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    忘れ得ぬ、雪軒、A英など。支部から作品移動したもの有り。

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    A英/僕の小さな旦那様出会い編まとめ。
    支部にて投稿したまとめたものです。

    僕の小さな旦那様【出会い編】1〜3僕の小さな旦那様【出会い編】


    「……大きいなぁ……」
    これ以上見上げられないほど首が上を向く。今の自分はよほど間抜けな顔をしているだろう。
    目の前には見たこともないような立派な屋敷が建っている。派手、というより荘厳で重々しく、長い時間を感じる。英二は緊張からゴクリと唾を飲み込んだ。無理を言って自分で運ぶと言ったカバンを握る手に力が入る。
    ここまで乗せられた馬車も4頭立てだった。乗る前から通りの注目の的になってしまった。見送ってくれた両親が呆然としてしまうのも無理もない。英二もそうだった。
    改めて自分の状況に困惑していると、これまた大きな扉の前に立つと重たげな音を立てて開いた。
    目に飛び込んできたのはだだっ広い玄関ホールとそこに並んでいる使用人達の姿だった。奥の階段までの道の両脇にずらりと並び皆、どうしてそこまで揃えられるのかと不思議に思うくらいきっちりと同じ角度で頭を下げている。高い天井に飾られたシャンデリアの光を反射して大理石の床まで光っているように見える。
    「ようこそいらっしゃいました。英二様」
    あまりにも慣れない状況にどうすればいいのかと狼狽える英二の前に燕尾服の男性が近付く。
    英二と同じ黒い長髪だがその身長やがたいの良さはまるで違った。にこやかな笑みを浮かべる彼はこの屋敷の執事だ。
    「ブランカさん」
    「道中お疲れでしょう。すぐにお部屋に案内します。お荷物をお預かりいたします」
    「あ、すみません……これは自分で運びます」
    迎えられる屋敷の執事とはいえこんなことを言うのは英二もはばかられた。しかしこれだけはそうも言っていられない。
    気を悪くするかと思ったがブランカはあっさりと手を引いた。
    「では、このままご案内しますね」
    「は、はい」
    ガチガチに緊張しているせいで自分が挙動不審なっているのがいやでもわかる。それを気にしないでくれるブランカの対応がかえっていたたまれない。
    (仕方ないじゃないか〜 こんな立派なお屋敷入ったことなんてないし 何も触らないようにしよう……)
    英二は広い屋敷内を見回しながら執事のあとをついていく。玄関ホールの大きさからもわかったがやはり恐ろしいほど広い。窓から見える庭には色とりどりの花が咲き誇り、芸術品のようだった。
    長い廊下を進み、たどり着いた部屋に案内される。これまただだっ広い部屋には落ち着いた木目調の調度品が揃えられ温かみが感じられた。この慣れない屋敷という空間には緊張するが、無駄な派手さがない部屋の雰囲気に緊張が和らいだ。
    「こちらが英二様のお部屋となります。気に入らなければすぐに別の部屋を用意するようにと主人から言われておりますので遠慮なくおっしゃってください」
    「そんな 僕には広すぎるくらいです……」
    首がもげそうな勢いで横に振る英二にブランカはニコリと笑みを向ける。落ち着いた雰囲気に英二は更に自分がここにいることが場違いだという思いが強くなった。
    「突然のことで不安なのですね」
    「えっと、はい……」
    「無理もありません。私も今回のことは随分と強引だと思いましたから」
    「そんなこと言っちゃっていいんですか……」
    「ははは、知られたら大変ですね。このことはどうか内密に」
    ブランカは何かあればすぐに呼んでくださいと言って部屋を出た。残された英二は詰めていた息を吐き出すと床にへたり込む。ソファーすら恐れ多くて座れない。床も手触りのいい絨毯に覆われている。天蓋付きのベッドなんて見たこともない。
    「今日からここに住むのか……」
    立派な屋敷に住める喜びよりもこの豪華さの中で生活するプレッシャーの方がはるかに大きい。はたして無事に生き延びられるのか。
    英二はもう一度大きなため息をついてどうしてこうなったんだっけと、思い返していた。



    奥村英二は美術商をしている両親と共に異国へ移り住み、そこで育った。美術商とは言っても特別儲かるわけでもなく、母国とのつながりのおかげで現地では珍しい品が取り扱えていたため一般家庭より少しだけ裕福な程度だった。知り合いのツテもありそこそこやっている。
    その影響か英二は幼い頃から美術関係に関心が強かった。ここ10年ほどで普及が進んだカメラは特に彼の心を惹きつけた。家の手伝いをしながら自己流だが写真を撮り続けている。写真はほとんどが新聞の記事や広告など情報の表現の手段として使われることが多い。だが、英二は絵画のように風景や人物を撮る。絵の具のように色の調節も思い通りの構図にすることも難しいがカメラにしか写せないものもある。世間の認識では写真はまだ芸術ではないが英二はいつかそんな日が来るかもしれないと思っている。
    同じ異国人の伊部とは仕事の関係だけでなく家族としても付き合いは古い。そんな伊部の友人であるマックスとも伊部を通じて知り合った。
    記者をしているというマックスの手伝いで時折写真を撮ったりもする。こんな素人でいいのかと聞いたこともあったが、経験を積まなければ成長はできないだろうと英二のカメラの腕を磨く機会と仕事を与えてくれる。
    大好きなカメラを仕事にしながら家の事業を手伝い、親からそろそろ結婚はとせっつかれる年齢になった。そんな頃。
    「え 破産ってどういうこと」
    突然、両親が美術商を続けられなくなったどころかこのままでは路頭に迷うとまで言いだしたのだ。
    「実はな……仕入れた商品が贋作だったんだ。今回は依頼されて作品をオークションで買い取ったんだがそれがかなりの高値でな。この一点だけならまだなんとかなったんだが……」
    「他に仕入れた作品も贋作だったの」
    「ああ……」
    「でも鑑定書とか。いつも鑑定士の人が見てくれてるはずだろ」
    美術商を生業としている父はもちろん目利きが効くし専門家も雇っている。美術商にとっては贋作は天敵だ。それを警戒しないはずはない。
    「鑑定書も偽装だった。鑑定士は……いつもの彼が都合で来れなくてな。代わりに紹介してもらった人に来てもらったんだが……。今は連絡も取れない」
    「それって……取引相手と鑑定士がグルだったってこと」
    両親は肩を落としてため息をつく。その顔色は酷いものだった。
    贋作を客が買い取るわけもなく、また客に売ることなどできない。オークションの出品者も連絡がつかないという。今頃騙し取った金を持ってどこかに逃げているだろう。
    しかもよりによってうちではあまり取り扱わないような特に高額な作品がいくつもあったせいで損害が大きい。今抱えている絵画や彫刻を売ってギリギリだが今後美術商を続けるには心許ない。家の稼業がなくなるとはつまり収入がなくなるということだ。しかもいきなり。
    「今すぐにどうこうなるわけでもない。なんとかできないかやるしかない」
    父はそう言いながらも顔色は相変わらず暗い。この状況をどうにかする方法なんて正直英二には思いつかなかった。
    今の自分の仕事では家族を養うことは到底無理だった。両親は好きにやりたいことをやればいいと背中を押してくれて美術商の仕事も継がなくてもいいと言うほどに。英二が今カメラの道に進めているのも両親の理解のおかげだ。そんな2人をこれ以上苦労させるわけにはいかない。
    英二は今の仕事を辞めてもっと稼ぎのいい職を探すことを考えた。それはカメラの道を諦めることになる。しかし今はそれしかない。やりたいことはまだたくさんあったがわがまま言っていられない。
    「マックスに話しておかないとな……」
    このカメラももしかしたら手放すことになるかもしれない。英二は手のひらに乗る小さな相棒をそっと撫でた。



    と、思っていたのだが。
    「…………えっと、もう1度説明してもらってもいいですか」
    どうにも理解が追いつかない。何故だろうか。
    英二、両親の前には燕尾服をまとった男がニコニコと人が良さそうな笑みを浮かべている。奥村家のリビングでソファーの向かい側に座るのは主人の使いでやってきたという執事だった。ブランカと名乗った彼から聞かされる話に3人は目を丸くする。
    ブランカは笑みを崩すことなく再び彼の主人の言葉を伝えるために口を開く。
    「奥村様の事業の手助けを我がカーレンリース家にさせていただきたいのです。資金援助、専属鑑定士の査定、それから奥村様が依頼されたという作品はこちらで確保いたしました。本来ならば奥村様の手に渡るはずのもの。後ほどお届けに参ります」
    「しかし……」
    「すでに手放された数点の作品も回収はできております。ご一緒にお送り致しますね」
    ゆったりとした口調ながらも有無を言わせない雰囲気に3人はとりあえず頷くしかない。英二が困惑しているのと同じように両親も顔を見合わせている。
    「最後に1番大切なお話がございます。これらの援助をする代わりに……」
    ブランカの言葉に3人は身構えた。
    それも仕方ない。カーレンリースの名は知っている。が、奥村家には縁はないはずだ。だというのにここまでの援助をする理由が相手にはない。ならば何かを要求されるのか。といっても『あの』カーレンリース家が求めるようなものを小規模な美術商である奥村家が持っているとは思えない。
    一体何を言われるのかと3人が冷や汗をかいて待っていると、ブランカは英二に視線を向けた。
    「奥村英二様、あなたには我が主人アスラン・カーレンリースの妻となっていただきたい」
    「…………はい」




    大切なカメラをしまったカバンをそっとテーブルに置いて再びうなだれる英二。思い返してもどうして自分がここにいるのかわからない。
    そして何故、自分が妻なのか。
    (僕を女だと勘違いしてるとか それしか考えられないけど)
    ブランカに告げられた条件に両親は当然反対した。いくら破産の危機にあろうと英二を売るような真似はできないと。するとブランカは。
    「もちろんです。これは政略結婚でも略奪でもありません。ですが主人は英二様を大変気に入られております。そこでどうでしょうか。しばらくの間カーレンリース家の屋敷に滞在するというのは。英二様がそれでもご結婚される気がなければそれでもいいと主人は仰いました。もちろんその場合でも援助はいたします」
    「どうしてそこまでしてくれるんですか」
    英二には見ず知らずの他人がここまでしてくれる理由がわからなかった。
    「それは……本人に直接聞いてやってください」
    「え」
    ふと、ブランカの表情に義務的な笑みではない色が混じった気がした。
    「お試しの婚約期間とでも思っていただければよいかと」
    それはすぐにわからなくなりまた完璧な笑みに隠される。
    結局、英二はその婚約期間の間屋敷に住むことを決めた。家族の恩人でもあるし、何故自分なのかはわからないけれど実際会ってみれば相手も考え直してくれるかもしれない。何よりも助けてくれたお礼を言いたい。
    そう言って心配する両親を説得して馬車に揺られここまでやってきた。
    「未だに信じられない……。だって……」
    そのとき、コンコンとノックが部屋に響く。
    「は、はい」
    なんとも力のない声になってしまったのは仕方ない。急いで立ち上がっておかしなところがないか身だしなみを整える。こんなことなら髪も短く切った方が良かっただろうか。そうなると無駄に若く見られてしまうからなぁと軽い現実逃避をしていると英二の緊張などお構いなしにドアが開けられた。
    扉の向こうから音もなく1人の少年が現れる。サラサラとした、まるで太陽の光を束ねた金色の髪をしている。若木のようにすらりとと伸びやかな手足、どことなく儚げに見える陶器の白い肌。けれど光を帯びる翡翠の瞳は星のように力を秘めている。
    圧倒される。それと同時に自分が今、彼に見惚れているのがわかる。
    気付けばその少年は英二のすぐ目の前まで来ていた。前髪の隙間から翡翠の宝石がのぞいている。身長差があるせいで自分が彼を見下ろすかたちとなる。
    「あ、あの、あなたが……」
    「アスラン・カーレンリースだ。一応カーレンリース家当主だ」
    自分よりうんと年下の少年が当主だったことにも驚いたが、この彼が自分を妻に選んだなんてますます英二はここにいるのが間違いに思えてきた。
    子供だからと侮ることなどできないオーラを身に纏いその佇まいも堂々たるものだ。この若さで当主を務めているのも納得できてしまう。
    そして彼のような美しく魅力ある人間などそうそう見つからないと確信できる。彼なら結婚相手など選り取り見取りだ。だというのにどうして自分を妻にしたいのか。妻、というのも疑問なのだが。
    大貴族の当主と美術商の家に生まれたがほとんど平民と同じような身分の自分。身分に年は関係ない。英二は失礼がないように気を張る。
    「カーレンリースさん、僕……」
    英二がこれは何かの間違いではと問うのを遮るようにアッシュの声が被る。
    「アッシュだ。そう呼んでくれ英二」
    「アッシュ……あの、この度は助けていただき本当にありがとうございました。それで……あの、それで間違いでなければ結婚……の話があると聞いたんですが」
    礼を告げこちらではあまり馴染みがない作法だが英二は深々と頭を下げた。おずおずと顔を上げながら何度聞いても未だに信じられないことの真偽を確かめようとすると感情が読めない表情のアッシュがじっと英二を捉えていた。
    射抜くような強い視線から目を離せない。
    英二はつい癖でアッシュの顔をまじまじと見つめた。アッシュもまっすぐに、視線を逸らそうとしない。
    この翡翠を、もっと前から知っている気がする。そう思ったときだった。
    「……約束は、覚えてないみたいだな」
    アッシュの小さな呟きに英二が首をかしげる。
    「え」
    「いや、なんでもない。……その件は、どう判断してもらっても構わない。お前がどんな答えを出しても援助は続ける。……嫌になったら帰ってもいい……」
    聞いた通り理不尽な相手ではないようだった。しかし帰ってもいいと言いつつその顔にはちょっと弱気で、寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。このとき彼の本心を僅かに垣間見たように思えた。
    「どうして……」
    疑問はいくつもあった。
    どうして初めて会った自分を結婚相手に。
    どうしてそんなにも優しいのか。
    どうして、そんなにも悲しそうな顔をするのか。
    この結婚にどんな意味があるのか英二にはわからない。 自分は男だとか年の差が、などよぎることはあった。
    だけどそんな顔をされるとどうしてか放っておけなくて、英二は考えるよりも前に動いていた
    「まだ結婚とかちゃんと考えられなくて……どうなるか僕にもわからないけど、……ここにいてもいいですか……」
    どんな理由があるかわからない。けれど、それで彼の表情が少しでも晴れるならそうしたい。不思議なくらいこの少年のことを1人にしたくなかった。
    英二の答えが予想外だったのか、アッシュはその翡翠色の瞳が丸く見開かれた。
    そしてあんなにも真っ直ぐに見つめ返していたのに顔を逸らされてしまう。
    「好きにしろ……」
    (あ、照れてる)
    ぶっきらぼうに聞こえたのにそう思えたのは、彼の白い頬が僅かに赤みを帯びていたからだった。
    緊張ばかりしていた英二はそのときようやく、小さな笑みを浮かべた。




