Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    JnQ4t

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 1

    JnQ4t

    ☆quiet follow

    https://bsky.app/profile/orioristarch.bsky.social/post/3kqxoezpsys24
    これの続きのifないし偽史。

    長谷部が選択を誤った場合。 長谷部は画面を流れる文字列を頬杖をついて眺めていた。実行中の処理が完了するまでしばらくかかる。今のうちに他の案件の作業を進めておこうか、と考えもしたがそうするとそちらに集中してしまって目の前で流れている処理が終わっても気づきもしないだろう、と諦めた。パソコンのようにマルチタスクで働くのは人間には難しい。
     まだ週が始まった月曜日だというのに、時刻は既に夜の9時を過ぎている。常に残業しなければ成立しない業務量が肩に乗っかっているため、先週定時上がりした分の遅延を取り返す時間をどう捻出するか悩ましかった。そんなだから、結局日曜も光忠とのことを深く考える間もなく持ち帰りの作業に費やしてしまった。
     どうしたものか、となんとなく執務室を見回してみると皆一様に顔色悪く画面に向かっている。各地のデスクの上で栄養ドリンクやエナジードリンクの瓶、缶が端に乱雑に並んでいる。劣悪だ。職場環境も、精神状態も。

     光忠が何を言いたかったかくらいわかっている。自分との関係を継続させる気があるなら、転職することを勧告している。その要求は尤もだ。だが周囲を見渡して、こんな状況で自分が抜けると言えばどうなるかなど想像もしたくなかった。
     自分が辞めることで無能な上司が苦しむのであれば喜んで辞めたいところだが、メンバーの補充が期待できない中で自分が抜ければ、その分の仕事は共に働く同僚の肩の上に散らばっていくだけだ。そうなれば今度こそ彼らは終電すら諦めて対応するしかなくなるだろう。
     ただでさえ長谷部は自分の手が早い自覚があった。恐らくだが、同僚の1.5倍から2倍は作業を回せている自負がある。だからこそ、自分一人が辞めるとしたら通常の1.5か2倍ほどの作業量が共に苦しんできた同僚たちの負担となるということだ。
     現実的じゃない。この状況を光忠にどうわかってもらえばいいのか。
     そこまで考えて、画面の表示が処理の終了を告げる。駄目だ、今はそんなことを考えている場合じゃない。とにかくこの作業を終わらせて別案件の方に着手しないと本当に納期に間に合わなくなってしまう。

     光忠のことは大事だ。光忠と仕事なら光忠の方が大事だと今でも迷いなく答えられる。しかし、持ち前の責任感の強さからこのギリギリの状態を保っている職場を見捨てて出ていくことにどうしても踏ん切りがつかない。
     それに、転職活動は時間も労力もかかるのだ。当然のことながら、仕事を辞めるには次を決めておかなければ無職になってしまう。あの光忠のことだから、それでもいいと言うかもしれないが。だが、無職期間は履歴書の記載としてマイナスになるし、何より例えひと時のことであろうと養われるような真似は男として許容できない。
     そうなると、毎日終電まで仕事に追われているような状況でいつ履歴書と職務経歴書を書けばいいのかわからない。よしんばなんとか時間を捻出して面接まで持ち込めたとして、いつ面接を受ける時間を作り出すことができるのかもわからない。

     光忠の指摘を反故にする気はなかったため、毎日とはいかなかったが家事は週末にまとめて行った。平日は仕事に追われながらも作業と作業の間の僅かな待ち時間には光忠と仕事とこれからのことを考え続けた。だが、いくら考えてみてもどうにも袋小路だった。やはり職場に人が増えて余裕ができない限り、自分が身動きを取ることは不可能としか思えなかった。
     光忠のためにも、自分のためにも転職をする意志がないわけではない。ただ、今ではないだろうとどうしても思うのだ。
     そうやって同じところを馬鹿げたほどループしながら思考を巡らせて、日々の仕事に追われていれば残された光忠の休暇、残りの二週間など瞬きをするうちに過ぎていた。結局自分から連絡することはできぬまま、光忠の休暇三週目の水曜日。いつも通り深夜に帰宅したところ、リビングに光忠はいた。

