interlude ――光が、眩しい。
急に視界に飛び込んできた光がフラッシュのように目を焼いていく。突然のことに混乱しながら瞬きを数回して現状を把握しようと努めたが、上手く頭が回らない。わたしは一体何をしていたのだったか、アジトにいるのならばともかく最近はこんな蛍光灯のような光を浴びることなんて――蛍光灯?
「ランス」
不意に名を呼ばれる。顔を上げて声がした方に振り向けばベンチに座ったアポロが、同じく隣に座るわたしを見ていた。視線だけで辺りを見回す。そこでようやく自分がどこにいるのか思い出した。どうやら座ったまま居眠りをしていたらしい。
「流石のお前でも堪えているようですね」
「それは、まあ。人目を憚る野外活動には慣れているつもりでしたが……」
「逃亡と潜伏では勝手も違うでしょう」
アポロが事も無げに言った。居眠りをしていたことには言及はない。組織にいた頃は居眠りをする団員を見つけようものなら嫌味と叱責をタネマシンガンのように飛ばしただろうが、さしもの彼も今の状況では居眠り程度は許容範囲内なのかもしれない。
午前二時のコインランドリーには人の気配は全くと言っていいほどなかった。特にこの場所に限っては住宅街の外れの、ポケモンセンターも近くない立地のせいだとも言える。この時間では街の住人も旅のトレーナーも洗濯をしようと思い立つことなどないのだろう。なにも今行くことはないだろう、明日の朝でいい、そう思うはずだ。人目を避けている犯罪者以外は。
「そう言うあなたは割に平気そうですね」
「こういうものは慣れです。厭な視線の区別がつくようになれば無駄に神経をすり減らさなくても済みますよ」
軽口に近いニュアンスで気になっていたことを問いかければ、またなんでもない事のような返答が返ってくる。平気そう、と言いはしたがこの状況下で彼は本当に参っていないのか、何を思っているのかを窺う手立てはなかった。
長く苦しい努力の果てに、私たちの――そして彼の敬愛する人は帰ってこなかったのだから。
わたしたちが企てたラジオ塔占拠計画が失敗して、もう数週間が経つ。アポロによる再度の解散宣言を聞きつけた警察がラジオ塔に押し入り、そこから脱出するなかでロケット団は幹部からしたっぱまで散り散りになってしまった。成功することしか考えていなかったのか或いは意図的にか、わたしたちは計画が失敗した時の段取りを相談していなかった。ほかの任務で使用した逃亡ルートは周知されていたが、どこで落ち合うだとか、今後どうするといったことは決めないままだった。それ故にあれから未だにアテナやラムダの消息も知れない。一部のしたっぱたちの逮捕報道も流れているが、幹部逮捕のニュースは聞かないあたり彼女たちもなんとか逃れているのだろう。
幸いにもアポロとはウバメの森付近で偶然合流することができた。コガネシティからはそう離れていないが、森は入り組んでいて人目を避けることが出来るうえに、続くヒワダには多少の土地勘がある。滞在することはできずとも一時的に身を隠すことはできるはず……そう思ったのはアポロも一緒だったのかもしれない。
そこからなし崩し的に行動を共にすることにしたわたしたちは、今日まで野営を続けながら逃亡生活を続けている。一体どこで調達したのか、何着かの着替えと寝袋やテント等の簡易なキャンプ道具をアポロが用意してくれた。通報されるリスクを減らすために一ヶ所に留まることの無いこの生活は、皮肉にも健全なポケモントレーナーのそれに似ている。身分証がないためにポケモンセンターは利用できないのだが。
食事はきのみや野生の植物か街外れのフレンドリィショップで工面し、風呂代わりに水場で水浴び、寝床はテント――こうして意外にも危なげのない生活をしてきたが、困ったのは衣服の洗濯だった。水に浸して擦れば汚れは取れるが、道具のない雑多な自然乾燥では時間がかかるうえ匂いや妙なくたびれ加減はどうにもならない。今まで意識することなどなかったが、洗濯機の技術と洗剤の効果というものは存外馬鹿にならなかったらしい。ボロボロの服を着た人間は不必要に目を引く、とのアポロの一声で丁度見かけたコインランドリーを利用することにしたのだった。