    僕の小さな旦那様【出会い編】2




    「カーレンリース家 あの大貴族のか」
    マックスの声が響き渡ったのは彼の職場である新聞社の一室だった。
    そこは英二の勤め先でもあり、驚きの声をあげたのは一応英二の上司にあたるマックス・ロボだ。新聞記者であるマックスの助手としてカメラマンを務めてきた英二は今日、今後についての話し合いのために訪れていた。
    家業で取り返しがつかない危機に見舞われ、もはや自分の夢のためだけに働けないと、伝えに来たのだが、当初の予定ととはだいぶ違う報告になった。
    「カーレンリース家っていえば、名門じゃねえか。一時期は後継問題で荒れてたみたいだが。今の当主になってからは領地内もだいぶ安定して豊かになったって聞いてるぞ」
    「そう、あのカーレンリース家だよ」
    「お前いつの間にそんな大物と知り合ってたんだ」
    「初対面だよ。両親もカーレンリース家に関わるような仕事は受けたことがないって言うし……」
    「じゃあ、赤の他人のためにあの大貴族がなんのメリットもなくお前の家族を助けたって」
    「まあ……そういうことになるのかな……」
    マックスは英二から一連の騒動……の詳細を聞かされなんとも言えない顔をする。確かにいきなりそんな話をしてもなかなか信じられないものではある。英二自身ですら未だによくわかっていないのだ。
    「なーんか胡散臭いな。第一援助する代わりに英二をよこせって断りようがねえじゃねえか」
    マックスは貴族の強引な手段に憤慨しながらも何故という疑問を捨てきれなかった。
    マックスは職業柄、そういった貴族の込み入った関係性や事情に精通している。だからこそ、カーレンリース家のこの暴挙とも言える申し出の意味を理解することができなかった。
    カーレンリース家は確かに大貴族である。全く潔癖な貴族というのは残念ながら多くないのが現状であった。特にカーレンリース家は長い歴史を持ち、抱えているものは軽くない。
    だがマックスの知る限り現当主はそれらをまるで嫌っているかのように真っ当な行いをする人間と記憶していた。
    14歳の若さで当主を務め、その才覚をいかんなく発揮し領土を潤している。事業拡大によって生まれる恩恵を受けるのは領民だけでなく、国にすら新たな技術を持ち込むきっかけになっている。
    だからといってそれによって生まれる莫大な資金を惜しみ不正を働く、なんてことはなく彼は持つものの責任を体現するかのように積極的に慈善活動を行っている。
    いくら国が豊かになろうと、飢える人間はそう簡単にはいなくならないのが現状だ。
    まさにカーレンリース家は絵に描いたような貴族だった。いや、現当主が、と言うべきか。
    そんな人間が平民の、ましてや男である英二と結婚することに何の意味があるのか。
    その真意が全く読めない。
    それは英二も同じことだった。
    「理由は何なんだ」
    「わかってたらこんなに悩んでないよ」
    「聞けばいいだろ」
    「怖いくらい心当たりがなさすぎて聞くに聞けないんだよ」
    「なんだそりゃ」
    マックスは呆れたように様子で声を上げる。
    「第一、お前はいいのか 家のためとはいえ、男と結婚するんだぞ。いやもうしてるのか……」
    「それは……」
    ふと、英二の脳裏にはアッシュの顔が浮かんだ。

    『……嫌になったら帰ってもいい……』

    あのときの一瞬の表情が忘れられなかった。帰ればいいと言いながら、それを望んでいるようには見えなかった。自惚れかもしれないが、惜しまれている気がして。
    どうしてもあのまま帰ることなんてできなかった。側から見れば随分と強引な理由だったが、あんな表情をする彼がひどい人間だとは思えない。だから英二はその理由を知りたいと思えたし、なにより彼にあんな顔をさせたくなかった。
    考え込む英二をマックスは不思議そうに見ていたが、しばらくして切り替えるように切り出す。
    「まあ、何にせよお前に無理矢理迫るようなことがないならしばらくは様子見でいいんじゃないか その当主様も何かあったら帰っていいって言ってんだろう」
    「うん……」
    「案外貴族の気まぐれで、そのうち向こうから帰ってくれなんて言われるかもしれないぞ」
    「そんなものかなぁ……」
    マックスの言葉を心から納得できないのは英二自身、これまでほとんど貴族と関わりを持たなかったため彼らの考えなど想像もできないせいなのか、それともあの若き当主にもしそんなことを言われたら、どうしてか少し寂しいと思ったせいか。
    初めて会ったはずなのにこんなにも彼のことを考えてしまう自分が不思議で、気付けば思い浮かべるほどに英二の心を占めていた。
    「次会うときは是非理由を聞かせてほしいもんだな」
    「他人事だと思って簡単に言ってくれるよ、まったく」




    事務所から出ると通りには立派な4頭立ての馬車が待ち構えていた。
    「そうだった……」
    英二は周囲の視線の先へおずおずと向かっていく。すると馬車の前で待っていた1人の燕尾服の青年が当然のように扉を開く。
    「ごめんなさい。お待たせしました」
    「いいえ、当然のことです」
    燕尾服の青年、アレックスは英二付きの執事だ。
    英二がアッシュと対面し、その日から英二は屋敷で暮らすこととなった。英二を妻に、という話だがまだ正式には夫婦となっていない。ブランカが言った通り、しばらく生活を共にしてそれから考えてくれればいいという話になった。
    新しい環境に戸惑わないようにと英二に執事が付けられたとき、驚きすぎて変な声が出なかったことを褒めて欲しいくらいだった。
    当然、英二はそれを断ろうとした。

    「ぼ、僕に執事だなんて…… 身分不相応です」
    「そんなに仰々しいもんでもない。世話役とでも思ってくれ。一応必要なものは揃えてあるが、困ったことや何か欲しいものがあれば言えばいい」
    アッシュの説明にますます首を横に振る英二。だがアッシュも引かなかった。
    「なら、どこに何があるかもわからない屋敷内をあんたは1人で歩き回る気か」
    「うっ……それは……」
    「……拘束する気はない。だがどうやったってここはあんたにとって知らないことばかりだ。そのための執事だ」
    「わかりました……迷惑はかけられないですし……」
    アッシュの言う通りだなと英二が自分の発言に後悔していた。そのせいで何か言いかけるアッシュに英二が気付くことはなかった。
    その後は別室に移り、わけがわからないまま仕立て屋と商人だと名乗る人から何やら採寸されたり好みの生地は、何を何着必要か、宝石はと怒涛の勢いで聞かれた。
    何の話だと混乱する英二に代わってアッシュとブランカが答えていたようだがそれもよくわからなかった。
    飛び交う話の中に出てくる品も金額も庶民として生きてきた英二の脳は理解を拒むものばかりだったからだ。
    「あ、あの、僕そんな……」
    「何か気に入られるものがございましたか」
    すっかり腰が引けてしまい声まで弱々しい英二にブランカはニッコリと笑みを向けた。
    「いえ……むしろこういうのは見るのも聞くのも初めてで……辞退したいというか……」
    「でしたら我々にお任せください。旦那様はこだわりが強い方ですからまだ長引くでしょう。先にお休みになられてください」
    「いえ、僕にこんな高価なものは……」
    「アレックス、こちらへ」
    「あれ聞いてますブランカさん」
    そしてブランカは1人の青年、アレックスを呼び寄せた。
    「彼がアレックスです。これから英二様付きの執事となります」
    アレックスは英二よりも少し高い背丈で精悍な顔つきをしている青年だった。突然自分付きの使用人に英二は戸惑いながらも、それを受け入れるしかなかった。
    そんなわけでそれから屋敷での生活についてはアレックスに頼ることが多くなった。今回も職場に顔を出しに行くと声をかけたらなんと馬車を用意され丁重に断りたかったのだが、「旦那様の言いつけです」と言われてしまえばそれ以上何も言えなかった。
    英二は揺れの少ない馬車の窓からぼんやりと外を眺める。見慣れた街並みはどうしてかどこか知らない街に見えた。ただ視界が少し高くなっただけだというのに。






    屋敷に戻るとちょうど出かけるのか、玄関ホールでアッシュと鉢合わせた。
    この屋敷に来てまだ数日、アッシュとまともに話したのは初日くらいだ。当主としての仕事が忙しく、また彼は様々な事業でその手腕を奮っている。この屋敷を留守にすることが多く、居たとしても書斎に篭り何やら忙しそうにしていた。
    アッシュは外出用のコートを身にまとい、そばにはブランカが控えている。
    (あれ、なんだか……)
    英二がふと、アッシュの表情に引っ掛かりを覚える。しかしそれを言葉にするより先にアッシュが口を開いた。
    「戻ったか。……何か不自由はないか」
    「いえ、何も」
    アッシュはチラリと英二に視線を向けるも、すぐにそれは外れてしまい、入れ違うように英二の隣をすり抜けた。
    英二はそれを引き止めることもできず、小さな背中を見送ることしかできなかった。
    「あ……」
    僅かに伸ばされた自身の手を押し留める。
    (また、何も話せなかった……)
    俯いた視界に、自分には不釣り合いな大理石の床とあちこちを歩き回り履き古した靴が映る。途端にいたたまれない気持ちが押し寄せてこのまま屋敷を飛び出したくなった。けれど今の英二にはこの屋敷にしか帰ることしかできない。
    英二は人からの視線から逃れるように部屋に入る。アレックスには1人になりたいといって外してもらった。
    英二に与えられた部屋は広すぎるくらいで、寒々しいほどだった。実際は寒いなんてことはない。けれどこの部屋の空気には人の温もりはなかった。
    ちらりと奥を見やれば、英二のためにと用意された調度品や新しい服、触れるこことも躊躇われるような腕時計に真新しい靴。屋敷にやってきてすぐに採寸されて用意された物が箱のままいくつも並んでいる。
    他にもたくさんの品が用意されていた。しかしそれらは部屋の隅で積み上がったり、クローゼットの中に押し込まれたままになっている。
    どれもがあまりにも高価で触れて壊したり汚してしまったらと考えてしまうと箱から取り出すこともできなかった。
    けれどよく考えてみれば仮にとは言え、貴族の当主と婚約関係を結んだ人間がこんなすり切れた靴や幾度も着てよれたシャツを身に付けている方がおかしい。
    相応しくあれと、思われているかもしれない。そうだとしたら高価だからと遠慮してる英二にアッシュはどんな気持ちなのだろうか。考えるだけでも英二の中には罪悪感と申し訳なさがつのった。
    未来ある若き当主に何故か気に入られ、囲われて結果的には貢がれている。喜ぶべき状況なのだろうか。
    けれど英二にはアッシュの真意がわからなかった。何故自分なのか。
    英二が今求めているのは高価で上質な品々よりもアッシュの気持ちだった。
    しかし忙しい彼と話すことすらままならない。来たばかりの屋敷で英二が話せる相手なんて多くはないというのに。
    「僕、ここにいていいのかな」
    英二の問いに答えるものはそこにはいなかった。



    アッシュとブランカを乗せた馬車が屋敷の敷地内から抜け、街道を走る頃。
    ブランカは己の主人の横顔を伺い見てやれやれと口を開いた。
    「そんな顔をするくらいならもう少し素直になったらどうだ」
    およそ従者が主人に向ける言葉ではなかったがアッシュはその態度に咎めることもせず、どちらかと言えばその内容に顔をしかめた。
    嗜めるブランカを視界に入れないように窓の外を睨みつける。
    「突然貴族に囲われて何の不安もないわけがないだろう。約束とやらを彼に話さないのは結構だが、彼を困らせるならこの関係は不毛だ」
    「うるせぇな……あいつに不自由なんてさせるわけないだろ」
    「物で満たすことがお前のいう幸せか」
    「…………」
    何も言い返せなくなったアッシュはきつく口を引き結ぶ。その瞳は内なる葛藤に揺らいでいた。