     ソファに腰かけて組んだ膝の上でスマートフォンをいじっていた光忠は、長谷部を見上げ、微笑んだ。
    「おかえり、長谷部くん」
    「みつただ……」
    「今週末から仕事が再開するから、答えを聞きに戻ってきたんだけど」
     心の準備など何もできていなかった。いつ帰ってくるのか、具体的には聞いていなかったものの勝手に金曜か土曜の夜辺りだろうと踏んでいた。唐突に訪れた審判の時に、長谷部は無意識に唾を飲み込んだ。
    「相変わらず忙しいみたいだね。家事はあまりできてないみたいだけど、雰囲気から見るに、週末に少しは頑張ってるのかな?」
     優しく首を傾げながら言い当てられて、何もかもお見通しだなと部屋の入り口に立ち尽くした長谷部はそのままで頷いた。
     前回の時とは打って変わって優しい雰囲気をまとう光忠に、逆に薄ら寒さを感じてしまって背中がぶるりと震えた。
    「そっか。まあ、全然やってないよりいいと思うよ。できる範囲で頑張ったってことだもんね。……それで、本題なんだけど」
     そう言って光忠は三人掛けのソファの左端に座りなおして、長谷部を手招く。呼ばれた長谷部は光忠のすぐ横に座ることが何となく憚られて、一人分空けて右側に腰を下ろした。
    「長谷部くんが僕とのことにどう答えを出したのか、教えてもらえる?」
     裁判にかけられた者は皆このような気分になるのだろうか。何を言っても信じてもらえないような、そんな心細さで胸が詰まる。何せ目の前で長谷部を断じようとしているのは、この世で唯一どんな長谷部であろうと全肯定して長谷部の心の安寧と自信を守ってきた、本当に長谷部にとって他に変えられないただ一人の男なのだ。
     恐怖で唇が震える。それでもこのまま黙っていることはできない。長谷部は光忠と向き合って、一度目を閉じた。それから両の拳を膝の上で強く握りしめてもう一度光忠を見据えると、覚悟を決めて口を開いた。
    「光忠が俺に転職してほしいと思っていることはわかってる。でも、今の状況で俺が抜けてしまうと業務が破綻するし、そもそも転職活動の時間も取れそうにない。だから、今の部署に人が増えて抜けられる状況になるまで、どうか待ってもらえないだろうか」
     祈るような気持ちで、光忠の瞳を見つめたままそこまで言い切る。光忠は長谷部の必死の形相とは似ても似つかぬ、優しい顔で微笑んだままだ。
    「そっか」
     ぽつりと呟いた光忠は長谷部に向けていた上体をソファの正面に戻し、背もたれに体を沈めた。
     緊張で胃の中が焼けるように熱い。口の中はからからになっている。口の中には何の水分もないのに、喉が何かを飲み込みたがって勝手に嚥下運動を行う。
     横たわる長い沈黙に耐えられなくなりそうになった頃、光忠が目を伏せたまま長く長く息を吐いた。
    「長谷部くんに、選んでもらえなかったな」
     目を閉じたまま、まるで独り言のように呟いた光忠のその言葉に、長谷部は全身の毛穴が開いて冷や汗が浮くのを感じた。
    「違う、俺は仕事より光忠の方が大事だ。でも今は」
    「二兎を追うものは一兎も得られないんだよ、長谷部くん」
     さえぎられるように言われて、長谷部は光忠から目を反らした。反らした先のローテーブルの上に住宅情報誌が乗っていることに気づいて、目の前が暗くなる。わかっていたはずなのに、途方もない現実を突き付けられたようでうまく息を吸い込むことすらできない。
    「一応聞くけど、部署に人が入る目処はあるのかな?」
    「………………ない」
    「そうだよね」
     光忠はソファに身を沈めたまま、まるで長谷部を自らの中から無き者とでもするように、ずっと目を閉じている。