そう広くもない店内には洗濯機や乾燥機が稼働する音が満ちている。こうしてみると、コインランドリーという場所は二十四時間やっていて座って待つ場所まである、実にちょうどいい場所だと言えた。欠けが目立つ床と薄汚れた壁が今やろくに手をかけられていない場所であることを物語っているかのようだった。掃除や機材メンテナンスのためのスタッフはこの時間には訪れない。天井に目を向ければ監視カメラが目に入るが、どうせリアルタイムでモニターを注視している監視員などはいないのだろう。なにか事件が起こったときに参照される程度で、今のわたしたちの脅威にはなり得ない。先程の居眠りは久しぶりに腰を落ち着けて雨風が凌げる場所に来たことで気が緩んだのだな、と実感した。
乾燥機の残り時間はあと二十五分。居眠りから目覚めても手持ち無沙汰なのに変わりはない。ふと横に座るアポロに目を向けると、なにかの冊子を読み耽っているようだった。その背筋はぴんと伸ばされ、かつての執務室での有り様を思わせる。
こうなってはその姿は当たり前のものだが、団服でない私服を着たアポロを目にするのはほぼ初めてだと言っていい。同じ幹部でありながらも彼は事実上の上司ではあるが、プライベートの付き合いはあった。セフレともつかない、気まぐれに肌を重ねる程度のものをそれに含めれば、の話だが。何故そんな関係になったのかのきっかけは些細なことで、ある意味閉鎖的な地下での生活で互いに発散する場を必要としていただけのことだった。とはいえこの男と恋愛関係になったつもりはないし、向こうもそれは同じだろう。
任務以外で共に出掛けたこともないこの人の、白い団服以外の姿を見たことなどなかった。まだ肌寒さの残る季節のせいか、ブラウンのコートを羽織ったそのシルエットがやけに似合っているな、とぼんやりと思う。人相を隠すための大振りな眼鏡ばかりが未だ見慣れないが、それも似合わないと言うと嘘になる。手足が長く体型も細い、顔も整っているのだからきっと色々着せ甲斐があることだろう。こんな状況ではコーディネートなど気にしている暇は無いが。
こうして眺めている間にもアポロはいい加減本を読み込んでいるので、一体何を読んでいるのか気になって本の表紙をそっと覗き込む。そこにはどこかの地方のイラストと、ポップな文字で『全国丸わかり!最新版簡易地図Book』と書いてあった。旅行の下見需要に発行されたのだろうが、読み手の目的が旅行でないのは確かだ。
「そんなものを読んで、どこか別の地方に移る気ですか?」
アポロに話しかけると、本に落とされていた視線が勿体ぶってこちらを向いた。きっと自分を舐め回すこちらの視線に気づいていたのだろう、その反応にはどこかわざとらしさを滲ませている。
「ええ、そのつもりです。とりあえずはガラル地方にでも」
「ガラルに?」
「あそこはキャンプの文化が盛んです。ポケモンセンターを拠点に選ばないトレーナーも溢れている。バックパッカーもほかの地方よりは目立たない。好都合でしょう?」
アポロの言うことは理に適っている。今はジョウトと陸続きのカントーに居るが、カントーは元々ロケット団のアジトがあったこともあり警察の監視はジョウトと変わらず厳しい。このまま徒歩で赴ける範囲で逃亡を続けるには限界があるはずだ。ほかの地方へ移動できればまだ追手の追求は緩むだろう。しかしそれも今の自分たちには現実的な案だとは思えなかった。
「ガラルというと空路……、カントーからだと海路では? 身分証を求められて捕まりますよ」
「ああ、その点ですが、お前にこれを渡しておくんでした」
アポロは言いながら、ウエストポーチをまさぐって何かを取りだした。カード型のそれがこちらに差し出される。受け取って目を通すとそれは身分証のようで、そこには撮った覚えのないわたしの顔写真と、わたしでない名前の人間の身元を証明する情報が書かれている。
「トレーナーカード……? あなたこれ、偽造ですか? いつの間にこんなものを」