    一方、部屋に篭りやれることも少ない英二は相棒であるカメラの手入れをしていた。この屋敷に世話になっている間は生活費のことを考えなくてもいいが仕事に穴は開けられない。それはアッシュにも承諾済みだ。変わらずマックスの手伝いは続けることになっている。まだこの屋敷に居場所がない気がして仕事が詰まっている明日が恋しいと思いながら、慣れた作業を黙々とこなしメンテナンスを終えた頃、ノック音が部屋に響いた。
    英二はカメラを机に置いて、返事をしながらドアを開くと、そこには1人のメイドが立っていた。
    「ナタリアさん」
    「お仕事中に失礼します。お茶のご用意ができたのでお持ちいたしました。少し休憩なされませんか」
    優しげな笑みを浮かべるのはこの屋敷のメイド長を務めるナタリアだった。
    ティーワゴンを押す他のメイドが部屋を出るとナタリアは丁寧にカップに紅茶を注ぐ。
    ふわりと漂うお茶の香りに英二は無意識にホッと息をついた。薄いカップにそっと口をつける。
    「美味しいです。ありがとうございます」
    じんわりと体の芯が温まり気持ちが緩んでいく。その様子にナタリアは子供を見守るように穏やかに笑った。
    彼女もまた、まだこの屋敷に慣れない英二のために何かと世話を焼いてくれる1人だった。自分たちの主人の婚約者に対する態度としては間違っていないが、この屋敷の使用人にとって英二は主人の次に仕えるべき人間だ。だがその立場の違いに慣れない英二とってそれはどこかよそよそしく、孤独を助長させていた。
    そんな中、メイド長であるナタリアはそういった距離を感じさせない態度で英二に接してくれる。今のところ英二がこの屋敷の中で1番話がしやすいのは彼女だ。
    温かな紅茶に一息つけたが、英二の中にわだかまる気持ちはどうにも無くなってくれなかった。そんな英二に気付いたのか、ナタリアが尋ねる。
    「この屋敷にはまだ慣れませんか」
    「……まだ少し。僕なんかがここにいてもいいのかなって思ってしまって」
    「旦那様はそれを1番に望んでらっしゃいますよ」
    「そうでしょうか……」
    英二の表情が曇っていく。ナタリアはその先を促すように英二の答えを待つ。
    「なんだか、彼に避けられてるような気がして。いや、彼には僕と話すことなんてないから僕と会わないようにしてるかもしれませんね。それでなくとも忙しいみたいですし」
    ナタリアが言う通り、ここに居られるのは理由がどうあれアッシュがそれを望んでくれたからだ。それでも避けられていると、何か彼にしてしまったかと不安になるし、ますます自分がここにいる理由が分からなくなって不安になる。
    慣れない環境は思ったよりも英二を弱気にさせていた。
    するとナタリアは鬱蒼とした雰囲気を打ち消すように英二を呼ぶ。
    「英二様、庭園には行かれましたか」
    「え、いえ……」
    「まだ日も明るいですし、どうでしょうか。散歩がてらご案内いたしますよ」
    突然の提案に驚きはしたがこのまま部屋にこもっていても気が滅入りそうだったし、初めて訪れたときに窓越しに見えた花々に興味を持った英二はナタリアの言葉に頷いた。




    「わぁ……すごい」
    英二を出迎えたのは様々な花と鮮やかな緑だった。
    ナタリアが案内したのは屋敷の窓から見えた庭から少し離れた場所だった。いくつもの花が咲いているあちらが庭園なのではと思ったが、英二は黙って彼女の後についていく。
    緑のトンネルを抜けると小さな噴水と控えめながら生き生きとした花が咲き誇っている。その庭園は丁寧に手入れされているが無駄な派手さはなく、どこか素朴な雰囲気があった。英二がイメージしていたいかにも貴族の庭園だと思えるようなオブジェやタイル敷の道もなく、森の一部を切り取ったかのように落ち着いたものだった。
    どうやらここはもう一つの庭園のようだった。
    噴水もどちらかといえば水路の一部のようで泉が湧くように静かに流れている。そして少し離れたところには小さな木造の東屋がひっそりと建っていた。
    風と水の音がその場に揺蕩っている。
    「素敵なところですね」
    「庭師も喜びますわ。ここは旦那様も気に入られている場所なんですよ」
    「アッシュが そんな大切な場所に僕が勝手に来て良かったんでしょうか……」
    アッシュとの距離を感じている今、そんな些細なことも英二を不安にさせる。
    「もちろんです。ここは旦那様以外は許可された者しか近付きません。ですからもし英二様がお一人になりたいときやお疲れになられたときはいつでもここを使ってくれと、旦那様から言付けられています」
    「アッシュが……」
    思わぬところでアッシュの心遣いを聞かされた英二は驚いたと同時に胸の奥がじわりと温かくなったのを感じた。
    今まで寒々とした部屋に明かりが一つ灯ったかのように。
    「旦那様は昔から花がお好きで、この庭もそのために作られたんですよ」
    貴族の屋敷に相応しい庭ではなく、ただ花があるがままに咲いているようにと。そしてアッシュは時折1人でこの庭に訪れては短い時間だけだが、しばし当主としての役目から離れ読書に耽るという。
    「でも最近は忙しくてなかなかここには来られないようで」
    「そうだったんですね」
    玄関先で見かけたアッシュは幼さを微塵も感じさせない、隙のない様子だった。それでも英二が覚えた違和感は見間違いではなかったようだ。
    英二は未だこの暮らしに惑っている。その理由であるアッシュの本心もわからないままだ。身に余るような待遇やたくさんの贈り物。どうするのが正解かわからない。
    だがここに残ったのは英二の意思だ。
    当主たる毅然としたアッシュと、ここにいてもいいかと聞いたときに見せた僅かに照れたアッシュ。
    どちらが本当の彼なのか。
    わからないけれど、自分にやれることがあるならやってみたい。
    「あの、ナタリアさん。お願いがあるんです」






    それから数日後。
    まだ日が沈むには早い頃。アッシュは事業の視察から屋敷に戻った。
    アッシュは連日夜遅くまで仕事を詰めていた。英二とも顔を合わせる時間はほとんどない。いや、アッシュは意図的にそうしていたのだ。
    この日もアッシュのため息はその疲労を表すかのように重かった。
    窮屈な服装を緩めながら自室へと向かう。下ろされた前髪を鬱陶しげに掻き上げ、解いたタイを後ろのブランカに投げる。
    彼は慣れた様子でそれを受け取り、部屋に戻った主人が脱ぎ捨てる服を手際よく受け取る。
    「そんなに疲れるならわざわざ視察など行かなくていいだろう」
    「報告だけじゃなく自分の目で見ろと言ったのはあんただろうが」
    「必要なら、な」
    アッシュの神経を逆撫でるような刺のあるブランカの小言にイライラしていると見知った気配が近付くのを感じ取る。
    「ナタリアか。入れ」
    「失礼します」
    入ってきたナタリアにブランカの表情が一層柔らかくなる。そんな彼にナタリアも微笑み返した。
    「アッシュ。これを」
    ナタリアは親しげにアッシュに白い封筒を差し出した。彼女もブランカ同様に他の使用人よりもアッシュに近しい人間だった。
    「これは」
    「英二様からあなたに。仕事の邪魔はしたくないからと頼まれたわ」
    ナタリアの言葉にアッシュは目を見開いて飛び付くように封筒を受け取った。その様子をブランカとナタリアはニコニコと見守っていたが今のアッシュにはそんな2人も気にならなかった。
    急く気持ちを抑えて丁寧に封を切る。手紙にしては分厚さを感じる封筒から出てきたのは、写真だった。
    それは滴に濡れる白い花や水の流れに浮かぶ木の葉、生い茂る緑の隙間から覗く青空が切り取られている。
    その風景はアッシュにとって馴染み深いものだった。あの穏やかな世界がそのままアッシュの掌に生きている。
    「英二がこれを……」
    「少し前、あの庭園にご案内したのよ。そしたら……」
    ナタリアはそのときの英二を思い浮かべながら語った。




    それは英二がナタリアに庭園を案内されたときだった。
    「ここの写真を撮ってもいいですか それで……その写真をアッシュに渡してほしくて」
    「それは構いませんが、英二様から受け取る方が旦那様は喜ばれると思いますよ」
    「え、僕が」
    何故自分が渡した方が喜ぶのかわからない英二は首をひねるがナタリアはそれ以上何も言わなかった。しかし英二はやっぱりナタリアに写真を託そうとした。
    「アッシュの仕事の邪魔はしたくないんです」
    英二はそう言って首を横に振る。
    「アッシュはとても忙しそうにしているのでなかなか話しかけられなくて。僕は彼のお世話になってばかりでなにもできません。それが心苦しいです。今日もなんだか疲れた顔をしてる気がして……少しでもアッシュの気持ちが休まればといいんですが……」
    「英二様はお優しいですね」
    「いいえ、優しいのはアッシュですよ。こんな僕を気遣ってくれる。彼が僕のためにいろんなことをしてくれたように、僕も彼のために何かしたいんです」
    確かにこの屋敷に来て戸惑うことはあった。けれどアッシュは初めて会ったときから英二に気持ちを気遣ってくれていた。
    それは言葉少なかったが、英二にはしっかりと伝わっている。彼はきっと言葉にするのが得意ではないのだ。
    それはナタリアからアッシュの言伝を聞いたときに確信した。
    なんて不器用で優しい人なんだろうと。
    照れた様子で頬が染まったアッシュの顔が脳裏に浮かぶ。
    英二の笑みにナタリアは何かを悟ったように穏やかに笑った。
    英二は部屋から持ってきたカメラで庭園を撮影した。この空間の空気を、光を、アッシュに届けるためにシャッターを切る。
    この別世界で、彼はいつも何を考えているのだろうか。ここは静かで穏やかで、そして人の世から切り離されている。
    花を愛でる彼を、本に視線を落とす彼を思い浮かべるとどうしてこんなにも切なくなるのか。
    1人佇むアッシュの背中が木漏れ日の中に見えた気がした。
    そうしてしばらく撮影を続け、ようやく満足がいく出来となったのだが、撮り終わってから重要なことに気付いた。
    「あ そうだ、現像しなくちゃ……」
    英二が写真を現像するときは勤め先の新聞社の暗室を借りるか、実家のクローゼットを改造した狭い暗室を使っていた。
    アッシュに贈る写真を仕事場で現像するのもどうかと思い、英二はナタリアに事情を話して一度実家に戻ろうとしたのだが。
    「暗室ならご用意しております」
    「……へ」
    ナタリアに案内されるままついて行くと、屋敷の一室に通された。そこには仕事場の暗室よりも広く、専門的な道具も取り揃えられていた。英二はしばし驚いて部屋を見渡す。
    「この部屋も旦那様が英二様のためにと、ご用意なさいました。必要なものがあれば申し付けてください」
    「え、僕のために」
    「はい。英二様はカメラマンですので必要だろうと」

    『一応必要なものは揃えてあるが』

    確かにカメラマンとして暗室は必要だがまさかここまで用意されているとは思いもよらない。
    「やっぱりアッシュは優しすぎます……」
    「ふふ、そうですね」
    お礼に、と写真を撮ったが果たしてこの数枚の写真たちでお礼になるのか不安になりながらも、英二はどうにか作業をこなした。
    そして今日やっと出来上がった写真をナタリアに託したのだ。
    「喜んでくれるといいなぁ」
    その英二の小さな呟きが込められた封筒が今、アッシュの手の中にある。



    アッシュはそっと写真の表面に触れる。英二がアッシュのためだけに撮った世界。それはアッシュにとってどんな絵画よりも宝石よりも価値がある。
    「忙しいなら、せめて写真だけでも見れたら少しでも休まるんじゃないかって撮ったのよ。あなたが言った通り優しい方ね」
    「ああ……そういうやつなんだよ、英二は」
    昔からな、というアッシュの呟きが小さく溢れた。
    「礼をしないとな」
    写真を封筒に戻す手付きは先程服を脱ぎ散らかしたそれと同じとは思えぬほど丁寧なものだった。
    「なら今から直接伝えればいい」
    「……どのツラ下げて会えってんだ」
    「そのままでいいだろう。物を贈るだけでは伝わらないぞ。英二様からこれだけの気持ちを受け取ってまだそんなことを考えているのか」
    アッシュはブランカを睨みつけるも本人は何のダメージもなさそうだった。だがブランカの言い分にアッシュも感じるところはあったようで手にした封筒をじっと見つめ考え込んだ。
    素直になったらどうだというブランカの言葉がアッシュの頭の中を回る。
    そして何よりナタリアから聞かされた英二の不安にアッシュは頭を抱えたくなった。そんなことを思わせてしまった自分の不甲斐なさに怒りが湧くほどに。
    しばらく考え込んでいたアッシュは徐に封筒をジャケットの内ポケットに仕舞い込むと足早に部屋を出た。何も言わなくとも行き先を知る2人は顔を見合わせて表情を緩めた。
    「まったく。あそこまでシャイとは思わなかったな」
    「相変わらず不器用な子ね」
    それは世話が焼ける我が子を見守る親のように慈愛に満ちた眼差しであった。






