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    忘れ得ぬ、雪軒、A英など。支部から作品移動したもの有り。

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    A英/1枚の愛からシリーズまとめ下。
    支部に投稿していた、猫の瞳は宝石より尊い、塀の向こうで【A】【E】をまとめたものです。

    猫の瞳は宝石より尊い猫の瞳は宝石より尊い



    まるで金色の猫だ。
    その名前の通り、彼は山猫だった。



    恩人であり弟子とも言える奥村英二がはるか海を越えたあの大国で永住権を取得したのはもう数年前だ。
    彼が陸上選手としてスランプに陥ったときアメリカに連れて行ったのは気分転換になればと思ったからだ。スランプを脱する方法なんて自分にはわからない。けれど違った環境に行けばなにかあるのではと、我ながら考えなしの行動だ。
    それは結果として言えば彼に大きな転機をもたらしたらしい。何があったのか、何度聞いても「一目惚れです」と返ってくる。
    事実その通りなのだろうと本当に理解したのは彼がアメリカで働き出したと電話越しに報告されたときのことだった。



    伊部は長いフライトからようやく解放され詰まっていた息を吐き出す。まずはホテルに向かい荷物を置く。このままベッドに横になって一眠りしたいがそうなればしばらく起き上がれないのは想像に難くない。
    ベッドの誘惑を頭を振り払って追い出しカバン1つとなって身軽になると伊部はアメリカの街へ繰り出す。仕事関係でもう何度も訪れ見慣れた景色だった。英二がこの国に強く惹かれ始めてからは仕事以外でも訪れることが多くなった。
    タクシーを拾い都市部を少し離れると途端にビルはなくなり空が少しだけ広くなる。
    やがて小さな家が見えてくる。前に来たときと外観は変わることなく、まるで家主のようだと小さく笑みがこぼれる。伊部からすれば今の彼はそこまで子供には見えないが相変わらず若く見られて苦々しい思いをしているのだろうと。
    久々の再会に伊部の心は年甲斐もなく弾んでいた。拠点が違うためなかなか直接会う機会が少なく今回の訪問も久々だった。
    伊部はここを訪れるときのように、いつものように呼び鈴を鳴らした。事前に連絡をして英二がいる時間に訪問を合わせたのだ。
    するとガチャリとドアが開かれた。
    「英ちゃん、久しぶり……」
    迎え入れてくれた英二に向けたはずの笑顔は疑問と驚きで固まった。
    英二の背は成人男性として比較的平均的だ。伊部がこれから縮まなければ同じくらいだろうか。
    伊部の視線は当然真っ直ぐ向けば英二と合う。しかしドアの向こうにはあの大きな瞳はなかった。はてと視線を動かすと、やや下に見たこともないような子供がいた。非現実を目の前にしたときのような衝撃が伊部に走る。
    伊部の目に飛び込んできたのは眩い金色だった。日に焼けていない白い肌。人間なのだろうかと自分を疑ってしまうほどにその子供は美しかった。まるで人形のように美しさを定められているかのようだ。
    その表情や視線は鋭く、にこりともしない美貌はまるで宝石の刃のようで近付くことすら躊躇わせた。透き通ったグリーンの瞳が探るように射抜く。
    体は小さいのに圧倒される。まるで敵か味方かを判別しているようだった。長いような短いような審判の間、伊部は動けなかった。
    やがて検分が終わったのか、満足したのか子供の視線から威圧感が消える。途端に肩から力が抜けた。そしてようやく伊部は抱いていた疑問を口にした。
    「君は……」
    伊部がそう言いかけたとき、リビングの奥、階段に繋がるドアが開かれた。
    「伊部さん お久しぶりです。今回はわざわざありがとうございます。アッシュも伊部さんのお出迎えありがとね」
    現れた英二は日本語と英語を器用に使い分けて2人に話しかける。やっと見慣れた顔を見て伊部はほっと息をつく。
    伊部も英語は話せるが英二ほどネイティブではないし、特に伊部と英二が英語で会話する必要もないので彼らだけでの会話なら基本的に日本語だった。
    アッシュと呼ばれた子供は一見、ボーイッシュな少女に思えたがどうやら少年のようだった。簡単には触らせない野良猫のように警戒を身にまとっていたアッシュは英二の言葉に軽く頷くだけだった。だが明らかに雰囲気が柔らかなものとなっている。
    年もだいぶ離れているだろう2人の親密な様子に伊部はついそんな彼らに目を奪われていた。
    「伊部さん、紹介しますね。彼はアッシュ・リンクス。僕の友人です」
    「友人……」
    友人、という単語がこれほど奇妙に聞こえたこともなかった。いかにも正反対に見える2人の関係が『友人』というのはどうにも違和感が拭えなかった。というよりもどうすればこの少年と出会う機会がやってくるのか。
    相変わらずのほほんとした雰囲気の英二は伊部の驚きも気にせず、アッシュは英二に促され伊部に視線を向ける。じっとこちらを見上げ口を結ぶばかりで伊部と話す気はなさそうだった。伊部との間にある距離が彼の警戒を表していた。
    「アッシュ、この人が伊部さんだよ。僕がカメラマンになるきっかけをくれた人」
    伊部は条件反射のように軽く会釈してぎこちなくも笑みを作る。もはや日本人の性みたいなものだ。
    「えーっと、初めまして。カメラマンの伊部俊一だ。よろしくアッシュ」
    またしても無言を貫こうとしたアッシュだが、それは英二によって叶わなかった。
    「アッシュ、伊部さんにご挨拶は」
    英二はアッシュの顔を覗き込む。まるで挨拶できない子供をたしなめる親のようだった。
    英二のせっつく視線を受けてアッシュはいかにも渋々といった風に口を開く。
    「……どうも」
    「こ、こちらこそ」
    やっと出てきたのはその一言だった。そんなアッシュに英二は仕方ないなぁと苦笑いしながらもそれ以上彼に強いることをしなかった。
    「ちょっと無愛想ですけどすごく優しい子なんです。伊部さんと初めて会うから緊張してるんですよ」
    日本語だったためアッシュは何を話しているんだと視線で訴える。この只者ではない少年をまさに子供扱いする英二も只者ではないだろう。
    アッシュに圧倒されるせいか妙な緊張を感じながら伊部はそっとアッシュを伺い見た。あまりジロジロ見るとまたあの刺すような瞳を受けられそうだったが彼の意識はもう伊部には向いておらず、英二に文句を言っているところだった。
    英二との話が終わったのかアッシュは伊部の横を通り抜けて玄関のドアを開いた。
    「気を付けてねー」
    英二の声を背にアッシュはあっという間にドアの向こうに消える。なんの返事がないことを英二は気にした様子はなく、あれが普通なのだろうか。
    「どうかしたんですか」
    たった数分のことだったがアッシュという少年との対面は衝撃的だった。ぼんやりとした伊部に英二は首をかしげる。
    「いやぁ……びっくりして。なんというか、迫力のある子だね」
    「僕も初めて会ったときはそんな感じでしたよ。でも結構子供っぽいですけどね」
    「友人って、一体どこで会ったんだい。知り合いのお子さんとか」
    伊部の中であのアッシュという少年と英二がどうにも結び付かなかった。友人と呼ぶ関係になるまでの経緯ももちろんわからない。
    英二は少しだけ考えるそぶりをする。それは思い出しているのではなく、何を伝えるべきかを選んでいるようだった。
    「いえ、以前彼に助けられたことがあるんです。取材の関係もあって会うことも多くて、それで友達になったんです」
    「助けられたって、英ちゃんまた危ない目に遭って……」
    英二は自分の発言にしまったと口を押さえるがもう遅かった。
    日本が絶対安全といえるわけでもないが、この国と比べればまだ安全といえる。アメリカに暮らすことになったとき口酸っぱく英二には危ない所に行ったり事件に巻き込まれないよう用心することを言ってきたのだが、不可抗力なときもあるだろう。まだ大きな事件に巻き込まれることはなかったが度々トラブルはあったようだった。
    少し前も連続殺人犯が潜んでいるダウンタウンに、しかも夜中に歩き回ってチンピラに絡まれ怪我をした。理由があってのことだったが伊部はその話を聞いて肝を冷やした。
    また何か危ない目に遭ったのかと問い詰めようとするが、説教を逃れたい英二は伊部を遮ってわざと慌てた様子で二階に向かった。
    「い、伊部さん 僕機材のチェックしてくるんでゆっくりコーヒー飲んでてください」
    「こら英ちゃん」
    ドタドタと階段を駆け上がる音を聞きながら伊部はやれやれとため息をついた。先ほどの件はまた後日聞こうと伊部は慣れた様子でキッチンに向かう。
    来客用のマブカップに手を伸ばすと、英二がいつも使っているものの横に来客用ではない、新しいカップが並んでいた。




    白を基調とした空間にいくつものパネルが運び込まれる。照明の位置やパネルの順番、指示を飛ばす声が聞こえてくる。
    壁に飾られているのは英二の写真だ。大きなものや小さなものまで壁に掛けられている。
    「順調だね」
    「なんとか。でもあと何点か増やそうかと思ってて。伊部さんが手伝ってくれたおかげですよ」
    「いや、大したことはしてないよ」
    今回伊部が来たのは英二の写真展での手伝いのためだった。英二は既に何度か個展を開いていてそのどれもが盛況だった。伊部も仕事の都合がつけば個人的な手伝いとして参加している。英二は師としてのアドバイスをもらったり頼ることも何度かあった。
    「今回の個展はダウンタウンがメインみたいだね。例のストリートキッドの取材かい」
    「はい。彼らのおかげでいい写真が撮れました」
    「話を聞いたときは心配でたまらなかったけどね。取材前に危ない目に遭うし」
    「それはもういいじゃないですか……」
    「怪我までして何言ってるんだい」
    伊部の説教を思い出したのか英二は苦笑いして視線を逸らす。奥村英二という人間は自ら進んでトラブルを起こすというよりも何かと引き寄せる体質のようだ。
    「マックスにも同じこと言われましたよそれ。でも僕にとってはアッシュと出会えたきっかけですから。そんなに悪いことではなかったんですよ」
    詳しい話を聞くとどうやらそのとき英二を助けたのがアッシュだという。彼がストリートキッドのボスと聞かされたときはもちろん驚いたが、同時に納得した。
    あの圧倒される気配をただの子供が持っている方が不思議だ。
    英二が自分が過去に撮影したストリートキッドに影響されて取材をしたというのは知っていた。伊部のときは何事もなくその1回で仕事は終わったのだが、英二はどうやら今でもダウンタウンに通っているという。
    心配でたまらないし正直なところやめてほしいが英二は子供ではない。あまり口出しするのもどうかと思い伊部はその件に関して言い出すことができなかった。
    けれど今回の個展の写真も英二の言う通り良い写真なのは伊部も同じ気持ちだった。彼がよく撮る夜明けや空の写真はもちろん、少年たちの姿ともに街そのものを映し出している。
    そして伊部は展示の手伝いをしながらふと感じたことがあった。飾られる写真は変わらず英二の写真だった。だが何かが違った。それはプロとしての伊部の感性が読み取ったものだ。
    「そういえば英ちゃんの写真、なんか雰囲気変わったね」
    「え」
    今度は英二が驚いた顔をして伊部を振り向いた。
    「もしかして下手になりましたか……」
    「違う違う、そうじゃなくて。どれもよく撮れてるよ。でも何枚か初めて見る感じがしてね。もちろんその写真もよく取れてるからそんな顔しないで」
    伊部の言葉に英二は安堵した表情で息を吐いた。
    「変わったって、どんな風にですか」
    「うーん……そうだなぁ。言葉にすると難しいな。強いて言うならなんだろう、手紙みたい、かな」
    「手紙……ですか」
    伊部の答えに英二は首をひねる。伊部自身もしっくりくる答えではなかったのでそれは仕方なかった。
    「誰かを思って、その人に伝えたい気持ちが伝わるような。写真ってそもそもそういうものだけど、英ちゃんの写真は『誰か』じゃなくて手紙みたいに送る相手が決まってるような気がして。そんな直向きさが加わってますます魅力的に感じたんだ」
    英二の写真は寂しさや優しさが同時にあってそれを彼のあたたかな眼差しが包み込んだような世界だった。英二がどう世界を見つめているか、感じ取っているのか写真に表れる。
    写真を撮る理由は人それぞれだ。彼がアメリカという世界を撮るのは一目惚れがきっかけなのだろうが撮り続けるその理由は彼にしかわからない。撮り始めたばかりの頃の彼の写真は辺りを見回して何かを探しているようだった。世界を写しながら、それでもまだ探していた。
    今日英二の写真の変化を感じたとき、そんな昔のことを思い出した。まるで、あの時探していたものがやっと見つかったのかと思えた。
    「そう、ですね。手紙……確かにそうかもしれません」
    伊部の言葉を噛み砕き、ゆっくりと理解した英二はどこか納得したように、何かに気付けたかのように頷いた。その表情はひどく穏やかで嬉しそうだった。
    「何か心当たりでもあるのかい」
    それは好奇心だった。彼の写真を変えたのがなんなのか、そしてこんな表情をする英二を見たことがなかった伊部は知りたいという気持ちを抑えられなかった。
    「ええ、やっと見つけたんです」
    英二が語ったのはそれだけだった。その顔はあのときと同じだった。アメリカに、このニューヨークの街に一目惚れしたときと。
    いつの間にか随分と大人になったな。
    高校生の頃から彼を知る身としては少し寂しさが生まれる。弟のように気にかけ、恩人として一種の憧れも抱いた彼はこの街でまた出会ったのだろう。
    世界を変えてしまうような存在に。


