ、と思った瞬間にはすでにシャッターを押していた。
    何度も、見てきたはずだった。
    だというのに英二の心臓は強く強く脈打っていた。
    ファインダー越しの光、切り取られた空。
    ああ、これだ。
    そのとき初めて手足の先までようやく血が通ったように目が覚めた気がした。
    英二は昔から何か違和感を抱えていた。忘れたものを思い出せないようなもどかしさに似た何か。答えを探したいが、そもそもその違和感すら本当にあるのかさえ曖昧なものだった。それでも消えないもどかしさに英二は答えを探した。
    その答えかはわからないがいつしか棒高跳びの道を選んだ。あの感覚が好きだった。
    文字通り空を飛ぶ。飛んで、マットに落ちると空が見えた。初めて空を飛んだときようやく根付いていた違和感が薄れた気がした。
    けれど違った。いや違わないのだろうけど。
    太陽が昇りきり、街が目覚めた。
    伊部からカメラを渡されたとき、おっかなびっくりに受け取ったカメラが妙に手に馴染んだ。それも気のせいなのかもしれない。
    それでもいいと思った。
    それくらい、このファインダー越しの夜明けに焦がれた。
    見つけたと思った。
    この街並みを、このフレームを、この空を。
    英二はこのとき自分の道を決めた。
    この国で生きることを。


    「それで。何だって急にストリートキッドの取材を 知り合いでもいるのか」
    マックスが頼んだコーヒーが届き口をつける。その視線はビジネスパートナとしての疑問、そして彼自身の興味が込められていた。
    「そういうわけじゃないんだ。この前伊部さんと話す機会があってさ。昔、アメリカのストーリーキッドに取材したことがあるって聞いて色々聞いたんだ」
    伊部の拠点は日本だが仕事の関係で海を渡るのも珍しくない。そのときの写真を見せてもらった。写真に写る、と言っても顔は写さないようにしてるものが多かったが不思議と彼らに心惹かれた。
    ボロボロの壁に書かれる落書きや道沿いにたむろする少年たち。大袈裟に言えば写真家としてのセンサーが反応した。いや、そこに行きたいと無性に思った。
    「それで僕も取材したいなって。ただ彼らの写真を撮りたいだけじゃなくて、あの場所での彼らを見てみたいんだ」
    「そういえばあったなそんなこと。俊一のときは何事もなく終わったが……危険だということはわかってるんだろうな」
    子供相手だからと油断していい場所ではない。彼らは彼らの秩序の中で生きている。そこでは法は無意味だ。何が起こっても誰も保証はしてくれない。マックスはこの童顔の日本人を心配して敢えて脅した。マックスにとって英二は良きビジネスパートナーでもあるが大切な友人の1人なのだ。
    「それはもちろん。僕だっていい大人だぜ」
    そう言って胸を張るこの青年が三十路を目の前にしていると、一体どれほどの人間が気付くのだろうか。いや気付けるのだろうか。
    マックスはやれやれとため息をつく。
    「その台詞覚えておけよ。お前からストーリーキッドの取材について聞かされたときは何事かと思ったぞ」
    そのときのことを思い出しているのかマックスは疲れた顔で肩を落とす。
    この銃社会の国で銃を使うどころか持ってすらない日本人が一体どうやってニューヨークの悪ガキの街へ乗り込む気なのか。
    当の本人は何のことだと言わんばかりに首をかしげるばかりだった。
    「チャーリーに聞いてみたら話が通じそうな奴に心当たりがあるらしい。しかし今は事情が混み合っててとてもじゃないが取材は無理みたいだ。事が片付けばもしかしたら受けてくれるかもしれないが、あまり期待しないほうがいい。何より奴らは大人が嫌いだ。難しいと思うぜ」
    チャーリーはニューヨーク市警の刑事でマックスの元同僚だ。マックスが刑事を辞めジャーナリストとして活動している今も交流がある。
    英二の童顔ならなんとかなるかもな、とは言わないでおいた。
    マックスの言葉に英二は落胆を隠せなかった。伊部から話を聞いてから彼らと彼らの街並みばかりを考えていたせいでそもそもの取材と撮影ができないかもしれないという考えが抜けていた。
    マックスが言った通り伊部が無事に取材を終えられたことは珍しい事なのだろう。受け入れられただけでもすごいというのに。
    思わずため息がこぼれた英二にマックスも申し訳なくなってくる。英二が写真に対して並々ならぬ情熱を注ぎ努力を重ねていることを彼は知っている。だからこそ落胆する姿が痛ましい。
    「そう気を落とすなよ。まだできないと決まったわけじゃないんだ。奴らの用事が無事に済むように祈ろうぜ」
    マックスは英二が19歳のときに出会い、その頃よりかは幾分か歳を重ねているが彼は未だに幼さが拭えない。それがいい事なのか悪い事なのかは判断しかねるが、下手をすれば学生に間違われる容姿で落ち込まれると何としてやりたくなるのだ。
    「チャーリーにはまた俺から聞いておいてやるよ。もし取材が可能なら俺もついていく」
    「チャーリーに会うなら僕からも直接頼みたいからそのときは声をかけてほしい。無茶なお願いなのはわかってたつもりなんだ……」
    マックスの慰めを受け、英二はひとまず帰ることにした。マックスは最後まで英二を気に掛けてくれた。取材ができるようであれば一緒に、という約束をしてその場は終わった。
    帰り道、英二は自分が思っているよりも落ち込んでいることに気付いた。
    やはり自分が興味を持ったことに近付けないのは歯痒い。夜明けの空を撮るたびに湧き上がるあの焦燥に似た感情だ。
    写真は好きだ。今はもう飛べないが棒高跳びだって好きだ。純粋に。一瞬の世界に触れることや空へ伸び上がる感覚が。ただそれ自体が好きだ。
    でも何か足りない気がする。
    何か、誰か、すらわからない。
    けれど足りない。ファインダーの向こうにふと何かを探している自分がいる気がしてならない。
    「……なーんて考えすぎか。いつから僕はポエマーになったんだか」
    しんみりしすぎて変なことまで考えてしまった。マックスが言った通りまだできないと決まったわけではないのだ。取材受けてくれますようにと英二は故郷の八百万の神に祈ることにした。
    散歩がてら少し回り道をしたせいか思いの外時間が過ぎた。暗くなる前に帰ろうと今度こそ真っ直ぐ家に向かおうとしたときだった。
    視界の端で何かがが見えた。引き寄せられるように目を向けると1人の子供が何人かの少年達に囲まれていた。囲んでいる少年達は子供よりもはるかにガタイが良く、下手をすれば大人が子供を囲っているようだった。その表情にはありありと欲望が滲んでいた。
    小さな子供が激しく首を横に振り足を踏ん張る。無駄な抵抗だと言わんばかりに男達は細い腕を掴んで薄暗い裏路地に引きずり込んでいった。
    子供の目に浮かんでいた恐怖と絶望を捉えた瞬間、英二は走り出していた。





    「い、いやだ やめてよ」
    「大人しくしてれば痛くないさ。これ以上暴れるってんなら……保証はしないがな」
    子供は恐怖に喉を詰まらせる。大声を出したいのに、走り出して逃げたいのに何もできない。
    「ちょっとくらい付き合ってくれよ。なぁ」
    別の男が子供の首にひたりとナイフを当てる。体が強張り抵抗すらできなくなると男達はますます気持ちの悪い笑みを浮かべた。
    子供が全てを諦めようとしたとき、フラッシュ音とともに閃光が薄汚れた路地を一瞬だけ覆った。
    「なんだ」
    子供の手を掴んでいた男が思わず手を離した。他の男達も突然のことに動揺していた。
    そこに立っていたのはカメラを構える英二だった。
    「証拠写真ってやつかな、これ」
    冷や汗をかきながら苦笑いするも、挑発するように睨みつける英二。
    「何してやがるお前」
    おそらく自分よりも年下の子供の怒声にビビりながらも英二は呆然とこちらを見上げる子供に向かって「逃げろ」と声を出さずに口を動かした。今度は英二に標的を変えた男達が一斉に英二に手を伸ばしてくる。ひえぇと気の抜けた悲鳴を上げながら追いかけてくる男達から逃げ出した。
    「逃げんなこの野郎」
    「捕まえろ」
    迫り来る脅威に英二は必死で足を動かした。例え顔を撮られたカメラを渡しても素直に逃がしてくれるはずもないだろう。大切なカメラを渡すつもりもないし、それならば逃げ切るしかないと英二は最近動かしていない筋肉を信じて走り続けた。


    「やばい……」
    ビルとビルの隙間、ゴミ箱の後ろに隠れて小さく息を吐いた。
    辺りはすでに日が暮れ、夜中と言っていい時間になっていた。男達の追跡をなんとかかいくぐり、逃走していたのだが、途中から男の仲間であろう数人が加わり英二はまた情けない悲鳴を上げた。
    「くっそー 人数増えるだなんて聞いてないぞー」
    それでも路地を抜け、入り組んだ細い道を走り回ってなんとか男達の目からは逃れることができた。そしてようやくほっと胸を撫で下ろしたはいいが英二は自分が置かれた状況に気付いた。
    「…………ここどこ」
    見たこともない場所だった。
    逃げているとき、このまま家に向かったら後をつけられてもっと面倒になるのではと思いあえてデタラメな道を選んでいたのだがそれにしても知らない場所だった。
    夜になったなら人気も少なくなるだろうしこの隙に街に戻ろうと思ったのだが、どこにさっきの男達が潜んでいるのかと考えてなかなかここから抜け出せない。ここに留まることも危険なのはわかるがそれ以外に思い浮かばないのだ。
    しかしいつまでもこうしてはいられない。
    「ええいっ 見つかったらまた逃げればいいんだろ 大和魂舐めるなよ」
    半ば意地を張りながら英二は意を決して暗闇の中飛び出した。
    なるべく音を立てないように歩き、辺りを見回す。明かりはほとんどなく、ときおり道の端にたむろする少年達が英二を物珍しそうに眺めていた。
    夜中でもギラギラと光っているビル街とは違いここは静かな喧騒を孕んだところだった。気のせいか、どこからか銃声が聞こえた気がしたが……。英二は深く考えないように頭を振った。
    「あれ、これ……」
    街灯に照らされた壁に目を向けるとそこには所狭しと落書きがしてある。ふと、そのひび割れた壁に見覚えがあることに気付く。
    どこかで見たような……と英二が壁に意識を向け、一瞬追われていることを忘れたそのとき、冷たく固い感触が喉に押し当てられた。
    「よう、随分と手こずらせてくれたな」
    しまったと思ったときには遅く、逃げ道を塞ぐように何人もの男が英二を囲んでいた。首にナイフを押し当てられ、退路を断たれた英二は焦りに身を震わせる。
    今更謝ったところで逃がしてくれはしないだろう。どうすればいいのか、もうどうすることもできないのかと焦る頭はまともに働かない。最悪ボコボコにされて身ぐるみ剥がされるのか……カメラだけでも見逃してほしい。
    英二がじわりと冷や汗を滲ませていると男の1人が英二の正面に立つ。
    「よく見たら可愛い顔してんじゃねえか」
    「またかよ。お前ってほんといい趣味してるぜ」
    「うっせえ」
    顎をとらえ顔を引き寄せられ、まじまじと品定めするように不躾な視線が英二の身体を撫でる。歪んだ口から黄ばんだ歯が覗く。顎にかけられた指先が英二のフェイスラインを辿るように動いた。
    あからさまな接触に流石の英二も自分がどんな目で見られているのか理解すると先ほどとは違う震えが走った。
    「ちょうどいい。カメラもあるしよ。今度は俺らが撮ってやるよ」
    「やめろっ」
    英二の顔を覗き込んでいた男が首からかけられたカメラに手を伸ばす。男がカメラに触れると怒りと憤りで思わず睨み返し、咄嗟にその手を叩き落とした。ナイフを突きつけられてるのにと、思わなくもなかったが考える前に動いていたのだ。
    「っ てめぇ、自分が抵抗できる立場だと思ってんのか」
    後ろから英二を抑え込んでいる男が怒鳴り、ナイフがわずかに皮膚を裂かれ痛みが走った。痛みに呻くと正面の男が勝ち誇った顔で顔を近付けてくる。
    「あのまま通り過ぎてりゃいいものを。後悔しても遅いぜ」
    それは、さきほどの子供を見て見ぬ振りしてあの場を立ち去っていればこんな目には遭わなかっただろうと、男は言いたいのだろう。
    側から見ても男達がまともな人間には見えない。子供をナイフで脅して暴行しようとしていたのだ。当たり前だ。そんな危険な存在に自ら突撃するのは普通に生きていれば難しいし、多くの人は見なかったことにしてしまうだろう。
    けれど、彼は、奥村英二にそんな選択肢はなかった。彼は一般人だ。平和な日本で生まれ、カメラマンという職に就きながら、この国で銃すら持たずに生きていける普通の人間だ。しかし、彼の中にある良心は、誰よりも頑固で、そして無条件なものだった。
    だから英二は何かを考える前に子供を助けた。幼い子供が苦しめられるのを黙っていられない。ただそれだけでゴロツキの男達を相手にしてしまう。そんな英二だからこそ、男の言葉は何よりも理解できなかった。
    周りの男達がゲラゲラと笑っていた。黙り込んだ英二をこれからどう嬲るかを考えて笑っているのだ。
    しかし英二の瞳はナイフも恐れず、男を強く睨んだ。恐怖はある。けれどそれ以上に込み上げるものがあった。
    「後悔するわけないだろ……。たとえここで死んだって、お前らみたいなクソ野郎を見逃しすことの方が後悔する」
    震えながら、それでも吐き出した言葉に悔いはなかった。
    こんなに腹が立ったのは久々で、こんなときに爆発しなくてもいいじゃないかと思うくらい状況は最悪だった。
    突然のことに男達も先ほどまで顔に浮かべていた気持ち悪い表情を忘れ、数秒沈黙する。弱々しいアジア人が、武器も持たない貧相な男が、自分たちにたてついた。それを理解した瞬間、今度は怒気を孕んだ視線を向けてきた。
    「なっ…… 大人しくしてりゃ可愛がってやろうと思ったがとんだ馬鹿みたいだったな。じゃあ、何されても文句は言えねえよな」
    男が懐から取り出したものを目で捉えたとき、英二は咄嗟に目を瞑った。鉛玉が飛んでくるのが先か、首を裂かれるのが先から。
    どちらにせよもう……。



    腹に響く銃声が空気を揺らす。



    痛みに備え、ぐっと詰めた息が苦しい。しかしそれだけだった。
    痛みが来ない。
    じゃあ、今の銃声は……。
    英二はきつく閉じていた目を恐る恐る開いた。開けた瞬間に自分が傷だらけで痛みに気付いてなかった、なんてことを想像して躊躇いながらも目の前の光景を目にした。


    ナイフを英二の首に当てていた男と銃を向けていた男2人が地面に倒れて呻き声をあげていた。苦悶に満ちた表情だ。残された何人かは変わらずそこに立っていたがある一点を一様に見つめていた。
    倒れている2人は手を押さえ、そこから血が滴り落ちているのが見えた。
    何が起きたのかよくわかないまま、男達の視線を辿り、街灯のかすかな明かりに反射する金色に目を向けた。
    そこには少年がいた。少年と呼ぶにはあまりにも鋭すぎる目付きと雰囲気を纏い、その手には拳銃が握られている。その銃口はまだ下ろされておらず、誰かが動けば途端に撃ち抜かれるだろうと容易に想像できた。それほどまでに彼の気は凄まじかった。一瞬でこの場を支配する。
    そしてその圧倒的な存在感に動くことができない。彼が発する気が針のように肌に突き刺さるようだった。天使のような神聖ささえ感じさせる顔立ちがより一層現実離れした気分にさせた。
    息を呑むほどの美しさとは彼のことを言うのだろう。英二は呆けたように口を開けて彼から目を離せずにいた。
    「アッシュ……」
    誰かが呟いた。しかしその声はさきほど英二を追い詰めていた傲慢な色は無くなり、情けないほど力がなかった。
    背はそこまで高くない。けれど見下ろされていると錯覚するほどその視線は冷たく一切の感情が見えない。
    「失せろ」
    たった一言、少年の言葉に弾かれたように男達は散っていった。地面に転がる仲間も連れて行くあたり仲間意識はちゃんとあるんだーと場違いなことを考えてしまう。
    残された英二は驚くほどあっけなく命の危機が去ったことに呆然としつつなんとか思考を繋いだ。少年は構えていた拳銃を腰に差し込んでポケットに両手を突っ込んだ。
    「あの、ありがとう……助かったよ」
    しかし少年からの返答はなく、こちらを警戒するようにじっと英二を観察する。近付いたら引っ掻きそうな様子が野良猫に似ていて踏み出そうとした足を押し留めた。そのまま近付いたら逃げてしまいそうだったから。
    アッシュと呼ばれた彼は見たことがないくらい整った顔立ちをしていた。たとえその手に握られているのが拳銃でもナイフでも魅入ってしまうくらいに。安っぽい光の下で新緑の瞳が英二を見据える。
    「ガキが襲われてんのかと思ったが……あながち間違いじゃなかったな」
    無表情のまま呟かれた言葉に英二は一瞬思考を止め、すぐにその意味を理解した。そして悔しいがそんな表情すら見惚れてしまう。
    いくら英二が童顔でもそこそこ年は重ねているし、実年齢よりも若く見える、という意味での童顔だ。と、本人はそう思っている。
    アッシュが遠目から英二を見てそう判断したというのも仕方ないだろう。
    しかしカチンときたのは仕方ない。
    「僕は君よりはるかに年上だよ」
    自分よりはるかに年下の子供にまでからかわれるだなんて、と英二が悔しさをぐっとこらえてアッシュの言葉を訂正する。ムキになる英二にアッシュは変わらず張り詰めた雰囲気を解くことはなかった。本当に野良猫みたいだ。
    「でも、本当に助かったよ。ありがとう」
    英二が礼を重ねる。彼が助けてくれたのは事実だ。それに、子供が襲われているかと思ってと、彼は言った。実際子供ではなかったが彼は襲われている子供を助ける少年ということだ。少し意地悪そうだがそれだけで彼の心根がわかる。
    するとアッシュは奇妙なものでも見るように眉をひそめた。その様子に何か変なことでも言ったかなと英二が口を開こうとするとアッシュを呼ぶ声がした。
    「おい、アッシュ。急にいなくなるな、よ……え、英二」
    「チャーリー。どうしてここに」
    アッシュの名を呼んだのはチャーリーだった。アッシュのそばにいる英二を見つけると目を見開いてあっと声を上げた。
    「そりゃこっちの台詞だ まさか君1人か」
    「はい。ちょっと事情があって」
    慌てて駆け寄るチャーリーに苦笑いを浮かべると彼はひどく驚いて口調を強めた。
    「1人で、しかもこんな時間のダウンタウンにどんな事情があって来るんだ 今ここは危険なんだぞ ……まさか例の取材の件で」
    「ち、違います 本当に、あの、事情があって。取材についてはマックスから話は聞いてるし、そのつもりでここに来たわけでもないんです。ここに来たのは本当に偶然なんです」
    ダウンタウン。やはりかと英二は密かに思った。
    先ほどの壁に既視感を抱いたのはおそらくイベに見せてもらった過去の取材写真だろう。どうやら自分は知らず知らずのうちに求めていた街にたどり着いていたようだ。
    チャーリーは探るように英二の表情をうかがう。強引に取材に来たと思われても仕方ないタイミングなだけに英二としても気まずい。本当に偶然なのだが。
    「もう用は済んだろ。俺は行くぜ」
    しばらく2人のやりとりを観察していたアッシュは興味なさげに踵を返す。今度はチャーリーが声をかける隙を与えず、彼はするりと暗闇の中へ帰っていった。
    「あっ……」
    待ってと、伸ばした英二の手は空を切るだけだった。
    「まったくあいつは……。それでどうしてアッシュと一緒にいたんだ。あいつは素人には手を出さないはずだ」
    アッシュが去っていったのを見送りチャーリーがやれやれと肩を落とす。英二はぼんやりとした思考を戻しチャーリーに返した。
    「実はちょっと絡まれてて。彼が……アッシュが助けてくれたんです。優しい子ですね」
    冷たい瞳だった。けれど怖くはなかった。
    英二がそういうとチャーリーはまたもや目を剥いた。
    「それをあいつが聞いたらひっくり返りそうだな」
    「それって……っ」
    どういうことだろうと英二が首をかしげると途端に痛みが走った。今までどうして忘れていられたのだろうかと思えるほど切り傷が主張し始める。緊張の糸が緩んだせいかジクジクと焼けるような痛みが襲う。
    「おい、英二どうした……え、その傷」
    チャーリーもようやく気付いたようで尋常じゃない慌てっぷりだ。チャーリー自身も英二がここにいることに気を取られすぎていたのだろう。
    英二は声を詰まらせながら痛みに耐えた。こんなときでもカメラに血が掛からないように傷とは反対側に避けて。



    その後、チャーリーに病院に連れていかれ治療を受けた。首の傷なので出血は多かったがそこまでの深手ではなかった。一晩入院を言い渡され病室で大人しくしているとマックスがすっ飛んできてしばらく説教されたのはまた別の話だ。
    何故あの場にチャーリーがいたのか聞かされるとマックスの説教はまた伸びた。
    チャーリーはとある事件を追ってアッシュに捜査協力を依頼していたのだ。金髪の少年ばかりを狙う連続殺人犯を捕まえるためにアッシュは囮捜査に協力していた。英二がアッシュに助けられるほんの数十分前にその犯人は逮捕された。英二が男達から逃げていた間に聞いた発砲音はアッシュが犯人に向けたものだったのだろう。
    マックスが言っていた『事情が混み合っている』とはこの捜査のことだっのだ。マックスはもちろんその事件の捜査だとは聞かされていなかった。例え連続殺人犯が隠れていようともダウンタウンは危険な場所に変わりはないが。よりにもよってそんな危険な時期にダウンタウンに飛び込んだ英二の運の無さとアッシュに助けられた運の良さに英二も驚いた。
    英二が何故男達に追われたのか理由を聞いた2人は大きなため息をつきながらも最後には納得してくれた。
    「理由はわからんでもないが無茶はしないでくれ。お前に何かあったら俺が俊一とジェシカに殺されちまう」
    マックスが長い説教を終え、最後には無事でよかったと言葉を残し彼は帰っていった。心配をかけてしまったと申し訳なくなる。
    英二は真っ暗に染まった窓の外へ視線を投げた。あの少年はこの暗闇の中にいるのだろうか。
    どんな深い闇でもきっと彼を塗りつぶせはしない。英二は窓の向こうに目を凝らした。
    また君に会いたいな。
    「アッシュ……」