    英二が部屋で写真の確認をしているとき、ドアをノックする音がした。
    夕食の時間も近いのでナタリアだろうかと英二はドアへ向かう。
    本当なら英二がわざわざドアを開けなくてもいいのだが、こういったことは簡単には慣れないものだ。
    しかしドアを開けたその向こうには予想していなかった人物がいた。
    「アッシュ、どうしたんですか」
    そこにいたのはアッシュだった。
    わざわざ自分の部屋に来る理由がわからず、何か用があるのだろうか。
    「……その、少し話がある……」
    いつもの毅然とした態度からは程遠く、気まずそうに視線が逸れているアッシュにどうしたんだろうと思いつつ、このまま立ち話させるのも気が引けた英二は彼を部屋に通す。
    「散らかっててごめんなさい。すぐに片付けるので」
    「いや、突然押しかけた俺が悪い。そのままでいい」
    机の上に広がる何枚もの写真を片付けようとしたが、アッシュの言葉に英二は手を止め振り返る。
    どこかソワソワとした様子で扉の前で立ち止まるアッシュはやがて、意を決したように顔を上げた。
    「写真……受け取った」
    しかしようやく出てきたその声はアッシュ本人すら驚くほど小さかった。バクバクとうるさいアッシュの心臓の鼓動の方が大きく感じるほどに。
    英二は一瞬、きょとんとした表情をしたが辛うじて聞き取れたようですぐに顔を綻ばせた。
    「ああ、良かった。ナタリアさんに案内してもらってあの庭園のこと聞きました。ありがとうございます、素敵な場所ですね」
    「気に入ってくれたか」
    アッシュは彷徨わせていた視線を英二に向ける。その表情はどこか不安げだったが、英二の嬉しそうな様子にそれも吹き飛んだ。
    「もちろん。あそこにいると気持ちが落ち着きます」
    「そうか……」
    「あ、そうだ。暗室のことも、ありがとうございます。僕のためにってナタリアさんから聞きました。すみません、気を遣わせてばかりで……。写真は……どうでしたか」
    すると今度は英二の方がアッシュを伺いみる。
    英二としては上出来だと思ったが、アッシュがあの写真をどう感じたのかは別だ。
    アッシュは英二の表情に不安を読み取り慌てて言葉を探す。本来の目的はそもそもこれだったのだ。
    素直に言葉にしたい感情がどうにもうまく口から出てこない。こんなときばかり子供じみた照れ臭さが邪魔をする。
    なかなか返事がないアッシュに英二は何を思ったのか、眉を下げて何故か彼の方が申し訳なさそうにする。
    「出過ぎた真似をしたのはわかってるんです。ただお礼がしたくて……。すみません、迷惑でしたよね」
    「違う」
    アッシュの沈黙を英二がどう捉えたのかを、彼の優秀すぎる頭脳は瞬時に理解した。その途端、詰まっていた喉が通るように、焦りが滲んだ声が飛び出した。それは思いの外、大きなものとなり英二は目を丸くする。
    「え」
    「礼を……言いに来たんだ。お前が俺のためにわざわざ撮ってくれたと聞いてとても、嬉しかった。大切にする」
    「それならよかった。腕はまだまだなんですけど……」
    「俺は、お前以上のカメラマンはいないと思う」
    未熟だと卑下する英二を遮ったのはアッシュの強い賛辞だった。思わず英二がアッシュに視線を向ければ、先ほどまで気まずそうに逸らされていた翡翠の瞳が真っ直ぐに英二を見つめていた。
    こんなにも真っ直ぐに、熱心に自分の腕前を肯定されたことがなかった英二は嬉しさと慣れないことによる恥ずかしさで頬が熱くなる。
    「で、でも……」
    なおも言い募ろうとする英二にアッシュはもどかしい思いを抱える。彼はアッシュの賛辞をお世辞だとでも思っているのだろうか。だとしたらこんなに悔しいことはない。
    アッシュの脳裏にはナタリアから聞いた英二の不安が蘇る。
    そしてブランカの言葉も。
    英二が今の状況に疑問や不安を感じているのはアッシュ自身にもわかっていた。胸に秘めた過去と思いを彼に伝えれば解決するかもしれないことも。
    しかしまだ、アッシュにはその勇気はなかった。
    それでも英二の不安を、そして彼の誤解を解きたい。あの優しく穏やかな彼の笑顔を曇らせたくない。
    全てを語ることができなくとも、今彼に伝えられることはあると、アッシュはそのための一歩を踏み出した。
    「来い」
    「え、アッシュ」
    アッシュは英二の手を取り、部屋を連れ出した。突然のことに英二は驚きながらも、その小さな手を握り返す。
    はやる気持ちで足早なアッシュに引っ張られるようにして屋敷を進む。そして辿り着いた先は英二の部屋からそう離れてはいなかった。
    「ここは」
    「俺の部屋だ」
    そう言われてアッシュが部屋に入るのに続く。初めて踏み入れた彼の部屋は英二の部屋と同様に落ち着いた内装だった。
    ただ圧倒的に本の数が多い。本棚はもちろん、机や床にも本が積まれている。それもどれも分厚く、重々しい。
    アッシュは英二の手を引いてさらに奥へ進む。するとまたしても奥へと続く扉がある。
    そして扉を開けたその向こうには英二が想像もしていなかった光景が広がっていた。
    先ほどの部屋と比べ、広さは及ばないがそれでも十分な広さがあった。物は少なく、小さなテーブルに1人掛けの椅子があるくらいで他には壁にいくつも飾られた額縁だけだ。
    英二が驚いたのはその中、額縁に納められている物だった。
    「これってもしかして画廊の……」
    それは紛れもなく英二が撮った写真だった。
    アッシュの庭園を撮ったものではなく、以前英二が個人的に撮影し、本来は絵画を展示する画廊でひっそりと置かせてもらったものだ。
    カメラが普及した社会ではまだ写真は情報を提示する手段の一つ、という認識が強い。英二のように芸術へと繋げようとする動きもあるがやはりまだ認知は低い。
    少しでも知って欲しい気持ちと、自己満足な自己表現のために知り合いに頼んで過去に何度か画廊に写真を置かせてもらった。
    運がいいことにそれらに買い手がついたことを聞いたときは飛び上がるほどに嬉しかった記憶がある。
    そして今、その写真たちが目の前に並んでいるのだ。
    それが意味することを理解して英二はアッシュを振り返る。
    「……仕事で、俺も美術品を扱うことがある。だから素人よりかは目利きはあるつもりだ。だから英二、お前は自分の腕を誇っていいし誇るべきだと思う。知らないだろうけど、お前の写真を買い取るのは敵が多くて結構苦労してるんだ」
    繋いでいた手はいつのまにか離れていたが、それでも英二の手には絡んだ彼の熱がまだ残っていて、心臓まで広がっていくのがわかる。
    「それじゃあ、わざわざ僕の写真を」
    「……画廊に出す度にな。驚いたか」
    「それはもちろん。こんなに評価されたことなくて驚いています」
    「そりゃひどい。そいつらは余程の節穴か老眼なんだろうな」
    アッシュはわざとらしく肩を竦めてみせる。その仕草に英二は思わず笑ってしまう。それを見たアッシュもまた、僅かに頬を緩めた。
    「これで俺がどれだけさっきの写真に舞がってたか理解してくれたか」
    「ここまでされたらお世辞だなんて思うことできませんよ」
    2人の間の空気がこのときようやく解けて、柔らかなものとなる。
    「でも良かった。僕、あなたに避けられてるかと思ってちょっと不安だったんです。だから僕は本当にここにいていいのかわからなくて」
    アッシュは英二の言葉に再び視線を落としてしまった。どうしたのだろうかと英二が首を傾げるとすまないと、小さな声が聞こえた。
    「すまない。不安にさせた」
    「い、いえ、僕が勝手にそう思ってただけで……」
    「いや、実際俺はお前から逃げていたんだ」
    「それは、どうして」
    またしても不安が顔を覗かせる。けれど英二は知りたかった。アッシュのことを、アッシュの気持ちを。だから英二は彼の言葉を待つ。
    「強引な手段だとはわかっていた。お前を家族から引き離して、知り合いもいない屋敷に閉じ込めた張本人なんて快く思わないだろう どんな顔をして会えばいいかわからなかったんだ」
    家族のために身を差し出したのと同じことを強要したのだ。アッシュにはそれだけ英二を求めた理由があるのだが、英二本人からすれば突然貴族に拐われ囲われたのと同じこと。
    アッシュの所業を理不尽だと罵っても咎められはしないだろう。だというのに、英二はアッシュのために心が休まればいいと写真を贈ってくれた。
    「俺はお前の優しさにつけ込んだんだ」
    そう言いながらアッシュは苦しげに顔を歪めせる。
    確かに驚きはしたが、正直英二は家族の危機を救ってくれた事の方が重要で無理を強いられた気などそれほどなかった。
    そのときようやく、彼も同じように不安だったのだと英二は気付いた。お互い勝手に想像した真実に怯えて、相手から逃げていたのだ。
    遠くに感じていたアッシュの存在がやっと輪郭を持って英二の隣に現れた、そんな気がした。
    「そんな。僕は家族を助けてもらって、ここでの暮らしでもたくさんあなたは僕のために気遣ってくれたじゃないですか。それにあなたが僕をここに呼んでくれた理由もなんとなくわかりました」
    「わかったって……まさか」
    アッシュは俯いていた顔を勢いよくあげ、英二を仰ぎ見た。
    (まさか、覚えてたのか……)
    英二のその発言にアッシュはドキッと心臓が大きく跳ねたのを感じた。
    「アッシュ、あなたは……」
    言葉を切る英二にアッシュは緊張と期待で身動きが取れなくなる。翡翠の瞳を見開き、食い入るように英二を見つめた。
    そして向けられた笑みに期待が確信に変わろうとした瞬間。




    「写真が好きなんですね」


    「……は」


    アッシュの思考が止まった。
    あまりにも予想の遥か斜め上の答えに現実を拒絶したとも言える。
    そんな呆れとも落胆とも言えぬ複雑な心境のアッシュに気付かぬまま英二は子供のように目をキラキラさせていた。
    「確かにまだ写真って芸術方面ではなかなか流通してないですよね。こういう写真撮る人も少ないし……あのままカメラを手放してたら写真はもう撮れないですもんね。結婚の話はそれだけ僕の写真を気に入ってくれたってことですか」
    「……違う。いや違わないが違う……」
    「へ ならどうして結婚なんて……」
    これしか理由はないと思った英二は微妙な顔つきのアッシュに予想が外れたことを悟る。
    頭を抱えるアッシュは長いため息をついて肩を落としている。
    「あの、アッシュ 僕何か変なことでも」
    「気にするな、こっちの問題だ。それより、英二。そろそろその他人行儀な話し方はやめないか」
    「え、でも僕は平民で……」
    「普通の話し方がいいんだ。頼む」
    とんでもないと激しく首を横に振る英二だったが、アッシュの表情が殊の外真剣で切実で、そんな彼の要求を断るほうが心苦しくなった。
    「それなら……でも本当にいいんで……いいのかい」
    「ああ、その方がずっといい。貴族だとか身分だとかは考えないでくれ。俺は英二と対等でいたい。だから英二もなんでも言ってくれ」
    「それなら、僕からも一つお願いしていいかな」
    アッシュが頷いて答えると英二はずっと言えなかったことを伝えた。
    彼が求める対等という関係に英二もなりたかった。それでもいきなりこんなことを言ってどうなるだろうかと密かに冷や汗をかきながら。
    だがアッシュが英二に本心を教えてくれたように、英二も彼の行動に応えたかった。
    「僕のためにたくさん贈り物をしないでほしいんだ。服だとか靴だとか。このまま貰い続けたら部屋が埋まっちゃうよ」
    「何故だ 気に入らなかったか」
    「違うよ。そうじゃないんだ」
    「俺は英二を無理矢理こんな場所に連れてきた責任がある。不自由はさせない。何をすれば英二は喜ぶんだ」
    アッシュはまるで縋るような視線を向ける。そんな顔をさせたいわけではない英二は慌てて言葉を重ねた。
    「僕はアッシュとこうして話ができるだけで嬉しいよ」
    「こんなことでか」
    「うん。アッシュと話をするってことはアッシュのことを知ることができるってことなんだ。あなたがあの庭園に咲く花が好きだったり、僕の写真を喜んでくれたりそうやってあなたの気持ちがわかる方が僕は嬉しい」
    たくさんの物を贈られるよりも今のようにアッシュが何を考え何を思っているのかわかる方がずっといい。英二が求めているのはアッシュの気持ちなのだから。
    英二の願いが意外だったのか、アッシュは驚いたように目を見開き、ポカンと口を開く。それは当主たる大人びたものではなく、年相応の幼いものだった。
    また新しいアッシュを知れたと、英二は嬉しそうに笑みを浮かべる。
    「だから今度は一緒にあの庭園に行こうね、アッシュ」
    彼のことを知りたい。もっと、今よりも。
    英二の心は大貴族の当主ではなく、1人の少年アッシュに惹かれ始めていた。
    そしてアッシュは白い肌を朱色に染め、頷くのが精一杯だった。




    「あ、そういえば庭園に咲いてた花、僕の実家で昔育てた花とよく似てたんだ」
    「……そうか」
    久々に見る自分の作品を懐かしむ英二の横顔をアッシュはそっと見つめていた。


    庭に咲く白い花。

    淡く香る記憶の中に今なお鮮明に残っている情景。

    暗闇に浮かぶ花弁の向こうに穏やかな闇色の瞳がアッシュを映す。

    『どうしたんだい、怪我をしてる』

    差し出された手を、風に揺れていたあの花を。



    「知ってるよ、昔から」



    アッシュの小さな呟きは誰にも拾われず空気に溶けた。





    そして後日。マックスの編集室にて。


    「それで 結婚の理由は」

    「……あっ」


    結局、結婚の理由を聞けずじまいだったことにこのときようやく気付いた英二だった。




    僕の小さな旦那様【出会い編】3

    英二とアッシュとの関係に少しだけ変化が起きてしばらく経った頃。
    当初は互いにぎこちなさと気まずさばかりが間に横たわっていたが、英二の写真が思わぬところで2人を繋げていたのがわかると自然とその距離を縮めた。
    他人行儀な態度もなくなり、2人は婚約者……としてはいささか気さくで、どちらかと言えば友人に近いものとなった。
    英二はこれでいいのかと疑問も浮かんだが、こうして友人としてアッシュを知っていけることも悪いことではないかと思い直す。
    その実、未だ婚約者、結婚について深く考えることを避けているという気持ちも否定はできなかった。
    あれから、アッシュとの会話は格段に増えた。あの庭園にも2人で何度か訪れたりアッシュも幾分か仕事をセーブしたようで共に食事する回数も増えた。
    大貴族の当主ではなく、アッシュという1人の人間とやっと言葉を交わせた気がした。
    そうして知った彼の一面はときに皮肉屋だったり粗野だったり、けれど決して英二のことを乱雑には扱わなかった。確かにときどき口が悪くなったりするがその裏にはいつだって優しさが隠されている。


    その日の英二は勤め先の事務所まで原稿を届けに行っていた。自宅で原稿を書き上げたマックスは連日の徹夜でもはや動く気力もなく、代わりに英二が事務所まで持っていく最中だった。そしてマックスにはまだ仕上がっていない別の原稿があったようで休むまもなくまた部屋に篭り始める。また取りに来ることになりそうだと、英二はそっと部屋の扉を閉めた。
    そして真っ直ぐ事務所に向かおうとする英二は時間を確認するために左手首に視線を落とした。
    緑の文字盤に銀色の針が時を刻んでいる。それを見るたびに英二の頬は緩み、脳裏には彼の婚約者の顔が浮かぶ。新しく英二の相棒となったそれは身に付けてまだ間も無く、見る度にそのことを思い出す。
    一目で上質なものだとわかる腕時計は現在、英二の婚約者であるアスラン・カーレンリースからの贈り物のひとつだ。
    今まで彼からの贈り物を受け取っても使うことはなかった。それは貴族が使うような高級品を使うことに抵抗があったし、貴族の婚約者らしくあるために身分不相応な英二に用意されたものだと思い込んでいたからだ。