    個展に向けての準備は順調に進んだ。伊部は滞在中、英二の個展の準備を手伝ったりマックスと近状を報告しあったりして過ごした。相変わらずマックスとジェシカの仲は難しいようだった。英二とともに誘われた食事はあいも変わらず騒がしいものとなった。
    英二のオフィスにも顔を出すこともあった。今では数人のアシスタントが英二の仕事を支えている。伊部とも英二関係で親交があり将来カメラマンを目指している彼らとは何かと話すことが多かった。
    今日オフィスを訪れたのは機材を運ぶためだった。本当ならアシスタントに自宅に運んでもらうはずだったのだが、この前の食事でそのことを話した英二にジェシカがマックスに運ばせればいいと言い出したのだ。
    「なんで俺なんだよ」
    「英二は今個展で忙しいでしょうが。アシスタントの子だって他にもやることあるのよ。あんたも役に立ちなさいよ」
    「ジェ、ジェシカ大丈夫だよ。これも仕事だし……」
    「あら英二ったら相変わらず遠慮して。気にせず使えばいいのよ」
    素直で気遣いができる英二をジェシカはたいそう可愛がっている。そしてこの場にジェシカに逆らえるものはいなかった。
    「なら俺も手伝うよ。機材運ぶならその方がいいだろうし」
    「見なさい。俊一を見習ったらどうかしら」
    「わーったよ。まったく……」
    その後もぶつぶつと文句を言うマックスに伊部はそっと声を落とす。英二とジェシカは個展について話をしている。
    「マックス、車を貸してくれれば1人でも大丈夫だけど……」
    「いや違うんだ。英二の手伝いがいやってわけじゃない。英二の家に行くのが問題なんだ」
    「なんだ。その問題って」
    「……俊一、お前確かこっちに来たときに英二の家に寄ったんだよな」
    「ああ、だけどそれが」
    「…………いや、やっぱりなんでもない。車ぐらい出せるし機材の方はお前に任せた。素人が触るよりいいだろう」
    そうは言ったもののマックスの表情はどこか煮え切らずそんな彼に伊部は首をひねるしかなかった。
    英二は最後まで申し訳なさそうにしていたがジェシカに押し切られ、2人に頼むことになった。英二に言われた機材を運び出しマックスの車で彼の家に向かう。
    静かなドライブに伊部ははてとまたしても首を傾げた。マックスが運転するとき必ず聞こえてくる歌が聞こえてこない。同じところしか覚えていないらしいので壊れたスピーカーのように繰り返されるフレーズはもうすっかり覚えてしまった。
    「どうかしたのかマックス」
    いつもと違う様子に思わず声をかけてしまう。マックスはどうしてか苦虫を噛み潰したような顔をして道路を睨む。
    「嫌な予感ってのは当たるもんだよな」
    「何の話だ」
    マックスがそれに答える前に車は英二の家の前で止まった。伊部はマックスの言葉が気になったがとりあえず機材を運ぶため車を降りる。
    今回の滞在で英二の家に来るのは2度目だ。ドアの前に立つとアッシュの顔が浮かんだ。また来ているのだろうか。
    マックスがチャイムを鳴らす。少し間が空いて施錠が外される音がした。
    そして開かれたドアの向こうにはアッシュが立っていた。しかし今回は前回のような検分はないようだ。しかし気のせいかマックスを睨んだ気がしたが……。
    「また来たのかよおっさん」
    「相変わらず口が悪いなクソガキ」
    やはり気のせいではなかったようだ。
    どうやらマックスとアッシュは顔見知りらしい。初対面の会話ではなかったが親しい間柄でもない会話だった。
    「やあ、アッシュ。久しぶりだけど……覚えてるかな」
    そこまで前に会ったわけではないが時間にしてみればたった数分だった出会いのため彼に忘れられていないか不安になる。マックスの後ろから顔を出した伊部を見てアッシュは短く「ああ」とだけ返事をした。
    よかったーと胸をなでおろす伊部と対称にマックスはそんな2人の短いやり取りに目を剥いた。
    「なんで俊一にはその態度で俺にはおっさんなんだ」
    「日頃の行いのせいなんじゃねぇの」
    「こんのクソガキ……」
    ハッと小馬鹿にした笑いにマックスはギリギリと歯軋りする。大人気ない。
    「マックス、子供相手にムキになるなよ」
    「こんな生意気なガキがいてたまるか こいつがここに入り浸ってるせいでジェシカと喧嘩したときの避難所が減っちまった」
    「マックス……」
    それはお前がジェシカに余計なことを言わなければ済む話では、とは言えなかった。
    「そんな理由で英二の家に来るなよ。用が済んだら帰れよ」
    「その台詞そのままお前に返すぞ。明らかに俺よりもこの家に入り浸ってるくせによく言うぜ」
    「俺はいいんだよ」
    「なんだその理屈は」
    伊部がいがみ合う2人にハラハラしているとやっと3人が待ち望んだ人物が部屋に入ってきた。
    「わあ、みんな揃ってるね」
    「英二」
    すると今の今までマックスに喧嘩を売っていたとは思えないほどの変わり身でアッシュは英二のもとへ走った。一瞬で置いていかれた伊部としまったという顔をしたマックスを尻目に英二の腰に飛びついて彼の背後に回る。
    「英二、おっさんがまたいじめる」
    「なっ 誤解だ英二」
    ひと睨みで相手の動きを止めてしまうほど眼光鋭い少年が飼い主に甘える家猫になった瞬間だった。
    「マックス、まだあのときのこと引きずってるの あれはアッシュがびっくりしただけだよ。ね」
    英二は腰に張り付くアッシュを覗き込む。自分の外見を理解した上でフルに使いこなす美少年の顔をしたアッシュがこくりと頷いた。
    しかし英二の視線がマックスに戻った途端ニヤリと悪魔の笑みを浮かべる。
    か、確信犯だ……
    事情を知らない伊部でさえマックスに同情したくなった。
    「連絡もなくいきなり家に来たら誰だって驚くよ」
    「ドア開けた瞬間ガキが銃向けてきても誰だって驚くだろうが」
    「アッシュは強盗かと思ってしたことだったんだよ。マックスだっていつも僕に緊急時は躊躇うなって言ってるじゃないか」
    「初対面ならともかく一回会ったことあるよな」
    「いちいち顔確認してから構えてどうすんだよ」
    「マックス、顔忘れられてなくてよかったねー」
    どうやらマックスが英二の家に来たがらないのはアッシュが原因だったようだ。おそらくジェシカとの喧嘩で追い出されたマックスが避難所の1つとして英二の家に行ったのだろう。そして彼のことだ、英二の家のドアをノックもせずに開けてアッシュに拳銃を突きつけられた、というところだろうか。
    伊部は自分が忘れられていなくてよかったと先ほどよりも安心した。



    アッシュという少年は英二にはたいそう懐いているようだった。というよりも英二にしか、と言った方が正しい。
    ストリートキッドのボスと呼ばれるだけの気迫もあるが実際にダウンタウンでの彼の姿を見ない限りはそれはまだ理解できないだろうと伊部は思った。伊部が見るアッシュは常に英二と一緒だったからだ。
    英二の隣にいるとき、アッシュはただの子供だった。だからこそ、こんな子供が危険な街を生き抜き部下を従えているという事実が伊部にとってはまだ遠くにある非現実に思えた。
    だが一度だけ、彼が生傷をたずさえて家に転がり込んできたところを見た。英二はそれを黙って、慣れた手付きで手当てする。
    硝煙と血の匂い。
    それは紛れもなくアッシュの現実だった。


    個展の開催が間近に迫った頃、英二の作業も忙しくなり家を空ける時間が多くなる。伊部も手伝えることは手を貸したがやはりメインで動くのは英二だ。展示の指示や確認作業などやることは多い。
    「アッシュちゃんと起きれたかな……」
    そんな呟きが聞こえたのは短い休憩時間のことだった。個展が開かれるビルの一室で頬杖をつき窓の外を眺める英二の呟きを伊部が拾った。
    ついに個展の開催が明日に迫った。日もすっかり沈み辺りはビルや看板の光で昼間とは違った明るさに溢れていた。
    「アッシュが心配かい」
    「え、そうですね。彼、本当に寝起きが最悪なので。アッシュを起こすみんなが心配です」
    親交のあるメンバーを心配する英二は笑みを浮かべるがすぐにそれは消えてしまう。
    「……彼を子供だって言ったけど子供なのは僕の方なんです。最近はずっと一緒にいたので会えないとこんなに寂しいなんて知りませんでした」
    「アッシュはこの展示会には来ないの」
    「来て欲しいとは言ったんですけど……自分は行けないって。迷惑がかかるからって……」
    仕方ないと笑う英二のその表情は寂しさが滲んでいた。伊部はアッシュの気持ちもわからなくはなかった。彼はきっと英二を気遣っているのだ。
    一見してアッシュがストーリーキッドのボスだと気付ける人間はいないだろう。アッシュが展示会に来たとしてもその美貌で注目を集めるにせよ、少年1人が観覧に来て問題が起こることなどない。
    けれどそれでも来られないのだろう。ダウンタウンの裏で生きる彼が大っぴらに表の世界に立ち入ることを躊躇っているのだと容易に想像がついた。
    伊部もかつてアッシュと同じ立場の少年たちを取材した。彼らの現状は少なからず理解しているつもりだった。
    「アッシュが僕に気を遣っているのはわかってるんです。だから彼の気持ちを押し退けてまで僕の我儘を通すなんてできない。でも、彼が我慢することなんて何もないのに」
    英二はポツリポツリと話し出した。彼が負わなくていい負い目をいつも背負っていることを。彼が望んで苦しんでいるわけではないと。あの悪態の裏にどれだけ優しさが隠れているかを。そんな彼にもう何かを強いることをさせたくないと。自分を責めてばかりのあの子を1人にしたくないことを。
    伊部はアッシュの過去を知らない。英二も、語ろうとはしなかった。けれど英二が見てきたアッシュは孤独に満ちていた。そして英二がどれだけアッシュを思っているか。それだけであの少年の心の一片でも見えた気がする。
    「彼は以前、僕と生きる世界が違うと言ったんです。僕は違うって言ったんですけど……」
    「英ちゃんの言う通り、アッシュは優しい子なんだね」
    伊部は英二があのときいった言葉の意味をようやく理解した。

    『ちょっと無愛想ですけどすごく優しい子なんです』

    確かに、英二が言った通りアッシュは無愛想で優しい子供だった。
    伊部の言葉に英二はグッと涙をこらえた。彼もアッシュという少年の幸せをただひたすらに願う優しい大人だった。
    どれほど強い絆で結ばれているのだろうかと伊部は、こんなにも相手を思いやる人間を知らなかった。悲しいくらいに思い合い、なのにそこには苦しみが纏わり付いている。彼らを縛るものが社会や世間ならそれを壊してやりたい。
    「彼が何者でも関係ないんです。他のことなんて、どうでもいいんです。僕らは友達で、僕にとってアッシュより大切なものはないんだって。僕が一番幸せに笑っててほしいのはアッシュなんだって。僕にはそれだけでいいんです」
    英二は机に突っ伏してしまいやがて夜遅くまで続いた作業のせいか、そのまま寝息を立て始めた。
    伊部はすぐ隣の仮眠室から毛布を取り出し英二の肩に掛けた。休憩室を出ると壁にもたれかかっているマックスが天井を睨んでいる。
    「マックス」
    「……行くぞ」
    伊部が何か言う前にマックスは足早に廊下を進む。彼が、いや自分たちがこれからすることを伊部もわかっていた。
    「君を選んだジェシカは流石だな」
    「そこは俺を褒めろよ」