    翌日、退院した英二は伊部からの電話でこんこんと説教を受けた。伊部はとても心配していてちょっと涙声だった。英二は申し訳ないと思いながらも昨日の出来事に悔いはないしむしろ子供を助けてアッシュという少年と出会えたことは自分にとって幸運だった、とは言えない。
    このままだとジェシカからもお叱りを受けそうだなと怯えながらも英二はマックスに連絡を取った。


    「で、それでも行くんだな」
    昨日と同じカフェでマックスは英二と向かい合っている。
    「うん。行きたい。僕、彼らの写真を撮りたいんだ」
    英二は昨日の出来事のせいで余計に取材への情熱を燃やしていた。
    マックスとしては英二に危険な目に遭ってほしくはない。その可能性を出来るだけ避けてほしい。しかし英二の瞳は昨日とはまた変わっていた。明確な目的を掴んだように爛々と光っている。
    (こりゃなんか見つけたな)
    英二がいつまでたっても子供のように大きな瞳を輝かせるのは心惹かれた被写体を撮るときだ。カメラマンとしてはそれは非常に望ましい。
    止めたいのが本音だが英二は顔に似合わずとてつもなく頑固だ。一度決めたら曲げない。おっとりとした日本人、という印象はとうの昔に捨て去ったマックスだ。
    「はぁ……わかったよ。チャーリーには俺から伝えておく。反対したってどうせ無駄みたいだからな。また勝手にダウンタウンに行かれるよりマシだ」
    「だからあれは……」
    「わかったわかった。別にお前がやったことを責めてるわけじゃない」
    英二は子供扱いされてると思い少し不満そうだ。
    「ところで、聞いた話だとお前を助けたそのアッシュってガキがチャーリーのいうアテだったらしいな」
    「そうなんだ。僕も聞いて驚いた」
    「14で不良グループのボスか。会わないほうが平和だな」
    「彼は僕を助けてくれたんだ。優しい子だよ」
    「優しい、ね……」
    何か言いたげなマックスだがそれ以上は何も言わなかった。
    「なに」
    「いや……。さて、俺はそろそろ行くよ。今度似たようなことが起きたら警察に駆け込めよ。取材が決まるまで大人しくしてろ、いいな」
    「もう何十回と聞いたよ……」
    「何十回も言わないと聞かないだろ」
    マックスは英二の黒髪をかき混ぜるように撫で付けてにやりと笑う。



    英二はそれからマックスに言われた通り大人しく過ごした。元々そんな危ない撮影などしていないがいつも通り過ごした。チャーリーから連絡は来ないしまだ取材はできないのだろ。逸る気持ちはあるが焦ってもいい結果を得られるわけでもない。この前のように騒動を起こせばそれこそ取材の話がなくなる。
    カメラマンたるもの、じっと堪えてその時を待つのも仕事だ。
    (アッシュ、君とまた会えるかな)
    ライオンのたてがみにミントの瞳。英二の心はあの少年のことばかりが浮かんだ。
    どうか無事に取材できますようにと今日も出雲と、この国の神様にも祈っておく。



    しかし、運命というものは英二の意思など御構い無しに歯車を回す。それはとある少年の意思さえも意に介さず。



    「…………」
    英二は目の前の光景を黙って見つめるしかなかった。
    自宅のベッド、そこは今までも、もしかしたらこれからも自分以外に使う人間はいないと思っていた。のだが……。
    白い肌から血の気をなくし、金色のまつ毛に縁取られた瞳は今はぴったりと閉じている。ところどころかすり傷ができたその少年が今自分のベッドで眠っている。



    それはあのダウンタウンでのできごとからわずか一週間ほどのことだった。
    受けている仕事の撮影で街に出かけたのはいつものことだ。それが終わって、思いの外夜遅くになってしまったためタクシーでも拾おうと思ったのだがなかなか捕まらない。
    はてどうしたものかと悩み、人通りの多い通りから少し離れて探してみることにした。暇にしてるタクシーが止まってたらラッキーだなと考えながら通りを曲がったときだった。
    「ん」
    ほんの一瞬だけ、視界に光るものが入った。それは金髪で、目で捉えようとした時にはわずかに背中が掠めたようにあっという間にビルの隙間に消えた。
    (なんか覚えがあるシチュエーション……)
    頭の中でマックス達が怒鳴る幻想がよぎったがそれも一瞬。英二はすぐに追いかけた。
    あの背中はあの日、暗闇に帰った彼とよく似ていた。小さくて大きな背中。
    しかしなにより放っておけない理由があったのだ。
    彼が歩いていた場所に落ちたシミのような跡。血痕だ。
    英二はその影の後を追った。追わなければと思った。あれは彼だと、自分の中の誰かが叫んでいた。
    その人物にはすぐに追いつけた。彼は薄暗い建物と建物のわずかな隙間に倒れ込んでいたからだ。通路とも呼べないゴミが散乱した地面に投げ出された姿を見て英二は息を詰めた。血の気が引いたとも言える。額からは血が溢れ白い肌を染めていた。
    「アッシュ アッシュ」
    しゃがみこんで名前を呼び、傷に触れないように頬に手を伸ばす。その瞬間、閉じられていた瞳がカッと開き伸ばされた手を容赦なく弾き飛ばした。
    「触るな」
    今の今まで倒れていた人間とは思えぬほどの瞬発力で上半身を起こし肩で大きく息をする。しかしその姿勢も辛いのか片手を地面につき体を支えているようだった。
    全身の毛を逆立てて目の前にいる英二を威嚇する。爛々と光る目は野良猫のそれと同じだ。
    ヒリヒリと痛む手をそのままにして英二はその眼光に怯むことなくアッシュのそばから離れようとはしなかった。
    「怪我をしている。無理に動いちゃだめだ」
    「……あんたに関係ない。どっかいけよ」
    アッシュは怪我を悟られまいとしているがそれは今更のことだった。それでも彼は必死に相手に弱みを見せないように毛を逆立てる。ただの少年がここまでの殺気を飛ばすことはできないだろう。
    「地面に寝てても傷は治らないよ。病院に行こう」
    それを真正面から受けている英二も頑固だった。アッシュを放っておけないからだ。
    「関係ないって言ってるだろ」
    「もしかして病院に行きたくないの」
    「…………」
    黙り込んだアッシュになるほどと英二は納得した。行きたくないのではなく、行けないのが本当のところなのだろう。
    暗いせいで傷の深さはわからないが今彼が平気でないことは素人でもわかる。
    「ならせめて止血しないと。それくらいいいだろ」
    英二が躊躇いなく自分のシャツを引き裂くとアッシュはギョッとした表情で英二を見た。しかし再び伸びてきた腕に気付くと、腰にさしていた銃を真っ直ぐに英二に向けた。
    「…………いくら今の俺がヘボでもこの距離ならあんたの頭を撃ち抜けるぜ」
    指は確実に引き金にかかっていた。アッシュの言う通り彼が英二を外すことはない。英二を助けたときの射撃がそれを証明していた。
    「僕を撃っても止血できないよ」
    「そんなことしなくても死なねえからどうでもいい。今回は見逃してやるからさっさと行けよ」
    「……わかったよ……。でもさ、やっぱこういうときは止血しといたほうがいいんじゃないかな」
    「……はぁ」
    一体なんの話だとアッシュは眉をひそめた。渋々了承したかと思えばまだ止血にこだわる英二を不審な目で睨んだ。
    「血の跡を辿って敵に追いかけられるとか、パターンじゃん」
    「…………」
    英二としては、大真面目だったのだがアッシュには通じなかった。敵をこれでもかと威嚇する眼光は一変、なんだこいつと呆れた色を滲ませる。
    「ガキか。ドラマの見過ぎかよ」
    「なっ だから僕は……」
    またしてもガキ扱いされたことに英二が反論しようとしたが、その前にアッシュは力尽きたように倒れ込んでしまった。今ので気が緩んだのか、体が限界だったのかわからないが彼の状況は一向によくなっていない。
    苦しそうに呼吸を繰り返し大量の汗をかいている。それでも手にした銃だけは手放さないのが彼のこれまで生活を垣間見せた。
    傷を負いながらも口達者なアッシュが今にも虫の息になると一気に不安が押し寄せる。こんな弱り果てた姿を見るくらいなら口が悪くても銃を向けてきてもその方がマシだ。
    英二は手に持ったままの布切れを素早くアッシュの傷に巻いた。肩口に血を滲ませていたので他にも傷がないか確かめる。見たところ血が出ているのはその傷と額だけのようだ。あとは擦り傷が腕や頬にあるが重傷ではない。
    今日は長い上着を着てきてよかったと朝の自分を褒めてやりながらコートでアッシュに巻きつけるように包み込んだ。触れた肌はひどく冷たい。早くしなければ。英二は慎重にしっかりとアッシュを抱き上げた。
    さすがにこのまま徒歩に帰るわけにもいかないので英二は表通りでタクシーを探した。すると先程まで全く捕まらなかったのが嘘のようにあっという間に目の前にタクシーが止まる。まるでアッシュを拾うまで帰れないとでも言われているようだ。たとえタクシーが来なくても英二は彼を連れて行く気だったが。
    血に濡れた少年とビリビリのシャツを着た男など乗せてもらえるかと少し心配したがコートがアッシュをうまく隠してくれたし彼を抱えることでシャツも運転手からは見えなかったようだ。
    英二は自宅の住所を告げるとなるべく急いでくれと頼んだ。運転手も英二に抱えられた子供の顔色を見て頷き返す。
    一般的には意識のない子供を抱えている男というのは親子か年の離れた兄弟、もしくは『悪い』印象しか受けないのだが英二の表情がとてもそんな大人には見えなかったのか。彼の腕に抱かれた少年を心底心配しているその表情に運転手はそんな疑問も抱かなかった。


    お釣りはいらないと数枚の紙幣を押し付け英二は自宅へと急ぐ。彼の家はニューヨークのビル街から少し離れたところにある一軒家だ。元は撮影で親しくなった老夫婦が暮らしていたのだが、体が不自由になり施設に移ることになった。英二はマンション暮らしだったが撮影機材や撮りためた写真が部屋を圧迫して新しい部屋を探しいるときだった。
    扉を開け一直線にベッドへ運ぶ。部屋の電気をつけしまい込んでいた救急セットをクローゼットの奥から引きずり出す。
    光の下で見たアッシュはやはり顔色が悪かった。服に血が滲んでいるのが痛々しい。
    触れられることを極端に嫌がっていた彼に何の断りもなく触れてもいいのかと考えたが、今更だった。後でどう思われようが彼の傷がこれ以上悪化しないのならその方がいい。
    力の抜けた人間の服を脱がせるの結構大変だった。左肩を露出させ傷を確かめる。傷の手当てなどせいぜい転んだ擦り傷程度しかやったことがないから自信はない。けれどやらなくては。
    英二は自分を奮い立たせて手当てを始めた。


    どうにか手当てを終えて英二はほっと詰めていた息を吐いた。部屋には血と消毒液の匂いが混じっていた。少しでも体が温まればと毛布を取り出してそっと掛けてやる。濡らしたタオルでアッシュの顔や首を拭く。額の傷も今はガーゼで見えない。
    英二は改めてベッドに横になるアッシュを見つめた。穏やかになった寝息が聞こえることに安堵する。
    「早く傷が治るといいね」
    そっと、本当にそっとアッシュの髪をすくように触れた。細く柔らかな金糸が揺れる。





    「後悔するわけないだろ……。たとえここで死んだって、お前らみたいなクソ野郎を見逃しすことの方が後悔する」


    随分と威勢のいいスラングだと思った。
    アッシュが逃げられないように連続殺人犯の足を撃ち抜いた後、辺りが少し騒がしいなと感じて警察を放って少し離れた路地へ向かった。
    この街で騒がしいなんて当たり前のことだったが事件のこともあって一応、とそれくらいの気持ちだった。
    騒ぎの原因を見つければなんてことない。ガキが絡まれてるだけだった。細っこくて身なりからしてここの人間じゃなさそうだった。
    助けたって別に何の問題もないが助けなくてもそれは同じだ。こんなところに来る方が悪い。自業自得だ。
    アッシュの関心はそこで終わるはずだった。しかし男達に囲まれていたその『子供』はナイフを突きつけられながらもはっきりとした口調で『クソ野郎』と言った。
    「へぇ……」
    1人の男が拳銃を取り出すのが見えた。ナイフの男が刃を更に当てようと腕に力を込めたのも。
    男の手を吹っ飛ばし、絡まれていた当の本人を間近に見てアッシュは顔に出さず驚いた。
    ガキだと思い込んでいたその人物はどう見ても大人だった。大きな瞳や顔立ちは少年のようだったが体の大きさからして彼は子供ではなかった。童顔というやつだ。
    「ガキが襲われてんのかと思ったが……あながち間違いじゃなかったな」
    「僕は君よりはるかに年上だよ」
    思ったことを口にするといかにも不機嫌な声で彼は反論してきた。顔のせいか全く怖くない。
    はるかにって盛りすぎだろと密かに思ったが言わないでおいた。
    大人は嫌いだ。本当のことを言えばすぐに激怒して攻撃してくる。それでもアッシュは大人を刺激する言い方しかしない。大抵の大人は生意気な子供だと下に見てくる。
    しかしどうだ。目の前の人間はアッシュのからかいに多少不満そうだったがそれ以上のことをアッシュにしなかった。
    それどころか2回も礼を言った。
    「本当に助かったよ。ありがとう」
    大きな黒色の目を、アッシュが嫌いな闇色を細めて笑いかけてくる。失礼なガキの態度に腹をたてるでもなく、何度も礼を言う彼がアッシュにとっては奇妙な生き物に見えた。
    アッシュを追いかけてきたチャーリーが彼を英二と呼んだ。チャイニーズでもない名前の響きにジャパニーズかと見当をつけた。
    英二とチャーリーは何やら話し込んでいたのでこれ以上ここにいても意味はないとアッシュはその場を離れた。事件の協力も済んだことだしさっさと根城に帰って寝てしまおう。
    アッシュは自分を引き留めようとする気配を振り切って光の下から消えた。


    アッシュはこのダウンタウンで頂点に立とうなどと考えてはいない。彼が強くなるのは他者に負けないためだ。誰にも支配されず、攻撃されたら二度と手出しできないようにやり返せるようにしているだけだった。
    ストリートキッドとして生きていくにはアッシュの美貌は何かと面倒ごとを引き起こした。そこら辺を歩いていればレイプされそうになるし相手はあからさまに下に見て喧嘩を売ってくる。そういう相手は問答無用で頭を撃ち抜いていた。
    それを繰り返しているといつしかアッシュに刃向かうものは少なくなり、気の合う少年たちとつるんでいたらリンクスなるグループが誕生していた。気付けばダウンタウンの複数ある勢力の1つとなったのだ。
    けれどそれもアッシュにとってはどうでもいいことだった。今日だけを考えて生きている。そのために殺される前に殺す。全ては生きるため。
    そこまでして生きる理由はもう忘れてしまった。



    生き残るために手段は選ばなかった。そのせいで恨まれるのは当たり前だ。その覚悟はしていた。今回もそれだった。
    罠だと気付いた時には遅かった。アッシュはそのカリスマ性で多くの仲間がついていたが、彼のその力を妬み恨むものも少なくなかった。
    特にアッシュを目の敵にしているオーサーという男が今回のことを仕組んだのだろうとアッシュは弾を装填しながら冷静に分析していた。しかし彼の左肩はナイフで切り裂かれ今も鮮血を流している。長引かせると危険だなとアッシュはまだ残っている的に飛び込んでいった。
    「いたぞ アッシュだ」
    「撃ち殺せ」
    飛んでくる弾はどれもアッシュをかすりもしない。目の前の敵を確実に倒し、背後から迫るナイフを蹴り飛ばす。だが肩の傷は思ったよりも深く、その痛みはアッシュの動きを鈍らせた。
    「くたばれ」
    「っこの」
    一瞬動きを止めたせいで眼前に迫るバッドを避けきれなかった。全力で振られただろうバッドはこめかみ近くの額にあたり脳を揺らした。それにも怯まず、近付いてきた隙を逃さずに近距離で発砲する。
    その男が倒れたのを最後にようやく周囲に静寂が戻った。聞こえてくるのはアッシュの荒い息遣いだけだった。
    殴られたせいで視界が揺らぐ。このままここに残ると厄介だとアッシュは体を引きずるようにその場を後にする。
    ダウンタウンに戻れば待ち伏せしているオーサーに狙われる。今の状態ではさすがに戦えないと判断したアッシュはあえてダウンタウンから離れた。一晩経てば何とか立て直せると考えたが最後に受けた攻撃が思いの外ダメージが大きかったようだ。
    人目につかないビルの隙間に身を滑り込ませて倒れ込んだ。ゴミだらけでも今は体を休められるならどこでもいい。
    しかしアッシュの研ぎ澄まされた感覚が近付いてくる足音を捉えた。確実にこちらに向かってくる気配に舌打ちしたくなる。幸いまだ弾は残っている。神経を張り詰めさせて相手を待つ。
    オーサーの仲間かはたまた変態か。どちらにせよ消えてもらう。
    そしてアッシュの耳に届いた声はそのどちらでもなかった。
    「アッシュ アッシュ」
    自分の名前をそんなに必死に呼ぶ人間をアッシュは知らない。憎しみでもない、助けを求める声でもない。知らない声だった。だからアッシュにはそこに込められた思いを感じ取ることができなかった。
    不意に手が伸ばされるのを感じ取りそれを叩き落とした。やっぱり変態野郎かと相手を睨むとそこにいたのはあの童顔男だった。
    「怪我をしている。無理に動いちゃだめだ」
    「……あんたに関係ない。どっかいけよ」
    アッシュは必死に威勢を張った。弱ったところを見せてはならない。その瞬間食い殺されることが身に染みている。
    どれだけ威嚇しても男は、英二はその場を動かない。何なんだこいつはとアッシュは苛立った。
    「ならせめて止血しないと。それくらいいいだろ」
    すると英二は自分のシャツを何のためらいもなく切り裂いて本気でアッシュの止血をしようとする。赤の他人が何故そこまで。疑問が浮かんだが布を手にした手がこちらに伸びていると認識したとき背筋がゾッとした。
    「…………いくら今の俺がヘボでもこの距離ならあんたの頭を撃ち抜けるぜ」
    「僕を撃っても止血できないよ」
    銃を向けてもなおも引かない。アッシュはますますこの英二という人間が不気味に思えた。
    「そんなことしなくても死なねえからどうでもいい。今回は見逃してやるからさっさと行けよ」
    「……わかったよ……。でもさ、やっぱこういうときは止血しといたほうがいいんじゃないかな」
    「……はぁ」
    「血の跡を辿って敵に追いかけられるとか、パターンじゃん」
    「…………」
    なんだこいつ。
    それはアッシュの率直な感想だった。
    英二の言葉はひたすらアッシュを気遣っていた。敵、と彼は言った。英二はアッシュが誰かに追われているのをわかっているのだ。だからそのまま傷を放っておくことはできないし、また襲われる可能性が生まれるから血の跡を辿られないようにしないと、彼は言った。
    赤の他人で、知り合いでもないストリートキッドの安否を心配する素人などアッシュは出会ったことがなかった。
    ここまで徹底して近付くなと言っているのに。人の親切を無駄にしやがってとか、優しくしてればつけあがりやがってとか、何度も言われた台詞を彼はアッシュに言わなかった。
    大きな瞳が真っ直ぐアッシュに向けられる。そこには恐怖も欲望もない。ただアッシュを見つめて答えを待っている。
    ガキみてぇ。
    声に出していたのか、英二がまた不満そうに口を尖らせていた。見えたのはそこまで。冷たい感触が頬にぶつかった。
    けれどどうしてかすぐに温かなものに包まれた気がした。頭が痛い。何も考えたくない。
    思考が水の底へと沈むように感覚の全ての輪郭が感じ取れなくなっていった。




