胸のざわつきがやまなかった。
あれほどの蝗に襲われていながらも、彼女の集落は傷の一つもなく、人々の活気に満ち溢れていた。獲物であったはず稲穂もたわわに実って頭を垂れており、収穫の時を今か今かと待ちわびている。行き交う者も、作物も、道端に咲く花や雑草までも男の記憶と寸分変わりはない。ただ一つ、民の家の数を除いて。
片目に見たあの家々は建てたばかりのものだろう。通りすがった際に嗅ぎ取った木材の香りは若かった。平生の彼なら気にも留めない程度のことだ。しかし今、その香りが集落のあちらこちらから漂ってきているのだ。
彼女の権能は塵だ。物量ではまず押し負ける。あれは奇襲だった。お得意の策も立てられずのはずだ。おかしい。無事であるはずがない。
行商人の姿をとり、雑踏を踏み分けていく彼の胸中には大嵐が吹き荒ぶ。早鐘を打つ心臓にならい、足は自然と早まっていく。己のような岩男にも心はあったのか。そう鼻で笑う余裕すら無かった。
「すべては帰終様のおかげだ。あの方がいらっしゃらなかったらどうなっていたことか」
「見たか? 地に御手を翳すだけで何もかもが元通りになった瞬間を。あれこそが奇跡、真の神業よ」
ありがたや。ありがたや。やむことのない称賛が耳を掠めていく。そうだ、ここが破壊されたことは確かだ。男はこの目で集落を飲み込んだ黒雲を見たのだから。見ていなければ信じなかった、あってほしくなかった。
訝しむ周囲の視線も、己の本来の責務も、今この瞬間だけはどうでもよかった。歩いて、歩いて、どこにもいなくて。初めて男は疲労というものを覚えた。それでも彼女を探した。そうして果実に似た橙が辺りを満たす頃に、彼はやっと己が行くべき所を理解した。
「やっぱり、けりをつけてくれたのは貴方だったのね。大丈夫なの?」
そこは二人が日々心を重ね合わさていった花の海だった。数え切れないほどの蕾たちが風にそよいでいて、帰終はそれらに囲まれるようにして座っている。向けられた背中はいつもよりも随分と小さく見えて、気を抜けばそのまま攫われてしまいそうなほどに頼りなく見える。花びらよりもかろく、やわらかな存在。近付くことすら躊躇われるほどに。
「所詮羽虫を扱う程度の野良だ。民からの信仰もなければ力もない」
「元気なこと。最近見ない間に気遣いが上手くなったようで感心だわ」
「集落を見た。そして、食い荒らされたはずの大地や田畑までも元通りにしたと
それは地脈に頼らなければ不可能だ」
「ええ、そうね」
「俺はお前にそこまでの力があるとは思えない」
一歩、二歩と踏み出す。歯を噛みしめる音が軋んでいた。尋ねた声は咽ぶ手前のようであった。
「一体、何を差し出したんだ」
帰終が振り返ると同時、風が吹き抜ける。彼女が攫われてしまうことはなかった。袖は翻り、夜空を閉じ込めた裏地が露わになった。それだけが見えていた。あったはずの白魚のような手は無い。彼女の肘から先が、完全なる無になっていたから。
「……手か」
「手だけで済んで何よりよ。塵で代わりになるようなものも作れるの、感触はないけれど。きっと絡繰を作る分にも支障はないはず」
「何故そんな他人事のように話せる? 両手だろう、お前の」
「冬を越すため、民を飢えさせないため。それが最適解だった。彼らはたったの五日で家々を立て直したのよ。すごいでしょう、誇らしくて仕方がない」
髪を風に遊ばれるままにする帰終の表情を伺い知ることができない。そのお陰で彼女の心情を図る唯一の手段が失われている今、男は何を以て彼女と、自身の感情を定義すれば良いのか分からなくなっていた。
誰よりも民を、花を愛していた帰終。そんな彼女が両の手を失った今、触れた皮膚に在る血潮の熱さや、柔らかな花弁の瑞々しさを感じる事は二度と叶わなくなる。あれほど愛していた感触であったというのに。男の腕を引き、肩をつつき、頬に触れて温もりを伝えたあの手は永遠に失われたのだ。
「あの時、俺が助けに向かえば未来は変わっていたのか?」
「過ぎたことを悔やんでいても何にもならないわ。それに、貴方には自らの民を守る必要があった。お互いの最善だったのよ。」
帰終の、手の喪失。その事実は取り返しようがない不可逆なもので、乗り越えられない巨大な壁のようなもので。途方もなく、どうしようもない。そうやって黒い現実は男の目の前に横たわっている。
「教えてあげましょうか? 今の貴方、すっごく傷付いた顔をしてるのよ」
歩み寄った帰終に顔を覗き込まれるまで、男は己が項垂れていることに気が付かなかった。見上げる彼女はびっくりするほど穏やかな顔をしていて、その瞳に映り込む男はなんとも情けない顔をしていた。
「痛むか」
「いいえ。やっぱり優しいのね」
まっすぐ心配されると照れちゃうわ。そう言って帰終は気恥ずかしさを誤魔化すように髪の一房を指に巻き付けようとして、やめた。もうできなかったんだった、と失笑を零して。