    ダウンタウンに来たのは何年振りだろうか。だがこんな夜更けの危険な時間にこの街を訪れたのは初めてだった。
    マックスの先導である地下のバーに入る。
    入ってきた人間がこの街のものではないとわかると店中の視線がマックスと伊部を突き刺した。その視線はどれも少年だったが1人として勝てそうにない。萎縮しそうな気持ちを奮い立たせ伊部はマックスに遅れないように必死に足を動かした。
    店の奥、カウンターに一等輝く金髪が見える。しかしそこにたどり着く前に数人の少年たちが伊部たちの前に立ち塞がる。
    「ここに何の用だ」
    「おっさんどもが来るようなところじゃねぇぞ」
    ビリビリとした空気に伊部は息を飲む。当然こちらは丸腰だ。アッシュのグループだとしてもこちらが何か気に触ることをすれば彼らは容赦しないだろう。
    マックスは立ち塞がる少年たちや周りで自分たちの動きを見張る少年たちなど目にもくれず、振り返ることすらしない彼らのボスを捉えていた。
    「そこのクソガキに用があるんだ。お前だよ、アッシュ・リンクス」
    その瞬間、彼らの手に銃やナイフが握られた。殺気を隠すこともしない彼らは今にも襲いかかってきそうな勢いで睨みつける。
    「マ、マックス…… 言い方ってもんがあるだろうが……」
    「何言ってやがる。てめぇのダチ泣かせた野郎にそんな気遣いしてやるほど俺は優しくねぇ」
    マックスの言葉に反応したのは2人を取り囲んだ少年たちだけではなかった。
    アッシュの友人、その言葉が示す人物を彼らは1人しか知らない。動揺に似た僅かな戸惑いがメンバーに広がる。

    「おっさん」

    静かにざわつく店の中が一瞬で静まり返る。
    伊部とマックスだけでなく少年たちも声の主を振り返る。
    カウンターに背中を預けアッシュがこちらを見ていた。英二の家で見る彼ではない。そこにいたのは部下を束ねるボスがいた。
    「ここがどこだかわかってんのか。あんまり騒いでると永遠に黙る羽目になるぞ」
    伊部はこのときようやく、ストーリーキッドのボス、アッシュ・リンクスと対面した。
    近付けばその牙に、爪に切り裂かれる。
    まるで金色の猫だ。
    その名前の通り、彼は山猫だった。
    だからこそ、伊部は理解した。
    何故なら伊部にとってのアッシュは、いつでも英二とともにいたからだ。

    そんなにも分厚い毛皮を被らねばならないのかと。そんなにも牙と爪を折ることは許されないのかと。
    そして英二はそんな運命から、必死に彼を救おうとしていることを、痛いほどに理解してしまった。
    硝煙と血の、あの匂いがふと蘇った。
    消毒液の匂いと彼を包むあたたかなひだまりと、そして飾られた2人の写真を思い出した。
    果たして彼らを縛るのはなんなのか、伊部にはもうわからなかった。望んで望まれてもまだ届かない。
    自分にはきっと彼は救えない。彼を救うのは英二なのだから。
    ならば、英二を助けるのは自分の役目だ。
    伊部は竦んでいた足を踏み出す。マックスの前に出て、アッシュと正面に向き合う。
    近付く伊部に少年たちが動こうとするがアッシュはそれを手で制す。
    出会ったとき、この翡翠の瞳を真っ直ぐに見ることが難しかった。しかし今は何の恐れもない。
    彼は英二の言う通り『優しい子供』だ。
    「アッシュ、英ちゃんは俺の恩人なんだ」
    突然の話にアッシュは眉をひそめる。無理もない。
    「だから君には英ちゃんと一緒にいてほしいんだ」
    「……何が言いたい」
    「英二の写真を見に行ってやってくれないか」
    個展の話は英二から聞いていたはずだ。アッシュは僅かに目を見開く。伊部は視線を逸らすことなくアッシュを待つ。アッシュは何かを耐えるように、眉間にしわを寄せた。
    するとそばにいた1人の少年に目で合図する。それを受け頷いた少年がメンバーに店を出るように告げた。彼らは誰一人言葉を発さずドアの向こうに去っていく。
    やがて店の中にはアッシュと伊部とマックスだけが取り残された。
    「イベさん、あんた俺が誰か知ってるか」
    「もちろん」
    「英二を恩人だと言ったな。ならどうして俺みたいなのが英二のそばをうろついてるのを黙ってる」
    まるで、自分は英二のそばにいてはいけないと言っているようだった。
    街のダニ。
    彼は言った。
    「俺はあいつみたいに綺麗に生きられない。英二の、家に行くことだってやめるべきなんだ」

    「これ以上、英二の世界を汚せない」

    沈黙が降りる。
    重々しい、沈黙。
    だがそれを破ったのは伊部だった。
    「君の過去を」
    アッシュの肩が跳ねる。本当に小さくだが、まるで何かに怯えているようだった。
    それでも構わず伊部は続けた。
    「君に何があって今ここにいるかはわからない。けど君が誰かなのかは俺にもわかる」
    「だから、俺は……」
    アッシュは苦しげに口を開いた。自分の正体を告げるために。
    しかしそれはまたしても遮られる。


    「君は、奥村英二の『友人』だ」


    顔を上げたアッシュは呆然として目を丸くした。英二の言う通り、子供らしい。
    「英ちゃんは俺に君を紹介したとき『友人』と言った。だから君がストリートキッドのボスだなんて知らないなぁ」
    我ながら強引だなと思いながら笑ってしまう。きっとマックスも笑っていることだろう。
    「友人の活躍を見に行くのに理由がいるかい 奥村英二の友人のアッシュとして、彼の応援に行ってやってくれないかな」
    アッシュは何か言おうとするが、躊躇いがちにまた口を閉じてしまう。すると黙っていたマックスがニヤリとしながら身を乗り出す。
    「お前が来ないって落ち込んでるんだ。責任とって行ってやれよ」
    いつもは大人気ないマックスもこんなときばかりは父親の顔をしていた。どうしようもない息子の背中を押してやるようだった。
    「それとも行かないって見栄張っといて今更行くのが怖いのか あーあー、今頃英二は1人寂しく泣いてんだろうなぁ。こんなクソガキの見栄に泣かされて。俺が代わりに行って……」
    「ふざけんなおっさん 英二に変なことしやがったらあんたの嫁に浮気の証拠写真送りつけるぞ」
    「馬鹿野郎 そんなことするかクソガキ あと浮気なんてしてねぇぞ俺は」
    大人気ないマックスの挑発に食いついたアッシュの反撃にまたマックスが食いつく。どこかで見たことがある光景だ。
    全く騒がしい喧嘩だ。英二に、見せてやりたいくらいだ。
    「それじゃあ行こうか」
    「……まさか今からかよ。個展は明日からじゃ……」
    「何だよ。行かねぇって言ってた割にしっかりとスケジュール把握してんじゃねぇか」
    「っ 写真楽しみにしてろよおっさん」
    「だからそれやめろ」
    すっかりといつもの調子を取り戻したアッシュに伊部はやれやれと肩をすくめる。
    「アッシュ、英ちゃんが待ってるよ」
    するとピタリと動きを止めてぎこちなく伊部を振り返る。
    「……泣いたのか、あいつ……」
    「君が行けばすぐ泣き止むさ」
    「……わかった。行くよ」
    アッシュの行動理由はたった1人だ。



    本来ならもうビルも閉まっている時間だった。今回の個展がマックスの所属する雑誌社がスポンサーのおかげで裏口から入れることになった。
    アッシュは顔には出ていないがやはりどこか落ち着かない様子だった。彼にとってここは全く未知の世界だ。
    「ほら、ここだ」
    マックスが指すとアッシュはゆっくりと立ち止まった。
    「明日から……というかもう今日か。今日から始まるから準備ももう終わってる。喜べクソガキ。お前が一番乗りだ」
    マックスのからかいはもうアッシュには届いていなかった。恐る恐る、展示場に足を踏み込む。彼がずっと躊躇い続けた境界だ。
    「いいのか……俺が……」
    「英ちゃんは君に来てほしいって言ってたんだ。見せたいものがここにたくさんあるんだ。アッシュ、君が見ないでどうするんだい」
    それは初めて見るアッシュの表情だった。不安だった。
    やがてアッシュは意を決し進み始めた。彼の背を押したのはきっと英二だ。
    アッシュはゆっくりと展示を見て回った。伊部とマックスは少し離れたところからアッシュを見守る。
    ダウンタウンの街並みが多く彼には見慣れた場所も多かっただろう。しかしアッシュはまるで生まれて初めて見るかのように写真に魅入っていた。丁寧に、英二の世界をその目に焼き付けるように。
    やがて最後の1枚の前に辿り着く。
    それはカメラマン奥村英二が最も撮り、彼の代名詞とも言える夜明けの空の写真だった。
    彼ほど美しく鮮やかな夜明けを撮るカメラマンを伊部は知らない。
    一際大きなパネルでまるで窓のように壁に広がる空をアッシュは翡翠の瞳でじっと見つめた。
    「あ……」
    彼が小さな声を上げたのはパネルの下、この写真のタイトルが貼られているのを見つけたときだった。
    「これ……」
    「いい写真だよな。なぁ俊一」
    「ああ、英ちゃんらしいよ」
    この展示で最も大きな写真。それは英二が愛した夜明けだ。そしてそのタイトルは。


    『私の親愛なる友人へ』


    「あっ マックス、伊部さん」
    静まり返った展示場に1人の声が通る。
    「ここにいたんだ。起きたらこんな夜中でびっくりしましたよ。マックス、ここで待ってろってメールするならもう少し理由を書いて……」
    まだ少し眠いのか目をこすりながら伊部とマックスのもとへ歩く英二は眼鏡をかけ直し、やっともう1人の少年がいることに気付いた。
    「アッシュ……」
    信じられないと言わんばかりに見開かれた目はそれでもしっかりとアッシュを写す。アッシュは気まずそうに視線を彷徨わせる。
    そんなアッシュに英二はダッと駆け出す。
    「アッシュ」
    嬉しくてたまらない。そんな笑顔を見せて英二がアッシュに飛びついて抱き締める。いくら英二が細くても身長差のあるアッシュは少し仰け反りながらも英二の抱擁を受け止めた。
    「え、英二……」
    写真のために取り付けられたライトが赤くなるアッシュを照らす。
    「アッシュだ 来てくれたんだね 嬉しいよ、ありがとう」
    抱擁を解き、英二はアッシュの顔を覗き込む。まるで子供みたいにはしゃいでいる。
    「勝手に見てた……悪りぃ」
    「何言ってるんだい。僕は、君に来てほしかったんだ。ありがとうアッシュ」
    英二またぎゅっとアッシュを抱き締める。英二の喜びように驚いているアッシュはされるがままだ。しかしニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべるマックスに気付くとハッと我に返って英二の体を押し返す。
    「マックス……」
    「ガキだな」
    伊部がたしなめるが聞いていない。そこでようやく英二はマックスと伊部に視線を向けた。
    「2人が連れてきてくれたんですか」
    「こいつが来たくて来たくて仕方ないって言ったからな」
    「おい、おっさん……」
    「いいな2人とも。僕もアッシュと展示回りたかったのに……。そうだアッシュ もう1回僕と見てよ 今ならカメラマンの解説付きだ」
    「わかったよ。いい加減落ち着けって」
    「だってアッシュが来てくれて嬉しいんだから仕方ないよ」
    アッシュの手を引いて英二は道順を逆走していく。それに引っ張られるアッシュの顔は見えなかったが、その手はしっかりと繋がれていた。