    温かい。
    まず最初に感じたのはぬくもりだった。
    自分を包み込む空気がひどく心地よくてもっと浸っていたくなる。瞼の向こうで何かがチカチカと揺れている。鬱陶しくて渋々開けると白いカーテンから眩しい光が溢れていた。窓の向こうに木陰が光を遮り揺れているのが見えた。
    ぼんやりとした思考が一気に鮮明になる。目を見開いて起き上がると鋭い痛みが体を走った。左肩に手を添えると清潔な包帯が手に触れた。他の傷を確かめると手当てがしてある。痛みのおかげですっかり目が覚めた。
    見渡してみるとここは見慣れぬ寝室だった。ベッドとライト、サイドテーブルにクローゼット。必要なものしかない。根城にしている部屋に比べれば十分清潔で、かといって贅沢な部屋とも言えない。
    アッシュは自分の最後の記憶を辿る。オーサーにはめられて孤立した自分はなんとかあの場を切り抜けた。その後、街から離れて倒れ込んだはずだ。そのとき……。
    アッシュが自分の記憶に潜っているとドアの向こうから物音がした。階段を上る音だ。アッシュはご丁寧にサイドテーブルに置かれていた銃を手にしてベッドに潜り込む。
    扉が開く音が続き、ベッドに近付く足音。
    「まだ起きないのかな……傷がよくならないとか……。やっぱり誰か呼んだほうがいいのかな」
    呟かれた言葉は英語ではなかったのでその内容はわからなかった。だがその声は英二だということは確認できた。あの大きな瞳がアッシュの脳裏に浮かぶ。
    英二の手が上掛けにかかる。アッシュも同時に拳銃を強く握りベッドの中で構えた。
    バサっとめくられた瞬間に合わせアッシュは英二に銃口を向ける。
    「わっ びっくりしたー。起きてるじゃないか」
    驚いたという割に緊張感のない間延びした声だった。驚いたのはこっちだとアッシュは内心悪態を吐く。
    「その様子だと元気そうだね。よかった。立ち上がれそうかい」
    「…………」
    「大丈夫そうなら下においでよ。ご飯作ってあるから。朝食にと思ったけど、時間的にはお昼だね」
    未だ銃口を向けられているというのに英二は呑気に食事を誘う。アッシュは自分が真剣に銃を握ってるのがバカみたいに感じてきた。それくらいこの男は平気で喋る。
    「……あんたバカか」
    アッシュの第一声は呆れた様子だった。
    「え」
    「俺が何を持ってんのか見えねえのかよ。その眼鏡変えてこい」
    「銃だね」
    「それ以外に見えたら驚きだな」
    「君は撃たないよ」
    英二は断言した。それに対してアッシュは表情を変えまいとぐっと奥歯を噛み締めた。
    「君は僕を助けてくれた。例え子供に間違えたとしてもそれは事実だ。それにチャーリーが言っていたよ。君は素人に手を出さないって」
    「場合によってだ。危険だと思ったら誰だって撃つ」
    「なら安心だ。僕は君に危害を与えたいわけじゃないから。ねえ、そろそろ下に行ってもいいかな。コーヒー入れたいんだ」
    何も持ってないことをアピールするように英二は両手を上げた。
    アッシュは疑いながらもゆっくりと銃を下ろした。その間も視線は英二から外さない。
    「ありがとう、信じてくれて」
    英二はそういうと、わずかに笑みを浮かべた。部屋を出て行くときも無防備に背中をアッシュに晒してなんてことないように階段を降りていった。
    「なんだよあいつ……」
    銃を持った人間に普通に背中を見せた。わざとなのか理解していないからこその行動なのかアッシュには判断できなかった。
    不思議な感覚だった。常に気を張って生きてきたからこそ、ここの空気が、彼が纏う雰囲気が、アッシュには合わなかったのだろう。でなければこんな、こんなに胸がざわつくのに不快ではないだなんて、自分はおかしくなってしまったのだ。


    自分が着ていた上着や服は血が付いていたからか、どこにもなく、代わりに着せられていたのは大きなシャツだった。他人の服を着せられることがなんだか納得いかなくて脱ぎ捨てた。
    肩には包帯が巻かれて額にはガーゼが当てられている。かすり傷のような小さな傷も汚れが落とされ悪化している様子はない。
    いつでも取り出せるように腰に拳銃を差し込んで階段を降りる。
    いざというときの逃げ道を確保するためにドアや窓の位置を確かめる。リビングには太陽の光が満ちていた。大きなガラスドアがテラスに繋がっている。テーブルと椅子、少し離れたところにソファー。そしてキッチン。
    英二はキッチンから運んだ皿をテーブルに並べ、降りてきたアッシュを手招きする。
    「あ、服やっぱり嫌だった 寒そうだね。とりあえずなにか食べたほうがいい。血を作るためにはまず食べないと」
    皿に乗る料理は珍しくなかった。スクランブルエッグに分厚いベーコン。サラダにトースト、傍らにはバターが乗った小皿。
    じっとして動かないアッシュに首をかしげる英二。そこには包帯が外れ、ガーゼが当てられていた。
    「もしかして毒とか疑ってる」
    アッシュはそれに答えないが代わりに視線をよこした。
    「入ってないものは入ってないとしか言いようがないんだけどなあ。別に僕が毒味してもいいけどどうする」
    「……俺に聞いてどうすんだよ」
    「僕は君が食べてくれればいいからさ。毒味しても全然いいよ」
    英二の態度や瞳の動きから嘘をついていないと判断したアッシュは大人しくテーブルについた。おっ、意外に素直という英二の呟きを無視してアッシュはフォークを手にした。
    英二はアッシュの向かい側についてその様子を見ていた。それを見てアッシュはため息をついて視線を落とした。
    おもむろに食事を止めたアッシュに英二がどうかしたのかと聞くのをアッシュが遮る。
    「あんたもヤりたいの」
    「…………なにを…… ん なにが」
    アッシュの言葉が英二は本当にわからなかった。そのせいでだいぶ間抜けな返事をしてしまった自覚はあるがそれより何より、彼の言葉の意味がわからなかった。
    「助かったのは事実だしいいよ別に。サービスしてやるよ」
    「え、だからなにを よくわかんないんだけど」
    「だからヤらせてやるって。なに、あんたボトムかよ。そっち目的」
    「 はぁぁぁ なに言ってんだよ」
    目を剥いて椅子を倒す勢いで立ち上がった英二をめんどくさそうにアッシュが見上げる。しかしその目元には僅かに色気が滲んでいた。蠱惑的な笑みを浮かべる少年は嫌味なくらい美しかったが少年には不必要に思えた。
    「今更そんな演技されてもこっちが困るんだよ。さっさとしろよ」
    「な、ななな何を言ってるんだよほんとに 大人をからかうなよ」
    子供の口からそんな言葉が出てくる衝撃と、そんなものを受け取る人間に見られたことのショック、あとは単に英二がそういうものに対する耐性がないせいで彼の顔は赤く茹で上がっていた。
    英二の様子から本気でそういっていることがアッシュにも伝わると今度は彼が目を見開く番だった。
    「……じゃあなんで俺を助けたんだ」
    英二はその質問を深く考えなかった。だから思ったままを口にした。
    「そんなの決まってるだろ。目の前で君が倒れたからだよ。血は出てるしフラフラだしあのままどうする気だったか知らないけどね」
    「……飯まで用意しといて」
    「1人分も2人分もたいして手間は変わらないよ。というか卵とベーコン焼いただけだよ 怪我人に食べさせるにしてもちょっと手抜きだったかなって反省してるけど……」
    「俺とセックスしたくて助けたんじゃないのか」
    「だから 違うっていってるだろ なんで僕が君と、その、しなきゃいけないんだ」
    三十路を目の前にしてセックスと口にできない自分が情けないとへこむ英二をアッシュは口を開けて見つめていた。それは先ほどまで大人顔負けの色気を滲ませていた魔性の少年ではなく、年相応の少年の顔をしていた。
    ぽかんと口を閉じるのを忘れ、眉間に刻まれたしわも消え、澄んだ翠の瞳が目一杯にエイジを写している。
    そんな間の抜けたアッシュの顔を見て英二は堪えきれずふっと笑ってしまった。
    「なんだ。君もちゃんとガキじゃないか」
    この前のお返しとばかりに英二がアッシュを笑う。アッシュはハッと我にかえると負けじと悪態を吐く。
    「ガキに言われたくねえよ。盛ってんじゃねえ」
    「僕は今年で29だ」
    英二の年齢を聞かされたアッシュの驚きの声はその日1番大きかった。





    一枚の愛から 2


    紫煙が揺らぐ店の中。ビリヤード台で軽やかな音が鳴り、どことなく張り詰めた空気。漂う煙草と酒の匂いがその場を支配する。そこにいるのは少年ばかりだった。誰しもが何かしらの傷を持ち、過去を背負っている。故に彼らは強かでその生き様は苛烈であった。
    その店の中で1人の東洋人だけは彼らとはまた違った雰囲気を纏っていた。ストリートキッドに囲まれて萎縮することもなくカメラを構える人間は多くないだろう。
    「英二 今度は俺撮ってくれよ」
    「もちろん。撮るよー」
    ファインダーを覗き込み、快活に笑う彼らを刻み込む。画面を覗き込んで撮った写真をみんなで確認する。今度はポーズ決めようぜなどとはしゃぐ彼らはどこからどうみても年相応の子供たちだった。
    それを離れたカウンター席で一心に見つめているのは透き通った緑の瞳だ。
    「しかしアッシュがカメラマンの取材を受けるだなんて驚いたぜ。今でもびっくりだ」
    アッシュの隣で腰掛けるのはアレックスだった。彼はリンクスがまだできる前からアッシュの仲間である少年だ。気軽に、とまではいかないがアッシュと普通に話せる人間の1人だ。
    多くの人間はアッシュを恐れ、彼をボスとしてついていく者か恐るからこそ敵対する者かに分かれる。例えリンクスのメンバーとなってもボスに気軽に話しかけられる人間はいない。ボスにとって確実に信頼の置ける数名にしてもそこには絶対的な尊敬の追従の念がある。
    全く会話がないわけでもないが、いわゆる『お友達』のような緩い関係ではない。無駄口を叩き合うこともあるが越えられない一線はある。
    そう、ボスに気軽に、話しかけることなど……とアレックスは思っていたのだが。
    こちらに気付いた英二が子供っぽい笑みを浮かべると手を振ってくる。道の向こうにいる友達に挨拶するみたいに。それはもちろんアッシュとアレックスに向けられている。ストリートキッドのボスに満面の笑みを浮かべて手を振る人間は英二だけだろうなとアレックスは思った。
    アレックスは気持ち程度に片手をあげるがアッシュはそれに返さず、動かない。だが視線も動かず英二の方を見つめている。
    英二は満足したのかまた手元を覗き込み、周りの少年たちと笑い合う。とてもじゃないが三十路を目の前にした男には見えなかった。
    「……あいつは別だ」
    「え」
    アッシュの小さな声は先程のアレックスの言葉の返事なのだろうか。聞こえてきた言葉の意味にアレックスは自分の耳を疑った。
    「それってどういう……」
    普段から冷静に行動できるアレックスのひどい動揺にアッシュの視線がやっと彼に向いた。一体何があったのかと尋ねたかったがアッシュの視線1つで口を閉じるしかなかった。アッシュは英二たちを背にしてグラスに手を伸ばす。



    不良少年たちの溜まり場には最近、新しい風が吹いていた。そのきっかけとなる2人が出会った頃に遡る。
    アッシュが英二に拾われ、怪我の手当てを受けたその翌日。多少の誤解はあったにせよ、2人はようやくお互いが名乗ってすらいないことに気付く。第三者の言葉で名前は知っていたがこういうのは大事だよという英二の提案で改めて自己紹介が行われた。
    「改まると緊張するなー。えっと、奥村英二です。仕事はカメラマン。10年前にこの国に一目惚れして今は永住権持ってるよ」
    英二の家には多くの写真が飾られていた。風景や動物、人物など様々なモチーフが選ばれていた。英二の英語も多少訛りはあるがたどたどしくはない。アッシュは英二の言葉に嘘はないだろうと判断した。
    「……アッシュ・リンクス。俺はあんたほど自分について話すことがない」
    「もうちょっとあるだろう。好きな食べ物とか苦手なものとか」
    「なんだそのチョイスは。それでよく取材の依頼したな」
    アッシュから取材という単語を聞いて英二は少し身を乗り出した。
    「取材のこと聞いたのかい チャーリーはまだ返事がないって言ってたけど」
    「俺たちみたいなのに取材したいだなんて善人気取りの記者かよっぽどの物好きしかいないだろうからな。まさかあんたからの話だとはな」
    英二はやっと気付いたがアッシュは大人に対してあたりが強い。マックスが取材は難しいと言っていたのを実感する。それはアッシュだけでなく彼の仲間にも共通する意識なのだろう。
    「やっぱり取材はだめかな」
    無理にしたいわけではない。無理にしたって思うような写真は撮れないだろうから。何より相手に無理を強いることをしたくない。けれどだめだったらショックを受けるのは違いない。心なしか元気が無くなった英二に、今はもう随分と小さくなっている良心が痛むのをアッシュは感じていた。
    「助けられた借りがあるからな。チャーリーには伝えとく」
    「そんな。僕はそのために君を助けたんじゃないんだから、君が本当に嫌なら取材はしないよ」
    英二の言葉は本心だった。アッシュを助けたことにそれ以上の理由はない。自分のメリットのために彼を助ける、という繋がり自体想像もできなかったくらいだ。
    「目の前にチャンスがあるのに手放すのか。利用できるもんはなんでも使うべきだろ」
    アッシュは心底わからないと呆れる。こんな子供の気を遣う義務など英二にはないのに。英二にとってそれは当たり前であり、アッシュにとってそれは希少だった。
    しかも英二はそれを意図せずに行なっている。彼はアッシュが断れば本当にそれ以上追いすがることもなく今回の件から手を引くだろうと容易に予測できた。
    そのとき英二は残念がるだろか。悲しむだろうか。
    アッシュの脳裏に浮かんだその疑問はすぐに自身によって掻き消される。赤の他人になんの心配をしているのだろうか。生温いこの場所に感化されたかのようでアッシュは我にかえる。
    彼は意図的に緩んだ空気を消し、近付くことを許さない張り詰めた警戒心をいつものように身に纏わせる。
    英二は純粋にアッシュの気持ちを尊重するばかりだった。助けられたのはアッシュの方だというのに、申し訳なさそうに肩を落とす姿はあまりに幼く見えた。
    「でも……」
    「いいんだよ。減るもんじゃねぇし。それにあいつらがあんたを気に入らなけりゃ意味がない。やれると思うならやってみろよ」
    自分に限らずストリートキッドは大人が嫌いだと試すような笑みを浮かべるアッシュの目は冷たいものが混じっていた。それは達観した大人のようでこの歳ですでにそんな目をするだけの経験を彼がしてきた証拠だった。
    「仕事のために俺を助けたんじゃないってのはもうわかった。あんたはどうやら本当にただのお人好しみたいだからな」
    「そうかな。やれることをやっただけだよ」
    「それをお人好しって言うんだ。よく無事に生きてられたな」
    「色んな人に助けられてるからね。誰も1人では生きていけないよ」
    こいつのお目付役はさぞ苦労していることだろうと、目の前で呑気に微笑んでいる英二の顔を見てアッシュは顔も知らぬ誰かを哀れんだ。
    英二はアッシュの挑発的な態度に動じることもなく変わらず穏やかだった。アッシュの棘のある言葉から彼なりの警告を読み取ってやっぱり彼は優しいなと思っていることをアッシュは知らない。
    「ありがとうね、アッシュ」
    「別に……」
    真っ直ぐに受けられる笑顔を直視できず、アッシュは視線を窓の外へと投げた。それでも英二は笑顔を崩すこともせず、アッシュに優しい眼差しを向けた。慣れない視線にアッシュは胸の奥がそわそわとくすぐられる思いがした。
    窓の外は見慣れたこの国の風景なのに、どうしてかこの部屋の中はまるで別世界のようにアッシュが知らない温もりで満たされていた。



    後日、英二はカメラを片手にダウンタウンにやって来た。ガタイのいい短髪の男が一緒だった。マックスと名乗った彼はジャーナリストで今回ストリートキッドへの取材はマックス、その撮影を英二が担当するとのことだった。だが実際のところ写真撮影そのものが取材のようなものなのでマックスは英二の付き添いのようなものだった。
    2人の気兼ねない会話や1人で行動するなと英二に繰り返し言い聞かせているのを見て、苦労してるお目付役はこいつかと気付くのだった。
    アッシュたちが溜まり場にしている地下のバーまではチャーリーと他の刑事の付き添いがあった。店の出入り口で、何かあったらすぐに行くからなと外で警戒を続けている。
    ボスであるアッシュから話を聞かされていた少年たちだったがやはり好奇心から向けられる視線は多く、そこには警戒も混じっていた。
    しかし結果として英二は彼らに認められた。その外見もあってか、英二のその場を和ませる雰囲気のおかげか、彼らは英二を知っていくうちに年相応の顔を見せるようになった。最初は警戒していたが大人だからと見下すこともせず、憐れむこともしない。対等に、目を見て話す英二は彼らの目からしても特殊に映った。
    英二は不思議と人の心を掴むのがうまかった。彼自身の心に扉も壁もないせいかもしれない。ぼんやりとしていそうで、人の感情に敏感だ。踏み入るのではなく、歩み寄って相手の心を待つ。だからこそ相手は英二に心を開くのだ。
    それから英二は1人でダウンタウンに訪れるようになった。何度も通ううちに顔見知りは増え、英二に声をかけるものも少なくない。元来目立ちたがり屋が多いストリートキッドたちは英二の持つ独特の雰囲気に惹かれているようでもあった。
    カメラを向けられる彼らはただの少年で、英二が映す世界はこの薄暗い街にあるはずもない、いや気付けないだけかもしれない。そこにはあたたかさが滲んでいた。
    英二は多くのものを撮った。崩れかけた街並み、少年たちの生き様、街の空気。
    しかし英二が唯一撮らないものがあった。
    それは……。


    「やあアッシュ」
    縄張りの見回りをしているアッシュにもはや聞きなれた声がかかる。振り返れば案の定、片手を上げた英二が立っていた。駆け寄ってくる英二にアッシュは表情を変えることはない。英二は少し手前で立ち止まる。
    「また来てたのか。カモられてもしらねぇぞ」
    「大丈夫さ、用心してるからね」
    すると英二の後ろから2人の少年が近寄ってきた。アッシュの部下であるボーンズとコングだ。この2人は特に英二に懐いているようでよく一緒にいるところを見かける。
    「あ、ボス」
    「ボスも英二と一緒に行くのか」
    「行く どこにだ」
    アッシュが片眉をあげて英二に視線を戻す。
    「ちょっと高いところから撮影したくてさ、ボーンズとコングに出入りしていい建物に案内してもらうんだ」
    上からの図が欲しいんだと笑う英二。アッシュとしてはこんなゴミ溜めみたいな場所を撮ってどうするのか、彼が撮影に訪れる度に思っていた。綺麗でもないこの場所に一体何の魅力があるのかアッシュにはわからなかった。この男の目には一体何が映っているのだろうかと。
    「相変わらず変わってんな」
    「よく言われる」
    皮肉が通じない相手は英二が初めてだった。英二が相手だといつもの調子を出せないアッシュは苦い顔をして3人に背を向ける。
    ボーンズがアッシュを引き留めようとするが彼は聞こえないふりをして去っていく。
    「ボスなら英二と一緒に来ると思ったんだけどな」
    「忙しいんじゃねぇか」
    アッシュの姿が見えなくなるとボーンズとコングが顔を見合わせる。英二の取材を許可したのはアッシュだ。その事実から少なからずアッシュはこの日本人を気にかけている。しかしアッシュは英二に自分から声をかけることはなく、彼の姿を少し離れた場所から観察するように見つめるだけだった。
    意外にも2人が会話する姿を見る機会は少なく、それでもリンクスのメンバーが違和感を感じないのはアッシュがもともとそこまで口数が多くないからだった。
    「ん どうかしたのか英二」
    「え、いや……何でもないよ。それじゃあ案内頼むよ2人とも」
    ボーンズの声にぼんやりとした英二がハッと返事をする。視線が向けられていたのはアッシュが去っていった方だった。ボーンズは一瞬、疑問のような何かを感じたがコングが先導する声に気を取られてその思考は消えてしまった。





    アッシュ・リンクスは自分の中に燻る感情にここ最近悩まされていた。その原因はおそらくあの日本人だろうと彼は確信していた。
    やれるものならやってみろと焚き付けて、英二の取材を受けた。取材、というより撮影が主なもので彼は人だけでなく街そのものも対象とした。取材が終わり、彼が去っていくとき、もう会うことはないだろうと思った。これっきり。用が済んだらここに来る理由も執着もなくなる。彼はすでにここの写真を手にしたのだから。
    元に戻った。そのはずだったのに、そうはならなかった。英二は何度もこの場所を訪れ何枚もの写真を撮る。昨日今日で何か変わるわけでもない風景を。
    その度にアッシュの胸には感じたことのないものが湧き上がった。英二が能天気に手を振って「アッシュ」と名前を呼ぶ。そっけないアッシュを気にした様子もなく、英二はアッシュを見かけると必ず声をかけた。

    「傷の具合はどう」

    「アッシュ この前来たとき君いなかったみたいだけど、また危ないことしてたのかい」

    「またね、アッシュ」

    へたをするとほとんど英二が一方的に話しかける場合が多い。手を振り返すこともしない。
    犬に懐かれたみたいだなと英二の姿を思い浮かべる。
    あんな人間、アッシュは出会ったことがなかった。だからこそ、彼に警戒を抱いてしまう。それはアッシュが嫌いな大人を警戒するのとは違い、未知のものに対する不安感に近かった。
    得体の知れないものだ。これ以上近付いたらどうなるかわからない。もう会う必要もないんだ。
    そう自分に言い聞かせても彼はやってくる。アッシュの思いなど関係なしに。
    そしてあの笑顔を見るたびに知らない感覚が込み上げてくるのだ。
    アッシュにとって英二は今まで会ったことのない人間で、得体が知れなくて、お人好しで、そして怖かった。
    あんなにも無条件に思われることなどなかった。アッシュに近付く者は容姿か力か、そのどちらかに惹かれる。なのに英二はそのどちらも求めない。求めないのに、アッシュに与えようとする。それが怖い。
    怖いのに彼のあの穏やかな空気に触れたくなるのだ。彼がいるといつもの溜まり場があのとき世話になった英二の家のように別の空気に包まれている気がした。振り切ってきたあの別世界のような。
    矛盾した気持ちを抱えて、英二との繋がりも断てないまま時間は過ぎた。
    お前は本当に、何なんだ。
    その疑問ばかりがアッシュの脳裏に浮かぶ。誰も答えてくれない問いはグルグルと頭の中を回るばかりだった。
    「よう、かわいいこちゃん」
    不躾な声に一瞬で思考を切り替える。僅かに振り返ると見慣れない顔が数名。余所者か、はたまた別のグループの新入りか。相手はアッシュよりも年上で体格も大きい。
    一目でわかる。またかと。
    ちょうど路地に入ったところで声をかけてきたということは先程から跡をつけていたのはやはりこいつらだったかと相手に見えない角度ですぐに銃を取り出せるように手を構える。
    アッシュは表に出そうな殺気を押さえ込んでわざとらしく困惑してみせる。後ずさり、その目に不安を浮かべる。
    「あっ、……」
    「ちょっとそこまで付き合ってくれよ」
    容姿が整ったアッシュがそんな表情をすれば相手はさらに牙を剥く。細く儚げな少年に男達は油断する。こんな子供がまともに抵抗するわけがないと、思い込んでいるのだ。
    アッシュは研いだ爪を隠す。確実に、相手の喉元に届くまで。そして刈り取って後悔させるのだ。まるで意思がない人形のように己を扱ったことを。
    男の手がアッシュの腕を掴む。服越しに他人の体温がアッシュの肌にまとわりつく。
    弱々しい抵抗を抑え込もうとその腕を引きずるため力が込められる。その瞬間、アッシュの瞳はギラリと光り腰に差した銃に手をかける。
    だがその銃口から鉛玉が飛ぶことはなかった。


