悪夢は光とともに遥か昔、スカリー・J・グレイブスという男がいた。男はハロウィンを愛していた。男はパンプキン・キングを愛していた。男は世界中に愛するものを伝えて回り、いつしか人知れず死んでいった。
しかしただひとつ、男にはその世界の誰にも伝えていない愛があった。愛した女のことである。
死の間際まで男は愛した女を想い、そして……ゴーストとなった。
時を超え、いつの日か会えるように。
そしてその日が来るまで眠り続けた。
狭くて暗い、肖像画の中で。
ナイトレイブンカレッジには監督生と呼ばれる女がいた。名をユウといった。学園長の温情と支援によってなんとか生きていた。
ユウとてこの生活が長続きするとは思っていなかった。せいぜい卒業したらなにかしらの理由をつけられて追い出されるに違いない。
だから金が欲しかった。しかし職歴もない、保証人もいない、そして働ける時間が限られている女が手っ取り早く金を得る方法など限られている。
そんなわけでユウは春を鬻いでいた。
心の拠り所は友人と、そして一点の肖像画だった。
学園長が引っ張り出してきた肖像画。
そこに描かれていた麗しい人。
ふわふわと跳ねる白髪、毛先に軽く乗ったアッシュ。色眼鏡の向こうで妖しく光る橙の目。
ユウはそれにどこか見覚えがあった。
仕事がどんなに辛くても、彼の顔を見たら救われるような、醜い身体も少しだけ救われたような気がするのだ。
だから学園長に強請って、ハロウィンが終わってもメインストリートの端に飾ってもらうことにした。
やはりと言うべきか、ここが人呼んで悪党の巣窟だからか、客層はあまり良いとは言えなかった。今日も今日とて、オンボロ寮に侵入した奴らに襲われそうになったのだ。
月の輝く下、ユウはひたすら逃げていた。
(嫌だ。金も出ないのにあんなこと誰がやるものか!)
絶対に嫌だ、気持ち悪い。心の中では逃げろ逃げろと声が聞こえるのに、不摂生が祟ったのか足が悲鳴をあげている。いやだ、いやだいやだいやだ。
走って、走って、気づけばメインストリートまで来ていた。真夜中であるからやはり人はいない。
(誰か助けて)
いや、誰が助けてくれる?
(万一私を見つけたとして、私を傷つけぬ保障がどこにある?)
考えているうちにとうとう息が頭の中で処理しきれなくなり、身体が重力に負けて地面が目の前に見えた。冷たかった。やけに重たい頭をもたげた。視界の先にあの肖像画があった。思い出せない貴方がいた。なんだか助けてくれる気がした。そんな筈ないのに。
掠れた声が宙を舞って、すぐに落ちた。
スカリーは肖像画の暗闇の中で意識を取り戻した。誰かが自らの名を呼んだ気がした。頭が重い。周囲を見渡すと、ぼんやりとした光が見えた。光のほうへ向かった。手を出す。歩く。いや、浮かぶ?
途端、重力が身体にかかった。夜だった。
いつのまにか、肖像画から解き放たれていた。
物珍しくて色々見ようと一歩踏み出そうとすると。
喧しい声が耳を穿った。
「いたぞ!」
「まったく、手間かけさせやがって」
「お前嫌がってるやつにぶち込むの好きなくせに」
「ばれたかwwww」
低俗で下賤、醜悪な人擬き。
二人組がこちらに向かってきた。視線の先に、見知った顔。恋い慕った顔!
(ユウさん!)
スカリーは無意識のうち、自らのユニーク魔法を発動していた。
それは的確に、俊敏に、獲物を捕らえて離さなかった。
下衆どもは断末魔を上げる間もなく、次いで撃たれた魔法に打ち抜かれた。
「お迎えにあがりました」
そう言って差し出されたスカリーの手を、ユウは確かにとった。
そして安堵と疲労のせいか開いた瞼が落ちた。
スカリーは彼女を抱き上げしばし逡巡したのち、夜に溶けた。
「もし……ねえもし、貴方。この腕の中で眠る素敵な人。 我輩の声が聞こえているかな?」
懐かしい声。懐かしい言葉。
「ねえ貴方。どうかその瞼を開けてくださるといいのですが……」
声に従い、ゆっくりと瞼を押し上げる。
目覚めると知らない天井だった。
「わぁ! お目覚めですか。では再会の喜びのキスを——」
「やめっ、やめて、ください!」
ユウは咄嗟に拒絶を吐いた。
身体が受け付けない。こわい。どうしてだ、私はこの人を、愛していた。片思いだったけれど、確かに愛していた、のに。
スカリーは一瞬はっとした顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。
そもそもここはどこだ。なにかされていないか。
「手狭なところで申し訳ありません。直ぐに泊まれる場所がここしかなかったもので」
「とりあえず二週間。ここにいてください」
「な、なんで、そこまで」
「……貴方が我輩に助けを求めたから、でしょうか?」
にこ、と笑ってドアが閉まる。