    そうか、彼だったんだね英ちゃん。
    君がずっと探していたのは、やっと見つけたのは。






    伊部が帰国する日がやってきた。
    帰る前に英二の家に立ち寄るとすっかりと見慣れた金髪が出迎えてくれた。
    「この前来たばっかりな気がするよ。あっという間だなぁ」
    「今度は伊部さんの個展手伝いに行きますよ」
    「ははは、そのときはよろしくね」
    英二がキッチンでお茶を入れているとアッシュが音もなく伊部の向かいに椅子に座った。
    「なあイベさん昔、英二の写真撮ってたんだろ」
    「ん ああ、英ちゃんが選手だった頃の写真かな。そうだよ。その写真のおかげでプロになるきっかけができたんだ」
    伊部が英二を恩人と呼ぶのはその出来事があったからだ。もう10年近く前のことだが伊部にとって色褪せることのない思い出だ。
    「……その写真、見せてほしいんだけど」
    短い期間だったが、このとき1番彼を年相応に感じた瞬間だった。そしてこの山猫がやっと認めてくれたような気がした。
    「ああいいよ。俺にとってはお守りみたいなものだからその写真だけは持ち歩いてるんだ」
    伊部は財布から1枚の写真を取り出す。差し出された写真を受け取りアッシュは一瞬、躊躇うそぶりを見せた。手に取り、そっと覗き込むように写真を見る。まるで怖がっているようだった。
    けれどそこに写るものを見た瞬間、翡翠色の瞳が輝いた。
    空を飛び、バーを越える瞬間。ふわりとした髪が青空をバックに広がる。
    その横顔には空を飛ぶ喜びに、微かな笑みが浮かぶ。それは自由な鳥のように宙を舞っていた。
    「これが英二なのか……」
    1枚の写真に写る英二は今よりもずっと若いが、その瞳は変わらず澄んでいた。
    「今の君より少しだけ年上くらいかな」
    「あんま変わらないな」
    「……英ちゃんには言ってやらないでくれ」
    さすがにそこまで幼く見えないと思うが……。日本人以外から見ればそういうものかもしれない。
    「もし、よかったらまたアメリカに来たときに英ちゃんの写真持ってこようか」
    「いいのか」
    次はいつになるかわからないがアッシュの感動っぷりに伊部は微笑ましくなった。予想よりもアッシュの反応が大きく、伊部はもちろんと頷いた。
    伊部の了解に機嫌が良くなったのか、アッシュが僅かに微笑んだ。もちろん、英二の写真を見て、だが。飽きもせず熱心に写真を眺めるアッシュに伊部はつい、思ったことを言ってしまった。
    「アッシュは本当に英ちゃんのことが好きなんだね」
    英二にだけ見せる顔や彼だけに心を許しているのを見てきた伊部からすればそんなことは随分前から、それこと出会ったときから感じていることだった。半ば当たり前の認識だったのだ。
    伊部がそう言うとアッシュの動きが止まる。先ほどまで嬉しそうに浮かべていた笑みは無くなり、思考が止まってしまったかのように口をポカンと開ける。そして数秒後、椅子を倒す勢いで立ち上がった。激しい音に伊部が驚く。
    アッシュは両手をテーブルについて顔をうつむかせている。伊部はバクバクと忙しい心臓を押さえてアッシュを見上げるがその表情は見えない。
    「アッシュ どうし……」
    キッチンから顔を覗かせた英二がアッシュに近付こうとすると、目にも留まらぬ速さでアッシュは家を飛び出していった。
    「…………ん」
    英二は首を傾げ、伊部は何が起きたのかいまだにわかっていない。机の上には英二の写真が取り残されていた。
    「どうかしたんですか」
    「いや……もしかして何か怒らせるようなことしたのかな……」
    どう考えても直前の自分の発言が原因だろう。しかしどうしてアッシュが怒り出したのかわからない。子供扱いしたと思われたのだろうか。
    伊部が青い顔をして頭を抱えていると英二は首を横に振る。
    「怒ってないですよ」
    「え、でもあんな勢いで出て行ったし……」
    「あれは照れてましたよ、アッシュ」
    「……照れてた……」
    「はい。あれ、見えませんでした アッシュって肌が白くて照れて赤くなるとすごいわかりやすいんですよ。さっきなんか耳どころか首まで赤くなってましたよ」
    英二はアッシュが出て行った後を見送っている。すでに姿は見えないが。
    「あんなに照れたところ見たことないですよ。何の話ししてたんですか」
    「何の話って……」


    『アッシュは本当に英ちゃんのことが好きなんだね』


    伊部は少年が去っていったドアに目を向けた。走り去っていく後ろ姿すら見えなかったが、伊部には彼が今も顔を赤くして走り続けている姿が目に浮かんだ。
    そのとき伊部は人の心を覗き見したような罪悪感と、かの少年の想いをひっそりと応援しようという決意が生まれた。
    「うーん……がんばれアッシュ」
    「え、何の話ですか」
    1人置いていかれた英二は首をかしげる。







    「そういえば英ちゃん、あのときの個展にアッシュの写真飾らなかったんだね」
    それはアッシュと初めて会ってからの帰国後、英二と電話をしているときだった。
    「英ちゃんのことだから彼の写真たくさん撮ってるかと思ったよ」
    『えーっと、実は……』
    英二にしては歯切れの悪い反応に伊部はどうかしたのかと聞いた。
    『伊部さん、これ誰にも言わないでくださいね』
    「あ、ああ、もちろん」
    『アッシュは本当に、やっと最近写真を撮らせてくれるようになったんです。だからそこまでたくさん写真があったわけでもなくて。それに……』
    言い淀む英二にますます伊部の疑問が深まるが、電話口の向こうで英二が声を潜めた。
    『その、彼がやっと笑ってくれたのが嬉しかったんですけど、僕にとってすごく特別な写真で……。それで、簡単に人に見せたくなかったというか……あんまりにもアッシュの写真が綺麗で、誰に知られたくなかったんです……』
    電話の向こう側で、子供っぽくて恥ずかしいなーと照れ隠しの笑い声が聞こえる。
    伊部の胸にはまたしても、わずかな罪悪感と決意が浮かんだ。
    加えて、彼らの幸せを強く予感したのだった。




    塀の向こうで【A】


    しくじった、と言うべきか。
    しかしそれに気付いたときにはすでに遅く。それでもあの状況から最善の道を選択するとこうなるしかなかった。
    「アッシュ・リンクス こっちへ来い」
    コンクリートの灰色の建物。自分を呼ぶ看守の隣にはハゲてるのか剃っているのか見事なつるっぱげの男がいた。
    ここに放り込まれる人間は自分と同じような人間ばかりだ。ましてや初対面の人間に必要以上に近付きたくもない。
    アッシュは彼らから少し離れた場所で立ち止まる。スキンヘッドの表情がわかりやすく変わった。
    「よぉ……」
    こういうとき、いやでも相手の考えていることがわかってしまう。
    男が看守に何やら耳打ちしている内容は聞こえなかったが大体の見当はつく。
    アッシュはここでの生活を考えてうんざりする気持ちをなんとか顔に出さないようにする。
    ここにアッシュの味方はいない。この閉じられた空間で生き延びなければここからは出られない。
    どれだけアッシュがずば抜けた身体能力と頭脳を持とうが信頼できる仲間が1人もいない状況は決して楽観できない。体の一部と言ってもいい拳銃も今はない。己の身を守れるものは己しかないのだ。
    アッシュはその意識と神経をナイフのように研ぐ。
    そんなアッシュの心を包み、癒す存在は今、ここにはいない。
    ああ、早く帰りたい。
    あの温もりがひどく恋しかった。








    その日、少年院に1人の少年が連れてこられた。
    アッシュ・リンクス。
    あらくれ者が溢れ返るその空間で彼の存在は浮いていた。目の覚めるような美しい容姿に年に見合わない落ち着きと鋭い視線。
    何も起こらないほうがおかしいだろうなと、彼の世話役を言い渡されたショーター・ウォンは心の中でそっとため息をついた。



    「私物はそれだけか」
    コンクリート剥き出しの建物内を案内していると、ふとアッシュが手にしてた本が目に止まる。ショーターとしては特に深い意味もない会話だったのだが、それまで無愛想だったアッシュに警戒の色が濃く表れた。
    アッシュは関わるなどでも言いたげな視線で睨むとショーターは気まずげに視線を逸らした。
    今、アッシュにとってこの本、いや私物についてとある理由で関心を持たれたくなったのだ。
    歩いていれば周囲から不躾なヤジが飛んでくる。アッシュはまるで聞こえていないかのようにそれらを反応しない。こんなことにいちいち気にしていたらダウンタウンを歩けやしないと、アッシュはそれらを黙殺する。
    そんなアッシュにこれからどうなることやらと頭を痛めながらも放っておけないショーターはやれやれとまたため息をついていた。
    「そらここだ」
    ショーターは一通りの案内を済ませてアッシュを部屋に連れてきた。一定の距離を保ちながら警戒を緩めないアッシュにショーターはようやく名乗った。
    「ルームメイトは俺だ。ショーター・ウォンだ。ショーターでいいぜ」
    「あんたが」
    「一応世話役になってるからわかんないことあったら聞いてくれや」
    アッシュは何か言いたげに僅かに目を伏せた。するとショーターの脳裏に何かが浮かんだ。
    「お前、どっかで会ったことないか」
    「知らないよ。会ったら覚えてるよ。そのつるっぱげ」
    アッシュを眉をひそめて、ついでに悪態をついて否定する。もしショーターがダウンタウンを住処にしているならすれ違うくらいはしているだろうが、記憶力の良いアッシュが覚えてないとなるとその可能性も低い。
    下手なナンパみたいなショーターの話を一蹴して二段ベッドの下に乗り上げた。
    悪態をつかれたショーターは悔しそうにしているのを横目にアッシュは数少ない私物である本を開く。
    未だ悔しさに悶えているショーターはその後ろ、本を開くアッシュがそこに挟み込んだあるものを眺めて僅かに頬を緩ませていたことに気付いてはいなかった。




    アッシュはこの少年院内で問題を起こす気など全くなかった。無駄な諍いは面倒でしかないし、目立ちたくもなかった。
    何よりこんなところに長居する気もなかったので騒ぎを起こしてここにいる期間が延びるなんてことは最も避けたい事態だったからだ。
    しかし、やはりというべきか。
    面倒ごとは起きてしまった。



    「おーい、アッシュ。こっちだ」
    食堂で声をかけてきたのはショーターだった。
    アッシュがここにやってきて1週間。何の問題もなく時間は流れた。
    しかし周囲がアッシュに向ける視線は相変わらずで、そしてそれを無視するアッシュも相変わらずだった。
    ショーターに呼ばれるままに彼のいる机につくアッシュは何も言わずにトレイに乗せられた味のない食事に手をつけ始めた。
    ショーターは世話役と名乗った通り、何かとアッシュに構い、その姿にどうしても英二を思い起こしてしまう。
    (何してるかな、あいつ)
    こんなことになってしまって真っ先に気になるのは英二のことだった。
    彼のことだ、きっと心配している。それは自惚れでもなく経験済みの事実だからだ。
    ソーリーが口癖の彼はまた変な思考回路で自分自身を責めたりしてないだろうかとそればかりが気がかりだった。
    今回のことはどう考えても英二のせいにはならない、というより今まで起きたことで英二が悪いことなんて一つもない。けれど彼にはそれが通じないようだ。
    アレックスたちはちゃんとフォローしてくれているだろうか。信頼できる部下だがそれでも不安は拭えなかった。
    アッシュがそんなことを考えながら味気のない食事をしているときだった。にわかに食堂がざわつく。
    するとドンっとアッシュの背中を無遠慮な大きな手が触れる。
    「ディッキー……」
    ショーターの苦々しい声がする。
    アッシュは内心来たかとしか思わなかった。悲しいことにこんなことは慣れっこだった。こんな容姿をしていると何故か相手は『誘ってる』と思い込んで当たり前のようにこの身体に触れてくる。
    何故と、思ってもそれは解決しない。
    (まあ、だろうな)
    ダウンタウンだろうと少年院だろうと、アッシュの扱いはいつもこれだ。どれだけ相手の眉間を撃ち抜き、悪魔と恐れられても。ボスと呼ばれるようになっても。
    一体何をもってアッシュは強いと呼ばれるのだろうか。
    うんざりするアッシュはディッキーと呼ばれた男が顔を引き寄せるように掴んだ手を振り払うことすら面倒だった。
    しかし。



    『彼をモノ扱いするな』



    そのとき、彼の声が聞こえた気がした。まるでアッシュに触れる手を威嚇するようにそれは脳裏に響いた。
    それは無気力なアッシュを奮い立たせるかのように、守るかのように。

    気付けばディッキーの手はアッシュから離れ、わずかに赤くなっている。
    アッシュに叩き払われたことをまだ理解していないディッキーと同じく何が起こったのかまだわかっていない周囲がしばし沈黙する。