    思い起こすのは今から少し前のこと。
    アッシュが画廊で英二の写真を集めていたことを知った日。
    2人の間にあるぎこちなさが無くなり、英二は自身の不安が解決したことに安堵しながらも未だ残る僅かな不安を口にした。それはアッシュが英二にするたくさんの贈り物についてだ。
    アッシュの真意を聞けたのだがそれだけではない意図があるかもしれないと考えてしまった。
    彼がしてくれることや贈ってくれるものは全て英二がこの屋敷で快適に過ごせるようにとアッシュの心遣いであったことを知ったときはこの子はなんて優しいんだろうと胸が熱くなった。
    しかし英二が自分の身の丈に合わないとそれらを遠ざけることでアッシュに迷惑をかけていないかと思わず蟠ったままだった不安が口をついて出る。
    「僕、知っての通り平民だろう。でも今はアッシュの、婚約者 だから身分も前と同じとは言えないし、君の隣に立つ人間としては身なりとか随分と違うし……。それで」
    「貴族にふさわしい装いにするために俺が贈り物をしていたと」
    気まずげに視線を逸らしながら英二は黙って頷く。
    オーダーメイドで仕立てられた礼服や磨き上げられた革靴、肌触りが全く違うシャツ。今まで気を遣ったことすらない髪紐など。
    どれも貴族のためのものだ。正直英二には手を出すのは気が引ける。
    それは高価なものだから、というのもあるが平民のままの自分にはアッシュに相応しくないと言われている気がしてなんだか気が落ち込むものだったからだ。
    「ずっと僕のわがままで手が出せなかったけど、このままじゃアッシュに迷惑かけるなら色々と改めないといけないかなって思うんだ。アッシュがそうして欲しいなら僕……」
    「それは違う。さっきも言ったが俺はお前に贈りたいからしていたことだ。相応しくなれなんて、微塵も思っちゃいない」
    英二は、ならばどうしてと首を傾げる。アッシュが英二に貢ぐ理由が本当にわからなかった。
    アッシュは躊躇いがちに口を開く。彷徨う視線はまるで真っ直ぐにな英二の視線から逃れているようだった。
    「……英二に……似合うと思ったんだ……」
    「僕に」
    「確かに買い付けた店はどれも貴族向けのブランドばかりだ。けど、だから選んだわけじゃない。お前が、喜んでくれるかと思って……そうすればこの暮らしも気に入ってくれると」
    アッシュとしては英二が贈り物を使うことを躊躇っていたのは予想外だった。
    まだ英二が屋敷に来る前、少しでも彼が好んでくれるように快適に過ごせるように。部屋を整え、慰めになるように庭も手入れし直した。写真家である英二のために技術者を呼んで暗室も作った。
    それでも、拐われるように連れてこられた屋敷での暮らしを気に入ってもらえるように駄目押しのように用意した贈り物。
    そのときはまさか英二の負担になるとは思いもしなかった。
    そして英二が屋敷にやってきてからは彼のためだけに服もしつらえて。
    我ながら呆れるほどの貢ぎっぷりだ。自分が浮かれた様を本人に知られるのは羞恥が邪魔してできなかったが結局こうして晒す羽目になってしまった。しかしこれは言葉足らずである己の自業自得だろう。
    「じゃあ、本当に身なりのためとかじゃなくて……」
    「俺が勝手に浮かれてただけだ。悪かったな、迷惑だったろう」
    「ち、違うよ アッシュがそんなに考えてくれてただなんて思わなくて。すごく、嬉しくて」
    ブワッとアッシュの肌が赤く色付く。
    照れ臭いのか、拗ねてしまったのか視線を逸らすアッシュの手を咄嗟に握る英二。英二は胸に込み上がる安堵と嬉しさに自然と笑みを浮かべた。
    「高価とか恐れ多いとか、そんなことばかり考えてアッシュの気持ちをちゃんと知ろうとしなかった。ごめんよ」
    「っ、別に 俺も何も言わなかったし……。俺が勝手にやったことだ。気に入らなければ捨てて構わない」
    「そんなことするわけないだろう。大切に使うね」
    「わ、わかったから 好きにしろ」
    眼前にある英二の笑顔を直視できないアッシュはますます顔を背ける。しかしアッシュの動揺は英二には伝わらないようでニコニコとしたままだ。
    「あ、でももう十分すぎるくらいアッシュには良くしてもらってるからこれ以上は大丈夫だよ。やっぱり僕平民の感覚抜けないし、贈り物がなくたってアッシュと一緒にいたいよ。あれ、どうしたのアッシュ。顔が赤いけど」
    「なんでもない……。それよりも、やっぱり物は迷惑か」
    「そんな、迷惑だなんて。僕はそこまで気を遣ってもらわなくても平気だよ」
    「俺がお前に贈りたくてしてることだ。気を遣ってるわけじゃない」
    どうしてそこまでしてしてくれるのか、英二にはわからなかったがアッシュもなかなかこれに関しては譲ってくれなかった。
    大貴族の金銭の心配など自分がするのもおこがましいかもしれないが、気にするものは気にしてしまう。
    「今よりも頻度も数も減らす。それならいいだろう」
    「アッシュがいいならそれで……。けど僕君にもらってばかりになるよ」
    「俺だってちゃんとお前からもらって物はある」
    「僕何もしてないよ」
    「……今はそういうことにしておくよ」
    意味深な返事だったが英二が聞いても答えは聞けずじまいだった。
    結局、小さな疑問を残しながらもこの問題は解決した。また新たにアッシュの優しさを発見して。


    それからアッシュの宣言通り、彼から贈られる品は少なくなったが相変わらず上質なものだった。しかし何よりの変化はそれらが直接アッシュから英二に手渡されたこと。
    ときにアッシュが手土産だと珍しい菓子を持って帰った日にはナタリアのお茶と共に楽しんだりと以前よりも一緒に過ごす時間が増えていった。
    英二は少しずつアッシュからの品を使い始めたのも同じ頃だ。どれも綺麗で自分になんてと、思ったがアッシュがくれた『英二に似合うと思ったんだ』という言葉と、別の日にブランカがこっそり教えてくれたことを思い出した。

    『旦那様のお忙しい時期があったのを覚えていますか』
    『はい。アッシュとなかなか会えなかったときですよね。本当は、僕にどんな顔して会えばいいのかわからなかったって』
    『ええ、わざわざ仕事を増やして不器用な方です。それも本当なんですが実は英二様への贈り物を選んでいたんですよ。それはそれは熟考されていましたよ』
    『え、どうして』
    『英二様へ贈るのもだからです。ご自分のものはある程度の体裁を整えればいいと仰る程度なのに。英二様のことに関して、あの方は手を抜くことはありません』

    アッシュが、何時間もかけて悩み続ける姿が浮かぶ。その間ずっと、彼は英二のことを考えていたのだろう。
    一体自分は彼にとってそれほどまでに大切にされる存在なのか、今の英二にはわからない。けれどアッシュがくれた思いが嬉しいと感じることは確かなことだった。
    そして英二が贈り物を身に付けているのに気付いたアッシュが僅かに頬を緩めるのを見て英二はまた嬉しくなった。


    文字盤で輝く緑に思い起こす少年は今どうしているのだろうか。英二は今日も彼との時間が取れたらいいなと上機嫌で歩き出した。
    その時だった。
    ドンっとぶつかる衝撃に英二がたたらを踏む。何事だと理解するまでに腕が強く引かれる感覚がした。
    それが厳密には腕ではなく、手にしたものを強く引っ張られた感覚だったと気付いたときには英二の手は空っぽだった。
    「え……、え」
    自分の掌と遠ざかる背中に視線を行き来する。ひったくりの文字が頭に浮かんだ瞬間、英二はサッと血の気が引いた。
    「嘘だろっ」
    弾かれるように駆け出した英二は走り去る背中を追いかけた。表通りから外れ細い裏道へと入る。狭く入り組んだ道は完全に地理を理解していなければ迷ってしまいそうだ。だが今の英二はそんなことを考えている余裕はない。ひったくりの背中を見失わないように必死に足を動かす。
    ひったくりが何度も角を曲がる。相手も英二が予想以上に追いかけてきて焦っているのか撒こうとしてくる。だが奪われたのはマックスの血と涙と結晶である原稿。諦めるわけにはいかない。
    そのまま追いかけているとひったくりが向かう先に数人の人影がたむろしているのが見えた。もしかしたら止めてくれるかもと、期待したのだがそれも一瞬のことだった。
    ひったくりは何かを合図したのか、彼らの間を難なくすり抜けるとすぐさまその数人が今度は英二の行く先を塞ぐように道に広がる。むしろひったくりを逃して英二を足止めしたのだろう。
    離れていくひったくり、目の前に立ち塞がるいかにもな風貌の男たち。絶望的な状況だ。
    「と、通してもらえないかな」
    しかしここで諦めたらマックスが報われないどころか彼の仕事や事務所にも迷惑がかかる。それだけは何があっても阻止したい。英二はまた冷や汗をかきながらもこちらを見下ろしてくる男たちから退こうとはしなかった。
    だが案の定、男たちが素直に道を開けてくれるはずもなく、ジロジロと品定めするように英二を上から下へと眺める。
    こうしている間にもひったくりは遠くに行ってしまっているだろう。今すぐ駆け出したい足をどうにか留め、英二は必死に頭を回す。
    (なんとか隙間から抜けれないか……)
    がたいのいい男たちと比べて英二は細身だったが、抜ける前に捕まるのが目に見える。別の道から追いかけようとしても裏道に詳しくない英二には無理な話だ。
    こうなったら怪我ぐらい仕方ないと、男たちを突っ切ろうと足に力を込めると突然男の1人が英二の腕を掴んだ。
    「なっ」
    「ほう、いいもん持ってるじゃねえか」
    掴まれた左腕、袖口から覗く緑の文字盤が暗い路地で光る。すると他の男たちも目を色を変えたのが英二を囲む雰囲気から伝わってきた。
    「よく見りゃ小綺麗な格好してんな。貴族には見えねえが……まあ、関係ねえか」
    「ここを通りたいんだろ。それなりのもんもらおうか」
    強い力で引き寄せられ、掴む手すら振り払えない。道を塞いでいた男たちは徐々に英二を囲うように距離を詰めてくる。
    もはや逃げるのは困難だ。だからといって男たちの言う通り、ここで身ぐるみ剥がされてもそのまま逃してくれるとも考え難い。何より、英二ははいそうですかと身ぐるみを差し出すつもりはない。
    英二が従わないと察すると腕を掴む力は更に強くなる。焦りと痛みが英二を追い詰めていく。
    そして、『それ』は音も無く現れた。
    英二の腕を掴んでいた男の頭部に向かって何かが凄まじい勢いで叩き込まれようとしているを英二は見た。
    一瞬である光景だったが英二ははっきりと見慣れた金色の光を確かに捉えていた。
    英二の身長をゆうに越え、分厚い体をした男は横っ面を蹴り飛ばされバキッと何かが折れるような割れる音を立てて壁に激突する。
    呆気に取られたのは英二だけでなく、他の男たちも一瞬の出来事に反応できずにいたが倒れた仲間を見て、すぐに状況を理解した。
    「なにしやがっ」
    ナイフを取り出した男が叫ぶも、顔面に蹴りが入りそれ以上は続かなかった。素手で向かおうとしたり、そこらに落ちている瓶を振りかざそうとしたりと残った男たちの攻撃はどれも空振り気付けば皆一様に地面に転がっている。
    立っているのは口を開けて呆気に取られる英二と目の前に立つ1人の少年だった。
    彼はおもむろに被っていた帽子を取る。零れ落ちた金髪がハラハラと揺れる。煩しげに前髪を後ろに流すると翡翠色の瞳が鮮明に顕となった。
    「こんなところで何してる、英二」
    そこにいたのは紛れもなく英二の婚約者であり大貴族の当主、アスラン・カーレンリースであった。
    だがその風貌は貴族ではなく、服も簡素で崩した髪型のせいもあってか裏路地にたむろするストリートに見える。
    「アッシュこそなんで。あ」
    「どうした」
    気まずそうに視線を逸らしていたアッシュは何事だと驚く。
    「それよりも怪我は さっきすごい音したよ」
    足元の男たちを踏まないように飛び越え、アッシュに駆け寄る英二。すると今度はアッシュが口を開けて目を瞬かせる。
    「……俺が怖くないのか」
    「どうしてさ。助けてくれたのにそんなこと思うわけないだろ」
    当たり前のことを聞くアッシュに英二は心底不思議そうな顔をする。英二からすれば当然のことだったがアッシュは未だ驚いたままだ。
    「痛いところとかは」
    「ないよ。そんなやわじゃない」
    顔を覗き込む英二から逃げるようにそっぽ向くアッシュはもういつもの彼だった。よかったと胸を下す英二をアッシュはこっそりと盗み見る。
    「これ、お前のだろう。見覚えがあったからもしかしてと思って取り返してきた」
    「わあぁ アッシュ ありがとう」
    アッシュがなんでもないように差し出したのは先程盗られた英二の鞄だった。
    中身を確認すれば何も盗られた様子はない。ひったくりも英二から逃げ回っていて中身を漁る暇がなかったのだろう。
    「本当にありがとうアッシュ。大切な原稿が入ってたんだ。マックスに顔向けできなくなるところだったよ」
    安心した英二は途端に疲労に襲われその場にしゃがみ込む。あれだけ本気で走ったのは何年振りだろうか。急に働かせた足は今頃重くなる。加えて襲われる恐怖は震えとなって現れた。
    そんな英二にアッシュは多数の男相手に立ち回っていたときとは打って変わって慌て始める。
    「お、おい。お前の方こそ怪我とかしてないのか。他に何か盗られたものは」
    「いや、大丈夫。安心して力が抜けただけだよ。盗られたのもこれだけ」
    「とにかくここから離れるぞ。動けるか」
    差し出された手に掴まり英二はなんとか立ち上がる。バクバクと心臓が鳴るのを今更感じとる。意識は幾分か落ち着いたが身体はまだ衝撃を引きずっていた。
    それに引っ張られるようにまた気持ちがざわめき始めたとき、道を先導するアッシュの手が少しだけ強く力が込められる。さっきのと男とは違う、英二を落ち着かせる体温だ。
    アッシュは振り返らず、歩き続ける。英二はそっと小さな手を握り返した。するとそれに応えるように、アッシュは繋いだ手をピッタリと合わせる。決して離れないように。
    英二はその体温にようやくほっと息をついた。