「ツテがあるのですよ。偽造とは言いますが、公共機関でも使えて中のICチップも読み取る、正真正銘本物です」
どうやらこれは随分に手の込んだ『本物』らしい。基本的にこの社会は、ポケモンを扱えるに値する資格があることを前提にして回っている。故にそれを公的に証明するトレーナーカードは、持っているだけである程度その人間の素行の正しさを担保してくれる。少なくとも警察に追われるような身ではないと証明できるだろう。ロケット団だった頃には持ち得なかったものだ。これがあれば船だろうと飛行機だろうと、止められることは無い。
しかし、「いつの間に」という疑問と写真の出処に関しては完全に無視をされた。どこか釈然としないまま偽造カードを眺めていると、アポロが柔らかく落とした声で、ぽつりと言葉を零した。
「それがあればどこへでも行けるでしょう。ガラルでなくとも」
「それは……、」
それはどういう意味か、と尋ねようとした瞬間、洗濯機が止まる音がして遮られる。わたしの洗濯物だ。ベンチから立ち上がり、回収した洗濯物をそのまま乾燥機へ移した。コインを入れればドラムは回り出す。残り時間四十分。
先程の言葉を追求するタイミングをすっかり逃してしまい、また手持ち無沙汰に戻ってしまったわたしの視線は自然と目の前で回る乾燥機に移った。横目で窺うアポロの様子は先程と何も変わらず、やはり悠然と本を読んでいる。もう少しで止まりそうな一つ目の乾燥機の中には他の衣類と混じってアポロの替えのコートが回っていた。ぐるぐると。
彼が発した言葉の意味を考えれば考えるほど、「着いてくるな」と言われているようにしか思えなかった。自分ひとりでもどこへでも行ける状態にしてやったのだから、もう着いてくるな、言外にそう言っているのかもしれない。そういえばそうだ、なにも二人で共にいなければならない理由は無い。元々なんとなくで行動を共にしていただけで、着いてこいとも着いてくるなとも言われたことはなかった。今後も人生は続いていくのだから、逃げ続けるにしても身の振り方は考えておかなければならないだろう。何をして生きることにしようか、わたしにしてもアポロにしても今更普通の仕事など出来るのだろうか。
だが、ひとりになって彼はなにをするのか。彼のボスへの心の預け具合はよく知っている。ボスへ向ける敬愛以上の熱が籠った視線を、ボスのためなら自分の身など顧みない姿をずっと見ていた。今回の計画もそれに全てを掛けていて、これ以外はもうやりようが無かったのだろう。それを挫かれた今、なんのために生きるというのだろう。
希望に縋るのなら、あの方がわたしたちの放送を聞いていなかった可能性もある。それに賭けてあの方を探し出し、戻ってきて欲しいと直談判する、なんて道もあるのかもしれない。あてどなく尋ね人を探す旅を、ひたすらに続ける――それをひとりきりで、とは……させたくは、ない。
「つまり、あなたは一人旅がしたいと?」
前置きもなく放った言葉に、アポロは顔を上げた。珍しくその瞳は驚きを孕んで揺れている。しかしそれも一瞬だったのか、すぐに澄んだ色に戻って細められた。
「先程の言葉に他意はありませんよ。ただ、私に無理についてくることはない。もうお前を縛る上下関係はないのだから」
「ついてきて欲しくないのならそう言えばいいでしょう。上司からの命令ではなくひとりの人間への尊重として従います」
言い切って、その空色の瞳を見つめた。再度揺れるそこには、汲み取りきれない色が宿っている。
「わたしはわたしの意思であなたについていきます。どうせわたしたちに帰る場所はなく、あるのは過去に縋る未練だけ。あなたの傷の深さなど知りえませんが、来るなと言われない限りわたしはあなたをひとりにするつもりはない。こういうときにひとりになってはいけない。忘れたとは言わせませんよ、わたしたちには仕事以外で多少なりの繋がりがあった。ならこれからも拠り所を失った者同士で傷を舐め合えばいい。どんなに惨めでも人生は続くのだから」
わたしたちが互いに傷だらけなのは分かりきっているでしょう?