    「俺に触るな」

    その沈黙はアッシュの凍てつく声で破られる。
    今までほとんど感情を露わにしなかったアッシュが見せた怒りに周囲は息を飲んだ。小さな体から発せられる怒気は凄まじく、まるで獣を目の前にしたときのような緊張感に襲われる。
    「なんだと こいつ……」
    ようやく自分の手が振り払われたことに気付いたディッキーはアッシュに気圧されながらも掴みかかろうとする。
    面倒は起こさないつもりだったがこのまま相手の好きにさせる気もないアッシュはフォークを握る力を強めた。
    「やめろディッキー」
    仲裁に入ったその声はショーターだった。
    「お前には関係ないぜウォン」
    「そうはいくか 騒ぎを起こすなら俺が相手になるぞ」
    するとディッキーは苦い顔をして、渋々といったようにアッシュに伸ばしかけた手を下ろした。
    「飯は自分の棟で食う決まりだろうが 大人しくB棟に戻れ」
    ショーターはどうやらこのA棟の実力者のようだ。周囲は黙ってショーターとディッキーの動向を見ていた。
    睨み合いを続ける隙にアッシュはスルリと食堂を後にした。すぐそばにいた男は戸惑ったようにアッシュとショーターたちを交互に見遣ったが引き留めようとはしなかった。
    「……大人しくするつもりだったんだけどな」
    誰に言うでもなく、そんな独り言が溢れた。
    これであのディッキーという男に目をつけられたのは確実だろう。棟が違ったとしてもまたアッシュを狙ってやってくるはずだ。
    いつもなら、あんなもの好きにさせておけば簡単に終わったはずだった。これまでだってそうだった。
    けれどそれは好き好んでいたわけではない。
    大嫌いだった。いつも怒りで震えそうだった。今の状況ではそれでもそうしなければいけない。そんなことはわかっていても、耐えがたい屈辱だった。
    面倒ごとはごめんだ。
    だが、気分はそこまで悪くなかった。



    フェンスに囲まれた庭の木陰で本を開いているとショーターがやってきた。
    「よお。よく本読むなぁ。それここにもってきた本だろう。もう何回も読んでるんじゃないか 好きなのか」
    隣に腰を下ろしたショーターに一瞬視線を投げて、すぐに本に戻す。
    世話役と言った通りやたら構ってくるショーターからは嫌なものを感じないアッシュはその距離を許したまま口を開く。
    「別に……」
    素っ気ない返事にも気を悪くすることなく、ショーターは会話を続けた。
    「しかし面倒な奴に目付けられたな。気を付けろよ。それでなくともここは男ばっかりだからな」
    目を付けられた理由は確かにアッシュの容姿が関係しているだろう。だがそれは本質ではなかった。
    「違うね」
    何のことだというショーターにアッシュは淡々と語る。
    奴らの目的は支配と蹂躙だと。
    弱者が更なる弱者を襲い痛めつける。
    そしてその最底辺にいるのが自分だと。
    これまでのアッシュならばそれは「仕方のない」ことだった。
    奪われることは自分が弱いせい、この容姿のせい。
    そのために強くなければならない。
    けれど今は。
    「とは言っても、俺は黙って好き勝手されるつもりはない」
    確かに自分は食い荒らされる最底辺の人間かもしれない。しかしアッシュの親友である彼はそれを許さない。アッシュがどう思おうが、彼はお構いなしだ。
    この世で唯一、心から信じられる人間がそう思ってくれている。ならば抗う理由には十分だ。
    ショーターは彼の翡翠の瞳が、まるで星のように光を放つのを見た。チカチカとしたものではない、いつぞや教科書で見たような星の爆発のようなエネルギーの塊そのものだった。
    出会ったときからポーカーフェイスを崩さないと思っていたがどうやら思い違いのようだ。
    これほどまでに強い人間とショーターは出会ったことはない。
    「強いね、お前」
    「泣き虫のオニイチャンがいるもんでね」
    「へ」
    アッシュは疑問符を浮かべるショーターを置いてその場を後にした。






    「おい、チビ」
    その日は雨だったため、アッシュは部屋でもう何度も読み返した本を再び読み始めていた。
    部屋の入り口にはディッキーとその取り巻きが立ち並んでいた。
    予想通りの展開にうんざりしながらアッシュは本を閉じた。
    「この前はウォンが邪魔してくれたが今日は1人で留守番か ちょっと付き合えよ」
    「…………」
    この狭い空間で出入り口を塞がれたのは面倒だ。そう判断したアッシュはフッと口角を上げた。
    「いきなりこんな大人数相手にしろって言うのか」
    「なぁに、気が重いならまずは1人からでもいいぜ」
    「お言葉に甘えようかな。そのかわり、かわいがってくれなきゃいやだよ」
    ディッキーは取り巻きが囃立てる中、悠々と部屋に入る。アッシュが逃げられないようにわざわざ鉄格子を閉め、この空間には2人だけとなった。それを見世物のように取り巻きや、いつのまにか集まったA棟やB棟の連中まで見物に来ている。
    じわりじわりと距離を縮めるディッキーにアッシュは妖艶な笑みを向ける。それにディッキーや他の人間までも唾を飲み込んだ。
    ベッドに腰かけたままのアッシュに近付こうとディッキーが腰をかがめた瞬間だった。
    「うっ」
    アッシュは素早く立ち上がり、掴んでいたシーツをディッキーの頭に被せた。そして相手が目を眩ませている隙に思いっきり拳を顔面に叩き込む。そしてその衝撃でよろけた巨体をシーツで引っ張り壁にぶつける。部屋に置かれた机を巻き込んで派手な音が鳴った。
    「ぁ、うぅ……」
    部屋の外では見物人が声を上げ驚いているのがわかる。アッシュは攻撃の手を緩めず、床に手をついたディッキーの背中に乗り上げ、シーツの端を強く引いた。
    首を締められたディッキーはぶつけられた衝撃で朦朧としながら息苦しさにもがく。だがどんなに力を入れても華奢なアッシュを振り払うことができず苦しさは増すばかりだった。
    「言ったはずだ。俺に触るなと」
    アッシュの腕は確かに細いが決してひ弱ではない。苦しげな呻き声がシーツの中から聞こえてくる。
    周囲からはアッシュを止める声と助長させるようなヤジが飛ぶ。本当にただの見せ物と化していた。
    「アッシュ」
    一際大きな声がアッシュを呼んだ。
    チラリと目を向けると息を切らしたショーターが野次馬を押し除け鉄格子を掴む。
    「やめろ それ以上やったら取り返しがつかなくなるぞ」
    ショーターの言葉にアッシュはしばし動きを止め、やがてディッキーの首の後ろに手刀を叩き込む。どさりと倒れる体が床に横たわる。
    「……死んじゃいねえよ。邪魔だからとっとと連れてけ」
    吐き捨てるようなアッシュに取り巻きたちはそそくさとディッキーを担いで去っていく。
    野次馬もアッシュの眼光に負け、蜘蛛の子を散らすように部屋の前から消えていく。残ったのは未だ厳しい表情をするショーターだけだった。
    「なんだよ」
    「いや……」
    「俺があいつを殺すとでも思ったか 俺はこんなところさっさと出ていきたいんだ。無駄なことして長居する気はない」
    もしもディッキーを殺せば、今よりも確実に長くここにいる羽目になる。ここに来たこと自体最悪だというのにこれ以上あの街から、英二から離れることなど考えたくもなかった。
    だがショーターから出た言葉は意外なものだった。
    「違う。俺はただ、お前が無茶してるように思えただけだ」
    その言葉にアッシュは思わず目を見開いた。だがすぐに動揺を隠すように視線を逸らすとそれには答えずショーターに背を向けた。
    「……あんたの部屋でもあったな。騒いで悪かった」
    「おい、アッシュ」
    アッシュはベッドに置かれた本を掴むとそのまま部屋を出た。引き留めようとするショーターを振り返りもしなかった。







    アッシュが去った後、残されたショーターはなんとも言えない気持ちで立ち尽くしていた。
    ディッキーがアッシュの部屋に押しかけたと聞かされ走ってきてみればどうだ。
    ショーターの想像した最悪の状況ではなかったにしろ、それは驚くべき光景だった。体格も力もどう見てもディッキーの方が大きく強い。だが現実はあの細く華奢なアッシュがディッキーをギリギリまで追い込んでいた。
    彼が止めなければディッキーは確実に死んでいただろう。
    アッシュの怒りはもっともだ。それはショーターにもわかる。そして抵抗しなければアッシュはレイプされていた。だからアッシュは抵抗した。それだけの話。
    強かった。
    もしアッシュと戦うことになったらショーターには勝ち目はないだろうと確信できるほどに。単純な力ではなく、彼にはそれ以外の強さも知恵もある。だからこそ、そこら辺の下手な怪力よりも強い。
    しかしそんなアッシュが言った言葉がショーターの頭の中をぐるぐる回る。

    『その食物連鎖の底辺が俺ってことだ』

    だからこそ、ショーターはアッシュの強さを純粋にすごいとは思えなかった。
    彼の強さは弱さを覆うためのものだ。
    ディッキーを締め上げるアッシュの瞳には明確な怒りがあった。理不尽に耐えかね、爆発する感情だった。
    あんな思いを彼は今までどれだけしたのだろうか。
    本能が奴に関わるなと告げている。けれどそれを無視してショーターはアッシュを見て見ぬふりはできなかった。
    出会って日が浅いのに、不思議なものだ。
    ショーターがどうしたものかと考えていると、ふと部屋の中の惨状が目に入る。アッシュたちの乱闘はほとんど見ていなかったがシーツのせいか、部屋にあった便箋やペンやらが散乱している。
    ショーターはそれらを拾い集め机を元に戻す。姉から届いた手紙もそこに混じっていたのでひとまとめにしてパラパラと見返していた。
    「ん なんだこれ」
    するとふと違和感を覚え手を止める。
    通り過ぎた数枚を戻って手紙を見返すと、白と黒しかないはずの手紙に突然色が現れる。
    写真だ。
    手紙の束の中に写真が紛れていた。
    だが姉からの手紙で写真を受け取ったこともなければ、ショーター自身のものでもなかった。
    写真に写るのはありふれた街の風景だった。場所はダウンタウンだろうか。見慣れた風景だがそれはショーターが知るよりもずっと暖かな色をしていた。
    そしてその写真の次にあった手紙の字も、これまた姉のものでもない。もちろんショーターでもない。
    ショーターはこの手紙の持ち主を知るために何気なく、綴られた文字に目を通した。




    アッシュ


    君の無事な姿が見られないから僕は不安でたまらない

    叶うならすぐにでも君のもとへ駆けつけたいよ

    君が捕まったと聞いて僕がどれだけ驚いたかわかるかい

    ごめんよ、君を責めたいわけじゃないんだ

    ただとても心配なんだ

    君はとても強くて勇気があるけど、誰よりも優しくて傷付きやすい人だって僕は知ってるから

    君と会って話がしたい

    怪我をしていないかも心配だ

    申請すれば面会できると聞いたよ

    僕はすぐにでも君に会いに行きたいけど、まだそれはできないらしいから今はこの手紙で我慢するよ

    絶対に会いに行くから待ってて



    英二




    「アッシュのか……」
    まだここに来てそれほど長くはないというのにもう手紙が届いているとは思わなかった。そしてアッシュに手紙を送る相手がいるのが意外だった。
    そしてその内容も、自分の姉がくれるような優しさがあった。
    もしかするとこの送り主がアッシュが言っていたオニイチャンなのだろうか。
    とにかくこれ以上人の手紙をじっくり読むのは失礼かと、ショーターは手紙の折り目に合わせて写真を挟んだ。
    部屋を出たアッシュを追いかけ手紙を渡すか、戻ってきてから渡したほうがいいかと迷っていると、バタバタと騒がしい音が迫ってくる。
    なんだと振り返るとギラギラとした獣の瞳をして深いシワを眉間に刻んだアッシュが駆け込んできた。
    走ってきたのだろう、さっきのショーターとは逆転したように息を切らして肩が上下している。
    そしてショーターが手にしているものを目にするとそれを素早く奪い取った。取られないように胸に抱え、ショーターを睨みあげる。
    「……見たのか」
    「悪い、俺の手紙かと思って……俺のに紛れ込んでたみたいだ」
    アッシュは疑いの目を向けていたが自分がこの部屋で暴れたのを思い出したのか、部屋の惨状がまともになっていることに気付いたのか、今度は気まずげにショーターから視線を逸らした。
    そして手紙を開き、写真を確認するとホッと安堵したように息をはいた。その表情は先程まで苛烈な怒りに燃えていた人物と同じとは思えぬほど穏やかなものだった。
    しかしすぐにその表情はいつもの無表情に隠れ、彼は丁寧に写真と手紙を本に挟んだ。
    「なあ、その手紙って」
    「それ以上聞くな。忘れろ」
    ショーターの言葉を遮り、短く、鋭いアッシュの声にそれ以上何も言えなかった。
    そして今度こそ、アッシュは部屋を出て行った。