眠気に耐え切れず、ユウはふたたび眠りに落ちた。
あの日の夢である。ハロウィンの準備中、ジャック・スケリントン、スカリー、グリム、そしてユウは見回りへと向かっていた。
機嫌がいいのか、のっぽの骸骨もちいさな魔獣も視界の前で踊っている。会話の邪魔が入らないことを確認してか、スカリーが話しかけてきた。
「ユウさんは我輩が嫌いなのですか?」
「ち、違います」
唐突である。ユウはこの男を憎からず思っていた。ただ、ユウの中でキスというのはあまりいいイメージがなかっただけ。
「ならば何故、我輩に触れられるのを嫌がるのです?」
「……わたし、男のひとが、こわくて。……いろいろ、あって」
「嗚呼、そういう理由でしたか。我輩の配慮が足りず、大変申し訳ありませんでした。……ユウさん、我輩は貴方を傷つけるような真似はいたしません。もし我輩の粗暴な振舞いで不快な思いをなさったなら折檻してくださっても構いません。……だからどうか、傍にいることを許してくださいませんか」
たとえそれが仮初の誓いだとしても、ユウはそれを喜んでいた。ただ一瞬でも安心したかった。
さて、奇妙な二人暮らしが始まった。スカリーはユウが不快になることは一切しなかったし、快適な(ときどき常識のズレを感じるけれど)生活を送れるよう努力してくれた。
ユウは少し考えた。
今までの客たちとはなにか違う、と。
「家事がしたい?」
「その、何もしないのは落ち着かなくて。なにかお礼ができればな、と」
「ふむ……ユウさん、お裁縫はできますか?」
「? ええ、一応」
「……我輩のために、なにか作ってくださいませんか?」
「な、何か……?」
「ええ、なんでも構いません。そうだ! 今からお買い物に参りましょう。貴方のお召し物も揃えたいですし、いろいろと入用ですからね」
「あ、あの、私お金は」
「?我輩が出しますよ?」
どこからそんな金が出ているのか気になるところではある。
ただこの制服1枚で何日も過ごすのは絶対に嫌だ。
もう安価なものでいいから、お言葉に甘えようと思ったのだが……。
こんなのは聞いていない!
目の前に広がるは、見るからに高級ブランドの店。
それだけではない、あれは所謂ロリータというものではなかろうか? ユウは自分なんかに着られる服が可哀想だと思ってしまう。
縮こまるユウとは対照的に、スカリーは手慣れた様子で店員を呼びつける。
「もし、貴方。彼女にいくつか見繕ってくださいませんか」
「承知いたしました! 少々お待ちください」
快活な店員がぱたぱたと駆け、すぐに布の塊たちが視界に侵入する。
「こちらの試着室でお召しになってください!」
言われるがまま、ユウは四苦八苦しながらも分厚いワンピースを身に纏った。
「おお……」
黒で仕立てられたワンピース。襟ぐりには大きなレースがあしらわれ、色白な肌とのコントラストがよく似合っていた。
「ユウさんの典麗なお顔立ちとよく合っておりますね」
「お連れ様のアンニュイな雰囲気にも合ってて、滅茶苦茶イイです!」
この人いつかクレーム来そうだな、とはユウもスカリーも思った。
「ほ、本当? 嬉しいわ」
「でしたら、こちらを購入いたしましょうか」
そうして二人は帰途についた。
また、あのハロウィンの夢である。
ユウ、グリム、そしてジャックはスカリーに誘拐されていた。ただ、グリムは菓子を食べながら眠ってしまったようである。
ユウはもうすぐか、と腹を括り、上着を脱いだ。
「おや、暑いのですか?」
「? ……ああ、着たままがよかったですか? それともご自分でしたかった?」
「お、お待ちください! 貴方はなにか勘違いを」
「何が勘違いなんですか? 女を脅して人気のないところに連れ去って、することなんか一つでしょう。別に抵抗なんかしませんよ、対価支払ってくれたし」
「わ、我輩はそのような取引はしていな」
「くれたじゃないですか、バスタブいっぱいのお菓子」
あれが対価でしょう、と続けると、スカリーはぶんぶんと首を振った。顔もなんだか真っ赤である。
「そ、そんなつもりはございません! 貴方のような方に、こんなところで……そもそも、どうしてそんなお考えを」
「……それが、みんなが私に望んだことだから、でしょうかね」
その瞬間、場面が変わる。これは夢、分かっている。
肉の塊が擦れる音が汚く耳に残る。いやにリアルだ。吐息が聞こえる。気持ちわるいくるしい早く終われ早くおわれ。
「ユウさん!? 大丈夫ですか!? ああひどい汗だ、我輩です。可哀そうに、こんなに魘されて。」
そう、とハンカチが額に当てられる。どうやらここは現実らしい。それでも夢の中で思い出された五感はそう簡単に消えなかった。
「大丈夫、我輩がそばにおりますから。二度とあのような目には合わせませんから」