    「何してるんだ」


    聞き慣れた、声だった。
    気が付くとアッシュの視界には先程までいた男達はいない。視界いっぱいに広がっていたのは広い背中。そして1つに結ばれた長い黒髪だった。
    アッシュに触れていた手は解かれていて、不快感は消えていた。
    「何だお前」
    「俺たちはそっちの『お嬢ちゃん』に用があるんだよ」
    「嫌がってるだろ。見えないのかい」
    「はぁ 何言ってんだこいつ」
    英二は両手を広げアッシュを背中に隠す。これ以上アッシュに近付かせないために、アッシュを男達の視線から守るように盾となる。
    「いいから黙ってどけよ」
    「嫌だ。この子に手を出さないでくれ」
    相手は躊躇いなくナイフや銃を取り出せる人間だ。そんな相手に丸腰の英二が勝てるわけがなかった。それは本人もわかっているはずだった。
    「なんだよ、あんたも狙ってんのか。俺らが先に目つけたんだ。邪魔するな」
    頑なに動かない英二に痺れを切らし始めたのか、男達の空気がどんどん攻撃的になる。英二は臆するどころか男の言動に眉間にしわを寄せた。
    「彼をモノ扱いするな」
    英二のその言葉にアッシュはハッと息を飲んだ。それはアッシュの心の奥底に眠る忌まわしい鎖にヒビを入れた。
    「いい加減にしやがれ どけって言ってるのが聞こえねぇのか」
    英二の胸倉を掴み、振り上げられる拳。その光景に時間を止めていたアッシュの体が素早く反応する。
    血飛沫と叫び声が上がる。
    英二の背中越しにアッシュが構えた銃を目にした男達は転がるように逃げ出す。指を吹き飛ばされた男も自分の額に標準が合わさっていることに気付くとすぐに背を向け走っていった。
    「……また君に助けられちゃったね」
    振り返った英二が僅かに目を伏せる。どうしてそんな顔をするのかアッシュにはわからなかった。アッシュにとって英二は未知だ。
    「怪我はしてない 大丈夫」
    すぐにいつもの英二に戻ると今度は質問攻めだ。アッシュは気まずくなって視線を逸らす。
    また助けられたと英二は言ったがそれはこちらのセリフだと文句を言いたくなる。あんなチンピラ相手などアッシュにとってはどうということはない。頭を撃ち抜いて終わり。いつのと同じだ。
    「怪我する暇もなくあんたが割り込んできたんだろ。聞くなよ」
    英二の心配そうな視線を振り払うかのように彼に背を向ける。
    「余計なお世話なんだよ。弱ったふりして相手が油断したときを狙うのが楽だからわざわざフリをしてたってのに。おかげで野郎の頭を吹っ飛ばせなかった」
    冷たく突き放す言い方だった。全身の毛を逆立てて触れたものを突き刺す棘を生やす。たとえそれが善意でも、容赦はない。
    別に英二を攻撃する理由なんかない。けれどアッシュは素直に礼が言える性格ではなかった。
    どうだ、お前が助けたガキはこんなやつだ。お綺麗な面に騙されて中身を勘違いしてたみたいだな。
    それを面と向かって言えないのは、アッシュが残酷になりきれないからだ。
    「でも嫌だったのは本当だろ」
    アッシュは僅かに目を見開いて振り返る。彼はまた申し訳なさそうな顔をして、そのくせアッシュから視線を外そうとはしない。
    「余計なことをしちゃったね、ごめん……。でも必要なことだったとしても君にあんな目に遭ってほしくなかったんだ。君をあんな風に言われるのも我慢できなかった」
    「……なんだそりゃ。同情かよ」
    「同情……なのかな。よくわからないけど、そうであっても、そうでなくても同じことしたと思う」
    ああ、本当にこの奥村英二という人間は理解の範疇を超えている。理屈抜きで行動できる人間が果たしてこの世にどれだけいるだろうか。
    「……救いようのないお人好しだな。早死にしそう」
    「えぇ……それけなしてるの」
    英二が苦笑いするとアッシュはフッと小さく笑った。さっきまでの威勢のよさはすっかりなりを潜め、力の抜けたいつもの英二だった。表情がコロコロ変わる。この街で誰よりも大人で誰よりも子供らしかった。
    ひどいなあと呟いていた英二はふと、何かを思いついたのか、あっと声をあげた。
    「そうだアッシュ。お詫びにご飯を食べにおいでよ」
    「いやいやいや、何の話だよ」
    突然のことに流石のアッシュも追いつけない。尖らせた気が萎えてしまった。
    「いいだろう別に。君の邪魔をしてしまったお詫びだよ。僕にはそれくらいしかできることがないから」
    「飯食って……その後どうすんの」
    「え デザートってこと うーん、今クッキーくらいならあるけど……」
    「いやいい……あんた相手に馬鹿なこと聞いた」
    なんだい失礼なとジト目で睨む英二に調子を狂わされる。怪我を手当てされた時も思ったが彼からは全く欲望の類を感じない。それがなんとも不思議で驚かされてばかりだった。性に疎いと言った方がいいのか。
    アッシュの中でますます奥村英二の年齢についての疑問が膨れていった。
    「ハンバーガーはお断りだぜ」
    「よし任せろ 泣いておかわりしたくなるほどの食事になるだろうから感動の涙の準備をしておいてくれ」



    アッシュは我ながら油断しすぎたと今の状況に小さくため息をついた。英二の家に訪れるのはあの時以来だった。変わらず数々の写真がアッシュを出迎え、平穏の象徴みたいな空間だった。
    昼食にしては遅く、夕食にしては少しだけ早い、そんな時間だった。
    「この前はだいぶ手抜きだったからリベンジだ」
    腕まくりしてキッチンに向かった英二の背中を見送る。アッシュにしてみればあのときの食事と同じでもなんの文句はなかった。
    でも楽しげにキッチンで料理する彼にそれを言うことはなんだか気が引けて、アッシュはおとなしく待つことにした。
    フライパンで油が跳ねる音、食器がぶつかる音、それに混じって聞こえてくる微かな鼻歌。
    ここは別の世界だ。アッシュが普段生きている世界と別のところにある。そう錯覚させるほどここにあるものは何もかも彼にとって縁遠い。
    それなのに警戒を解こうとする自分がいる。いいなと思うのを戒める。落ち着かない、だけどここにいたい。きっとこの空間で異質なのは自分だと理解していた。
    何をどう考えても答えは出なかった。こんなこと初めてでアッシュは初めて、放棄した。
    ここは別の世界なんだ。なら考えても無駄だと。俺の理屈は通用しなくて、ここは英二の世界だから。意外にもその考えがストンとはまってアッシュ自身を納得させた。
    気付けばテーブルにいくつもの皿が並ぶ。ぱっと見でしかわからないが手の込んでる料理だと思った。
    「思ったよりまともだな」
    「どんなのを想像してたんだい。これでも一人暮らしは長いんだ。ご近所さんに料理が上手い人がいてね。その人からも教わってるんだ」
    「へぇ」
    興味なさげなアッシュが最初に手を伸ばしたのはサラダだった。食事に何か混ぜられているなど英二相手に考えるだけ無駄だとすでにわかっていた。
    「……うまい」
    「本当 よかったー……。あんな大口叩いといて口に合わなかったらどうしようかと思ったよ」
    アッシュの言葉にほっと胸をなでおろした英二。そんなことを気にしていたのかとアッシュはつくづく人が良すぎるなと二口目を口に運んだ。
    「エビとアボカドのサラダ。気に入った」
    「……まあまあだな」
    すでにうまいと言ったのだから意地など張らなくてもいいのに、アッシュの口は相変わらず素直になれなかった。そんな彼に英二は小さく吹き出して肩を揺らした。
    「ふふふ、それはよかった」
    英二は手を合わせて「イタダキマス」と聞きなれない言葉を口にしてから自身も食事を始めた。
    食事の間、会話は少なかった。けれどその沈黙は決して気まずいものではなく、穏やかで心地よいものだった。時折目が合うと英二は飽きもせず目を細めて楽しげに笑う。アッシュは慌てて目をそらして視線を落とし目の前の皿を空にすることに集中した。そうしないとソワソワと落ち着かなかったから。


    「アッシュ、クッキーあるけど食べる」
    「まだその話すんのかよ。いらねぇ」
    「言ったのは君だろ。甘いものは嫌いかい」
    「太りたくない」
    行儀悪くソファーの背もたれにずり落ちるように姿勢を崩して座るアッシュを咎めることもせず、英二はカップをテーブルに置いた。
    アッシュの前に置かれたのはブラック。英二が14の時などコーヒー自体を飲んだことすらないというのに。大人びてるなあと、自分のカップに口をつける。
    「太りたくないって……十分細いじゃん」
    細すぎるくらいだと思うのだが、若者にとっては違うようだ。
    少し早めのディナーを終えて、2人はゆったりとした時間を過ごしていた。食事を終え、すぐに帰ろうとするアッシュを「用事でもあるの」と引き止めたのは英二だった。
    「ないけど……」
    「なら食後のコーヒーはいかがかな」
    ゆっくりしててという英二の言葉通りアッシュは力が抜けたみたいにソファーに座り込んだ。手持ち無沙汰で申し訳ないと思いながら、彼の視線の先を追うと壁に貼られた写真に向いている。ほとんどがプライベートで撮ったものだった。
    アッシュの視線の意味を考えて英二はそっと目を伏せた。もしかしたらという思いだった。ほとんど確信に近いが。
    (引き止めてしまったのはかえって悪かったかな)
    英二は窓の外に目を向け、おもむろに立ち上がった。
    「アッシュ、僕は少し外にいるね。もし帰るようなら声をかけて」
    「写真か」
    「……うん。もう少しで夕暮れだから」
    「俺もついてっていいか」
    アッシュの言葉は意外だった。目を瞬かせる英二にアッシュは気まずそうに声をつっかえさせた。
    「邪魔するようなら、別にいい」
    「そ、そんなことないよ。君がよければ一緒に行こう」
    ちらりと振り返るアッシュは少しだけ照れくさそうだった。





    「外に行くんじゃないのか」
    「ちゃんと外に出るよ」
    そう言いながら英二は2階へとのぼる。怪訝な顔をしながらも英二の後をついていく。やがて屋根裏部屋までのぼると天窓を開いて屋根に乗る。
    「気を付けてね。転ばないように」
    「これくらい平気だ」
    窓から身を乗り出して屋根に足をつける。2人は隣り合って腰を下ろしてオレンジに染まる空を眺めた。普段より少し高い目線で空が広く感じる。
    英二は首から下げたカメラを構え何枚か写真に収めた。シャッター音が鳴るたびに英二の手の中に世界が切り取られていく。風が柔らかく吹いて木々のざわめきだけが聞こえた。
    ふと、英二が視線を横に向けるとアッシュは真っ直ぐに前を向いていた。
    その横顔はあまりにも美しく、寂しげだった。夕日に照らされた金色の髪が風になびき、艶やかに光を返す。彫刻のような滑らかな輪郭を、肌を太陽の残り火が穏やかに彼を包み込んでいた。髪と同じ金色のまつ毛に縁取られる鋭い瞳。
    強い夕焼けにも染まらない透き通ったグリーンの眼差しは何を捉えようとしているのだろうか。じっと目を凝らし探しているのか、己が生きる世界を眺めているのか。
    なんて孤独なのだろうか。その横顔はこの世にたった1人しかいないのだと圧倒的なまでの孤独を滲ませていた。
    どうしてか、彼のことばかり考えてしまう。それは出会ってきた誰よりも孤独を抱えていたからかもしれない。仲間に囲まれ、他者に対抗する力を持つ彼をどうしてそんな風に思うのか。
    この、口が悪くてときおり意地の悪い少年を放ってはおけなかった。悪態をつきながらその根っこには彼の優しさが滲んでいた。強くあろうと気を張って背負った傷を誰にも見せない。こんなに孤独で優しい子を英二は知らない。
    アッシュを、この世界に一人きりにすることなんてできない。したくない。
    彼の横顔は美しかった。でも、彼にこんな顔をしてほしくなかった。
    「……そんなに見られると穴が開きそうなんだけど」
    「あっ、ご、ごめん ジロジロ見て……」
    翡翠の瞳が英二の視線とぶつかる。英二は慌てて視線を前に戻すと夕日はとっくに沈んで辺りは暗闇に沈んでいた。どれだけ見惚れてたんだと恥ずかしさで顔を赤くして、失礼なことをしてしまったと顔を青ざめさせた。
    器用に顔色を変える英二はその隣で僅かに口角を上げているアッシュに気が付かなかった。
    「あんたは俺を撮りたいんじゃないのか」
    「っ……」
    英二が息を詰まらせ、カメラを握る手に力がこもった。全てを見透かすような瞳が英二を射抜く。
    「気付いてた……よね」
    「そこまで鈍かったら生き延びられない」
    「うん……ごめん……」
    「何が」
    アッシュの問いに英二は答えられない。
    「あんたこそ、気付いてたんだろ。俺が写真撮られるのが嫌なこと」
    「うん……」
    アッシュはなんてことないように言った。
    英二は薄々感じ取っていたのだ。
    リンクスのメンバーが揃う店の中、向けられたレンズから逃れるようにひっそりと店を後にするアッシュの姿を。彼の視界の外で鳴るシャッター音に、僅かに肩が跳ねることを。
    そして何より。

    『いいんだよ。減るもんじゃねぇし。それにあいつらがあんたを気に入らなけりゃ意味がない。やれると思うならやってみろよ』

    あの言葉の中にアッシュはいなかった。

    初めて取材した時も彼はフレームの中にすら入らなかった。今思えばこの時点で気付くべきだった。

    『写真写りが悪いんでね』

    英二たちをアレックスに任せて彼は1人、行ってしまった。

    「素人にバレるなんて俺もまだまだだ」
    アッシュは足を伸ばして屋根に寝転ぶ。英二は彼になんと声をかければいいのか考えあぐねる。それを察したアッシュは点々と灯る星を見上げながら口を開いた。
    「別にあんたが悪いわけじゃないだろ。あんたはカメラマンで、俺は写真が嫌い。ただそれだけだ」
    「でも」
    「映らないようにすればいいだけの話だし、実際あんたは俺を撮ってない。その心遣いに涙が出てくるよ」
    自嘲するアッシュに英二は唇を噛み締めた。
    「君の……アッシュの気持ちを知っていたのに無神経だった。気付いたときにすぐ止めるべきだった」
    酷く落ち込んだ声にアッシュは思わず首を動かす。叱られた子供みたいに背中を丸め、縮こまる英二に僅かに動揺する。この大人がこんな風に落ち込んでいるとつい慰めなければと思ってしまう。どちらが子供かわからなくなる。
    「だ、だからそれはあんたの仕事だろ。本当に嫌だったら取材なんて受けねぇよ。俺が判断したんだ」
    身を起こしていつもより少しだけ饒舌になる。横目で盗み見た英二の表情は暗い。
    「ごめん……」
    「何回目だよそれ。聞き飽きた」
    もう謝罪は聞きたくないと、アッシュは眉間にしわを寄せる。
    やっぱり優しいなぁと英二は後悔に埋まる頭の中で思った。
    「理由、聞かないのか」
    「嫌いなものも嫌な記憶も誰にでもあるけど僕が踏み込んでいいことじゃない。でももし話すことで君の気持ちが少しでも晴れるなら、そのときは教えてほしい。僕からは聞かない」
    翡翠の瞳がちらりと隣を窺い見る。夜空の色をした瞳が揺れている。
    「気付いたのは最近だったんだ。なんとなく、そうじゃないかなって。でも僕……」
    次の言葉を躊躇う英二にアッシュは片眉をあげる。気の弱そうな外見をしながら英二は物事をはっきり言う。そんな彼が何を言い淀んでいるのかと英二の言葉を待った。
    「僕、どうしても君にまた会いたくて、写真を理由にしてダウンタウンに行ってしまうんだ。カメラマンとしてならあの街にいたって変じゃないし、追い返されないかなって……。君が許してくれたのはあくまで取材で、君の嫌いなただの大人がうろついてたら……会ってくれない気がして……ごめん、仕事っていう理由さえ利用してしまった」
    胸の内を晒すのはこんなに怖いことなんだと他人事のように感じる。それでも彼に言わなければ。彼に対して不誠実でありたくない。
    「君と会えるのが嬉しくて、余計言い出せなかった……。そんなことせずに、君に会いに来たって言うべきだった。ずるいよね」
    言ってしまった。
    英二はどんな顔してアッシュを見ればいいのかと顔を上げられずにいる。
    アッシュは仕事なのだから気を負うなと気遣ってくれたのに、真実はただの英二のわがままだったと知って怒るだろうか。もう会ってくれなくなるだろうか。
    それが怖くて、けれどこれ以上彼が嫌う要素を無理に押し付けたくなかった。
    写真を撮りたいのは本当だった。でもそれだけが理由でないことも本当だった。まだあの街で撮りたいものはある。けれどもう無理だろう。短い期間だったけど、叶わなかったかもしれない時間が実現したんだ。それでもう十分だろうと英二は自分に言い聞かせた。
    君に会えなくなるのが1番寂しいななんて、言えやしない。自分は彼が嫌う大人で写真家だから。
    アッシュからの拳なり暴言なりを覚悟して俯いていたが一向にそのどちらも飛んでこない。
    はて、と視線だけ横に向けると見たこともないほど驚いて目を見開いているアッシュがいた。
    「あの、アッシュ どうしたの、なんか顔赤いけど、さっきの夕日で日焼けしちゃった」
    僅かにだが、シミひとつないアッシュの肌が薄っすら赤みを帯びているのが夜の微かな明かりで見えた。
    「アッシュ」
    見開かれた翡翠がやっと英二を捉えたのか意識を取り戻したように瞬きを繰り返す。その表情には警戒も自嘲も恐怖もなく、目の前のものに視線を奪われていた。
    「お、お前よくそんなこと言えるな」
    「ごめん……騙すようなことして君に嫌な思いまで……」
    「ちげぇだろ おまえ、さっきの……」
    「さっき えっと、どれ」
    うちに溜め込んでいたものを一気に喋ったのでアッシュが指すのがどれかわからない。ソーリーと小さく謝る英二は頬をかく。
    「だから、さっき、俺にあ……」
    アッシュの言葉は不自然に止まり、英二は首をかしげる。その先を言おうと口を開いては閉じを繰り返してやがて全身の力を抜くようなため息をついて再び屋根に寝転んでしまった。腕で目を覆ってその表情ははっきりとはわからない。
    「はぁー……もう本当になんなんだよあんた」
    「アッシュ、寝るならベッド貸すから。さすがにここで寝たら風邪どころか骨折だよ」
    「うるせぇ」
    アッシュが怒っていると思い込む英二はどうすれば彼が許してくれるだろうかと考えるが、もう許されないかもしれないと勝手に思考を沈ませていった。それを感じ取ったのか、アッシュが小さく「別にそんなこと怒ってねぇよ。好きにしろって言ったろ」と。
    「え、それって」
    「別に俺が怒る理由なんてないだろ。来たきゃ勝手に来いって言ってんだよ。その代わり面倒は見ねぇからな」
    「許してくれるの……」
    「何回も言わせんな。好きにしろよ」
    相変わらずそっけない。けれど英二にとってそれは彼の優しさそのものだった。
    アッシュとの会話はここまででそれから何度呼びかけても返事をしてくれなくなった。
    しばらくして英二がくしゃみをするとすぐさま立ち上がって窓の中へと戻っていく。するとアッシュが背を向けたままポツリと呟く。
    「……閉め出されたいのかよ」
    英二は慌てて窓をくぐり抜けた。




    バサリと上掛けを被り胎児のように体を丸める。このベッドに世話になるのは2度目だった。
    英二の言葉に遠慮なくベッドを占拠してアッシュは頭の中で勝手に繰り返される英二の声に逃れようと目を瞑る。