    それからしばらく、アッシュは何事もなかったかのように過ごした。ディッキーのことも、手紙こともなかったかのように。
    それがかえって気まずい空気となって2人の間に横たわった。
    ショーターの本能がこれでよかったんだと囁く。あと少しでここから出られるのだから騒ぎを起こさずに大人しくしていよう。奴に構ってまたここに逆戻りする気かと、冷静な部分が告げるのだ。
    (そうだ、その方がいい。これ以上姉貴に心配かけられねえ)
    わかっているはずなのに、それでも納得できない自分がいるのが不思議だった。
    ショーターは誰も来ない図書室のカウンターで自問自答を繰り返していた。すると珍しくこの部屋のドアが開いた。
    現れたのはアッシュだった。その手にはいつもの本があった。
    おやっと思っていてると向こうもショーターに気付いて眉をひそめる。あからさまな態度に思わず苦笑いしてしまう。
    「またあんたか」
    「俺、司書もやってんの。と言ってもポルノ無くしてからは誰もここに寄り付かないけどな」
    アッシュは早々に本棚へと足を向け部屋の奥へと消えて行った。
    真面目に図書室の本を読むのは彼くらいだろう。しんと音がない部屋で、ショーターの頭に浮かんだのは先日の手紙のことを謝るべきではという思いだった。
    悪気はなかったがきっとアッシュにとってとても大切なものだったはずだ。あんなに丁寧な手付きで扱っていたのだ。気まずさのせいでうやむやにしていたが、やはりこのまま無かったことにするのはどうしてもできなかった。
    そこまで広くはない図書室を見渡すとアッシュは高い梯子の上に腰掛けていた。
    窓から差し込む光がアッシュの金髪を照らし、まるで淡く光っているようだった。少し俯いたその表情にショーターはあっと声を上げた。
    「あ 思い出した」
    アッシュの怪訝な表情も今は気にならないほどショーターはずっと感じていたら既視感をよくやく理解して興奮していた。
    「あれだっ 前に会ったことあるかって言ったろ」
    「……頭大丈夫か」
    こればかりは口で言っても伝わらないと思ったショーターはちょっと待ってろ と図書室を飛び出していった。アッシュは何がなんだかわからないまま取り残される。
    そして図書室はアッシュただ1人となってしまった。



    ショーターは急いで部屋に戻り引き出しを漁る。そして取り出したのは一枚のポストカードだった。
    描かれているのは美しい天使だった。
    姉からもらったクリスマスカードの天使は穏やかな笑みを浮かべている。
    それはどことなくアッシュに似ており、先程図書館での彼を見たときに既視感の正体にやっと気付けた。
    「よりによって天使様かあ」
    やっとつっかえが取れたような解放感と妙な納得を覚えながら図書室に戻ると何やら様子がおかしかった。
    ドアの前には顔馴染みが立ち塞がり、ショーターを拒んでいる。
    「どうしたんだニコ」
    「……ここから先は遠慮してくれウォン。あんたはこれ以上、あいつに関わっちゃいけねえ」
    その意味を理解した瞬間、ショーターは走り出した。




    アッシュを取り囲むのはニヤニヤと気味悪く笑う数人の男たちだった。その顔には見覚えがある。
    「この前の続きといこうか……」
    懲りもせずまたもやアッシュを狙いにきたのはディッキーだった。取り巻きたちを従えてアッシュが1人になる瞬間を狙っていたのだ。
    「よっぽどの鳥頭みたいだな。それとも強く頭打ちすぎたか」
    「確かにちょいとばかしみくびってたのは確かかもしれないな。だが今回はどうだろうな」
    1人では勝てないと思ったのか今度は複数人で襲いかかる気のようだ。確かに同時に何人も相手するのは賢くない。だがそういってられない状況だ。
    飛びかかってくる男たちをアッシュは蹴り飛ばす。
    昔とある男から教えられた体術で次々と男たちが倒れていく。するとドアの向こうからも派手な音が響いてくる。そして飛び込んでくるようにして部屋に入ってきたのはショーターだった。
    加勢しようとするがそんな必要さえ感じないほどアッシュは圧倒的だった。体格差などもろともしない強さだ。
    そのとき、アッシュの背後に倒れたディッキーが床に落ちたナイフを掴んだのが見えた。
    「させるか」
    ショーターは考える前に同じく床に落ちていたナイフを素早く拾い上げディッキーの手元に向かって投げた。
    「ぐあぁっ」
    ショーターが放ったナイフはディッキーの腕に突き刺さり掌から滑り落ちたナイフが再び音を立てて落ちた。
    「……失せろ」
    アッシュとの圧倒的な力の差を目の前にしてディッキーはようやくアッシュがどれほどの人物かを理解したようだった。意識がある者は逃げるように他の仲間を担いで部屋から駆け出していく。
    「ふーー……危機一髪ってとこだな」
    アッシュはいかにも驚いたと言わんばかりに目を見開いてショーターを見上げた。
    「何故助けた……」
    「何故って、こんな卑怯なやり方見過ごせねえだろ」
    散らばった本から一冊を拾い上げる。ちょうどアッシュの足元に落ちていたそれはもしかしたらあのままナイフが放たれていた犠牲になっていたかもしれない本だった。
    「ほれ、大切なんだろ。それに悪かったな、手紙読んじまって。俺も姉貴からもらう手紙勝手に読まれたら気分よくねえもん」
    アッシュは少し茫然としながらもそれを受け取る。それはアッシュの唯一の私物であり、大切な手紙と写真が隠された宝箱そのものだった。
    「写真も見ちまったんだけど……いい写真だな。俺あんまりそういうの詳しくないけどよ」
    そこまで話してショーターはハッと口を押さえる。
    彼はこの手紙と写真をとても大切にしている。それをずけずけと立ち入ってしまった。
    また怒らせたかと思いきや、アッシュの表情は想像よりもずっと落ち着いていた。
    「ほんと、おせっかいハゲだな」
    「なんだよそれ」
    伸ばしてんのと訂正するとアッシュの表情がフッと緩んだ。
    「ちょっと似てたんでね。あんたみたいにハゲてないけど」
    「似てる 俺が誰に」
    アッシュの耳が僅かに赤くなる。
    「……俺の、親友」







    その一件から、アッシュは一目置かれる存在となった。いつの間にやら扱いもボスになってしまい本人としては居心地が悪そうで、終始眉間にシワが寄っていた。

    「へぇ。じゃあその英二があの写真撮ってたのか」
    「ああ。あの写真はここに来たときからずっと持ってたんだ。手紙は、しばらく後だけど」
    だからアッシュはあれほど繰り返し読んだ本を開いていたのかとこのとき納得できた。
    彼はひっそりとあの写真を眺めていたんだろう。今は帰れないあの街と彼の親友を思い浮かべながらひとときでもこの場から飛び出して。
    アッシュとショーターは少しずつ話をするようになった。
    ここに入った経緯や手紙のこと。
    ショーターも姉とのやりとりをしていると話すとアッシュもポツリポツリと話してくれるようになった。
    手紙をくれたのは英二という日本人で、アッシュの親友。
    文章からして落ち着いていたので尋ねてみればやはり英二は年上だという。アッシュ曰く、驚くほどベビーフェイスだとも。
    「いい奴だな。その英二って」
    手紙を眺めていたアッシュな視線をよこす。
    「お前のこと心配してるんだろ。確かにこんなところにいたらダチも心配するよな。面会しないの」
    「しねえよ。危ねえ」
    「そのくらい平気だろ」
    「じゃあんたは姉貴と面会したのか」
    「……」
    「そういうことだな」
    2人の間を少し冷えた風が通り過ぎる。空と雲はすっかりと夏から秋へと変化していた。
    「こんな顔してるだろ……」
    ショーターが横を見ればアッシュはどこか遠くへ視線を投げたまま言葉を続けた。
    「あんなことはしょっちゅうだった。あいつらは俺が抵抗すると唖然とするんだ。俺が逆らうのは心外だと言わんばかりに」

    望みもしないこの容姿というだけでこんな扱いを受ける理不尽さを何度も呪った。
    どれほど鍛えても結局弱者から抜けきれない自分も嫌いだった。

    「俺はそれを受け入れたつもりはなかった。けど、どっかで仕方ないとも思ってた。抵抗するだけ余計に面倒が増えるからって思い込ませて仕方ないとも思ってた」

    汚い欲望が向けられ、本当は自分が悪いんじゃないかと考えてしまった。
    お前から誘ったんだと、あまりにも口を揃えて言われるものだからもはや何が正しいのか、信じていいのかわからなくなった。
    それほどまでにアッシュの心は擦り切れていた。もう1人ではどうにもならないほどに。

    「だけどあいつは、英二は違った。抗うことは間違ってないって、声を上げて怒っていいんだって教えてくれた」

    明らかに自分よりも強い相手を目の前にして英二は逃げなかった。自分の信念を曲げず、あの広い背中でアッシュをこの世の理不尽から守ろうとしてくれた。
    その理由だって単純で、あまりにも簡単な理由だったから信じ難かった。
    だがそれが英二なのだと知るころには、アッシュの中で英二という存在は測りきれないほどに大切なものとなっていた。

    「やっぱいい奴だな。英二って」
    「当然だ。英二だからな」
    「俺さ、今月にはここ出るんだ。だからお前もここ出たら英二連れてうちの店こいよ。サービスするぜ」
    「期待してるよ」
    その後、ショーターのクリスマスカードについて要らぬことを口走ったショーターはまたしても気まずい思いをすることとなった。
    そうして再会を約束してショーターは少年院を出た。
    去り際に例のクリスマスカードを取られたりもしたが、このとき初めて見た年相応のアッシュの笑顔にそんなことは些細なものだった。


    その数ヶ月後、約束通りアッシュはショーターの店にやってきた。
    黒髪を束ねる、優しげな黒い瞳をした英二という親友を伴って。
    彼の年齢を聞いたショーターが驚きに声を上げるまであと少し。




    塀の向こうで【E】



    「アッシュが……捕まった…………」
    告げられた言葉の意味を理解しようとして口にしてみるが、うまくいかなかった。音だけを真似ているだけで中身がまるでない。
    驚く、というよりもただただ呆然とする英二にそれを告げたアレックスは言い様のない罪悪感に襲われていた。


    アッシュに言われてしばらくダウンタウンに来れなかった英二は久し振りにメンバーと顔を合わせた。もはや馴染みとなったバーに入ると見知った面々が出迎える。
    しかし見回しても彼の姿がない。
    今は別の場所にいるのだろうかと思い浮かべていると神妙な顔つきのアレックスに声をかけられた。
    そして聞かされたのが冒頭の言葉だった。


    アレックスたちにとってこの大人と呼ぶに相応の年をした彼が意気消沈する様はあまりにも痛々しく、それが自分たちのボスを思ってのことなら尚更だった。
    「捕まったといっても少年院だ。しばらくは出てこられないがちゃんと戻ってくる。……が、そうなったのは俺たちがボスを守れなかったからだ。すまない」
    アレックスの脳裏には鋭い声で逃げろと叫んだアッシュの姿が浮かんだ。あの場に残ったとしてもアレックスや他のメンバーが出来ることはなく、連れていかれる少年たちの人数が増えたくらいだろう。
    それでも何もできなかった事実がアレックスを苛む。それはすぐそばで同じく落ち込んだ様子で2人を見守るボーンズとコングもだった。
    ボスを守れなかったことはなにより、英二という友人を悲しませてしまったことは英二の友人の1人として彼らにとって心苦しかった。
    すると英二はアレッスクの言葉に今度は彼の方が苦しげに表情を曇らせた。
    「君たちのせいじゃない。アッシュは詳しい話はしてくれなかったけど……聞いているよ。最近、リンクスを狙って抗争が起きかけてたって。アッシュが君たちを守ったように、みんなもアッシュのことを守ってくれてたんだろ わかるよ」
    「けど……」
    「僕はね、アレックスたちが無事で本当に良かったって思うんだ。アッシュのそばにいてくれた君たちに、自分を責めてほしくないんだ。僕なんかアッシュが危険な目に遭ってることを知ってたのに……何もできなかったんだ。」
    英二は力なく肩を落として視線を落とす。
    「英二、それは違う。ボスはあんたのこと……」
    「うん、わかってる……。アッシュは、優しいから……」
    それでもやり切れない思いを抱え目を伏せる姿に、3人は顔を見合わせた。
    アッシュが異変を感じ取りメンバーを逃がそうとしたとき、最後まで残ろうとしたアレックスはアッシュに託されたことがあった。