喋りながら、いま自分は考えてものを言っていないな、と薄々気付いていた。順序だてて話していないし、ひとつひとつは繋がっていない。声を荒らげることこそしていないが、自分がムキになって思ったことをそのまま言っているだけなのは理解している。
アポロをひとりにするつもりはないが、別に、彼をひとりにしたら死ぬと思っているわけでもない。そこまでやわな男ではないだろう。ひとりになったところで勝手に生きていくはずだ。しかしもしこの人があてどない旅をすると言うのなら、ひとりでぐるぐると世界を回ると言うのなら、――そこにもう一人居たって構うことはないのではと、そう思ったのだ。
アポロは呆気にとられたような顔でこちらを見ていたが、次第に口の端が震え始めた。じきにくつくつと喉奥で笑うような声を漏らし出す。
「ふふ……ふははっ、クックックックック……!」
その内にその笑いは体を折り曲げ、肩を揺らすレベルの大爆笑に発展した。……はあ? 何なのだ、一体。感情のままに理論立てずに喋った自覚はあるが、笑われるほどのことを言ったつもりは無い。にわかに苛立ちが込み上げて、嫌味が口をついて出る。
「人の言葉でそこまで笑えるあたり、あなたもついに疲れでおかしくなったのでは?」
「はぁ、ふふ……いえ、お前も言うようになったものだと思って」
笑いの波が引いたあとも、アポロは笑いすぎて滲んだ涙を拭っている。失礼な話だ、真面目に返答してやったのに何をゲラゲラと。
「傷を舐め合えばいい、ね。まさかそんな言葉がお前から出るとは思いもしませんでしたよ
「悪いですか?」
「そうですね、悪の組織の人間としては相応しくないでしょう。しかしもう一般人でしかない。私も、お前も」
生憎追われてはいますが、と入る補足にはつい頷いた。犯罪者は一般人と言っていいのか微妙なところだ。
「お前が着いてくると言うのなら好きにしなさい。途中で離れたくなったならそれはそれでいいでしょう。ガラル行きの船のチケットは二枚取ることにします」
アポロは笑いながら立ち上がると、丁度よく止まった乾燥機の扉を開けた。彼の衣服が本人の手によって几帳面に畳まれていく。シャツもパンツもぴしりと跡が付きそうなほどに綺麗に畳まれて、まるで売り物のようだ、とすら思う。どこか美しい所作で洗濯物を畳むその姿は妙に馴染んでいて、この人には意外とクリーニング屋なんかが似合うのかもしれない。
傷を舐め合えばいい、などと言ったが、その実本当にそれを求めているのは自分自身だ。正直なところ、今の生活は夢なのではないかと未だにそう思うことがある。
目が覚めたらタマムシの地下にいて、白い服の勝気な二人が言い合っているのを、ラムダが関わらないように逃げ出そうとしている。わたしを見つけるとあれらを仲裁してくれと言うのだ。面倒なところに出くわした、とため息をついてどうにか仲裁に入ろうとするも、その矛先は二人揃ってわたしたちに向き辟易する。なんで俺まで、とラムダが悲鳴をあげているところにサカキ様が現れて、今までの諍いが綺麗さっぱりと解消する。偉大なるボスの元で今日もロケット団の暗躍が始まるのだ。
実際はその光景こそが夢なのだと分かっていた。そんな夢を見て夜中に飛び起きると、テントの外でまだ焚き火が消えていないことに気付く。天幕を捲り様子を伺うと、アポロがひとりで、或いはヘルガーを横に置いて火を眺めているのが常だった。その横顔は昼間に見るどの表情とも違って、なにか大きな穴が空いたような――悲しみとも空虚とも、絶望とも言えない、ただ見ていると胸が掻きむしられるような、そんな顔をしていた。
その表情を見る度に思う。わたしたちは奪うばかりで、失うことに慣れていない。だから、ひとりになってはいけない。ふたりでいなければならない理由はないが、ひとりにならないためにふたりでいるのだと。叶うことならアテナやラムダや、したっぱたちも呼び寄せて、ひと塊でいられたら、とすら思う。しかしそれは無理な話だ。わたしたちはもう一つでなくなってしまった。ロケット団という一個体は、もうない。
だからわたしとあなただけでも離れてはいけないのだと、そう正直に言ったらアポロは先程と同じ温度感で笑い飛ばしてくれるだろうか。そうやって自分の不安を他人への心配に載せ替えて偉そうなことを言ったと知ったら、愚かですねと嗤うだろうか。
結局のところ、アポロが今後どうするのか、サカキ様を探すつもりがあるのかも分からない。ただ、船のチケットを二枚取る、という言葉に酷く安堵したことがアポロに伝わっていないことを祈った。聡い人だから、わたしの考えていることなど実は全て悟っているのかもしれないが。
アポロの手がコートを掴み、洗ったばかりのそれは畳まれることなく今着ているコートと替えられる。ブラウンのコートの替わりに羽織るその色は、黒だ。黒はアポロの痩身をより引き締める。白ばかり着ていたアポロの羽織るそれに、赤いRの文字は、もうない。
黒いコートに身を包んだ後ろ姿は三年前に旅立ったボスのそれに似ていて、光を反射しないはずのその色が今はとてつもなく眩しかった。