    『そんなことせずに、君に会いに来たって言うべきだった』


    英二の声はもうアッシュの骨の髄にまで染み込んでしまったかのように離れない。何回も、何回も再生ボタンが押される。
    その度にまた、胸から湧き上がる名も知らない感情が込み上がってくる。それはアッシュの胸を満たして手足の先にまで流れていく。
    英二が熱心に何度も街に訪れていたのを知っている。何がそんなに楽しいのか、写真を撮るたびに満足げに口元に笑みを浮かべて。
    そしてアッシュを目にすると馬鹿みたいに手を振って「アッシュ」と聞こえているのにでかい声を出して、駆け寄ってくるのをもう何度繰り返したか。
    彼がアッシュの手前で立ち止まるのも、自分が手にしているものがアッシュにとって何であるか気付いたからだった。
    それでも駆け寄って、どうでもいい話題でその場を繋いでアッシュが去るまで見送っていた。
    彼は、英二はたったそれだけのためにあの広い街を歩いていたのだ。キョロキョロと心惹かれるシーンを探しながら、この街に紛れるアッシュの姿を求めて。
    それがどうして、こんなにも心臓を忙しくさせるのだろうか。アッシュにはその理由がわからなかった。
    (会いたいって……俺にか なんで、こんな俺と……)
    あの英二だ。もはやアッシュの力欲しさだの、見てくれだのが理由ではないことはわかっている。ならば他に何がある。
    力と外見、アッシュが持っているのはこれだけだった。それ以外アッシュにはない。英二が自分に会いたがる理由も要素もないはずなのに。
    きっとお前には俺とは違った世界が見えてるんだ。だから、俺もお前からしたらもっと別のもんに見えてんのかな。
    英二が見る自分は一体どんな姿なんだろうか。
    ドクリドクリと主張する心臓がうるさかった。アッシュに声をかける英二の表情が脳裏に浮かぶ。夜色の瞳を細めて、穏やかに笑う。あの笑顔の理由が、自分だったなんて、思いもしなかった。

    『君と会えるのが嬉しくて』

    蘇ってきた声にアッシュは胸から沸き起こる感情にやっと気が付いた。
    嬉しい。
    英二がアッシュを見かけるたび、笑みを浮かべていたように、アッシュも英二に声をかけられるたびに心の奥底が喜びで満ちていたのだ。
    アッシュの心はいつのまにか英二と会える嬉しさを知っていた。それがいいことなのか悪いことなのかわからなかった。それでも胸を満たすこの感情が英二と同じものだと思うと、アッシュは自然と笑みを浮かべた。





    眩しい。既視感を感じながらアッシュはぼんやりと目を開く。変わらず簡素な部屋は英二の寝室だった。日はすっかり登っていたがまだ眠い。この家の空気が心地よくて、このまま二度寝してしまおうかと睡魔の誘惑と戦う。
    少し覚醒した頭でふと、なんでここで寝てんだと疑問が浮かんだ。よく考えれば昨日、屋根から降りたときそのまま寝ぐらに戻ればいいものを、馬鹿正直に英二の「ベッド貸すから」という言葉を受け取ってしまった。
    動揺しすぎだと昨日の自分を罵りながらベッドから体を起こす。部屋の正面、ドアに向かおうと顔を上げ、アッシュは固まった。
    「……は」
    そこにいた人物にアッシュは驚きを隠せなかった。
    「やあ、猫ちゃん」



    ドッタンバッタンと騒がしい音を立てながら2階から降りてきたのは案の定アッシュだった。
    「おい どういうことだ」
    「おそよう。ご飯食べるよね」
    「聞けよ どうしてあいつが……」
    「言ったろう英二くん。ちゃんと起こしてきたよ」
    アッシュの声を遮って背後から現れたのは英二と同じ髪色の男だった。肩につくほどの髪の長さで、白々しい笑みが顔に貼り付けられている。英二と同じ大人だがガタイが全く違う。分厚い胸板に、狭苦しく感じる長身が音もなく背後に現れる。
    アッシュは振り返り、猫のように飛び退ける。額に汗を滲ませるアッシュにニコニコと人好きするような笑顔を向ける。アッシュの射殺そうとする眼光も鋭い舌打ちも男には効かない。
    「知り合いとは聞いてましたけど……もしかして険悪な方の知り合いですか」
    「どうやら私は嫌われてるみたいだね」
    はははっとわざとらしい笑い方に金髪の山猫はますます毛を逆立てた。
    「なんであんたがここにいるんだよブランカ」
    「アッシュ、ブランカさんはご近所さんだよ。ほら、昨日言ったろ 料理が上手い人が近所にいるって」
    「いやぁ、お前を見かけたときは驚いたよ。ずいぶん可愛らしくなって」
    「うるせぇぞおっさん」
    アッシュの威嚇など相手もせず、ブランカは笑顔を崩さない。
    「それじゃ英二くん。彼への挨拶も済んだしお暇するよ。新作の感想を是非聞かせてくれ」
    「はい、いつもありがとうございます」
    英二の態度はいつもと変わらなかった。警戒心はもちろん、緊張もない。しかしブランカという男をアッシュは油断ならぬ人間だと記憶に刻んでいる。
    ブランカが出ていったのをすぐに追いかける。それを待っていたかのように家から少し離れた場所でブランカがこちらを見ていた。
    「…………」
    「何か言いたげだな」
    「何故ここにいる」
    「言っただろう。ここの近くに住んでいるんだ。ご近所付き合いも大切なんだぞ」
    「っ はっきり言え あいつに何をする気だ それとも今度は俺が標的か」
    警戒心むき出しで吠えるアッシュにブランカはやれやれと肩を落とした。そんな態度すら今のアッシュにとっては神経を逆なでられる。
    「本当にここに住んでいるんだよ。今は『稼業』もやめた。気ままな老後生活さ」
    「……そんなの信じられるかよ」
    「例えお前が信じなくても事実だ。今の私は料理が趣味のただの一般人さ。お前が危惧しているようなことはない。英二くんは良き友人だ」
    この男の本心を探るのは難しい。いや、おそらくそんなこと自分にはできないだろう。それほどまでこのブランカという男は格が違った。
    「それでは私はこれで。読書の時間だ」
    去っていく後ろ姿を見つめることしかできなかった。
    家に戻ると英二はバスケットの中に入ったパンにかぶりついていた。
    「君とブランカさんが知り合いだったなんてね。世間って案外狭いね。あ、このパンねブランカさんが焼いたんだよ。器用だよね」
    食べる と差し出されたバスケットを無言で押し返してアッシュは呑気にパンを咀嚼する英二にじっと不機嫌そうな視線を突き刺す。
    「なんだい、さっきから。ブランカさんのこと苦手なの いい人だよ」
    「お前……あいつが誰かわかってんのか」
    「はぁ ブランカさんでしょ。何言ってんの」
    「……あっそ」
    英二はすっかり元の調子に戻っていた。昨日は今にも泣きそうな顔をしていたくせに今は大口開けてパンに食いついている。
    「英二って神経図太いな」
    立ち直りが早いというのか。昨日のような暗い表情よりも今のように呑気な顔をしてくれているほうがずっといい。英二が落ち込むと泣き出すんじゃないかとハラハラして落ち着かない。昨日のまま暗い表情ではこんな風に話はできなかっただろう。
    「今……」
    「ん」
    「アッシュ……今、英二って、呼んでくれた」
    「なんだそりゃ、別に名前くらい」
    「初めて 英二って呼んでくれた」
    キラキラと星が入ったみたいに英二の目が輝いていた。そこにあるのは歓喜だった。大きな黒い瞳を子供みたいに見開いて頬を上気させる。
    「は、初めてだったか……」
    「うん。嬉しい」
    たかが名前を呼んだだけで。こんなに喜ばれたことはなかった。照れ臭そうにはにかむ笑顔があまりにも愛らしくアッシュの心臓は昨晩の比ではないほど跳ね上がった。
    大の大人がそんな顔すんなよ
    そう言ってやりたいのに、それはアッシュの口からは出てこなかった。照れるなーと頭をかく英二にアッシュは得意の悪態もつけず、とっさに視線を落としたのにすでに英二の笑顔が目に焼き付いていた。
    2人して顔を赤くしている食卓はアッシュの腹の音が鳴るまでそのままだった。





    一枚の愛から 3


    「アッシュ アーッシュ」
    間延びした声に金髪の少年が立ち止まる。両手を上着のポケットに突っ込んで顔だけ振り返る。ライオンの子供のようなしなやかさと獰猛さが恐ろしいほどに整った顔立ちに隠されている。
    やがてそんな彼の元に1人の青年が駆け寄る。長い黒髪を束ね、眼鏡のレンズの向こう側には真っ黒な大きな瞳が見える。
    「おはようアッシュ。どうしたんだい。君にしては早起きじゃないか」
    「俺だって四六時中寝てるわけじゃねぇよ。あと、その馬鹿でかい声で呼ぶのやめろって言ってるだろ英二」
    「だって聞こえなくて通り過ぎられたらショックじゃないか。聞こえないよりマシだろ」
    「俺はまだそこまで耳が遠くなった覚えはない」
    「どうだか。寝起きの君は最悪だからな。もし寝ぼけたまま歩いてたら気付かないかもよ」
    「無駄に朝が早いオニイチャンに言われたくないね。おっと俺は優しいから年相応に扱ってやるよ、オッサン」
    「そこは遠慮せずお兄様と呼んでもいいぜ」
    道にたむろしている少年たちは軽口を叩き合う2人をまるで幽霊でもみたかのような驚きっぷりで目を剥いた。
    目の前を通り過ぎていったのは若きストリートキッドのボス、アッシュ・リンクスだった。彼の銃に触ろうとして指を吹っ飛ばされた者がいたり、銃だけでなくナイフ、体術でさえ彼に敵う人間はいないと噂されている。
    その才覚とカリスマ性を発揮しダウンタウンの一角を担っている。尊敬され、恐れられるアッシュが滅多に浮かべない笑みを見せ、じゃれ合うような軽口を楽しんでいる。
    隣の青年は一体誰だと少年達の疑問が浮かぶ。アッシュの部下でもないようだし、他のグループにも見えない。唯一わかるのはあのアッシュ・リンクスにあんな口が聞けるのはあの青年だけだろうということだった。



    「なんかよぉ」
    「おう」
    「ボスと英二、急に仲良くなってないか」
    「だな」
    いつもの店、いつもの風景。もはや見慣れた英二は当然のように店の一角に腰掛けていた。いつもと違うのはその隣に彼らのボスがいることだった。
    「まあ、取材の前からボスと英二は多少顔見知りだったみたいだけどな。俺も詳しく聞いてないからわからん」
    アレックス、ボーンズとコングは2人きりで会話する姿を見て顔を見合わせた。今まで全く会話がなかったわけではないが、アッシュは進んで英二に近付かなかった。しかしここ最近、それを塗り替えるようにアッシュと英二が一緒にいる光景を目にする。
    「なんか完全に馴染んじまってるな」
    「それって英二の顔のことか」
    「お前それ英二に言うなよ」
    カウンターで話し込む2人はそんな彼らの会話など露知らず、なにやら楽しげに会話している。アッシュの機嫌はすこぶるいい。英二がただアッシュに会いに来てくれたことが『嬉しい』のだ。


    屋根に登ったあの日の翌日から英二は吹っ切れた。アッシュの写真嫌いを気付きながらそれを言えなかったことが苦しかったがそれを吐露し、アッシュが許してくれたことによって救われた。
    アッシュも英二の胸の内を知り、これほどまで人を思いやれるのかと一種の衝撃を受けた。これはおそらく英二だからこそなんだろうなと思いながら。そして英二と会えることが嬉しいと気付いてしまえばもう止められなかった。
    お互い隠し事、というより相手の地雷を踏まないように探り探りの距離の測り方はもうしなくていいのだと。
    「嫌いなものはどうやっても仕方ない。僕もネズミ嫌いだし。好きになれって言われても無理な話だ」
    「俺は自分が撮られなきゃ別にいい。気がすむまで撮ればいい」
    「それは仕事のときね。アッシュに会いに行くときはカメラは必要ない」
    アッシュはカメラを持っているくらい平気だと言ったが英二は1度カメラを置いてきた。そんなときに限って撮りたいシーンと出会ってしまい無意識に手が動いて、何も掴んでいないのに構えてしまった。
    それをアッシュに見られ笑われたのは苦い思い出だ。
    「だから言ったろ。気にすんなって。カメラない度にそんな顔されたら俺の腹筋がもたねぇよ」
    肩を震わせるアッシュに英二は悔しいながらも彼の言葉に甘えることにした。


    彼らの距離はみるみる縮まっていつしか隣り合うようになっていた。自然な雰囲気で、気付けば隣にいるような。あの夜の会話がなければここまで打ち解けるきっかけはなかっただろう。今の2人を繋ぐのは取材でも写真でもなく、友人という名の新しい関係だった。
    「そういえば英二、ここに来てばっかりだけど他に仕事ないのか」
    「もちろんあるよ。実は明日その撮影に行くんだ。日本の観光ポスターに使う写真で、もう何枚か撮ってはあるけどもう1回だけ行こうかなって」
    「どこ」
    「ワシントンスクエア公園」
    英二が口にしたのはマンハッタンの有名な公園の1つだった。1番有名なのはおそらくセントラルパークだろう。ワシントンスクエア公園はセントラルパークに比べれば小さい。しかしそれはセントラルパークが広大すぎると言ったほうがいい。
    凱旋門と噴水のあるワシントンスクエア公園も多くの人々で賑わう場所だった。
    「……ついてってもいい」
    「もちろん」
    英二は迷うことなくアッシュに頷いた。
    「そうだ、撮影が終わったらうちにおいでよ。ブランカさんに新しいレシピ教えてもらったんだ」
    「……エビとアボカドのサラダあるなら行ってやるよ」
    「はいはい、君が来るときはちゃんと用意してるだろ」
    あれからアッシュはときどき英二の家で食事をとるようになった。といってもまだ数回だが。懐かない猫がようやくこの家は安全だと認めてくれたようで嬉しいがアッシュに言うと怒られそうだからこれは秘密だ。
    「アッシュとここ以外で会うのなんて怪我したとき以来じゃない 楽しみだ」
    「あんまりはしゃぐと夜眠れなくなるぞ」
    「また子供扱いする」


    翌日、太陽を遮る雲もなく、一面に光が注がれる。公園の木陰が風に合わせて踊り、どこからか音楽も聞こえてくる。平日のせいか休日よりも人が少ない気がする。
    凱旋門をバックに記念撮影する旅行者や噴水で誰かを待つ人、多くの人が公園を訪れていた。
    荷物は黒い肩掛けカバンに首から下げたカメラだけ。英二も待ち合わせの人々に混じって少年を待つ。日本人の性で予定の時間より早めだった。遅れるよりいいかと気長に待つつもりでカメラの画面を覗き込む。そうして時間を潰していると影が被った。
    顔を上げれば英二の待ち人が立っている。
    「待たせたか」
    「いや、僕が早くきたんだ。行こう」
    もうすでに何度か訪れたことがある公園だったので物珍しさはなかったがアッシュが隣にいることが新鮮だった。彼と会うのはほとんどダウンタウンでこういった緑が多い場所はなかなかない。
    「アッシュはここ来たことあるの」
    「まああるといえばあるが、こんな呑気に散歩したことはねぇな」
    公園内は散歩道だけでなく子供の遊技場や庭園など人々がゆったりと時間を過ごせる場所になっている。
    英二がカメラの調子を確かめるために持ち上げる。それを見つめるアッシュに英二は穏やかな眼差しを向ける。
    「……怖いかい」
    「いや……なんでだろうな。英二のカメラはそんなに嫌な感じはしないんだ。見てる分には。あいつらが、リンクスのやつらが笑って撮られてたってのもあるかもしれない」
    けれど、あの大きなレンズがこちらに向けられると思うとアッシュの中に根付いた黒いものが騒ぎ出す。
    「でも、自分が撮られると思うと、多分無理だ。逃げたくなる」
    「逃げてもいいんだよアッシュ。自ら進んで苦しむ必要なんてないんだ」
    英二を見上げると、その瞳はどこまでも深く夜の色をしていた。アッシュが嫌う闇の色なのに、英二の瞳だと思うと途端にあたたかさが宿る。
    「もし嫌になったらすぐに言ってよ。僕は君が嫌がることはしたくないんだ」
    「わかったよ。そのときは言う。けどたぶん大丈夫だ。見てるだけなら今までと同じだ」
    アッシュに撮影についていくと言われたとき、純粋に嬉しかった。一緒にいてくれること、カメラマンとしての英二でも拒絶しないでいてくれたこと。
    何があって写真が彼を苦しめているのかはわからない。けれどできることなら彼が恐れるものが1つでもこの世から消え去ればいいと英二は思っていた。もしかしたらその手伝いを英二ができるのではと。
    彼に伝えたい。このファインダー越しの世界の美しさと永遠を。彼に綺麗なものを見せたい。英二の熱意は今、たった1人の少年に注がれていた。
    「観光のポスターって何撮るんだ」
    「まずはその場所だってわかるような場所を撮ったりするかな。観光目的だから、行きたいなぁって思ってくれるような写真を目指してる。ここはこんなに素敵ですよって、伝えたいんだ」
    散歩道を歩きながら時折立ち止まって写真を撮る。アッシュの前に立って彼をフレームに入れないように、レンズを向けないようにする。
    庭園の方に回ると色とりどりの花が出迎えてくれた。花は詳しくなくてもその美しさがよくわかる。懸命に咲く花々を収め、ベンチで休憩することにした。
    「連れ回してばかりでごめんね。暇じゃない」
    「ついていくって言ったのは俺だ。それに結構面白い」
    「何か見つけたの」
    「ガキみたいにコロコロ表情が変わって見てて飽きない」
    「……楽しそうで何よりだよ」
    意地の悪い笑みを浮かべるアッシュにそっぽ向く。するとアッシュはますます笑い出すからこの野郎……と横目で睨む。その仕草が子供っぽいことに英二はいつになったら気付くのかと、アッシュは必死に笑いをこらえようとした。
    アッシュの視線は自然と英二の手元に落ちた。詳しいことはわからないがなかなか年季が入っているカメラなのはわかる。英二はいつもそのカメラで撮影していた。扱う手は優しく、彼がこのカメラを雑に扱ったのを見たことがない。
    「気になる」
    「……大事にしてるんだな」
    「うん、とても大切なものなんだ」
    ずっと見てきたからわかる。
    「これはね、僕が初めて自分のお金で買ったカメラなんだ。最初のカメラは僕に写真を撮ることを勧めてくれたカメラマンのお下がりでね。それも十分高価で機能だってよかったんだ。でもやっぱり自分だけのカメラが欲しくて。その人のアシスタントとかアルバイト掛け持ちしてようやく手にできたんだ」
    その頃のことを思い出しているのか、懐かしむような眼差しでカメラを撫でる。
    「もう何年も前の型だから最新とはいえないけど、僕にとっては1番の相棒なんだ」
    英二はそのカメラを手にたくさんの写真を撮ってきたのだろう。常に共にあって、もはや自分の一部だと言っても過言ではないと。
    その気持ちはアッシュにもわかる気がした。腰にささった硬い感触。アッシュの相棒だ。人殺しの道具に思い入れなんてと思われるかもしれない。けれどこれがなければここまで生き延びてはこられなかった。共に血に染まったこの拳銃を手放すことなど想像もつかない。英二のカメラと自分の銃を比較してもしかたないことだが。
    英二は撮った写真を確認するために画面に見入っていた。することもないアッシュはぼんやりと視線を前に向ける。人が少ない公園は静かだった。それでもここに流れる空気はどことなく英二の家と似ていた。見知った場所がいつの間にか変わっていようだ。それとも自分が変わってしまったのだろうか。
    英二と出会ってからこんなことを考えるのが多くなった気がする。毎日生きることだけを考えていた人生に突然、違う色が足された感覚だ。それは鮮やかで眩しいくらいに鮮明な色。
    けれど、アッシュの人生はもう真っ赤に染まりきっている。塗り替えることはもうできない。それでも落ちてくる色を手のひらで受け止めて、ほんの少しの間でも目にして触れていたい。記憶ならばきっと色褪せることも、他のものに染まることもない。
    「ちょっとそこの写真撮ってくるね。座ってる」
    「ああ……」
    英二は再び庭園の方を指差す。アッシュは少し離れたベンチから英二の後ろ姿を眺めた。
    背丈は自分よりも高いのに簡単に折れてしまいそうな薄い体つきをしている。
    しゃがみ込んで花と視線を合わせ、ファインダーを覗き込む。するとどこからか小さな女の子が英二のすぐそばまでやってきた。英二が何をしているのか気になるのか体を曲げてその様子を見る。
    少女に気付いた英二が何やら話しかける。手にしたカメラを見やすいように持ち上げて説明でもしているのだろうか。やがて少女の母親らしき女性もやってきて二、三言葉を交わしている。
    どうやら英二を前にすると警戒心が薄れるのはアッシュの仲間だけではないようだ。
    少女の話を聞く英二は穏やかに笑っていた。何度も頷いたり、驚く仕草をしたり。その度、少女は嬉しそうに笑顔を返し、母親は見守るように静かに笑みを浮かべていた。
    まるで画面の向こう側のような風景だった。アッシュにはもはや何一つ手にすることができない平穏な日常。
    幸せな赤の他人を恨むほど飢えてはいない。この生き方しか自分には出来なかった、それだけの話だ。
    今までは、それでよかった。
    けれどアッシュは出会ってしまった。
    それはかつてアッシュが諦めてしまったもの。
    しかしそれは今アッシュが生きる世界とあまりにもかけ離れた場所にいた。光の下で自由に平穏に生きる彼と、血まみれの手で薄暗い行先に目を凝らす自分と、何もかもが違った。生きる世界が違ったのだ。
    今ここにいるのも何かの間違いだっとすら思える。それでも。
    英二の視線がふとこちらを向いて、手を振る。
    それだけでこの夢にしがみつきたくなる。これがいつか覚める夢なら、一瞬でも長く続けばいい。そのときまでは、あの光に手を伸ばしても許されるだろうか。