    「俺が戻るまで、あいつを頼む」


    真っ直ぐに視線がぶつかり、最低限の会話だった。アッシュはアレックスの返答を待たずに囮となるために走り出してしまった。
    その瞬間、アレックスは決して捕まるわけにはいかないと、ボスの命令を胸に躊躇いを振り切りその場を後にした。
    ボーンズとコングにもこのことは伝えた。
    アッシュは、自分に何かあったときこの心優しい友人が心を痛めることをわかっていたのだろう。それをアッシュが望まなくとも、奥村英二という人間はそうなのだ。
    アッシュのあの言葉は英二の身の安全、というだけではなかったのだとアレックスはこのとき気付いた。
    (ボス、あんたはわかってたんだな)
    自分を責めないでと言った英二の方が、自責の念に押し潰されそうになることを。
    この2人はもう切り離せないほどに互いを思い合っている。痛いほどにそれをアッシュの命令が、英二の表情が語っていた。
    そしてこれ以上そんな思いをさせたくないと、思ってしまうのは彼らだからこそなのだろう。
    「ボスは必ず戻ってくる。ボスが言ったんだ、必ずだ」
    アレックスはしっかりと、まるで自身にも言い聞かせるように繰り返した。
    俺が戻るまで、アッシュはそう言った。
    ならば部下である自分たちはそれを信じるだけだ。
    アレックスの力強い意思を感じ取ったのか、気を落としていた英二は戻ってくるとアッシュ本人が口にしていたことを知ると僅かに安堵を滲ませ胸を撫で下ろした。
    「うん。待つよ。だって、アッシュだもんね」
    やっと浮かべた彼の笑顔に3人はようやくほっと息をついた。
    早く彼らが隣で笑い合えるように、そう願わずにはいられなかった。







    それからアッシュがいない日々が続いた。
    街に繰り出しても、家にいても、当然ながら彼の姿はどこにもない。
    いつのまにか部屋のソファーでうたた寝している姿も、腹が減ったとふらりと現れもしない。それは思いの外、英二を落ち込ませた。
    ふとした瞬間にアッシュは今どうしているだろうかと考えてしまう。そのせいで仕事中手が止まることが多くなりスタッフから心配されてしまった。体調不良を疑うスタッフをなんとか説得して仕事を続けるが頭の片隅にはあの金色がチラつく。
    そばにいられないときのほうが長いというのに、過去より今のほうがずっと辛かった。
    例の一件から落ち着きを取り戻したダウンタウンにもまた通い出すようになった。リンクスのメンバーは英二と顔を合わせるたびに声をかけてくれたり気にかけてくれたりと、子供に心配される始末だ。
    もはや馴染みとなった店の奥の席、いつもは彼がいる場所は空っぽだ。それはまるで今の英二のようだった。


    そんな英二を見守るアレックスたちはひっそりと声を落とした。
    「ボスに任されたとはいえ、俺らじゃどうにもならないな」
    「だよなぁ。ボスじゃないと」
    「早く戻ってこねぇかな」
    ボーンズもコングも、リンクスの誰もがもうそれを理解していたのだ。
    だからこそ、願わずにはいられない。
    彼らがまた、この場所で隣り合っているのを見ることを。





    英二はとにかくアッシュの無事な姿が見たかった。
    少年院では許可が下りれば面会が許されるらしい。手紙のやり取りも検査に通されるが許可されている。英二はアッシュが少年院に入ったと聞かされたその日に手紙を出した。彼に手紙なんて初めてだから書き出しに随分と悩んだ。
    果たして本当に彼に届くのだろうかと不安もあったがしばらくして返事が来た。





    英二


    早速の手紙ありがとう

    急にこんなことになって驚かせた

    怪我はしてないから心配するな

    俺がいない間に変なことに巻き込まれるなよ

    大人しくしてろと言いたいが、お前のことだから聞かないんだろうな

    何かあったら周りを頼れ

    今すぐには戻れないが必ず帰る

    それと面会は危ないから来るな


    アッシュ




    もう何回も読み返した。初めて彼の筆跡を見たが滑らかで、英二は文字を辿るように指でなぞる。
    「危ないから来るなってなんだよ」
    アッシュから手紙が返ってきたことが嬉しくてたまらないが最後の一文だけは納得いかない。
    英二は自宅のリビングで静かに憤慨していた。
    アッシュから返事が来たらすぐにでも面会の申請をしようと思っていたがまさか本人に止められるとは思わなかった。
    彼の制止を無視して申請してもアッシュが会ってくれなくては意味がない。それにアッシュの意思を無視するのはどうしても気が引ける。
    大の大人に面会一つで危ないだなんて、いつから彼はこんな心配性になったのだろうか。
    絶対に会いに行ってやると、意気込む英二は便箋とペンを取り出し今度は迷うことなく筆を動かし始めた。


    翌日、早々に返信を送り出した英二は手紙を出し終えた途端にまた、気持ちが沈んでいくのを感じ取っていた。
    半年。
    アッシュが少年院にいる期間だ。
    彼がイエスと言ってくれなければその間ずっと会えない期間でもある。
    たまらなく会いたかった。
    最後に彼と会った時、いつもと変わらなかった。夜、ふらりと現れたアッシュと食事をして彼は夜明け前にまた街へと戻っていった。
    当たり前のようにまた会えると。
    まさか次会うときが半年後になるだなんて、そのときは思いもしなかったし、予想もできなかった。
    こんな風にまた、彼と会えなくなる日が来るのだろうか。それはとても恐ろしく、だが簡単に起きてしまいそうでもあった。
    「はぁ……長いよ……半年なんて」
    思い浮かべるのはアッシュのことばかりだ。どうか、無事でありますように。彼が辛い思いをしませんように。1日も早く、帰ってこれますように。
    アッシュのいない孤独を祈りに変えて、英二はビルの街を進む。







    そうして、彼らの間では手紙のやり取りが始まった。
    アッシュの方はやることもなく退屈だと嘆いていたり、暇だから施設内の図書室で時間を潰しているなど書かれている内容は思ったよりも平和的だった。出される食事も納豆よりかはマシだなんていつもの憎まれ口も添えてある。
    そんな話題があえてなことは、なんとなく英二にもわかった。
    心配させまいとする優しさがくすぐったいが、辛いことまで隠していそうで心配になる。
    それでも中には良い意味で目立つ内容もあった。
    なんでもやたら構ってくるお節介なハゲ……がいるらしい。名前も詳細も特にないので詳しくはわからないが、その文面からアッシュにも話ができる友達ができたようだった。
    これは嬉しい出来事だ。
    よかったと安堵する英二はその手紙をそっと胸に抱き締めた。
    こんな状況になって不謹慎かもしれないが、はからずもアッシュとこうして文通できるのが新鮮で、英二の楽しみとなっていた。
    それでも募る思いは消えることはなく、眠れない夜にアッシュの写真と手紙を飽きることなく見返しては気付けば朝、なんてことを繰り返していた。
    それから毎日、ソワソワとポストを覗くのが英二の新たな日課となった。




    「英二、お前大丈夫か」
    「え」
    仕事の打ち合わせがてら、いつものカフェで近状報告をしていたときだった。
    いつになく暗い表情の英二にマックスは何事かと心配する。
    心配させたことを申し訳なく思いながら英二はアッシュが今少年院だと伝えるとマックスは目を丸くした。英二の様子の理由を知るとなるほどなと、どこか納得したようだった。
    「あのガキがなぁ。珍しいヘマしたもんだ」
    会えば互いに憎まれ口しか叩けないアッシュとマックスだが、それ故の気安さと信頼は築けている。
    それを言うと反発されてめんどくさそうなので言ったことはないが。
    「それでお前はアッシュが心配で仕方ないってか」
    「まぁ……そういうことかな」
    否定もしない英二にマックスはフーッと長いため息をつく。それは呆れなのかなんなのか。
    「ほっといてもすぐに出てくるんだろ。あっという間だよ」
    「それでも心配なんだ」
    「お前が言いたいこともわかるがあいつが簡単に潰されるようなタマか それどころか向こうでも悪ガキ仕切ってそうだけどな」
    「確かにものすごくありえそう……」
    アッシュのカリスマ性なら……と思えてしまう。
    「人の心配ばっかしてねえで自分のことも気遣えよ。あいつが戻ってくる前に気が滅入っちまうぞ」
    元が細いというのに、また線が細く見えるのはマックスの気のせいではないだろう。いつもはそこにいるだけで人を和ませるほど温かな雰囲気をしている英二のこの気の沈み込みようにはマックスも驚かされる。
    それでなくともいつでも気丈に振る舞う英二が何度もため息をついて肩を落とすだけで何事かと思ってしまうものだ。
    「そんな。平気だよ」
    「今はな。とにかくお前はまず自分の心配をしろ。アッシュのことを考えるのはその次だ。あいつだって同じこと言うと思うぜ」
    マックスの眼差しはまるで子供を見守る父親そのものだった。さすがの英二もそれを突っぱねることはできず、少しだけ己を顧みた。
    それからいつものように打ち合わせを終えると、ちゃんと飯食えよという言葉を置いてマックスは去っていった。
    「……今日はまともなの作るか」
    マックスが言った通り、ここ最近英二はアッシュの心配ばかりで、いつもは手間も時間もかけるほど楽しんでいた料理をサボっていた。
    アッシュと食事するようになってからはより食事に気を遣っているくらいだったというのに。
    あんまりサボって彼が戻ってきたときに腕が落ちているのも嫌だと思い、英二は食材を買い込むためにそのままマーケットに向かった。




    そして、なるべく考え事をしないように無心で料理を作った。油断するとすぐに手が止まってしまうからだ。黙々と出来上がった料理を盛り付け、皿がテーブルを占拠する頃。
    「あ……」
    気付けばテーブルの上には彼の好物ばかりが並んでいた。アボカドとエビのサラダ、綺麗に巻けた卵焼き、味噌汁に炊きたての白米、豆腐ハンバーグ、そして納豆。
    納豆だけは好物ではないが。
    顔をしかめてそれでも一粒だけでも食べてくれるのが嬉しくてついつい何度か出してしまう。
    出来上がった2人分のハンバーグを目の前に英二はため息をついた。
    この国にやってきてほとんどずっと1人で食事をしてきた。来たばかりの頃は当然、寂しさも多少あった。慣れないことや失敗があると1人で部屋にいる現状に泣きそうになることもあった。
    けれど今は、今までよりも何よりもこんなに寂しい食事をしたのは初めてだと確信できた。
    毎日アッシュと食事ができたわけでもない。本当に、彼が気紛れにやってきてくれたときだけ。または英二が街を訪れているときに会えば今日は家に来るかいと、そんな会話があったとき。
    今はそのどちらもない。アッシュは彼の庭であるあの街にはいないのだから。
    英二はふと箸を止め、窓の外を見やる。すっかりと闇色に染まった外は静かだった。この向こうに、ずっと先に彼はいるのだろうか。
    今どうしているのだろうか。アレックスから聞いた話だと少年院といえど穏やかな場所とはいえないらしい。だがアッシュなら心配することはないと。
    それでも英二の胸には不安が渦巻いて飲み込もうとしてくる。怪我はしてないだろうか。ちゃんと眠れているだろうか。また何か巻き込まれて辛い思いをしていないだろうか。
    どれだけ手紙が来ても、どれだけ彼が強くても、会えないというだけでこんなにももどかしい思いをするなんて、英二は知りもしなかった。
    アッシュに出会ってからは知ることがたくさんありすぎる。
    考えてみれば、彼と出会ってからこんなにも顔を合わせないのはこれが初めてだった。アッシュが会いに来てくれなければ、英二はあのバー以外では偶然街で出会うことでもしない限り、彼と会えない。
    そのとき、もしかしたら自分がアッシュに会いに行くよりも、彼が会いに来てくれるほうが多かったのかもしれないと英二は気が付いた。