     期待されていない。多分光忠はこうなるとわかっていた。それでいて、ここまで待ってくれた。そのうえで自分は光忠の予想を裏切ることができなかった。最悪の意味で、きっと、予想通りだった。
    「終わりにしよう」
    「みつただ!!」
     冷酷に、無感情に放たれた判決に、長谷部は悲鳴のような声をあげた。だが取り乱す長谷部とは裏腹に、光忠はどこまでも冷静に、まるで裁判官のようであった。
    「……言ったろ? 愛は無償じゃない。僕はお母さんでも家政婦でもない。だから、終わりにしよう」
    「いやだ、愛してるんだ……!!」
     思わず、その腕に縋り付き、祈るように請うように肩に額を擦り付けた。
     だが、光忠は決して乱暴にはせず、丁寧に縋り付いた指をはがして体を押し戻されてしまった。
     その事実に、確固たる拒絶に、長谷部は呆然と光忠を見つめる。
    「口ではなんとでも言えるよね。僕だって、君の愛を疑いたくなんてなかった。でも、信じられるだけのものが何もないんだ」
     唇がわななく。どんなに言葉を尽くしても信じてもらえないなら、もうできることなんてない。正解がわからない。どうしたらよかったのか。何の根拠もなく、それでも必ず転職すると誓えばよかったのか。
    「俺は、俺はどうしたらよかったんだ……」
     両の手に顔を埋めて、長谷部は震える声で呻いた。本当に何の手立ても浮かばず、鼻の奥がつんと痛む。傷つけた立場で、無様に泣きたくなどなかった。でも、こらえきれず両目から涙はあふれ出てしまう。
    「転職してほしかったのもそうだけどね。僕は君に愛されてると実感したかった。それを信じられるなら、僕は今のままでも頑張れたと思う。でも君は、僕にそれを信じさせてはくれなかった」
    「俺はお前を愛しているのに……」
    「心の中は見えないから、行動で見せてくれないと伝わらないんだよ。……僕だって、その言葉を信じたかった」
     語尾が震えていて、冷静を装って見せる光忠もまた辛いのだと気づいてしまった。どうしてこんなことになってしまったのだろう。お互い、きっと今でも変わらず愛しているのに、少しも気持ちが寄り添ってくれない。
     これが光忠の愛の上で胡坐をかいて、ないがしろにしてきた報いなのだ。
    「……すまない……」
     喉に何かの塊がはまっているかのように苦しくて、かろうじて声を絞り出したがそれ以上は何も言えそうになかった。呼吸に合わせてみっともなく引きつれた声が漏れる以外、もう何もまともな音は出せそうにない。視界の外で光忠が鼻をすする音に余計に涙があふれてしまう。
    「多分、もう、何を言っても辛いだけだから。僕は、行くよ。荷物はまた、君のいないうちに引き取りに来るから」
     ぎし、とソファが揺れて光忠が立ち上がった気配がした。長谷部は顔を上げることすらできない。
     一度きり、優しく頭を撫でられて、更に涙があふれて、もう長谷部はしゃくりあげるしかできなくなってしまった。
    「……今までありがとう。じゃあね」
     これで終わりなのか。……終わりなのだ。自分は間違えた。途方もなく、愚かな間違いを犯した。
     長谷部の嗚咽の合間に静かに床を歩いていく音がして、やがて玄関が閉まる音がした。
     最後に、彼がどんな顔をしていたかすら、長谷部は見ることができなかった。


     こうして、光忠との四年は、あっけなく幕を閉じた。

    Tap to full screen .Repost is prohibited
    💖💖💴❤💯💯😭☺👏😍💖
    Let's send reactions!
    Replies from the creator