    「おっきなカメラ」
    まん丸な瞳で一心に英二のカメラを見つめる少女に微笑ましい気持ちになる。見やすいようにと差し出すように持ち上げたカメラを興味津々といった目で見つめる。
    「カメラ好き」
    「うん パパとママと一緒に写真撮るの」
    「きっと素敵な写真だろうね」
    英二の言葉をわかっているのか、少女は誇らしそう歯を見せて笑った。母親もそんな娘の姿を優しく見守る。
    するとアッシュがこちらを見ているのが映る。手を振ればいつもと同じく振り返されることはないが彼は必ず、こちらを見ることで応えてくれる。
    アッシュに手を振っていると、少女がソワソワと落ち着かない様子でカメラと英二の顔を交互に見つめる。落ち着かない視線の意味に気付いた英二は優しく話しかけた。
    「触ってみる」
    「いいの……」
    「優しく持ってくれたら大丈夫。重いから気を付けてね」
    「まあ、大切なものなのに悪いわ」
    「いえいえ、カメラに興味を持ってもらえるのが嬉しいんです」
    母親は申し訳なさそうにする傍ら、少女は目をキラキラさせる。英二はカメラストラップを首から外し、そっと少女の手に持たせた。小さな手を受け皿にして真剣に受け止める姿がこの子の優しさを教えてくれる。
    さすがこの幼い子供にはこのカメラは重く、英二は片手を少女の手の下に添えて支えてやる。
    両手で受け止めているため少女はじっと掌に乗るカメラをなるべく近くで見ようと顔を近づける。
    「おもいねー。つかれちゃうよ」
    「大丈夫、こう見えて力持ちだから」
    少女は慎重に両手に乗せたカメラを英二に渡す。そっと、掌で宝物を運ぶように。
    「ほら、お兄さんにありがとうは」
    「ありがとー」
    「ふふ、どういたしまして」
    母親に手を引かれながら少女は振り返りながら英二に手を振る。英二はそれに振り返して2人を見送った。
    すると少女が母親の手を引っ張って何かを指差す。おや、と思い視線で追いかければ、少女が向かった先には少し離れた道端で行われている手品だった。足を止める人々の前で掌から次々とハトが飛び出している。ワッと歓声が上がり賑やかな雰囲気だった。
    青く澄んだ空に真っ白なハトが飛び立つ。高い空に飛び上がる姿に古い記憶が掘り起こされた。空に近かったあの頃のことを。
    ハトが飛ぶのを眺め、上を見ていた英二は近付いてくる人影に気付かなかった。
    「っ、え」
    ドンっと強い衝撃と軽くなった掌の感触。不意打ちの衝撃に体を支えることができず、勢いよく地面に手をつく。熱を帯びる手など気にする暇もなく、咄嗟に顔を上げると走り去って行く男の姿が見えた。男の手元からベルトのようなものが揺れる。

    「英二」

    一瞬の出来事にまだ半分状況が理解できない英二にアッシュの声が届く。駆け寄ろうとする彼の姿が見えた。
    膝をついて呆然として、アッシュを見上げると、彼は血の気を失い苦しげに表情が歪む。そして次の瞬間、恐ろしいほど鮮烈な怒りを宿した翡翠が逃げる男を追う。
    アッシュの手が腰に回り、取り出された鈍い銀色の光を目にして、英二は弾かれたように立ち上がる。


    いけない。止めなくては。


    アッシュが何をしようとしているかは明らかだった。その銃口がどこに向き、彼が狙いを定めているのがどこか、見なくてもわかってしまう。
    アッシュの瞳に暗い影が落ちたのを英二ははっきりと見た。
    それは明確な殺意だった。


    「だめだアッシュ」
    英二の声に引き金に指をかけるアッシュの動きが止まる。しかしそれも一瞬で、すぐに張り詰めた殺意が彼を飲み込んでいく。
    「アッシュ よすんだ」
    「なにを……」
    彼を止めたい一心で男に向ける銃口を遮るように間に飛び込む。両手で彼の手ごと銃を覆うように握る。英二の行動にアッシュの声に焦りと動揺が混じる。
    「退けっ」
    その手を振り払い、アッシュが男に照準を合わせようと英二の体を押し退ける。だが、すでに男の姿はどこにもなかった。
    「っ」
    向かう先を失った銃口が震えている。握り潰してしまいそうなほどにグリップを掴んでいるからだ。奥歯を噛み締め、振り返って英二に向ける視線はゾッとするほど冷たく、強烈だった。
    「どういうつもりだ……銃構えてる人間の前に立つなんて正気か 自分のもの盗った奴をなんで庇った」
    邪魔されたことに苛立ち、そんな英二の行動を強く咎めた。常に冷静なアッシュが感情をまるで抑えられていなかった。
    もしあのまま引き金を引いていたらと思うとアッシュの背中を冷たいものが駆け上がった。だからこそアッシュは彼を責める。
    自分の手が血に染まることを恐れたのではない。英二が血を流すことを恐れたのだ。
    英二も自分がどんな危険を冒したか理解していた。それでもアッシュを止めたかった。
    「君に撃たせたくなかった」
    「なにを言ってるんだ……」
    アッシュはすぐにその言葉の意味を理解できなかった。英二が話しているのは英語なのに、自分の知らない、それこそ彼の国の言語のように意味を捉えることがひどく難しかった。
    「あのまま撃っていたら確実にさっきの人は死んでいた」
    「だからなんだ。当たり前だろうが」
    アッシュは最初からそのつもりだった。人のものを、英二のものを奪った人間にかける情などアッシュにはない。
    「僕のために怒ってくれたのはわかってる。けど、君にそんなことをさせたくなかったんだ」
    アッシュは不愉快そうに眉をひそめる。
    「お前は、俺のことをなんだと思ってる。俺は人殺しだ。お前の頭の中の俺がどんな奴か知らないが、俺はもう汚れてるんだよ。そんな綺麗事言われてもヘドが出る」
    殺さなくては殺されていた。そんなことが日常茶飯事の世界で生きてきた。咄嗟の判断を誤れば地面に転がっていたのは自分だったかもしれない。そんな環境でアッシュは生きてきた。
    英二が言うこともわからなくはない。彼の観点はいわば世間一般的な思考だろう。
    人を殺してはいけない。
    それが許されるのは誰かに殺されかける日常にいない人間だけだ。アッシュではない。それは英二だ。
    「だったとしても……たかが物盗りを撃つ必要なんてないだろ。殺す必要なんてない。怪我だってしてない」
    アッシュの口から人殺しという単語が聞こえて英二は一瞬息を詰めた。
    英二もわかっていたのだ。ダウンタウンで生きるアッシュは銃を持ち、彼の正確な射撃技術を目にしている。何より、彼が引き金を引く時の躊躇いのなさが何よりの証拠だった。
    それでも、それはアッシュ自身に火の粉が降りかかったときだけで、無闇な殺しはしていないのも英二は知っていた。
    だからこそアッシュの仲間は彼を畏怖するにせよ恐怖していない。アレックスたちが語るアッシュの姿はいつでも尊敬と憧憬と共にあった。
    「今のやつは自分がしたことのツケを払うべきだった。向こうだってそれを覚悟してやってんだ」
    人に害するのなら人に害されるのは当然。それがアッシュの世界だ。
    「それは強者の理屈だ……誰しも君のように強くはないんだよ。それに僕が気を緩めてたから……」
    英二が自分に非があったと口にすると、アッシュの怒気が込められた声が遮る。
    「いい加減にしやがれ どこまでお人好しなんだ。聞いてて腹が立つ。身包み剥がされても同じ台詞が吐けるのか」
    吐き捨てるような言い方をして眉間のしわを深めるアッシュ。その形相はリンクスのメンバーどころか大人でも怯みそうなほど険しかった。
    「僕なんかのせいで君に背負わせたくない」
    それでも英二は恐れず、怯むこともなかった。こんなことで彼に銃を撃たせたくなかった。そんなことする必要はないと。
    悲しげにまるで懇願しているような表情にアッシュは自嘲した。そこには何かを諦めたような色が混ざる。
    「今更何を……1人だろうが2人だろうが何人増えても、俺が汚れてることに大差ないだろうが」
    「アッシュ」
    「強者か……だったらお前に俺の気持ちがわかるのか」
    それ以上そんなことを言わないでくれとアッシュの名前を叫ぶ。そんな英二にアッシュはグッと何かを堪え、視線を落とす。それは涙を必死に隠そうとする子供のようだった。

    「もういい、うんざりだ……俺は……お前みたいに綺麗に生きられない……」

    絞り出された小さな声が地面に落ちる。先程までの怒気も大声もなりを潜め、か細い声がポツリと落ちた。
    英二が何か言おうとする前にアッシュは駆け出し、英二に背を向けた。
    「アッシュ 待って」
    伸ばした手は空を掻き、走り去る背中が目に焼き付く。小さな後ろ姿はすぐに見えなくなり公園は静寂を取り戻した。
    すぐに追いかけられなかったのは彼から向けられた明確な拒絶のせいだったのか。それとも彼に何と言えばいいのかわからなかったせいだろうか。
    アッシュとのやり取りを遠巻きに眺めていたのか、周囲の視線が取り残された英二に向けられている。だがそんなこと英二にとってはどうでもよかった。
    最後、アッシュの表情は見えなかった。けれど彼が深く傷付いているのが痛いくらいに伝わってきた。

    『お前に俺の気持ちがわかるのか』

    「僕はなんてことを……」
    握り締めた掌が焼けるように痛んだ。擦りむいた傷から血が滲んでいる。倒れたときについた傷だった。ジクジクとひりつく痛みはまるで英二を責めているようだった。





    逃げるようにあの場を後にしたアッシュは大きく肩で息をして立ち止まった。すでに公園を離れ、忙しない心臓を必死に抑えようとしていた。
    人目を避け慣れ親しんだ路地の奥へ向かう。表通りから進むほど足元にはゴミが散乱している。
    手にしたままだった銃はもう離れないのではないかと思えるほど強く固く手に握られていた。僅かに滲んだ血が付いている。英二の血だ。彼は自分の傷にさえも気付いていなかった。
    彼の手を振り払い銃身についた血を目にしたとき、アッシュの中に怒りと恐怖が混ざった。銃を持たず、争いなど生涯無縁のような顔をした英二が血を流していた。
    それが例えすぐに治る傷だったとしても、アッシュを恐怖させるには十分すぎるほどだった。
    脆い体はすぐに傷付く。簡単に血を流し命は失われる。英二など、アッシュの世界で生きていれば一瞬で殺される。
    英二はアッシュの行いを咎めた。しかしその綺麗事をアッシュには通せない。そんなことをしても生きていけないからだ。
    力が全て。仇なす者を許して自分が殺されるなどごめんだった。その生き方しかできない。
    アッシュは英二と同じ世界にいなかった。
    その圧倒的な事実を突きつけられた気がした。わかりきっていたことなのに、それがどうしようもなく辛く、悲しかった。
    重い足を引きずってやがてアッシュはまた走り出した。自分の生きる世界へ。こんなやり方でしかできないと。
    英二のように生きれたら、今もまだ、自分は彼の隣にいられたのだろうか。
    願望に似た幻想はアッシュの悲しみを深めるだけだった。







    時計の短針が何周もした。いつもの温かな光を失った家は重く垂れ込んだ雨雲のように暗かった。
    身動ぐこともせずじっとソファーに腰掛ける英二は掌を合わせ指を組み、まるで祈るように目を瞑っていた。手を額に押し当て背中を丸める。何もできない時間がもどかしかった。


    あのあと、すぐにアッシュを追いかけた。公園の中、その周辺を走り回ってあの金色の後ろ姿を探した。しかし当然のことながら彼の姿はもうどこにもなく、行くあてもわからない。
    英二が頼ったのはリンクスのメンバーだった。
    「あれ、英二。今日はボスと一緒に出かけたんじゃ……」
    「アッシュがどこに行ったか知ってるかい」
    「え、それってどういう……」
    溜まり場のバーにいたアレックスはいつもの違う様子の英二に何事だと眉をひそめた。
    「その……一緒に公園に行ったんだけど彼と喧嘩してしまって……謝りたいんだ」
    「喧嘩ぁ ボスとか」
    ひどく驚いた声を上げるアレックスに頷く英二。そばにいたボーンズとコングの顔は青ざめている。
    「それでアッシュを探しているんだけどどこにもいなくて……みんななら何か知っているかもと思ったんだ」
    「しかしなぁ……アッシュは今日店にも来てないからな。おい、誰かボスを見かけたやついるか」
    アレックスの呼びかけにメンバーの視線が集まるがそれを知る者はここにはいなかった。
    「俺はアッシュと喧嘩した経験なんてないからわからないが、まあこのダウンタウンのどこかにはいるだろうぜ」
    「……わかった」
    アレックスの言葉は「だから探さなくてもそのうちまた会える」という意味だった。しかし英二の意を決する目を見て彼が何をしようとしているのか気付いてしまう。
    「まさかダウンタウン中探すつもりか」
    「当然さ。僕はアッシュに会わなきゃいけないんだ」
    「おいおい 何馬鹿なこと言ってんだ。お前みたいなのが歩いてたら一瞬で……」
    その先は続かなかったがアレックスが言わんとすることは英二にもなんとなくわかる。それでも英二は今すぐにでも走って彼を探したかった。
    「でも……」
    「わかった。アッシュは俺たちが探す。お前は帰れ」
    「探すなら僕も……」
    「そんな病人みたいな顔色してる人間を連れ回せるかよ」
    その指摘に英二は自分がひどく冷や汗をかいていることにようやく気付いた。指先が冷たく、それなのに妙に心臓が早く脈打つ。
    「やっぱり気付いてなかったか。ひどい顔してるぜ」
    「俺たちがボスを探すからよ、お前はゆっくり休めよ」
    「そうだぜ。俺らに任せろって」
    ボーンズとコングにも促され、英二は渋々頷いた。勝手知ったる彼らの方がアッシュの居場所を見つけてくれるかもしれない。それでも英二は今すぐに、彼の元へ行きたかった。けれどここで勝手な行動をしてこんな自分に優しい彼らの足を引っ張りたくない。
    アッシュを見つけたら英二に伝えに行くと約束してくれた彼らに見送られ、英二は落ち着かない気持ちで家に戻った。


    しかしそれから1日経ってもアッシュが戻ったという知らせは来なかった。


    時間だけが流れ、家には明かりすら灯らない。仕事も手に付かず急ぐものもないからと英二はその間ひたすらアッシュの無事を祈っていた。
    また怪我をしていないだろうか。誰かに追われていないだろうか。ひどいことを言って傷付けたことを謝りたいんだ。君は僕を守ってくれたのに。
    許さなくてもいいから、もう一度だけ君に会いたい。無事な姿を見せてくれ。
    もう何十回と繰り返した願いは未だ叶わない。
    英二は待ち続けた。ダウンタウンに行って探したいが、今の英二は足手まといでしかない。自分の無力さに焦るばかりだった。
    また夜が訪れた。
    閑静なこの地には車もあまり通らない。変化のない沈黙ばかりが続く。
    同じ姿勢で微動だにしない英二をただ月明かりが照らしている。不意にその光が陰った。それと同時に目の前で小さく床がなるのが聞こえた。
    虚ろに伏せられた英二の瞳が見開かれ、すぐに顔を上げる。
    「っ、アッシュ……」
    暗闇の中、光を背にしていたのはアッシュだった。彼は腰掛けた英二を月のように見つめている。ぼんやりとした明かりで見え辛いがいたるところに擦り傷ができていた。服もボロボロでほつれや汚れが見えた。
    アッシュは手に持っていた何かを英二の前に差し出した。英二が緩々とアッシュから視線を落とす。
    それは英二のカメラだった。
    それを差し出すアッシュは受け取れと言わんばかりにまた少しだけ英二に近付ける。しかし英二はただ呆然とし、それを見つめるばかりで組んだ指すら解こうとしない。
    痺れを切らしたアッシュが押し付けるように英二の膝の上にカメラを置く。決して乱暴にではなく、そっと割れ物のように手を離した。
    「売っぱらわれる前になんとか見つけた。バラされてもなかったし変にいじられてはないと思う。けど、俺は詳しくないから後で自分で確かめてくれ。……言っとくが誰も殺してないからな。多少痛めつけたけど……死んじゃいねぇさ……」
    気まずそうに英二から視線を逸らすアッシュはまるで叱られた子供が言い訳するみたいに言葉尻が萎んでいく。
    英二の視線がまたゆっくりとアッシュに向かう。アッシュは英二と視線を合わせることができず汚れたスニーカーのつま先を見るので精一杯だった。
    英二の手が解かれた。動き出した手はカメラに触れた。
    そして、その手に押しやられたカメラは膝から落ちてソファーの上に転がる。


    英二の手が掴んだのはアッシュだった。


    立ち上がり、しがみつくようにアッシュの背中に腕を回し、頭を抱き込む。ここに居るのを確かめるような、必死な思いが表れた抱擁だった。
    アッシュは伸ばされた英二の腕が自分を包み込んでいることに驚き、動けない。押し当てられた胸から強い鼓動が聞こえた。彼の腕の中はあたたかかった。
    「無事でよかった……」
    ポツポツと髪に雫が落ちたのを感じた。その正体に気付いたアッシュはそっと英二を顔を伺い見た。
    堪えるように強く瞑った瞼の隙間から涙が溢れている。流れ落ちる涙は見惚れるほど美しく英二の頬を濡らした。
    「怪我は ひどい傷はない」
    「そんなの……してない」
    「よかった……よかったぁ……」
    抱きしめる力を少しだけ強くなる。アッシュは自分を包む温もりに頬を寄せた。
    英二の声は心底安堵したと語っていた。張り詰めていた緊張が解けるように肩の力が抜けていくのをアッシュは感じ取った。
    「君に危ないことをしてほしくない。けど、僕のためにありがとう……ひどいこと言ってごめんよ」
    涙交じりの声がアッシュのためだけに紡がれる。

    「アッシュ。君以上に大切なものなんて僕にはないんだよ」

    英二の声がアッシュの中へ溶けていく。
    アッシュは目を見開き、その衝撃に息を呑んだ。
    英二の言葉に心臓が握られたみたいだった。苦しいくらいに、それは嬉しかった。嬉しくて、たまらなかった。
    こんな、こんな人間をアッシュは知らない。
    けれどもう恐ろしくなかった。
    アッシュはそっと英二の背中に腕を回す。恐る恐る触れ、ギュッと服を掴んだ。
    誰かを抱き締めたのは初めてだった。



    『うん、とても大切なものなんだ』


    そう言った彼の横顔が忘れられなかった。
    カメラが奪われたとき、アッシュを襲ったのは怒りだった。英二を傷つけ彼の大切なものを奪った男に対する怒り。そしてそれを守れなかった自分に対する怒り。気が緩んでいたのは英二じゃない。自分だった。
    そして次にやってきたのは恐怖。
    銃口の前に英二が立ちはだかったとき、感じたことがないほど恐ろしかった。今までと同じ、このまま引き金を引けばよく知る結末となる。
    同じはずなのに、あんな恐怖は初めて感じた。こうして考えなしに飛び込んでくる彼がいつか躊躇いなく引き金を引く人間の前に立ったら。
    一瞬の間にアッシュの中で最悪の結末が導き出された。
    彼を撃つかもしれない人間も、そんなことを躊躇いなくする英二自身にもどうしようもない怒りが湧いた。

    お前がそこまでする必要なんてどこにもないのに、どうして。

    怖くなった。英二ではなく、英二を失うことが怖いと気付いてしまった。
    どうしようもなくそう思った。
    そして、自分自身にも驚いた。
    計算も打算も思惑もなく、英二の大切なものだからと、たったそれだけの理由1つだけで1人の物盗りが奪っていったカメラをこの街から探し出した。普段なら避けるような面倒な争いもこっちからふっかけて。
    馬鹿みたいに苦労した。2度とごめんだと思った。それでも必ず取り戻すと決めていた。思えば自分の命が狙われていた時よりも必死だった気がする。
    カメラの価値など自分にはよくわからない。英二なら新しいカメラを買い直すことだってきっと無理ではない。
    それでも、彼が大切なんだと言ってカメラを撫でた指が、横顔が忘れられなかった。
    それだけだった。
    悲しむところは見たくない。あの時の笑顔が見たい。
    アッシュを突き動かしたのはたったそれだけの理由だった。もうそれで十分だった。