「でも、もう二度とこの手であなたの温もりを感じられなくなったのは、正直辛いかな。こんな手じゃ、もうどんな感触も伝わらないから」
ぞ、と帰終の袖先で塵が蠢めくのが見えた。湿ったものが男の眦にじん、と痺れを訴える。
「民は、知っているのか」
「見てきたでしょう? 私の犠牲は悟られていない、知られる必要もない。塵の魔神ハーゲントゥスは荒廃した大地に力を与え、民に豊穣をもたらした。それがあの子たちにとっての真実」
「これからどうするつもりだ」
「手がなくなったって統治に支障は出ないわ。塵だって今まで通りに操れるし、最低限のことは出来る」
今の安寧が、続く限りはね。彼女は最後に小さな声でそう付け足した。
「絶対でないものはない」
「だから知恵を絞るのよ」
「事前に策を講じていたとしても、あのような突然の出来事には対応できないだろう。しかし俺には、それを防ぐ手立てがある。単純な話だ」
帰終が目を見張る。その眼差しは疑問に思うようで、未知に対する期待を膨らませているようであった。差し出した掌が、どうか震えていないようにと祈った。
「俺が、帰終を守る。無くしたお前の両手に、俺がなればいい」
幸いにも、男は強かった。民のために自らを捧げたのが帰終の最善なら、男ができる最善は今この瞬間にあった。
「……私は、岩ころちゃんみたいに強くない。隣に並べるような力なんて、どこにも。それでも?」
「抜きんでたその知恵があるだろう。花の名を教えてくれたように、人間の可能性を教えてくれたように。そうやって、頭の固い俺を導いてくれ。だから」
らしくもなく、息を呑んだ。二人にとってきっとそれは同じことだった。
「帰終。俺の、友になってくれないか」
友。舌の乗せ慣れない言葉だった。それでも彼女には届いているという自信があった。震えた声は果たしてどちらのものであったのだろうか。
「──ねぇ、モラクス。私、今とっても嬉しいの。言葉に尽くしようが無いほどに。ずっと、ずっと私はあなたと友人になりたかったのよ」
帰終が微笑む。じわりじわりと瞳を潤ませ、光を含んで。呼応するようにぶわりと花々が一斉に開花して夜の訪れを告げる。匂い立つ琉璃の香の中で、帰終は男の手に袖を重ね、そして囁くように言った。
「ええ、なりましょう。あなたを一目見た時から私は分かってたのよ。私たちはお互いに生涯でただひとつの存在になるって。私はあなたの忘れられない存在に、あなたは私の何にも代え難い存在に」
笑いが込み上げた。最早諦めだ。
「やはり、お前には到底敵わないのだろうな」
「さっき二度も名前で呼んでくれたのに、もうお前に戻ってしまったの? 嫌ね、その分の喜びを一朝一夕語り聞かせれば、また呼んでくれるようになるのかしら」
「やめろ、帰終」
実際、帰終は予見していたのだ。二人が出会ったその瞬間から。初めに彼が感じた儚さや弱さはどこにもない。帰終と関わっていく中で、モラクスは彼女がずっと強かであることを知ったし、聡くありながら大層な頑固であることも知った。風に攫われるような印象を武器にしてしまう逞しさもある。
モラクスは帰終の頰に手を添え、またも笑いを零した。帰終の温もりは依然としてそこに在った。おかしなほどに何も変わらないままだった。帰終は自身の掌を通し、男の実在を確かめる術を無くした。しかしそれが何だと言う? 今度はモラクスの方から触れ、彼女に温もりを伝えれば良い話ではないか。簡単なことだ。
「あの花弁の感触も、赤子の肌の柔らかさも。全て俺がお前に伝える。俺自身の命だってそうだ。持てる言葉、持たざる言葉の一つ一つを紡いで。想像力の豊かなお前が嫌になるほど克明に、緻密に、鮮明に」
俺は、帰終の両手になるのだから。
「私って、随分なしあわせものなのね」
「教えた分の返しだと思えば良い」
「そこは素直にならないと面白くないのよ?」
淡く輝く丸い月が頭上にかかり、暗幕を飾る小さな光も天球を回り始める。モラクスの手から離れた帰終も星々に倣ってくるりと回り、「素晴らしい夜、完璧な夜、そう思わない?」と腕を伸びやかに広げた。そうして、帰終は月よりも眩い物体を胸元に浮かべた。
「無くしてしまう前に作れて本当に良かった。ずうっと貴方に渡そうと思っていたの。けれどあまりにも一緒が当たり前だったから、ずっとずっと渡しそびれていたの」
発光するそれは精巧な石錠であり、帰終のかんばせを下方から照らす。喜びを隠しきれない口元も、モラクスを見つめる爛々とした瞳も炎よりも鮮やかだった。それ以上をモラクスは知らなかった。
「この石錠を証としましょう。私たちの久遠の友情と、ありもしない絶対の証明として」
私たちの結びつきが強くあり、私たちの民の安寧が永久でありますように。
私だけじゃない人が、あなたの慈悲深さをしりますように。
「これが盟約の証であり、私からあなたへの挑戦状でもある」
「私の全ての知恵を、この石錠に閉じ込めた」
ふと、懐かしさが香った。そうして彼は、初めて彼女を見た時のことを思い出した。