    アッシュが向かった先は古びた倉庫だった。草は生え放題で破れたフェンスに囲まれている。錆びた屋根は一部が剥がれて日差しが入り込んでいた。意外にも明るい倉庫内に着くと2人はようやく腰を落ち着けた。
    「ここならさっきみたいな連中は近付いてこない。しばらくここで休んでいけ。怪我はないとはいえあんな目に遭って平気じゃねえだろ」
    「そうだね。まだちょっとびっくりしてるかも」
    先程よりだいぶ落ち着いてきたがどっと押し寄せる疲労に流石の英二もしばらく動けそうになかった。
    「アッシュ、君はどうしてあそこにいたの」
    「見ての通りだよ。今の俺は貴族じゃなくてストリートチルドレンのアッシュ・リンクスだ」
    アッシュはときどきこうしてストリートチルドレンに扮しているという。貴族である彼が一体どういう経緯でストリートチルドレンになるのか英二にはちっとも予想できなかった。英二の疑問を感じ取ったアッシュは草が生茂る地面に視線を投げながら教えてくれた。
    「昔……一時期なんだが、こういう生活をしてたんだ。その名残というか、こういう裏の繋がりも結構役に立つんだ。情報網も広くて、街全体を把握するにも都合がいい。情報収集みたいなもんだ」
    「昔って、一体どうして」
    「……色々とあってな」
    「そう……」
    英二はアッシュの踏み込んではいけない領域に気付いてそれ以上は触れなかった。アッシュも英二があえて深く聞いてこないことに気付いたようだがそれには気付かないフリをした。
    「ボスー、さっきオーサーんとこと連中がボコボにされてたってみんな騒いで……って、誰だお前」
    錆び付いた扉を開けたのは歯の欠けた細い少年だった。続いて入ってきたのは大柄な少年で2人は英二を見て目を丸くしている。
    「俺の連れだ」
    「へー ボスの連れ」
    「ここらじゃ見ない顔だな。新入りか」
    「いや、婚約者だ」
    婚約者
    2人の少年は声を揃えた。
    「なんでえ。あんた貴族か」
    「違うよ、僕は平民で……。あれ、この子たちは君のこと知ってるの」
    「ああ。こいつらはボーンズとコング。俺が貴族なのは知ってる」
    細い少年がボーンズ、大柄な少年がコングというらしい。彼らはアッシュの仲間であり、アッシュをボスと呼んで慕っていた。
    「俺もずっとここにいるわけにもいかないからな。その間に起きたことや必要なときにはこいつらに協力してもらってる」
    「そうだったんだね。僕は奥村英二。よろしくね」
    「おう。よろしくな。あ、こういう喋り方よくねえんだっけ」
    コングがきまり悪そうにすると英二は慌てて否定する。
    「僕は平民だからそんなの気にしないでくれよ」
    「でもボスの嫁さんだろ」
    「よ……その、まだなってないから、厳密には違うかな」
    「そうだな……」
    思わず視線がアッシュに向かってしまうが、彼の方も視線を逸らしていた。
    そんな2人の様子にボーンズとコングは顔を見合わせる。
    「そういえばボス、アレックスのやつは」
    「今日は別行動だ。あとで顔見せるだろ」
    「アレックスも知り合いなんだね」
    「あいつは元々ストリートだったんだ。俺が引き抜いて執事にした」
    聞けばボーンズたちはアレックスと行動を共にしていたのだという。身寄りのない少年たちでグループを作りなんとか身を守っていたという。
    「オーサーっていう奴がここら辺を仕切ってたんだ。自分に従わない奴には容赦なくて意地の悪い野郎でよ」
    「そこに現れたのがボスってわけ」
    「すげぇんだぜ。オーサーの手下どもが何人も襲いかかってもだーれも歯がたたねぇの。オーサーとの一騎打ちもボスの圧勝」
    「負けたオーサーはでかい顔できなくなって前より大人しくなってんだ。ま、未だにボスに喧嘩売ってるけどな」
    ボーンズとコングが誇らしげにアッシュについて話すのを聞いていると彼らがアッシュをどれだけ慕い、尊敬しているのかよくわかる。
    英二が知らないアッシュの一面に英二は興味津々で身を乗り出して聞き入る。ボーンズとコングも英二の生来の素直さや純粋さを感じ取ったのか、3人はすぐに打ち解けた。
    「そこら辺にしとけ。英二、お前もそろそろ戻ったほうがいい」
    「え、あっそうだね」
    アッシュが2人の会話を遮ると、まだ武勇伝あるのにとぼやく声がする。
    色々とあったが今は原稿を届けている最中だった。しかし内心はもっと彼らの話を聞きたいというのが本音だった。
    「僕もアッシュの話もっと聞きたいな。また来てもいい」
    「おう、もちろん……」
    「だめだ」
    思わぬ制止に英二は振り返る。アッシュはどうしてだか見るからに不機嫌で口をムッと曲げている。ボーンズとコングはそんなアッシュに冷や汗をかいて顔を青くするが、英二には効果がないようでいつものように「どうして」と首を傾げる。
    「懲りない奴だな。お前みたいなのはすぐに目をつけられるんだ。また危ない目に遭いたいのか」
    「それは……気を付けるよ。ボーンズとコングとせっかく友達になれたし、それに君のことももっと知りたいんだ」
    英二としては知らなかったアッシュの一面をもっと知りたいが彼の領分に首を突っ込むのも迷惑かもしれない。それでなくともいい歳をした大人だというのに助けられいる時点で今更ではあるが。
    やっぱり迷惑だよねと謝る英二。するとアッシュはグッと何かを堪えやがて長いため息をついた。
    「……俺がいるときだけだ。行くぞ」
    それだけ言うとアッシュは足早に倉庫を出る。やったと喜ぶ暇もなく英二は振り向きざまにボーンズとコングに手を振って慌てて小さな背中を追った。
    「英二、今回は仕方ないとしてあんまりこっちの路地には近付くな。自分の身なりがどう見られるか考えて行動しろよ」
    細く入り組んだ道を躊躇うことなく進むアッシュはチラリと振り返り英二の手元に視線を向ける。その意味がわかった英二は申し訳なさに小さくなりながらも頷いた。
    「いざとなったらそういうもんは全部さっさと渡すのも手だ。それで終わりってことはまずないがな」
    「でもこの時計はアッシュがくれたものだったから」
    「言っただろう。俺が勝手にしてることだ。盗られたからってお前を責めたりしねえよ」
    「そうじゃなくて。アッシュが僕に選んでくれたものだろう 大切なものを簡単に手放せないよ」
    「お前は……」
    そうこうしているうちに2人は見慣れた通りに出た。事務所まですぐそこという近さだ。
    「ここなら大丈夫だろう。流石にこの距離なら迷子になる方が難しいか」
    「もう、アッシュは僕を子供扱いしすぎだよ……でもありがとうアッシュ」
    アッシュはまた深く帽子をかぶると路地の奥へと帰っていった。あっという間に見えなくなった背中を見送りいつもの表通りを振り返ると簡単に日常に戻ってきた。先程まで危ない目に遭い助けられたのに。
    アッシュの知らない一面を垣間見てせいか、いつもの通りが少しだけ違って見えた。
    その後、無事に原稿を届けた英二は仕事を終え迎えにきたアレックスとともに屋敷へと帰った。



    「……どうした」
    アッシュの自室、そこはアッシュと英二が食後のお茶を楽しみ場となりつつあった。今日もナタリアが淹れた紅茶に1日の疲労が溶けていく。
    じっと見つめる英二にアッシュはその視線に耐えかねて口を開いた。
    「アッシュだなぁって」
    英二の答えにアッシュは一瞬、不思議そうにしたがすぐに納得したようで子供らしからぬ笑みを浮かべる。
    「昼間とは別人だって」
    「え、そうじゃなくて昼間の君もアッシュだなぁって思ったんだよ。君はいつも僕を助けてくれる」
    それは出会ったあのときも、今日も。もしかしたら英二が気付いていないところでも助けられているかもしれない。
    「僕は助けられてばっかりで不甲斐ないな」
    子供だからと彼を弱く見るつもりはない。ただ自分も彼に危ない目に遭ってほしくないだけだ。
    アッシュは少しだけ目を見開いて、手元に視線を落とす。
    「……あのときも聞いたが、どうして俺が恐ろしくない」
    「どうしてって……うーん。君が優しいって知ってるからかな」
    「優しい……」
    「君はいつも誰かを助けるために行動してる。それはすごく優しいってことだと思うよ」
    「……お前って誰にでもそうなのか」
    「何が」
    「語彙がお子様だなって話」
    「素直じゃないなぁ」
    フンっとそっぽ向いたアッシュに英二はひっそりと笑いを堪える。
    アッシュの不器用な優しさはきっと、この屋敷の人々や彼の仲間もわかっている。だから、隠してるつもりなんだろうけど、短い髪の隙間から真っ赤な耳がよく見えることは英二だけが知っている彼の一面にしておこう。
    英二はその秘密をそっと胸の奥に仕舞い込んだ。






    空の茜色が次第に深い海色へと変わる頃。街灯の光が馬車の窓に流れた。
    身を包む礼服に自然と背筋が伸びる。オーダーメイドの服は寸分の狂いもなく英二の体に合うはずなのに息苦しく感じるのは緊張のせいだ。この歳になって服に着られるということを実感するとは思いもよらなかった。
    エメラルド色の腕時計に無意識に触れると、向かいに座ったアッシュとその隣のブランカがちらりと目を合わせる。
    「英二」
    「な、なに」
    「そんなに気負うことはない。落ち着け」
    「そうは言っても……」
    今夜彼らが向かう先はとある貴族の屋敷だ。そこで開かれる夜会で英二はアッシュの婚約者として同伴することとなった。当然、貴族の社交会などこれまでの英二には無縁のもので作法もマナーも詳しい貴族の名前や事情についてほとんど知らないと言ってよかった。
    夜会に招待されてからはブランカのもと、振る舞いや言葉遣いまで今日のために指導を受けた。慣れないことだったし、平民である自分には場違いでしかなかったがそれよりもアッシュの同伴者として足を引っ張りたくない思いが強かった。
    なんとかブランカから及第点をもらえた英二だったが実際に他の貴族に会うのは初めてだ。至らぬ点がないように準備はしたが緊張は拭えない。
    冷や汗が滲む掌を握りしめていると再び「英二」とアッシュの声が呼んだ。
    「絶対にお前を1人にはしないから安心しろ。俺のそばから離れるな、いいな」
    「うん……」
    力を解くようにアッシュの手が英二の手を包む。緊張に冷えていた指先に温もりが伝わる。それに無意識にホッと息をつくと幾分か不安が和らいだ気がした。アッシュの力強い言葉も英二の背中を押す。
    「迷子にならないように手でも繋ぐか」
    「子供じゃないから大丈夫ですよ」
    ニヤッと意地の悪い顔を覗かせたアッシュに子供のように口を尖らせる英二。こんな憎まれ口も英二の緊張をほぐすためだと気付くと自分より幼い少年に面倒をかけてしまう罪悪感とその些細な優しさに英二の胸が温かくなる。
    アッシュの変わらぬ調子に英二もやっと笑みを見せる。そんな2人をブランカは温かな眼差しで見守っていた。
    馬車はやがて静かに止まり、目的地に着いたことを告げる。ブランカ、アッシュに続いて英二もドアをくぐる。差し出された手の先、屋敷からこぼれる光を受けるアッシュはまるで1枚の絵画のように美しかった。そんな彼が今からエスコートする相手が自分だなんて英二は半ば夢でも見ているかのような気持ちでその手に自分の手を重ねた。
    ここから先はアッシュと英二だけだ。ブランカは主人たちを見送るため立ち止まる。
    「英二様、やるべきことは全てやりました。自信を持って堂々となさってください。何より、レディには優しく。これさえ心に留めておけば何とかなりますよ」
    「はい、いってきますブランカさん」
    英二とアッシュはブランカの笑顔に見送られ屋敷へと向かう。