    2人は並んでベッドに横になった。
    離れ難く、しかしあのままでもいられないので抱擁は解かれた。代わりに2人の手はいつのまにか繋がれている。
    どちらからともなく2人の足は寝室に向かい向かい合って寝転がる。
    「公園の時のこと、本当にごめん。君を強者だなんて言って君の気持ちを考えられなかった。思ったことを言い合えるのが友達だと思ってた。けどそれはアッシュを傷つける理由にはならないのに」
    「……いいんだ。お前は間違ったことを言ってない。それに俺も、お前にひどいことを言ったな。悪かった」
    泣きはらした英二の目元が赤くなっている。アッシュは労わるように親指の腹で優しく撫でた。
    「俺とお前は生きる世界が違うってこと、わかってたはずなのにな」
    「同じさ。僕らは同じ世界に生きているよ。何もかも違ってもそれだけは変わらない」
    英二の深い黒色の瞳が緩やかに細まる。
    何の根拠もない綺麗事だ。だがアッシュは英二が言うならそれが世界の真実だと信じられた。
    2人を照らすのは変わらず月だけだった。英二の黒髪は艶やかに照り返し、アッシュの細い金髪は輝きを増していた。
    「お前の髪は真っ黒だな。瞳も……闇色だ。俺とは全然違う」
    「同じ人間なのに不思議だね」
    2人は歳の差があろうと長年の友人のような安心感を互いに見出していた。そのせいか互いのことをあまり深く聞く機会がなかった。
    それから2人は自身のことを話し始めた。
    アッシュのカボチャ嫌いが始まったハロウィンのことや英二に妹がいることなど。
    些細なことだが2人にとってそれは初めて聞く相手の一面だった。
    やがて話はアッシュの忘れられない忌まわしい過去へと遡る。
    「俺の母親は俺を生んで男を作って逃げた。兄さんがいたけど、母親は違う。けど俺を育ててくれたのは兄さんだった」
    その兄が戦争は出兵し帰らぬ人となったこと。アッシュは幼くして拠り所となる肉親を失っていた。
    「……俺が住んでいた街に退役した元軍人がいたんだ。街じゃ英雄扱いさ。俺はそいつにレイプされた」
    「……そんな」
    「7歳だった。怖くて声も出なかった。誰かに助けてほしくてでも、誰もいないんだ」
    アッシュの瞳から涙が溢れた。記憶に怯える彼はそれでも語ることをやめなかった。
    その後も暴行は続きアッシュの心はすり減っていった。そして1年経ち、アッシュは男を射殺した。
    「そいつはレイプしたガキを殺してたみたいでその一件から遺骨がゴロゴロ出てきた。俺も事情が事情ってことで罪には問われなかったけど……」
    「家出したのかい……」
    「ああ……もうあそこにはいられないと思った」
    8歳の子供が当てもなく、身を守る術も持たずに親元を飛び出した。それは想像を絶する困難だったであろう。そしてそこまで彼は苦しんでいた。
    「流れ着いたのがここだったがそれまでは結構面倒な目に遭った。変態に捕まって男娼まがいなことをさせられたこともあった。マフィアと繋がりがあって厄介だったけど抗争が起きてな。騒動に乗じて逃げだせた。あれは今思えば相当運が良かった……」
    それからも力を持たないアッシュは幾度も踏みにじられ、苦痛に耐えて生きていた。今は誰もが恐れるストリートキッドのボスだが、はじめから強いわけではなかった。
    やがて抵抗する術を得て、弱者から這い上がろうともがいた。
    「俺みたいなガキは珍しくない。似たような境遇の奴らと身を寄せ合って、この現状さ」
    弱かった自分は死に、強く恐ろしいアッシュ・リンクスが生まれた。弱いアッシュ・リンクスなど誰も求めない。誰も認めない。
    けれど英二は違った。
    アッシュの弱さを傷も受け止めてくれる。ただの14歳の少年として息ができた。
    英二は繋いだ手を強め、包み込んだ。
    「英二」
    「馬鹿なことだって言われると思うけど……そのときの君の元へ駆け付けたかった。僕と君はまだ出会ってすらいないけど、もしそのとき僕がそばにいられたらって考えてしまったんだ」
    「……それだけで、十分だ」
    「1番辛いのはアッシュなのに、僕がこんなことを言うなんてずるいと思う。けど、僕は悔しい。君の苦しみを救えなかった自分が憎い」
    止まったはずの涙がまた英二の瞳から溢れ出した。シーツに吸い込まれるのが惜しくてアッシュは手を伸ばす。
    アッシュの過去を聞き、涙を流す彼がどうしようもなく美しかった。こんなにも無垢で優しい人間が自分のために悲しみ、涙を流し、過去も丸ごと抱きしめている。戻れない時間さえ憎んで自分を助けようとしてくれている。
    その事実があるだけでアッシュの苦しみはただの苦しみではなくなっていった。
    「男娼まがいなことをさせられていたときに、写真を撮られることが多かったんだ。野郎に犯されてるところを撮られて……。弱みを握ったつもりなのか、ただの悪趣味なのか。それからカメラを向けられるとだめなんだ。まるであのときの辱めを受けてるみたいで耐えられなくなる」
    アッシュの過去は壮絶だった。何故この少年がそこまでの不幸を背負わなければならないのかわからないほどに彼の人生は苦痛に満ち、他者から搾取されていた。
    「ごめん……」
    「なんだよ、さっきから謝ってばっかりだな」
    「君を初めて手当てするときに、その、服を脱がせていただろう あれって相当嫌だったはずだよね……」
    何かと思えば英二はそんなにも前のことを持ち出して罪悪感を感じていた。日本人ってマゾだなというアッシュの呟きは英二には届かなかった。
    「お前はそんな目的のために俺を裸に剥いたのか」
    「は、裸って 上だけだしそんなわけないよ」
    「ならいい。英二は俺を助けてくれたんだ。それに英二なら怖くない」
    アッシュは穏やかな笑みを浮かべて英二の頬に指を滑らせる。温かな体温が指先に染み込んでいく。
    「なあ、英二の話が聞きたい。次はお前の番だ」
    「僕の話……カメラや写真のことばかりになってしまうけど」
    「いいから。俺は聞きたい」
    アッシュの笑顔に見惚れていた英二は特筆すべきこともない自分の過去なんてと、自分の記憶を漁る。
    「えっとね、学生時代の話でもう随分と前になるんだけど僕棒高跳びの選手だったんだ」
    それほど大きな山も谷もない人生の中で時間をかけたことは棒高跳びとカメラだった。
    棒高跳びがきっかけでカメラマンの師と呼べる人、伊部と出会ったことで英二の世界は少しずつ変わっていった。
    「でも怪我をしてしまって。飛べなくなったんだ。焦るほどひどくなってどうすればいいのかわからなくなってた。そんなときに伊部さんがアメリカに連れてきてくれたんだ。仕事のアシスタントって肩書きだったけどほとんど逃避に近かった」
    そこでカメラを手にしたことで何かを掴むことができた。
    「それでアメリカで撮った写真が僕の中で妙に納得したというか、これだって思ったんだ」
    そのとき英二は最近あの焦燥感に駆られることが少なくなっていたことに気付いた。何故と思う前にアッシュが尋ねてきてその疑問は霧散した。
    「何を撮ったんだ」
    「ニューヨークの夜明けの写真だよ」
    するとアッシュがにわかに驚いた表情を見せた。
    「僕はその夜明けを撮ってこの街に住むのを決めたんだ」
    この街でなければならないと、漠然と思った。夜明けはどこにいっても見ることができる。けれどこの街でなければ意味がないと、英二の魂が叫んでいたのだ。
    「なぁ、英二」
    「ん なんだい」
    「前に、アッシュ・リンクスは通り名だって言ったの覚えてるか」
    「うん。君が教えてくれた」
    つまりアッシュには本当の名前がある。英二はそれを聞かなかった。彼が語らないならそれでいいと思ったからだ。本当は知りたかったけど彼を困らせてしまう気がして聞けなかった。
    強い生命力に満ちた新緑の瞳が真っ直ぐに英二を見つめる。過酷な運命に負けない魂が彼の奥底で光っている。
    「俺の……本当の名前は、アスラン……。アスラン・ジェイド・カーレンリースだ」
    「アスラン……」
    彼の名前を口にする。初めてだったのにもう何回も呼び慣れた響きに聞こえた。
    「ジェイドは……翡翠」
    「ああ、見たまんまだな」
    単純だろ と笑うアッシュに、素敵な色だからねと英二は返した。
    この世で1番美しい色だと英二は確信していた。
    「アスランって名前には何か意味があるの」
    「古代ヘブライの祈りの言葉なんだと。意味は『暁』」
    その単語に英二の瞳が大きく見開かれる。それを見たアッシュはいたずらが成功した子供のように、そして嬉しそうに、笑った。


    「『夜明け』……それが俺の名前だ」


    アスラン。

    夜明けの子。

    その言葉に英二の中に燻っていたものが何故消えたのか、ようやくわかった。何故あんなにも夜明けに焦がれたのか。

    ずっと何かを探していた。
    誰なのか、どこなのか、わからない。
    そして見つけたのがこの街の夜明けだった。
    けれどそれすら違ったのだ。
    英二の魂が探し求めて叫び続けていたのは、それではなかった。
    今ようやく、魂の片割れが見つかった。それほどに英二の心は歓喜に震える。

    そうか、だから僕はここにいるんだ。

    空でもなく、フレームの中でもなく。
    英二の長い夜は今ようやく明けた。
    アッシュという夜明けと出会うことで。
    英二はもうとっくに出会うべき運命に出会っていたのだ。
    そして長い夜が明けたのは英二だけではなかった。
    「こんなことがあるなんてな。神様なんか信じちゃいないが少しは信じてやってもいいくらいだ。ただの偶然がこんなに嬉しいだなんて。もう捨てた名前だった。俺にとっては英二、お前が夜明けそのものだ」
    暗く張り詰めた夜を潜ってアッシュもやっと出会えた。彼の長い夜を破って飛び込んできたのは英二という名の夜明けだった。
    長い、長い夜だった。
    英二は流れる涙をそのままにしてアッシュと額を合わせた。
    「アッシュ……アスラン……。僕ね、ずっと何かを探してたんだ。それがなんなのかわからなくて苦しんだときもあった。でもやっと気付いたよ。君だったんだね。僕は、君に会うために生まれて、生きて、見つけたんだ」
    突然こんなことを言い出して驚かれると思いきや、アッシュはそれを聞くと否定することも疑問に思うこともせず受け入れた。
    それはアッシュ自身も驚くほどに納得できた。アッシュには英二のような焦燥感はなかった。だがときおり、体が半分無くなっているような喪失感があった。
    誰にも話したことはない。それは単なる過去によるトラウマや環境のせいで孤独を強く感じているのだと思っていた。
    けれどどうやら違ったようだ。
    欠けていたのは魂だった。
    「俺を……見つけてくれたのは英二だったんだな。今ほど生きててよかったと、思ったことはない」
    苦しみが何度も襲い、その度に死が甘美な誘惑に思えた。苦しいのなら終わればいい。
    それでも死にたいと思うことはなかった。
    どうしてそこまで生にしがみつくのか。その答えが今、目の前にある。
    「出会ってくれてありがとう、アスラン」
    「それはこっちの台詞だ……英二、俺を見つけてくれてありがとう……」
    アッシュの瞳から溢れる涙を英二が拭う。やがてそして2人は泣き疲れ、ゆっくりと瞼を閉じようとしていた。
    アッシュは英二のカメラを探し回って疲れ果て、英二もアッシュを心配してまともに休んでいなかったせいであっという間に睡魔がやってきた。
    英二の腕がアッシュを抱き締め、アッシュは英二の胸に額を当て、2人は身を寄せ合うように緩やかに眠りについた。
    その直前、アッシュはふと気が付いた。
    英二の腕の中はアッシュが度々感じる平穏な空気そのものだった。それでわかったのだ。これはこの家にあるのではなく英二自身だったことに。
    彼がいるからどこだって、心穏やかになれる。英二が抱き締めてくれるからアッシュは今、自分が世界で一番幸せだと思えた。


    窓の外は太陽が昇り始め、街を照らし出していた。黄金の光に包まれ翡翠の輝きを放って世界を染める。
    ようやく夜が明けたのだ。





    一枚の愛から 4


    最低限の荷物と長年使っているカメラ。
    それらを手に英二はドアを開ける。雲ひとつない空はどこまでも広がっている。そんな空を背景にして建ち並ぶビルもいつもと違って見えた。
    英二が向かう先は1つ、もはや慣れ親しんだと言っても過言ではない街だ。朝焼けや夕焼けの写真も撮りたいのだが昼以外に来るなと言われているので今度、言った張本人に案内を頼んでみようと、英二がダウンタウンに入ったばかりのとき遠くで呼ばれた気がした。
    はて、気のせいだろうかと首を傾げていると声はだんだんと近くにやってくる。こちらに向かって走ってくるのはボーンズだった。
    「やあ、ボーンズ。どうかしたのかい」
    相当必死に走ってきたのか、息を切らすボーンズは英二に何か言おうとするもなかなか言葉を発せない。
    「はぁ……はぁ……、英二、来たばっかで悪いんだけどよ……」
    やっと落ち着いたボーンズが言うことには一緒に来てほしいということだった。
    昼より少し前の時間にボーンズが走って英二を探す理由は大体見当がつく英二はまたかと苦笑いする。
    「わかったよ。ボーンズも大変だね」
    この前はコングだったなあと思いながら英二とボーンズはとある古ホテルへと向かう。ここもリンクスがよく利用する場所の1つだ。
    ボーンズの案内で階段を上り、辿り着いた階で英二の目に入ったのはリンクスのメンバーだった。それは当たり前のことなのだが、彼らはみな部屋ではなく部屋を出た廊下で身を寄せ合っていた。
    「英二…… よく来てくれた」
    アレックスが声を落として喋っているので英二は部屋の中にいる人物を確信した。
    「そこまでして逃げなくてもいいと思うけど……」
    「それが許されてんのはお前だけだっていい加減自覚してくれよ……」
    「英二頼む ボスを起こしてくれ……」
    「昨日からちょっと騒ぎがあって少し前に寝たんだけど……2時間経ったら起こせって。けどよ……」
    「無理だよな」
    アレックスだけでなくボーンズとコングはもちろん、他のメンバーの縋るような視線が英二に向けられる。
    部屋を覗き込めばベットの1つが丸く盛り上がっている。彼らが恐れる正体だ。
    「起こすのは別にいいけど、僕がいないときどうしてるのさ」
    「そんなもん決まってらぁ。地獄だ」
    そのときのことを思い出しているのか一同は顔を青ざめさせている。
    「ははは……みんな大変だ……」
    「ボスは英二にしか起こせねぇよ」
    「僕の音声入りの目覚まし時計でも置いとくかい なーんて……起こしてくるよ」
    英二は軽い冗談を残して部屋の中へ入っていく。リンクスのメンバーが「それだ」と心を一致させていることに気付かなかった。


    上掛けに包まる姿はミノムシだった。頭の先の方から金髪が覗いている。
    「アッシュ。アッシュー。起きなよ。もうすぐ昼だよ」
    先ずは呼びかけるも反応はない。彼がこの時点で起きていることなどまずなかったのだが。
    「アッシュ 起きろ」
    スパーンっと頭をはたく。背後から悲鳴が聞こえたが目的の人物は声もあげない。
    英二はしゃがみ込んでアッシュの耳があるであろうところに顔を近付ける。そして小さな声で、アッシュにしか聞こえないようにそっと囁いた。
    「起きてアスラン」
    その瞬間、ピクリと白い塊が動いた。モゾモゾと顔を出したのは眠たげな目をしたアッシュだ。
    「お前今の……」
    「嫌だった」
    「……別に……英二の家でなら許してやる。下手に外で呼ぶな」
    「そうだね。僕も君の『特別』を人に知られたくないからそうするよ。だって僕たちだけの秘密だもんな」
    嬉しそうにする英二にアッシュはそっぽ向くが赤く染まった耳がよく見えることを彼は気付かない。
    起き上がったアッシュはきまり悪そうに頭をかいてベッドから降りる。何事もなくアッシュが起きたので後ろにいるリンクスのメンバーからは安堵のため息がいくつも聞こえる。
    「それじゃ、僕はそろそろ行くよ。あんまりみんなに迷惑かけるなよアッシュ」
    「うるせ」
    アッシュは振り向かずに悪態を吐く。アッシュの悪態に慣れっこの英二には挨拶のようなものだった。
    英二が部屋を出て階段を降りる音がすると、アッシュは部屋の出入り口に鋭い眼光を飛ばす。向けられた先はコングとボーンズだ。
    2人は飛び上がって急いで英二の後を追った。
    「え、英二 俺たちも一緒についてくぜ」
    「でも君らも忙しいんじゃ……。騒ぎがあったって」
    「それはボスが片付けたからよ 気にすんなって」
    「君たちがいいなら……」
    2人の声が大きいのはわざとアッシュに聞こえるようにしているのだが、当然英二にはわからない。ボーンズとコングが英二に同行したことを確認したアッシュはメンバーに振り返る。
    その瞬間、彼らに緊張が走る。
    「いいかお前ら。あの能天気を絶対に1人にするな。他のグループになるべく近付かせるな。問題が起こると厄介だ。手出しされないようにもしろ。怪我をさせるな。下手な道に入らないように見張っとけ。こんなところで事件なんて起こしてサツに荒らされるなんざごめんだ。わかったか」
    「イエスボス」
    一糸乱れぬ返答に満足してアッシュはシャワーを浴びに部屋を出た。途端にメンバーの力が抜ける。
    「あれって何回やるんだ」
    「俺に聞くなよ……」
    さすがのアレックスはメンバーの疑問に答えることはできなかった。


    リンクスのメンバーには暗黙の了解があった。暗黙、といってもボス自らの命令なのだが表立って口にする掟でもなかった。それは例え掟でなくともリンクスのメンバーならば誰でも納得してしまうものだった。
    それはとある日本人カメラマンを危険な目に遭わせないことだ。
    ストリートキッドの取材に訪れた奇妙な大人。それが彼らが持った英二に対する第一印象だった。
    英二は銃やナイフを持ち、生々しい傷を負った少年たちを恐れず歩み寄ってきた。そしてあの、力の抜けた笑顔を見せて話しかけてくる。彼は不思議と、周囲を和ませた。
    少年たちがなによりも英二に驚かされたのはボスであるアッシュと友人になったことだ。
    取材を受けたのはアッシュの判断だったようだが、当初アッシュは英二とあまり話さず遠くから観察するように見ていることがほとんどだった。しかし、少しするとその距離はぐっと縮まり、今では隣に立っている。
    寝起きが最悪のアッシュを起こしても殴られないのは英二だけということも彼らを大いに驚かせ、同時に彼らにとって希望が生まれた瞬間だった。
    メンバーもあの日本人に対して軽くない情を持つようになっていた。だからこそ、アッシュの命令がなくとも彼らは英二の安全を当たり前のように気にかけていただろう。
    しかし誰よりも英二のことを気にかけている若きボスの心配っぷりはメンバーの誰もが過保護だなと思わざるを得なかった。
    英二がダウンタウンで撮影するときは必ず信頼が置ける部下を2人以上つけ危険な場所には近付けさせない。道案内と称して護衛させ、1人にする隙を与えない。もし絡まれて怪我などさせたら一体どうなってしまうのか。
    英二はもちろんそのことに気付いていない。子供並みの過保護っぷりだが、英二が1人で出歩けばすぐに絡まれてしまうだろうとメンバーも想像に難くないので納得してしまう。
    ストリートキッドがこんなことを、と思った者もいた。しかし自分たちを恐れず、親しい友人のように接してくれる英二という人間に惹かれない者はそう多くはないだろう。
    リンクスの親しき友人。それが英二なのだ。


    街での撮影を終え、帰宅した英二はデータの整理や写真の選別を行なっていた。事務所はあるがじっくりと写真を選ぶときは自宅の方が落ち着く。他にも遠出の撮影の準備や機材の確認、クライアントとの打ち合わせなどスケジュールはしばらく埋まっている。
    写真の選別も終わり、次に取り掛かるのは昼食の用意だ。作業部屋がある二階から降りる。最近少しずつ増えてきた食器は彼の分。新しい食器を目にする度に顔が緩むのを止められない。英二が準備を始めようとするとチャイムが鳴った。
    「やぁ、英二くん」
    「ブランカさん、こんにちは。どうしたんですか」
    玄関で英二を待っていたのはブランカだった。いつもと変わらぬにこやかな表情で彼が手にしていたのは掌に収まる大きさの瓶だった。
    「実は貰い物のリンゴがありあまっていてね。今回はジャムに挑戦してみたよ」
    「わあーすごい。ブランカさんって本当になんでも作れちゃいますよね」
    「なに、これと読書しか趣味がないだけだよ」
    琥珀色の瓶はずっしり重い。ブランカは英二と同じく、一人暮らしをしているらしいが料理の腕前はただの趣味とは思えないほどだった。1人で暮らしいてる英二はそんなブランカを見習って料理に力を入れるようになった。どんな仕事であれ、体が資本だということで料理も大切だ。今となっては1人の少年にしっかりとした料理を作れる腕を持ったことはなによりも嬉しいことだった。
    「やはりパンといったらジャムだからね。是非素直じゃない子猫ちゃんと食べてくれ」
    「アッシュもきっと喜びますよ」
    英二はアッシュとブランカが顔見知りだということ以上よく知らない。おそらく過去にもっと何かあったのだろうと2人のやりとりからうかがえるがそれについては聞いたことはない。
    「そうだ。この前おすそ分けしてもらった時のバスケットお返ししますね。少し中で待っててください」
    英二はブランカを部屋に招いてキッチンの奥へと進む。
    「なんかいつももらってばかりですみません」
    「いやいや、私が勝手にやっていることだから気にしなくていいさ。それに毎度新作の感想をもらうことが私の楽しみの1つなんだ。それで十分だよ」
    楽にしてくださいとソファーを勧める英二はキッチンの戸棚を開けたりなにやらゴソゴソと探している。些細なことでもいつも感謝の念を忘れない英二にブランカはフッと頬を緩ませる。
    そしてキッチンからソファーへ視線を移しまた別の笑みを浮かべた。
    「そう殺気を飛ばすな。何もしないさ」
    ソファーの背もたれ部分しか見えない向きだったがブランカはそこにいる人物に声をかけた。
    背もたれから顔を覗かせたのは不機嫌な顔をしたアッシュだ。何も言わずにブランカを睨むが言葉などなくとも彼の唸り声が聞こえてきそうだった。
    「あれ、アッシュ。いつの間に来てたんだい。もうすぐお昼だから待っててね。ブランカさん、お待たせしました。パンとても美味しかったです。それとこれを」
    そこに英二がバスケットととあるものを手にして戻ってくると、ソファーに座るアッシュの姿に驚いた。英二の登場でアッシュの威嚇が少しだけ大人しくなる。
    ブランカはバスケット共に手渡された缶を受け取ると思わず顔を綻ばせた。それは紅茶の茶葉の缶だった。
    「この前うちで飲んだとき気に入ってくれたようだったので良ければと思って。いつものお礼です」
    「あのときの紅茶かい。探していたんだがなかなか見つからなくてね。ありがとう」
    「お店、教えましょうか」
    「是非お願いしたいね。また今度手土産を持って聞きにくるよ」
    去っていくブランカを見送って振り返ると興味なさげにソファーに寝転がるアッシュがいる。
    「来てるなら声かけてよ。いらっしゃいアッシュ」
    「仕事の邪魔しにきたわけじゃないからいい」
    「アッシュは本当に優しいね。でもアッシュが来てくれたことの方が嬉しいから今度からは声かけてよ」
    アッシュは顔を赤くして眉間にしわを寄せるが英二は気が緩んだ、のほほんとした笑みを浮かべる。口も頭も回るアッシュも英二にだけはその本領を発揮できず、口を尖らせて視線をそらすことしかできない。
    そうしてニコニコとしていた英二はアッシュの上着から真新しい傷が見えた瞬間、あっと声を上げる。
    「アッシュ怪我してるじゃないか」
    「あ ああ、こんなのかすり傷……」
    「もう どうして手当てしてないんだい。ちゃんとするように言ってるだろう」
    アッシュの言葉を遮って慌ただしく手当ての道具を取りに行く英二。普段から落ち着いている英二がこのときばかりは血相を変えて小さな家の中を走る。その足音を聞くとアッシュは胸をくすぐられるような嬉しさを感じた。
    「ほら、見せて」
    ソファーに寝そべるアッシュを起こしてその隣に座る。袖口をあげられ露わになった傷はそこまで大きくないが溢れた血がそのまま固まっている。掌にも擦り傷から血が滲んでいた。
    「たいした傷じゃないだろ。ほっといても平気だ」
    「今度それ言ったら君のご飯は『大好きな』納豆にするぞ」
    「優しく手当てしてくれよオニイチャン」
    アッシュはさっと顔色を変えて腕を差し出す。先日、アッシュは初めて納豆を食べたが彼曰く「うますぎてヘドが出る」とのことだった。
    納豆の刑から逃れるためにアッシュはそれから素直に英二の手当てを受けた。消毒液が傷にしみて下手くそだの悪態を吐くと英二は更に念入りに消毒して仕返しする。
    2人でギャーギャーと騒ぎながらなんとか手当てが終わった。
    アッシュがこうして傷を作るのは珍しくない。英二はこうして彼に傷ができるたびに手当てをするようになった。ダウンタウンで見かけたときなら彼らの溜まり場を借りたり、家に来たときも今のように手当てする。
    最近ではすっかり出番が多くなった救急セットはクローゼットにしまい込む暇もない。
    「……あんまり危ないことするなよ」
    小さく呟かれた声にアッシュは返事をしなかった。英二もそれは承知していた。
    アッシュはただのストリートキッドではない。彼らをまとめるボスなのだ。アッシュが進んで騒ぎを起こしはしないがどうしても彼の周りはそれを許してくれない。
    彼には味方が多いがその分、敵も多いようだ。彼らには彼らの領分がある。英二は触れてはいけない領分だ。
    「また……手当てしてくれよ。下手くそでもいいから」
    アッシュは英二の不安を見抜くと穏やかに笑った。自嘲的でもなく、意地悪くもなく、英二にだけ向ける表情だった。
    「仕方ないなぁ。優しいお兄ちゃんがいつだってしてあげるよ。覚えていてよ」
    「俺が納豆好きじゃないのも覚えてくれよ」
    「食べ続けてたら好きになるよ」
    「勘弁してくれ」
    本気で嫌そうな顔をするアッシュに思わず吹き出してしまう英二。
    「さあ、お昼にしようか。今日は何が食べたい」