優しい言葉を渡されても、心の中で拒んでしまう。まるでお前なんかにその言葉をもらう資格がないと、深層心理が石を投げてくるようだ。
「わ、わたしなんか、いなければ、」
「嗚呼そのようなことを仰らないで。貴方には価値がある。居なければよかっただなんて、我輩には貴方の居ない世界の色など想像もできないのに」
その声も、その言葉も、心の中で溶けずに残っていた。
何日も経った。生活に不便はしていなかった。けれども、ユウの心は寂しさを主張していた。寝る前で気が緩んでいたのもあったかもしれない。
だからぽつり、と。零してしまった。
「グリムも、エースとデュースも、どうしてるかな」
スカリーを取り巻く雰囲気が、がらりと変わったのが分かった。
「その方々は我輩より……我輩より大切なのですか」
「そ、そういうわけじゃないけど、でも友人だし、何も言わず出てきちゃったわけだし」
「帰りたいのですか?」
ユウは答えに困っていた。
「ここに居れば食べるものも、快適で安全な家も、娯楽だって手に入るのですよ? 我輩、貴方の為ならそれくらい用意いたします。だから、いかないで」
彼の目の中に、言い知れぬ狂気が広がっていた。
「ど、どうして。どうして私なんかに執着するの」
「愛しているからです」
想いが通じた、という喜びよりも恐ろしさが勝る。
スカリーは気づけば鼻先が触れあいそうなくらい近くにいた。
「すき、好きだ、愛してる。我輩以外のことなんか見ないで、ずっと一緒にいて」
ユウは「愛してる」がベッドの上の戯言に過ぎないと、そう思っていた。
「愛してる、なんて。そんな嘘、吐かなくていいんですよ」
スカリーの大きな目がまんまるに見開かれる。
「し、信じて、くださらないのですか……?」
そして表情をくるくる変えたあと、にいと意地悪い笑みを浮かべた。なにかが欠けた笑みだった。
「ああ、良いことを思いついた」
「な、何して……っ!」
視界が歪む。押し倒されたのだと理解するまでそう時間はかからなかった。
「貴方のことを滅茶苦茶にしてしまいたい、心も体も我輩なしではなにもできないようにしたいんです」
暗んだ視界のスカリーが、あの客たちと同じに見えて。
「って。……出ていって!!!」
ユウはスカリーを突き飛ばした。
結局なにも変わらなかったんだ。期待するだけ無駄だった。
(金で私を買ったあいつらと、なんにも変わらなかったんだ)
どうして思ってしまったんだろう。愛してくれるかもしれない、なんて。無意識的に、塞がりかけた腕の傷に触れる。爪でひっかく。痛くない。鈍麻。無心で描く。瘡蓋が皮膚から剥がれて、じわりと赤が滲む。いつもはこれで少し落ち着く、けど、今日はなんだかおかしくて。わずかな痛みが走るたび、爪に嫌な感触が触れるたび、心にちいさな傷が走る。
満たされない。逃げられない。
ぼやけた視界で視線を外すと、裁縫箱が目に入った。
スカリーは混乱していた。ただ、自分が悪いということは理解していた。
突き飛ばされた? どうして? 我輩が彼女の嫌がることをしたから。やってしまった。一時の醜い嫉妬。
それだけだったのに。
彼女の境遇は理解していた筈だ。どうして、どうして?
一刻も早く、謝らなければ。
たとえドア越しだとしても、自分は敵ではないと。
「もし、貴方。先程の無礼な行い、謝らせてはくださいませんか」
返事はない。もし、と幾度も呼ぶけれど、拒否する声さえ……いや、物音さえ。
なにも、聞こえない。
「申し訳ありません、失礼いたします」
すこし、様子を、見るだけ。
ユウは未だベッドの上に居た。黒い髪、ぼんやりとどこかを見る瞳、白いシーツに白いネグリジェ、そしてぽつぽつと染みている赤。赤? あれはなんだ。血だ。どうして血が?跡を辿る。手首。彼女の手首はずたずたで、細く赤い線がまるで拘束具、でなければ焼き印。
は、と目が覚めた。
彼女のもとへ駆け寄る。
傍には裁縫用の大きな鋏が転がっていた。血がついていた。
身に着けたシャツを破いて、包帯代わりにあてがう。彼女はもはや抗う様子もなく、ただただ両の目から涙を零すのみであった。薄い布はすぐに痛みに染まってしまい、替えに使おうと裁縫箱の布を手に取った。しかしユウはその手をぎゅ、と引き留めた。
翌朝、ユウはスカリーのもとへやってきた。その手には昨日裁縫箱の中にあった布。
「こ、これ、作ったの」
ユウは昨日の出来事を完全になかったことにはできなかった。ただ、なにかしらの希望的観測も見出していた。やり方を間違えてしまっただけで、彼なりにユウのことを考えてくれるのかもしれない。たとえそれが願望に過ぎなかったとしても、もう少しだけ信じようと思ったのだ。
「スカリーさんさえ良ければ、受け取って」
「……はい。ありがとう、ございます」
だからもう少しだけ、一緒に過ごしたいと思ったのだ。