    2人が会場に足を踏み入れると一斉に視線が集まる。それは侯爵であるアッシュに、次にその隣で彼にリードされる英二に向けられた。
    アッシュのブロンドは照明の明かりを受けて金糸のように輝いている。立ち姿だけでもあふれる気品を抑えられない。その場の誰もがその若き当主の美しさに圧倒される。
    「まずはここのホストに挨拶する」
    「う、うん」
    ホールを突っ切るように人の合間を歩くとひしひしと視線が感じられた。英二はブランカとの特訓の日々を思い出しながら足を動かす。
    おそらくこの場にいる平民は英二だけだろう。それだけでとてつもないプレッシャーだが、それよりも今はアッシュの同伴者なんだと俯きそうになる視線を上げる。
    自信を持って堂々と。
    ブランカの言葉が蘇る。
    ホストへの挨拶はほとんどアッシュがしてくれた。英二は婚約者として名乗り、少しだけやりとりをした後ホストはまた別のゲストの挨拶を受けていた。穏やかそうな老紳士という言葉が似合う人だった。
    それが済むと今度は同じく夜会に呼ばれた他の貴族がこぞってアッシュのもとへやってきた。英二はその隣で紹介を受け、名乗るのを幾度も繰り返す。他の参加者のことも頭に入れていたが処理能力が追いつかない。
    アッシュがそっと小声でこれから相手をする貴族のことを教えてくれなければどうなっていたことか。
    一通りの波が収まるとアッシュは英二を連れてホールから離れる。少しだけ賑わいから離れた場所には休めるようにいくつかソファーが並ぶ。そのひとつに腰を下ろした英二はようやく息をついた。
    「ありがとう、アッシュ。ちゃんと覚えてたつもりだったんだけど」
    「無理もない。覚えていても咄嗟に出てくるのは難しいからな」
    「アッシュはできてたじゃないか」
    「俺は慣れてるから」
    まだ14歳とは言え経験だけで言えばアッシュの方が圧倒的だろう。年下の少年に頼りっぱなしなことに英二は申し訳なくなる。
    「僕、ちゃんとできてたかな」
    「オニイチャンにしてはがんばったんじゃない」
    「手厳しいなぁ」
    「俺なんかブランカに比べたら優しいもんさ。手加減がねえんだあのジジイ」
    「アッシュもブランカさんに教わったの」
    「まあな。大抵のことはできる奴だから色々と。でもダンスの練習だけはもう勘弁だな。あいつが女役で俺が足踏んだら踏み返してくるんだぜ。おかげであっという間に上達できたよ」
    「それは是非見てみたかったな。今度見せてよ。記念写真撮ってあげる」
    「帰ったらブランカに英二がダンスの練習したがってたって言っとくよ」
    若木のように細いアッシュがあの大柄なブランカをリードするのを想像して英二は思わず笑ってしまう。きっとそのときの彼は苦々しい顔をしていたんだろう。そんな英二の様子にアッシュもつられたように口元を緩めた。しばらくたわいもない話をしているとアッシュが何かに気付き、浮かべていた笑みを引っ込める。
    急にどうしたのだろうかと英二が疑問に思うと背後から軽やかな靴音が響いてきた。
    「アスラン様、お久しぶりですね」
    振り返るとそこにはアッシュと同じブロンドをした可憐な少女がいた。ヒラヒラとしたレースが幾重にも重なったドレスに散りばめられているのは宝石か。当たり前だが一眼で上流階級の令嬢だとわかる。この場にいるのなら貴族であることは当然なのだが。
    小さな顔はまるで人形のように整った顔立ちだった。気付けば声をかけてきた少女の後ろにも何人か似たような少女たちがこちらを見つめていた。その視線はもれなく全てアッシュに向かっている。
    年齢はアッシュと同じか少しだけ下くらいだろうか。英二より年下のはずだが場慣れしているのが雰囲気から伝わる。
    「ええ、お久しぶりです」
    立ち上がり先程とはどこか違う笑みを浮かべるアッシュに英二も慌てて腰を上げる。アッシュがたった一言喋っただけで彼女たちは揃って頬を染めた。
    「そちらは……」
    「私の婚約者です」
    「は、初めまして。奥村英二といいます」
    婚約者という言葉に少女たちは動揺を露わにした。驚きを隠せないと言わんばかりに口元を押さえる少女やまじまじと英二を上から下にと検分する少女もいた。
    (うぅ……そりゃそんな目するよね……)
    この少女たちの華やかさにも負けないアッシュの婚約者が同性でしかも10歳以上離れている、なんの取り柄もない自分。英二自身ですらまだ信じられないのだから彼女たちからすれば衝撃だろう。
    「……噂は本当だったんですのね」
    「噂 どんな噂かは知りませんが……失礼、我々はそろそろ戻ります。英二」
    「え、うん」
    いつもと違う貴族らしい言葉遣いで丁寧なはずなのにどこか冷たい。アッシュが英二の手を引こうと手を伸ばす。しかしアッシュの手は別の手に捕らえられてしまう。
    アッシュと英二の間に割り込むように、最初に話しかけてきた少女が彼の腕に自身のそれを絡める。
    「少しだけお話よろしいかしら。アスラン様にご相談したいことがあるの」
    「しかし……」
    一瞬、アッシュの腕に力が籠るがすぐに抜けていく。不躾とはいえ女性を力尽くで振り払うなど貴族の人間として褒められたことではない。英二もそれに気付いたが彼女を引き剥がすこともできない。
    「彼を1人にはできません。その話はまた別の機会に……」
    英二は咄嗟に、アッシュの負担になってはいけないと思わず口を開いた。
    「アッシュ、いいよ。行ってきて。僕は大丈夫だから」
    「は 英二お前……」
    「ちゃんと大人しくしてるから。えっと、失礼します」
    「英二」
    英二はなるべく足音を立てないように、できるだけ早足で逃げるようにその場を後にした。背後から聞こえてくる声が心なしか怒っていた気がするが英二にはそうするしか思い付かなかった。


    足が赴くままに進んでいた英二は会場の賑わいも人の話し声も届かないバルコニーに出てようやく立ち止まった。このまま会場に戻ってもアッシュがいなければどんなボロが出るかわからない。かと言ってまたさっきの彼女たちのところに行けるかと言えば、難しい話だった。
    『俺のそばから離れるな』
    そう言われていたのに。
    「後で怒られそうだな……」
    これからどうしようかと悩んでいると、どこからか声が聞こえた。誰か外の空気を吸いにきたのか、先客でもいたのか。
    しかしその声に違和感を覚えた英二は辺りを見回す。誰も見当たらないが声はバルコニーに面した庭園の方から聞こえる。
    庭園には屋敷の光が届かないが今夜は幸い満月だった。遮る雲もなく、英二の足元を照らす。夜風に揺れる花の道を進むと白い花をいくつも付けた低い庭木の前に小さな後ろ姿が見えた。膝を抱えてしゃがみ込んでいるようで石畳の上にスカートの裾が円を描いていた。その肩は震えて、声は涙に濡れていた。
    「どうしたの」
    英二は慌てて駆け寄り、膝をつく。すると少女が顔を上げた。突然のことに涙も止まるほど驚いたのか大きな瞳で英二を見上げる。年は先程の少女たちよりも幼いように見える。
    「何か悲しいことでもあったのかな」
    怯えさせないようにと笑いかけてゆっくりと話しかけると、少女はしゃくり上がりながら目の前の庭木を指差した。
    「ブローチが……落としちゃったの。でもこのお花、庭師の人が危ないから触っちゃダメって……」
    少女の指差す方に目を凝らすと月明かりに何かが反射している。枝葉が生茂る庭木の中にブローチが引っかかっていた。
    危ないから触るなとは何のことだろうかと英二は庭木に近寄る。
    「ああ、棘があるのか」
    陰になって分かりづらいが枝に棘がある。ブローチを取るにはこの棘だらけの茂みに腕を入れるしかない。
    「大丈夫。すぐ取るからね」
    英二は今夜のためにしつらえたジャケットを脱ぐと右袖のボタンを外す。少女は涙で濡れた瞳を拭いながら不思議そうに英二の背を見つめた。
    出来るだけ袖をまくり上げなるべく枝の少ない隙間に手を差し込む。そっと腕を伸ばすと剥き出しになった部分の何処かしらに猫に引っ掻かれたような痛みが走る。顔をしかめそうになったが心配そうに見上げる少女に気付くと、笑ってまた「大丈夫」と繰り返す。
    指先に冷たく硬い感触に触れた。掌でそっと握り、新しい傷を作りながら腕を引き戻す。
    「落としたブローチはこれ」
    「うん」
    差し出したブローチに少女は嬉しさと安堵を綯い交ぜにしたように涙をにじませながら笑みを浮かべた。
    「ありがとう これ、とっても大切なものなの」
    「そうだったんだ。綺麗なブローチだね」
    濃く青い石がはめ込まれたブローチは縁取る金属が所々黒く劣化していたが壊れた部分もなく、月明かりに光る石の表面は滑らかで大切にされているのがよくわかる。
    「うん……これね、亡くなったお婆様がくれたの。どんなに新しくて綺麗なブローチよりもこのブローチが1番すき。でも……」
    少女の表情が曇る。英二は頷いて静かに耳を傾けた。
    「わたしね、今日はじめて夜会に出たの」
    「じゃあ僕と同じだ」
    「おにいさんも」
    「うん。たくさん人がいてびっくりしたよ」
    「わたしも。それでわたし、お婆様のブローチをみんなに見てほしくてこれを着けていこうとしたの。でもお父様はそんな古いものはやめなさいって許してくれなかったの。みっともないって」
    古く、ボロボロのブローチ。華やかな夜会に不釣り合いなもの。
    英二は何故あのとき、あの場から逃げるように去ってしまったのかを唐突に理解した。
    アッシュと並び立つ彼女の姿があまりにも自然だったからだ。彼は自分に相応になることを求めていない。それはわかっていたが果たして周囲にはどう映っているのだろう。
    アッシュのように強くて凛々しい人が婚約者ならきっと誰もが納得する。けれど現実には全く違う人間だ。
    彼の迷惑になっていたら。
    結婚の理由もわからないのにそばにいたいと、そう思わずにはいられないアッシュの足手纏いだとしたら……。
    英二は胸の奥に針を刺したような痛みに襲われる。それは枝木の棘に刺されるよりもずっと痛かった。
    父親に反対されながらそれでも少女は諦めきれず、こっそりと持ってきて会場で着けようとしたらしい。だが。
    「でもお父様の言い付けやぶって持ってきたこと知られたら、とられちゃうと思ったの。こわくなってお庭に出たら転んで落としちゃったの」
    「そうだったんだ。怪我はしてない」
    「うん、平気よ。どこも怪我してないわ」
    「それはよかった、でも君がいなくてお父さん今頃心配してるよ。戻ろう」
    「でも戻ったら叱られるわ……」
    「ちゃんと話をすればきっとお父さんは君を叱ったりしないよ。もしそんなことになったら僕も一緒に叱られに行こう。それから、君がそのブローチをどんなに大切にして大好きなのかお父さんと話をするよ」
    「ほんと」
    「うん。さあ、お父さんのところに戻ろう」
    英二と、差し出された手を交互に見遣り躊躇う少女はもう一度ブローチに視線に落とすと、今度は迷いなく英二の手を取った。英二は少女の手を引いて屋敷への道を辿る。
    少女の足取りは真っ直ぐで、涙はもう見えない。そのことに安堵しつつ、強い子だなと感心してしまう。
    すると繋いでいた手を袖を引っ張るように引かれた。
    「ねえ、おねがいがあるの」
    なんだいと首を傾げると少女はほんのりと頬を赤らめ、恥ずかしそうに俯いた。
    「わたしが泣いたこと秘密にしてくれる」
    少女から思ってもみない可愛らしいお願いに英二は思わず微笑んだ。
    「もちろん。誰にも言わない」
    「お父様に黙ってお庭に出たことも」
    「僕たちだけの秘密にしよう」
    「約束ね」
    少女は先程まで泣いていたとは思えないほど太陽のように眩しい笑顔を見せた。