    アッシュは写真が嫌いだ。
    それは過去、彼が辱められた記憶と直結するものであり、否が応でもその屈辱を思い出してしまうからだ。他者の支配と己の弱さから脱した今でもその恐怖は纏わり付いている。きっと一生この傷は癒えず、それは彼の心に深い根を張っている。
    夢を見る。
    今よりも非力で、自分の手には銃すらない悪夢そのものの世界で必死に逃げる夢だ。
    振り払っても、どんなに早く走っても追いかけてくる。立ち向かう力もない。そこにいる自分はただ恐怖から逃げ出そうとするただの子供だった。
    誰にも助けられないただの子供。それは夢でも現実でも変わらない。
    やがて追いかけてきたものがアッシュを捕らえる。纏わりつく何かが前からも迫りくる。
    そのときだ。
    『アッシュ』
    誰かが名前を呼んだ。
    顔を上げるとそこにあったのは誰かの後ろ姿だった。長い黒髪を束ねたその人物がアッシュを庇おうとしている。アッシュの腕を掴んでいたものはいつの間にか消えて不快感もない。
    『彼をモノ扱いするな』
    ああ、知っている。
    振り向かなくともアッシュは彼を知っている。
    それはアッシュの悪夢を終わらせる夜明けそのものだった。




    意識がふと浮上する。
    それと同時に開かれた目がまず捉えたのはシーツの海だ。波立ったシーツから起き上がると驚愕と言わんばかりに目と口を開いた部下たちがアッシュから離れたところで一箇所に固まっている。
    「……何してんだよ」
    部下たちの妙な姿に眉をひそめる。すると固まったままのアレックスは何とか口だけを動かしてぎこちなく言葉を発した。
    「い、今……ボス……自分で起きたのか……」
    「誰か起こしたのかよ」
    「いや……いいや……起こしてないからこそというか……」
    「ボスもしかしてずっと起きてた……とか」
    恐る恐るボーンズも自分の疑問を口にした。だがアッシュはますます彼らの様子の意味がわからない。
    「寝てたから起きたんだろうが。何なんだ一体」
    挙動不審の部下たちを置いてアッシュはベッドから立ち上がる。かすかに残る眠気を覚ますためにシャワー室に向かおうとする。
    「英二もいないのにボスの寝起きが最悪じゃないなんて……」
    「わーー コング」
    アレックスとボーンズに抑えられたコングだがすでにそれはアッシュの耳に届いていた。
    「英二が何だ」
    「いや、その ボス、今日は目覚めがいいなぁーなんて思ってよ……ははは……」
    アレックスの言葉にアッシュはさきほどの夢を思い出した。普段の自分だったら目覚めは最悪だったろう。確かに今、目が覚めたばかりでいつもならイライラしているはずだった。しかもあんな夢を見た後だ。
    だというのに不思議と気持ちは暗くなかった。いつもの悪夢と違ったのはそこに彼がいたことだ。
    英二に起こされるのは嫌いじゃない。それは自覚済みで、認めたくないが目が覚めて一番に映るのがあの大きな瞳だと思うと悪い気はしなかった。そのためになら起きてもいいと思えるくらい。
    この目覚めの良さは夢に英二が出てきたせいなのか、夢の中ですらアッシュを救おうとしたからなのか。どちらにせよ、英二のせいというのは同じだろう。アッシュは夢の中の英二にすら起こされたようなものだった。
    「ほう……寝起きが悪い方がよかったか」
    「いや そんなことはない」
    もげそうなくらい首を激しく横に振る部下たちを放ってアッシュは今度こそシャワーを浴びに向かう。
    「馬鹿やってねぇでいつもの新聞買ってこい。それからメシ」
    その言葉に部下の数名は慌ただしく部屋を飛び出した。
    残されたメンバーは声を落としてさきほどのアッシュについて話し始める。
    「どうしちまったんだボス。英二が起こしたわけでもないのに機嫌悪くないぞ」
    「誰も殴られない朝が来るなんて……」
    「もしかして英二のおかげで寝起きが良くなってるとか……」
    メンバーの英二に対する株がますます上がった朝だった。
    しかし毎日アッシュが英二の夢をそう都合よく見れるはずもなく、犠牲者がなくなることはない。リンクスのメンバーはそんなこと知る由もなかった。




    カシャっとシャッター音が聞こえる。目を向けると案の定、そこにはカメラを構えた英二がいた。珍しくもない野良猫にレンズを向けている。真剣な表情でアッシュに気付いていない。
    英二の家の庭先で行われている撮影を横目にアッシュはスルリと家に入る。英二には声をかけて欲しいと言われたが、やはり彼の邪魔はしたくない。英二のあの表情はアッシュも気に入っていたからだ。
    こうして意味もなく英二の家に来るのは何回目だろうか。英二のいるところはどんな場所よりも落ち着いた。
    身を寄せているどこの寝床よりもここでこうしてソファーで横になっている方がずっと休まる気がした。静かな寝床、としてアッシュはふらりと英二の家に現れていた。
    英二は突然アッシュが押しかけても嫌な顔一つせず、それどころか嬉しそうに笑うのでアッシュはますます離れ難くなっていった。
    「アッシュー。起きて。ご飯食べるだろう」
    「…………あ」
    英二の声で起こされたアッシュは部屋の眩しさに目を凝らす。のそのそと起き上がって辺りを見回すとカーテンが閉まっている。時計ももうすっかり夜を示していた。来たときは日が暮れる少し前の時間だったのに。
    どうやらあれから寝てしまったようでずれ落ちた毛布が床に広がっている。
    それを拾い上げソファーに投げる。リビングのテーブルには当然のように2人分の食事が並べられていた。
    「目は覚めたみたいだね」
    「起こせよ」
    「よく眠ってたから起こすのが忍びなくて。さすがに夕食抜きはきついだろうから今起こしたけど」
    英二の前だと自分でも驚くほど気が緩む。それは本来なら喜ばしくないが相手が英二だとそれもいいかと思ってしまう。少し前の自分だったら信じられないことだ。


    夕食を終えた2人は中身があってないようなくだらない会話を交わしたり、英二がカメラのメンテナンスをするのをアッシュが横から見ていたりと静かな時間が過ぎた。
    「アッシュが大切にしてくれたカメラだからもっと大切になったよ」
    そう言われたのはこのカメラを取り戻し英二に渡した翌朝のことだった。
    「俺は、取り返しただけだ……」
    「それでも僕にとっては嬉しいんだよ」
    でも1番はアッシュだからねと付け足された言葉にアッシュは何と返せばいいのかわからず、自分の顔が熱くなるのを感じていた。
    あんな恥ずかしいことを正面から言えるのは英二だけだ。永住権を持つ英二の英語の語彙力は豊富なはずなのにやけにストレートな言葉が多いのはきっと彼の元来の性格なのだろう。
    あれだけ寝たのにまた睡魔がやってきた。すると英二はすぐさまそれを見抜いてアッシュの顔を覗き込んだ。
    「まだ眠いの」
    「今日は割と朝が早かったんだよ」
    メンバーに寝起きの良さを気味悪がられたことは伏せて言うと英二も驚いたようで、というか信じられないと声をあげる。
    「アッシュが どうしたんだい」
    「なんだよ。俺だって1人で起きれる」
    「いやいや、普段の自分を思い出してから言いなよ」
    「…………」
    はっきりな物言いはたまに辛辣だった。
    「お兄ちゃんの膝枕で寝るかい」
    冗談半分だろう英二はニヤニヤしながら自分の膝を軽く叩く。子供扱いにカチンときたアッシュはあえてその挑発に乗った。ばたーんと後ろ向きに倒れ込んで英二の膝に頭をのせる。
    「え、本当に」
    「動くなよオニイチャン。俺の安眠のために」
    今度はアッシュの方が意地の悪い笑みを浮かべて英二を見上げる。英二の膝は固く、寝心地はあまり良くない。けれど。
    「はいはい。寝れるものなら寝てみろよ」
    髪を混ぜるように頭を撫でられる。そしてそれを解くように繰り返し英二の指先が髪を梳く。細い金糸がサラサラとこぼれ落ちてはまた掬われる。
    さっきまで子供みたいに悪戯を仕掛ける顔をしていたのに今はもう子供をあやす母のように穏やかな表情を浮かべている。
    「お前の脚、固い」
    「そりゃあ元陸上選手だからね」
    「何年前の話だよ」
    英二の話し声がまるで子守唄になってゆっくりと睡魔を連れてくる。額にかかる前髪も後ろに撫で付けて英二の掌がアッシュの頭を撫でる。顔を見られるのがなんとなく恥ずかしく、寝返りを打つように体の向きを変える。それでもアッシュを撫でる手は変わらない。
    他人の膝枕で眠りこけようとしている今の姿は誰かに見せられたものではない。こんな格好誰にも見せられないし晒すことなどできない。
    英二以外には。
    英二はアッシュの子供っぽいわがままを笑うことなく受け止める。
    俺も大概ガキだなと半分眠った頭でぼんやりと思った。こんな姿でアッシュ・リンクスを名乗っても誰も信じないだろう。
    ふと思い付いたそれはアッシュにはひどく魅力的に思えた。
    アッシュ・リンクスだと誰にも気付かれず、ただのガキでいいから、ただのアスランとしてこうしていられたら。甘ったれた飼い猫でいることを許されるなら。
    アッシュが必死に生きるために積み上げた意地やプライド、身に付けた戦い方、そして銃。
    英二の前ではそのどれも必要ない。それはアッシュ・リンクスとして生きてきた数年を否定されたなどと思わない。それはただ、アッシュとして、アスランとして息をすることを受け入れてくれるということ。それがこんなにも心地よいことだと知ったのは英二と出会ってからだ。
    「アスラン」
    アッシュが捨てた、まだ何も知らなかった頃の自分を英二が呼ぶ。けれどその名前はちっとも捨てることなどできていなかったのだと思い知らされた。
    アスランと英二は彼を呼んだ。
    アッシュを、膝の上、猫のように身を丸めて頭を預ける彼を。
    アッシュが捨てたかったのは己の過去だった。英二はそれを掬い上げ、名前を呼ぶ。
    優しく優しく、幼子の頭を撫でるように。
    「良い夢を」
    英二がそう呟く頃にはアッシュの翡翠の瞳は瞼に隠れ、穏やかな寝息だけが聞こえていた。




    フワリと風が通る。
    その僅かな刺激に目が覚めた。
    気付けばまたソファーで寝ていたようで今度はしっかりと毛布が体にかかっていた。自分が枕にしていたのは英二の膝ではなくいつの間にかクッションに代わり彼の姿は見えない。
    部屋の中は薄明るく夜明け前だ。
    締め切っているはずの部屋になぜ風がと、辺りを見るとテラスに繋がるガラスドアが開いている。
    一瞬身構えたアッシュだがすぐそば、開けたドアの床に座り込んで壁に寄りかかる見知った後ろ姿が見えた。
    「この不用心……」
    一気に目が覚めたアッシュは文句の1つでも言ってやろうと英二に近付く。眉間にしわを寄せて、おいと声をかけるが当の本人は眠っていた。
    その手にはカメラが握られている。時間帯的にもまた夜明けを撮ろうとして寝てしまったのだろう。
    幼い寝顔にさっきまでの苛立ちが削がれたアッシュはため息をついてソファーに置いたままの毛布を持ってきて英二の肩にかけた。そしてため息をつきながらその隣に座り込む。
    危ないからと一応カメラも外す。寝ぼけてどこかにぶつければ悲しむのは英二だ。そっと首から外してしっかりと手で持つ。
    英二のそばに置かれた少し大きめの箱が目に入った。はまっていない蓋をずらすとそこにあったのは写真だった。アッシュは咄嗟に目を逸らす。
    偶然か、裏側だったので何が写っていたのかはわからない。しかし箱の中には他にもたくさんの写真が入っているようだった。
    しかしアッシュは蓋を閉じようとした手を止めた。
    アッシュにとって未だ写真は恐怖を呼び起こすものだった。自分に向けられるレンズと耳の奥にこびり付いた男たちの笑い声とともにシャッター音が鳴る。
    けれど英二が撮る写真はそれとは違うことをアッシュも頭では理解していた。リビングに飾られていた写真はアッシュを気遣ってか少しずつ数が減っているのをアッシュは気付いていた。アッシュが英二の写真を目にしたのはそのほんの数回くらいだ。
    それだけで英二が撮る写真がアッシュの知る写真とは別物だとわかった。だからこそ、英二が撮る写真をもっと見たいと思った。そう思えたのは英二のおかげだった。
    あの大きな黒い瞳が何を見て、あの穏やかで芯の通った心が何に動かされたのかを知りたい。英二がいる世界はどんな色をしているのか。
    アッシュを変えた英二の世界が彼の写真にあるような気がした。
    再び蓋をずらして中の写真を手に取る。
    怖かった。
    あるはずもない、過去の己が写っている気がして恐ろしかった。力が入った指にカメラの感触が強く伝わる。
    アッシュは意を決して写真を裏返した。


    そこにあったのは光だった。


    街並みからしてダウンタウンだ。だがそれはアッシュの知る街ではなかった。
    こんなにも色付いた街だっただろうか。
    アッシュの手がまた別の写真に伸びる。
    写っていたのはリンクスのメンバーだった。見慣れた顔が笑っている。カメラ目線でふざけていたり、誰かと話しているのか視線はこちらを向いていないが楽しげな表情を浮かべていたり。
    崩れかけた壁、ボロボロの建物や少年たちの姿。窓から見える空。陽に透ける青葉。走り回る犬たち。街行く人々。
    物寂しさを持ちながら決して冷たくない。夜の闇と朝の光が混ざったような、世界そのものだった。
    撮っているのは英二だから彼の姿はどこにもない。けれどそのどれにも彼はいた。
    英二のあたたかな空気に包まれた被写体が小さな紙の中で生きていた。それは現実で、しかし現実では捉えることができないぬくもりがあった。

    これが英二が見ている世界だった。

    気付けば日が昇っていた。
    眩しさに晒されながらアッシュは艶やかな黒髪を見つめた。朝の冷えた風が彼の髪を遊んで通り過ぎる。朝焼けに照らされる英二にアッシュはカメラを構えた。
    英二がこの闇と光の世界を撮ったのではなく、彼がそう写したから世界はあたたかなものだと思えた。
    英二はどうやらアッシュが生きる世界すら変えてしまった。

    カシャっとアッシュが世界を切り取った。
    見様見真似で撮ったのでうまく撮れたかはわからない。けれどアッシュは唐突になぜ英二が写真を撮るのか理解した。
    英二が写すのは美しいと思えるもの。彼が心動かされたものだと気付いた。


    『君たちのこと、撮らせてくれないかい』

    『ちょっと高いところから撮影したくてさ』

    『アッシュ見てよ、ここの庭園の花綺麗だね』

    『ここはこんなに素敵ですよって、伝えたいんだ』

    『僕はその夜明けを撮ってこの街に住むのを決めたんだ』


    それはどれも英二が愛したものだった。
    このカメラは、写真は英二の眼差しそのものだったのだ。
    アッシュは手に収まるカメラをそっと指の腹で撫でた。冷たいはずなのに何故か温かく感じた。


    「ん……、アッシュ……」
    目を覚ました英二は眠たそうに何度か瞬きをするとアッシュが自分に向けてカメラを構えていることに寝ぼけながら驚いていた。
    「あれ、僕寝てた」
    「ドア開けながら寝るんじゃねぇ。不用心だな」
    「もしかして僕の寝顔撮ったのかい」
    アッシュがカメラを持つことも、ましてや写真を撮ったことに驚いていた。アッシュが嫌うものを知っているからこそだ。
    「あんまりにも間抜け面してたから思わず撮っちまった」
    口が悪い割りにひどく穏やかなアッシュは朝焼けに照らされているせいもあって一際美しかった。満足そうな、何かを見つけて喜んでいるような。
    そんなアッシュに見つめられどうしてか恥ずかしさが込み上がってきた英二は照れ隠しに思わず視線をそらす。
    「は、恥ずかしいなー。こんなおじさん撮っても面白くないだろう 僕だって君のこと撮りたかったのに僕を先に撮るなんて。先越された気分だよ」
    ずるいなーと口にしつつそんなことは思っていなかった。ただ自分を見つめるアッシュの瞳がどうにも落ち着かなくて、そんな冗談を口にしないと何も話せない気がしたからだ。
    するとアッシュは慌てる英二に笑みを深めてさらりと言った。
    「いいよ。撮ってくれ」
    「…………え」
    英二は思わず気まずさを忘れてアッシュを振り返る。なんてことない、おはようとでも言うようにアッシュは今、撮っていいと言った。
    「あの、ずるいとか言ったけど全然……そんなんじゃなくて、軽く言ったことだから流してくれても……」
    「いいよ」
    「え……でもアッシュ、写真は……無理に撮りたいわけじゃないんだ」
    「無理してない。英二に、撮ってほしい」
    そっと差し出されたカメラを英二は呆然としながら受け取った。アッシュの瞳は光を受けて輝いていた。そこには今まで感じていた僅かな恐怖も嫌悪もない。真っ直ぐな少年の瞳だった。
    「本当に、いいの」
    「言ってるだろう。撮ってくれって。もう俺は撮りたくない」
    「そんなこと…… 撮りたい、ずっとずっと、君を撮りたかった。ああでも本当に 嫌じゃないかい 僕、アッシュにそんな思いさせるのは……」
    アッシュを撮れる嬉しさと無理強いをしているのではと心配する英二の様子にアッシュは我慢しきれず笑い出した。
    こんな風に笑ったのはいつぶりだろうか、アッシュは年相応に笑い声を上げて笑った。
    「そんなに百面相するなよ。言っただろう、英二に撮ってほしいって。写真、撮ってくれよ」
    英二は驚いてしばらく呆然としていたがやがてアッシュの言葉をやっと理解すると笑みを浮かべた。
    「もう怖くない」
    今度は落ち着いて、優しく問いかけた。
    「ああ、英二だから。怖くない」
    怖いことなんてない。それは英二の眼差しだから。それは英二の愛するものだから。
    愛しいと思えるものの一瞬を撮ったとき、それがアッシュにもわかったから。
    そこには恐怖はなかった。感じたのは英二が自分にくれたぬくもりだった。
    アッシュが本当に許してくれたことがわかると英二は僅かに浮かんだ涙を拭った。彼が恐れるものが今、1つ消え去ったことに。

    「そうだ、それならせっかくだし2人で写ろう」
    湿っぽさを拭って英二は急いで三脚を取り出した。アッシュを引っ張りソファーに座らせカメラのセルフタイマーを押す。


    「もっと寄ってアッシュ。見切れたらやだよ」

    「英二こそちゃんと前向けよ」


    そしてピッと音が鳴りシャッターが切られた。




    英二の家のリビングの壁には今まで以上に多くの写真が飾られるようになった。それはどこにでもある日常であったり、見逃してしまうようなワンシーンだったり、世界の様々な姿を映していた。
    リビングの棚の上、写真立てに入れられている写真は思い入れが特に強いものが並べられている。その中でも1番新しく1番真ん中に置かれた写真。
    その一枚の写真にあるのは愛だった。
    そこに写るのは嬉しそうな笑みを浮かべた黒髪の青年と、年相応に子供っぽい笑顔を見せる金髪の少年だった。
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