    『英二』


    彼が呼ぶ声が蘇る。

    追いかけてばかりだと思っていた。
    けれど、そうだ。彼は、会いに来てくれていたんだ。
    彼もまた、自分と同じように会いたいと思っていてくれたのだと自惚れていいのだろうか。
    それを自覚した瞬間、言いようのない感覚が心臓を襲った。きゅっと締め付けるような、それが痺れとなってじわりと身体に伝播する感覚。
    心なしか体温が上がった気がする。
    「 どうしよう……本当に体調崩したかな」
    マックスに言われた通り、アッシュが戻る前に倒れたら洒落にならない。
    英二は未だドクドクと騒がしい心臓と赤くなった頬を鎮めるために今日は早めに寝てしまおうと手早く食事を済ませた。
    しかしその日はベッドに潜り込んでもなかなか寝付けず、かといって習慣と化したアッシュからの手紙と写真を眺めていても眠気が来るどこか遠ざかり、いつまで経っても彼の笑った顔が頭から離れなかった。
    (君のこと考えて眠れないだなんて知られたらきっと笑われる……)
    真っ暗な夜の中、英二の目蓋の裏には太陽よりも輝く1人の少年が穏やかに笑っていた。






    その翌日のこと。まだだいぶ明るい時間。それは昼を過ぎて少し経った頃だった。
    仕事を終え自宅に戻ってすぐ、鳴らされたチャイム音に英二は手にしていた荷物を置いて玄関へ向かう。
    「やあ」
    「ブランカさん、こんにちは」
    やってきたのはブランカだった。
    「おや、これから出掛けるところだったかな」
    英二が上着を着ているのに気付いたブランカはタイミングが悪かったかなと呟く。
    「いえ今ちょうど帰ってきたところなんです。今日はどうしたんですか」
    「この前の紅茶のお礼がしたくてね。前に作ってみたいと言っていたレシピがあったろう。それを伝えたいと思ったんだが、顔色が悪そうだ。また出直した方がいいかな」
    「え、いや、その……か、考え事をしていて寝るのが遅くなってしまったんです。平気ですよ」
    誤魔化すようにぎこちない笑みを浮かべながら、英二は昨夜の熱が振り返したように頬が熱くなるのを自覚した。
    ブランカはそれに気付かないのか、はたまた気付かないでいてくれたのか英二の言葉に納得してくれたようだ。
    「そうかい なら今から時間があればどうだろうか」
    「いいんですか 是非お願いします」
    「そのまま早めの昼食になるが大丈夫かい」
    「ご馳走になっていいんですか」
    「私の趣味に付き合わせるお礼さ」
    ブランカの提案に英二は断る理由もなく、ブランカの自宅へとお邪魔した。
    今までも何回かブランカの自宅に訪れたことはあったが変わらず物が少ない家だった。
    ブランカは手際良く調理をしながら、英二に新しいレシピを教えてくれた。英二もそこそこ料理ができる方だが、ブランカはプロのようにその手際も美しい。そして何より、彼の料理は絶品なのだ。
    英二は見習わないとなと、ブランカの言葉を熱心に聞きながらその手先を見つめていた。
    そして出来上がったのはアボカドとベーコンのパスタに手作りのドレッシングのサラダ、そして具沢山のコンソメスープ。
    シンプルな料理だが、自分が同じものを作ってもここまで美味くは作れないと実感しながら英二はその味に舌鼓を打つ。
    「このドレッシングすごい美味しいです。ブランカさんが考えたんですか」
    「色々と研究しててね。気に入ってもらえたなら良かった」
    メインだけでなくサラダもスープも絶品だった。果たして自分はこの味を再現できるだろうかと思いつつ、真っ先に彼の顔が浮かぶ。
    久々に誰かととる食事は思いの外英二の気持ちを慰め、料理のコツやアイディアを話しながら食事は進んだ。
    「僕もブランカさんみたいに料理が上手くなりたいですよ」
    「英二くんはもう十分腕はあると思うがね。アッシュのためかい」
    「はい……アッシュったら、まあまあだなんていいながら僕が作ったサラダを真っ先に食べ切るんですよ」
    素直じゃないのは相変わらずだが、彼の行動は案外真っ直ぐでわかりやすい。
    それにはさすがのブランカも思わず笑ってしまう。
    「意地っ張りな猫ちゃんだ」
    「そうですね。でも、それが嬉しくて。誰かに自分の料理を食べてもらうのがこんなに嬉しいだなんて初めて知りました」
    黙々と食べるアッシュをあんまり見ていると照れてしまうから、英二は何でもないようにしてそっと彼の反応を伺い見るのが好きだった。
    そしてあの凛々しい顔がふわりと、僅かに綻ぶのを見るのはもっと好きだった。
    アッシュのことを考えると途端に彼がいない現実に気持ちが落ち込んでいくのがわかる。こればっかりはもうしょうがない。
    「……アッシュは今、少年院だそうだね」
    「知ってるんですか」
    「風の噂でね」
    「はぁ……」
    一体どんな風の噂だろうかと気になるが、ブランカなら知っててもおかしくはないと思えてしまうのは何故だろうか。
    「まったく。君をこんなに落ち込ませるだなんてあの猫ちゃんは」
    「いえ、僕が勝手に心配してるだけなんです。それに、確かに心配もしてるんですけど……」
    その先を躊躇う英二をブランカは静かに待つ。躊躇っていた英二だが、やがてゆっくりと口を開く。
    「僕、アッシュがいなくてすごく寂しいんです。大袈裟かもしれないですけど、身体の半分がなくなったみたいで」
    アッシュと会えなかったときは少し前にもある。あれはアッシュが英二の個展を見にくれたときだ。
    忙しくてなかなか家に帰れなかったとき、当然だがダウンタウンにも行けずアッシュと会えない日々が続いた。だがこれから先、あのとき以上に彼とは会えない。
    しかも未だに面会に行く来るなの攻防は続いている。
    「大の大人が恥ずかしいでよね。不安なのはアッシュの方なのに、僕は自分が寂しいからって勝手に落ち込んでみんなにまで気を遣わせて……」
    「そんなことはないよ。大切な人と会えないのは誰にとっても寂しく辛いことだ。きっとアッシュも英二くんに会えなくて寂しがってるだろうさ」
    ブランカは英二を否定することなく、優しく諭す。それは自責の念と不安に揺れる英二に優しく染み込んでいった。
    「でもアッシュは面会に来るなって……」
    「心配しているんだよ」
    「……僕が弱いからですか」
    「いや、英二くんが例え強くとも変わらないよ。……アッシュにとって君は誰よりも愛する存在だからね」
    「え 今なんて……」
    「さて、せっかくの料理が冷めてしまうよ」
    「は、はい」
    英二はブランカの聞き取れなかった言葉が気になったが、せっかくの料理を温かいうちにと再びスープに口をつける。
    そんな礼儀正しく素直な英二をブランカはここにはいない彼の親友である少年がここへやってきたときのことを思い返していた。







    それはいつだったか、ブランカがリンゴのジャムを作った少し後のことだった。


    荷物を抱え、ドアノブに手をかけたブランカは振り返りもせず背後にいる人物に話しかけた。
    「お前が私に用があるだなんて珍しいな」
    ブランカが徐に視線を背後にやれば、1人の少年がブランカを睨み付けるかのように強い眼光を放っていた。いつものような剥き出しの警戒心とは違うそれに、ブランカは彼を部屋に招き入れた。
    ブランカの後ろを黙ってついていくアッシュは音もなく歩く。その表情からは感情が読み取れない。しかしブランカはそんなときのアッシュこそ何か深く考え込んでいることをよく知っていた。
    いつもの憎まれ口もない彼をブランカは気に留めない様子で、彼が口を開くまで待っていた。
    少しして、すっかりと買い足した品を仕舞い込んだとき。
    「1つだけあんたに頼みがある」
    ブランカは手を止め、アッシュを見遣る。緊張を孕む沈黙が2人の間に流れた。
    「俺に何かあったとき、あいつを頼む」
    その言葉を聞いた瞬間に、ブランカは悟ってしまった。
    ブランカの表情が僅かに動く。それはほんの小さな変化で、一瞬だった。
    ブランカはアッシュの一言で全てを理解したのだ。
    彼が、愛すべき人間を見つけたことを。
    愛を知った。知ってしまったことを。
    それはアッシュの行く末を憂いたのか、哀れんだのか、それともようやくと安堵したからなのか。
    ブランカ自身、とても言葉では表せない感情だった。
    「……ウサギと山猫はしょせん友達にはなれないとしてもか」
    「ああ、そうだな。でもあいつにはそんなもの通じない。僕らは同じ世界で生きてるってよ。笑えるだろう そんなもん信じてるあいつも……信じたくなった俺も」
    嫌になると自嘲するアッシュは苦しげに、まるで自分自身に呆れているようだった。
    「お前が彼を信じるならば、それが真実なんだろう」
    だがブランカはアッシュの、英二の言葉を否定はしなかった。
    彼らを見ているとどうしても、胸の奥に仕舞い込んだ感情が飛び出して来そうになる。
    誰かを思い、変わろうとしたあの感情を。
    かつて自分も信じた世界を今、己の弟子が信じようともがいている。
    アッシュに、それならば彼から離れるべきだと言うべきだった。手離さなければお前も、彼も傷付くと。
    だがこのときのブランカには言えなかった。
    それは僅かでも、自身と愛する『彼女』にも幸せと呼べる時間が確かにあったからだ。
    ブランカはわかっていた。
    今、アッシュに突き付けようとした現実と言葉はかつての己に言ってやりたいことだと。
    だがそれでも、アッシュは彼の手を離さないだろう。
    かつての自分がそうだったように。
    「彼は私の友人でもある。困ったら助け合うのがご近所付き合いというものだ」
    ブランカの返答が意外だったのか、アッシュは拍子抜けしたように目を丸くした。
    「……断るかと思った」
    「お前なら私を雇うくらいの気概だと思ったが」
    「もちろん。出世払いでな」
    「お前に出世する予定があるとは初耳だ。だが、そうだな……それ相応の対価をもらっても文句は言われないはずだな」
    「……なんだよ」
    軽口を叩いていたアッシュは途端に警戒心を剥き出しにする。英二に何か要求するなら筋違いだと言わんばかりに。
    探るような視線を受け流して、ブランカはわざとらしく考え込む仕草をする。
    そしてにっこりと、アッシュ曰く胡散臭さの塊のような笑みを浮かべた。
    「もしお前に何かあったときは、英二くんに手料理をご馳走になろう」
    「はぁ」
    ブランカの要求はアッシュでは想像できない方向へ飛んでいた。不審なものでも見るかのように眉をひそめる。
    「おや、お前にとって英二くんの手料理はそんに安いものか」
    するとぐっと、それはそれは悔しそうに口を歪めるアッシュがブランカを睨み付ける。
    英二に関しては驚くほど心が狭いということをこの師は理解しているのだ。
    「……あいつに変なことしやがったらただじゃおかねえ」
    「随分と信用がないな」
    これでもかと眉間にしわを寄せるアッシュにブランカは愉快そうに笑う。歪な師弟が1人の友人のために手を結んだ瞬間だった。





    「どうかしました、ブランカさん」
    ふと、意識を戻すと英二が不思議そうに首を傾げていた。
    「いや、まだまだ改善の余地があるなと思ってね。レシピを考え直していたんだ」
    「こんなに美味しいのにまだ美味しくなるんですか すごいなぁ」
    英二は純粋に感心した様子でまた一口、料理を口に運ぶ。子供のように感じたまま表情に出る英二をブランカは穏やかに見つめた。
    「こんなに美味しいごはんご馳走になったんだからやっぱりお礼がしたいです」
    「私としてはこうして美味しいと言ってくれれば十分だが……そうだな」
    頭の中で不機嫌な山猫が何やら騒いだ気がするが、今はそれを見ない振りをする。
    「今日教えた料理、是非英二くんが私に作ってみてくれないかい」
    「え、そんなことでいいんですか」
    「もちろん、色々と口出しさせてもらうよ。私はスパルタだからね」
    「それは……気合を入れないとですね」
    ブランカのウインクに英二は笑みをこぼした。
    アッシュは悔しがるだろう。
    だが英二がこのレシピを完璧に作れるようになったとき、1番に食べさせるのはきっと……。










    「アッシュ」


    よく晴れたその日。


    その塀に囲まれた窮屈な建物から少年が出てくる。


    彼に駆け寄る姿が1人。


    2人は塀を見上げ、塀を向こうで待っていた。


    その向こうにいる彼を。


    そして今日、2人を隔てる塀はなくなった。

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