    『誰にも……言わないで』

    その子供の声は震えていた。

    『うん。絶対誰にも言わない。だから安心して』

    何かに怯える子供に英二は固く約束した。
    守らなければ。この約束もこの子も。
    幼い英二はそっとその小さな体を抱き締めた。



    (約束……)
    微かに聞こえる人々の賑わいが英二を過去から今へと引き戻した。
    バルコニーまで辿り着けば会場はすぐそこだ。中に入ればホールの外であるここにはいくつか休める場所が設けられていたが今は誰もいないようだ。
    彼女を親元まで連れて行かなければと考えていると少女は英二の手を離れ、振り返る。
    「やっぱりわたしがお父様とちゃんとおはなしするわ。おにいさんが怒られたらかわいそうだもの」
    「お父さんのところまで1人で行ける」
    「うん。ブローチ拾ってくれてありがとう」
    走り去る少女の背中に「走ると危ないよ」と声をかけたが果たして届いたのだろうか。彼女が父親とちゃんと和解するといいなと祈りながら、自分もアッシュに行き先も告げずに抜け出してしまったんだと思い出した。
    まずはアッシュを探さなければと会場への扉に手を伸ばす。すると後ろから腕を掴まれ引き寄せられる。
    「英二 離れるなと言っただろう」
    「アッシュ」
    振り返った先にいたのは眉を吊り上げたアッシュだった。もう逃さないと言わんばかりにその手は強く英二を掴んでいた。
    「やっぱり手、繋いどくべきだった。まさかこんなところで迷子の心配をするとは思わなかったぜ」
    「迷子じゃないってば」
    「だったら俺を置いてどこ行ってたんだ。なんで上脱いでんだ。その傷だらけの腕はなんだ」
    「そ、それは……」
    言葉に詰まる英二にアッシュの視線がますます鋭くなる。英二には少女との秘密を守りながらアッシュの納得する言い訳など思い付かなかった。何よりアッシュに嘘はつきたくない。けれど少女の約束を破ることもできない。
    何も言えなくなった英二にアッシュはため息をついた。掴まれていたパッと離される。英二は咄嗟にその手を追いかけたが、触れることは叶わなかった。
    「まずは怪我の手当てだ。使用人に部屋と医者を頼んでくる」
    背を向けたアッシュの表情は見えない。それでも怒らせてしまったのはわかる。きっと心配してくれたのに本当のことを話そうとしない英二に呆れたのか。
    それとももう嫌われてしまったかもしれない。
    言葉にできない痛みが胸を刺す。
    「ごめん、アッシュ……」
    「……何故」
    気付かないふりをしてくれたのか、それでもアッシュは振り返ってくれなかった。気不味い空気が2人の間に横たわる。棘でできた傷の痛みが増した気がした。
    少し待ってろとアッシュは扉の向こうへと消えていった。残された英二は扉に隔たれた静けさの中、立ち竦むしかなかった。
    ふと、この格好のままでいいのかと自身の服装を見下ろす英二。しかし血が滲む腕のまま袖を戻せばアッシュが選んでくれた服に血をつけてしまう。
    こうなったことに後悔はないがアッシュに対する申し訳なさがなくなるわけではない。すると奥の通路からこちらに向かってくる人影があった。
    それはアッシュに相談があると言っていた彼女だった。向こうも英二に気付いたのか、視線が留まる。
    しかし近付いてきた彼女を見て、人違いかなと英二は先程の記憶を目の前の彼女と照らし合わせていた。
    その目付きがあまりにも違っていたからだ。アッシュがいたときはいかにも品の良い落ち着いた令嬢だったが、今は親の仇でも見るかのような敵意に満ちていた。
    「あなた本当にアスラン様の婚約者なの」
    「は、はい……」
    声まで冷たい。その変貌と敵意に英二はたじろぐ。彼女はそんな英二の態度も気に食わなかったのか、ますます眉間にしわを寄せた。
    「どんな手を使ってあの人に取り入ったのかしら」
    一瞬、何を言われたのか英二にはわからなかった。だがすぐにアッシュのことを言われているのだと気付いた。
    「取り入っただなんて、僕は……」
    「言い逃れでもしようっていうの あなたみたいな平民が彼の婚約者なんて信じないわ。さあ、吐きなさい。アスラン様に何をしたの」
    「だから婚約の件は僕じゃなくて彼が決めたことです。僕は、助けられただけで」
    「どうして平民の男をわざわざ選ぶのよ。あなた、アスラン様がどんな人かわかってないのかしら。あの人は貴族よ。あなたとは違う」
    身分の差を突きつけられ、英二は押し黙る。実際、貴族に見染められた平民が結婚することは多くはないが全くないわけではない。しかし血統を重んじる考えが強い貴族間ではあまり喜ばれることではなかった。
    「あなた知ってる アスラン様が平民の男と婚約してどれだけ周辺貴族から非難されたか。望まれてないのよ。弱味でも握られてるんじゃないかって噂になってるわ」
    まさかそんなことになっているとは考えもできなかった英二はグッと掌を握る。顔色を悪くする英二に彼女は勝ち誇った笑みを見せる。
    「みっともない格好ね。あなたの恥はアスラン様の評価にもなるのよ。ここをどこだと思ってるの。ここは選ばれた人間だけが来る場所よ。アスラン様もさぞ恥ずかしい思いをされてるでしょうね」
    英二の傷だらけの右腕を見て不愉快そうに眉をひそめる少女。確かに今の自分は正直人前に出る姿ではなかった。少なくともこんな格好であの扉の向こうには行けない。
    英二が何も言い返さないことにすら腹が立つのか、少女の語気は次第に強くなる。
    「今まで婚約者を選ぶこともしてこなかったアスラン様が……なんであなたなのよ。なんで私じゃないのよ あの人の隣は私よ」
    「いいや、英二だ」
    それは決して大きな声ではなかった。荒れた波を一雫で打ち消すような強さと静けさだった。
    開け放たれた扉の前に立つアッシュを振り返る英二と少女は彼の後ろ、何事だとこちらを伺う参加者たちの意識がこちらに向いている事に気づく。
    アッシュは真っ直ぐに英二のもとへ向かう。傷に触れないようにそっと手を握る。
    「英二、部屋を用意してもらった。すぐに手当てしよう。1人にしてすまなかった」
    英二からすればそれはいつもと変わらぬ優しいアッシュだった。しかし他の貴族たちは己の目を疑っていた。あのカーレンリースが愛おしそうにたった1人を見つめ、常に張り付いていた氷の仮面は跡形もなく消え去っている。
    それに気付かない英二は全く別のことで驚いていた。
    「……もう怒ってないのアッシュ」
    「もうもなにも、最初っから怒ってないけど 確かに心配はしたが––––」
    「あ、アスラン様…… 私……」
    縋るような声にアッシュはようやく取り残されている少女に意識を向けた。そこには英二に見せていた温もりの面影はなく、翡翠の瞳は恐ろしいほど冷え切っていた。
    「多少のことは目を瞑るつもりだったんだがな。そうも言ってられないな」
    めんどくさいとでも言うように乱雑な言葉遣いをするアッシュに少女はまたも驚きを隠せないようだ。
    「ど、うしてですか。そんな男と結婚するせいであなたは周辺貴族にどれだけ反対されて……」
    「だからなんだ。俺は俺の望む相手を選んだだけだ。お前や周囲に世話してもらう気はない」
    「そのせいであなたの立場に影響が……」
    「無いな。例え起こったとしても英二とのことで仕事上の協力を切ると言うなら好きにすればいい。むしろこっちから願い下げだ。その程度のチンケな野郎に用はない」
    それは少女にだけでなく、全ての貴族に対してもだと暗に告げていた。それはつまり、英二を蔑ろにする者はカーレンリースという強力なパイプを失うことを意味する。この国でカーレンリースの恩恵を受けられないことは軽視できる問題ではない。
    「なんで……そんな平民の男に……わ、私があなたに相応しいのに。私との婚約に見向きもしないで」
    「さっきから平民平民とうるせえ女だ。俺は平民だからこいつを選んだわけじゃない。俺は、英二だから望んだだけのこと。他の奴に興味はない」


    『どんなに新しくて綺麗なブローチよりもこのブローチが1番すき』

    これ以上のものはないと、ブローチを胸に抱き締める女の子の声がした。


    「行くぞ英二」
    もう用はないとアッシュは怪我をしていない方の腕を掴んで少女に背を向ける。こちらへと先導する声にいつの間にか見知らぬ使用人がすぐそばにいたことに気付く。アッシュは案内されるまま、英二は彼に腕を引かれるまま屋敷の奥へと進む。
    通された部屋には白衣を着た男性が待っていた。傷だらけの腕に薬を塗られ、処置はすぐに終わった。その途端にまたアッシュに引っ張られ英二の礼を告げる声はきっと半分ほどしか彼らに届かなかった。
    馬車へと向かう間、沈黙が落ちる。それでも気まずいと思わないのは繋がれた手のおかげだった。
    月の光をアッシュの髪が照り返す。彼の表情は見えない。
    アッシュがいつもより少し足早なせいか、英二の心臓もいつもより少しだけ早い。だから体温も少しだけ上がった。だからきっと触れる手が、胸が、顔が熱く感じるのだ。
    「……わけを話せないのは理由があるんだ」
    それはこんな静けさの中でなければ掻き消されてしまっていたかもしれない。揺らぐ蝋燭の火のようにか細く、儚い声だった。
    「それも俺の身勝手な理由だ。こんな思いをさせているのに、すまない。やっぱり俺はお前のそばにいないほうが……」
    手が、解ける。そう思った瞬間、英二はグッと強く踏み込んで、そして今度は自分の方へと彼を引き寄せる。
    驚くアッシュの隣に追い付いた英二。
    「僕も勝手に離れてごめんよ。君はちゃんとそばにいてくれようとしたのに」
    英二を見上げるアッシュはいつもより幼く見えた。年相応の子供の瞳。
    「いつか君が話してもいいと思えたら教えてほしい。僕も、まだ返事は出せていないからお揃いだね」
    結婚を選んだ理由と結婚のするか否か。
    側からすれば順序がぐちゃくちゃだ。それでも互いにそばにいたいと思うならそのままでもいいんじゃないと。今度は英二がその手を引く。
    「帰ろうアッシュ」
    並んで歩く2人を月は穏やかに照らした。それから馬車までまた話をした。
    「そういえばじっくりは見てないんだけどここの庭もすごく綺麗だったよ。アッシュは見た」
    「誰かさんに女どもの生贄にされてゆっくりする暇なんてなかったな」
    「邪険にしたらかわいそうだよ。ブランカさんも言ってたじゃないか。レディには優しくって」
    「お前そういうつもりで俺を置いてったのか」
    「いや、そうでもないけど……。でもブランカさんの言う通りだと思うよ」
    先程の彼女はともかく、ブローチの少女のことを思い浮かべる英二をアッシュは、つまらなさそうに横目で盗み見る。どうやら納得していないようだ。
    「あんな目に遭ってよく言う……」
    「アッシュは女の子苦手なのかい」
    まさかそんなことを言われるとは思わなかったのか、何を言っているんだお前はという顔をするアッシュ。苦手だから1人で置いていったことを根に持たれたのだと思った英二だったがどうやら違うようだった。
    呆れた様子でため息をつくアッシュの横顔は、しかし微かに笑っていた。
    「俺はな、身分だの見て呉れだの騒ぐ奴じゃなくて……何の見返りも求めず棘だらけの木に手突っ込んで傷塗れになってまで落とし物拾って子供との約束律儀に守るようなお人好しがいいんだよ」
    「え 何で全部知ってるの」
    英二の驚きっぷりにアッシュはついに声を上げて笑った。



    そんな騒がしい英二の夜会デビューの数日後。
    再び彼らは夜会の開かれた屋敷に招かれていた。
    「何かあったのかな」
    「まあ、大方見当はつく」
    心当たりのない英二は何かやってしまったんだろうかと落ち着かないのを横目にアッシュは何故か不満げだった。
    「呼び出してしまってすまないね、2人とも」
    部屋にやってきたのはホストであった老齢の男性。そしてその後ろから顔を出したのは……。
    「あれ、君は」
    「おにいさん また会えた」
    英二に飛びついてきたのはあのブローチの女の子だった。どう言うことだと女の子と男性の顔を何度も見遣る。
    助けを求めるように隣に視線を送ればムッとしたアッシュが渋々といった風に口を開いた。
    「お前が助けた子供はそこの当主の孫だ」
    「孫……」
    「いやはや、孫が世話になったね。ありがとう。この子がどうしても会いたいと言ってね」
    「あのね、おにいさんが言ったみたいにお父様とお話ししたの。お父様、お婆様のこのブローチ見ると悲しくなっちゃうから見たくなかったの。でも私とお爺様とたくさんお話ししたからもう大丈夫だって。ほら」
    英二から少し離れた孫娘の首元にはあのブローチが輝いていた。突然のことにしばし呆けていた英二も彼女の嬉しそうな笑みに表情を緩めた。
    「よく似合ってるよ。とっても素敵だね」
    「ほんと」
    そんな2人を見守る当主の男は微笑ましい光景に目を細めていたが、対して彼の孫でもおかしくないほど若きもう1人の当主は内心穏やかではない。
    「そう毛を逆立てるでない。私もまだ孫をやるつもりはないぞ」
    「ジジイが。こっちだって英二をやるつもりはない」
    「相変わらず生意気な奴だ。あの子娘を摘み出したのは誰だと思っとるんだ」
    「集める人間くらい考えたらどうだ。老眼が悪化したか」
    「ああいうのはいつの時代もいるものだ。私も苦労したからな。あのときのお前たちを見ていたら昔のことを思い出したよ。まるであの頃の『私たち』のようだったとね」
    そう言うと彼は深いしわが刻まれた手に光る指輪をゆっくりと指の腹で撫でた。
    「あの程度の苦労など妻がいる幸せに比べたらなんてことはなかったがな」
    「……俺だってそうだ」
    先日の夜会はアッシュにとっても穏やかなものではなかった。
    英二は終始場に不似合いだと思い込んでいたようだが実際、指摘するようなことはなかった。仕込んだのがあのブランカともなれば当然かもしれないが英二自身の努力があってこその結果だった。
    せっかくの社交界デビューだと妙に気合の入ったブランカとナタリアに髪の先から爪の先まで手入れされた英二は外に出したくないくらい魅力的で、直前になってやっぱり行くのをやめようとまで考えた。
    英二が「あると安心するから」とあの腕時計をしたいと頼んできたのでどうにか行けた。
    元々が穏やかな気質の英二は意図せずとも真っ直ぐに人を見つめる。こちらの国では珍しい混じり気のない深い闇色の瞳に一心に見つめられ、あげく笑いかけられたら大抵の人間は彼を好ましく思うだろう。
    綺麗事だけでは生きていけない貴族社会で英二の純粋さは稀有だ。裏のない笑みに絆された人間の顔と名前をアッシュは1人残らず記憶した。英二が他の人間と接触している間、アッシュは気が気ではなかった。
    そして英二の視線や意識が他に向いていることにひどく苛立った。
    件の孫娘のことも、英二の後を追いかけて様子を見ていた。子供が2人……などと考えていなければあの場に割り込んでしまいそうだった。相手は自分よりも幼い子供で、英二は困っている人を放っておけない。それでも抑えきれない嫉妬心が顔を出して英二に当たってしまった。
    我ながら心の狭さに辟易する。
    不躾なあの女に見せしめにしたのも鬱陶しかったというのも本当だが、英二を傷付けたことを許せなかった。
    誰も、知らないのだ。英二という存在がどれほどアッシュの救いになっているのか。
    文字通り、彼がいなければ今のアッシュはいない。
    「あのね、それでね」
    すると孫娘が何やら頬を赤らめて落ち着きなく指を弄る。視線はキョロキョロと忙しなく、たまに英二の方に向く。
    当の英二の方はしゃがみ込んで彼女を待っている。アッシュが小さく舌打ちする。
    「あのね……おにいさん、わたしと結婚してほしいの」
    このクソガキと、声に出なかっただけマシだった。
    「えっ、結婚かぁ……」
    何と答えればいいのか分からない英二はうーんと頬を掻く。アッシュがすかさず英二と孫娘の間に割り込む。
    「オニイチャンは俺と結婚するから無理だ。他を当たれ」
    「いや わたしが結婚するの」
    「ま、まだ結婚は早いんじゃないかな……」
    英二はそれはアッシュにも言ったつもりだったのだが、彼を取り合う2人には届いていないようだった。
    そんな彼らに男は意味ありげに呟いた。
    「『まだ』、か……」



    「おいブランカ 英二に余計なこと教えるんじゃねえ」
    「何の話だ」
    優秀すぎる執事はその日、主人の理不尽な八つ当たりを受けた。

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