制汗剤 バンッ!と大きな音を立てて、部室のドアが開いた。
「おかえり」
「なんだよ玉川、まだ居たのかよ」
「これでも一応、部長だからね」
練習試合から帰って来た切原が、乱暴にラケットバッグを置いた。
「くっそぉぉぉぉぉーーーー!!!!」
切原の叫びが、部室に響く。意気揚々と高校側のコートに出かけて行った時の顔が、嘘のようだ。辛子色のジャージは汗で一段階濃く染まり、天使化の名残なのだろうか? 瞳に鮮やかな青色が薄く残っている。前レギュラーの先輩達との年の差は一年。たった一年。されど一年。彼らの背中は、卒業後も高くて眩しい。
新年度がスタートして一ヶ月が経過した。そして、いや、やはりと言うべきだが、昨年度からの懸念事項は、見事に現実となってしまった。
切原と台頭に渡り合えるレベルの部員が居ないのだ。加えて彼は、後輩指導に長けている訳ではない。人一倍生意気で、底無しの負けず嫌い。けれども、その性格を支えるだけの努力と根性がある。それを踏まえれば、自ずと答えが見えてくる。切原には、より強い対戦相手が必要なのだ。そこで、俺は高校側の練習に、切原を参加させようと目論んだ。以前から行われている土曜の合同練習に追加して、水曜辺りに参加できれば良い。そして、今日がその初日だった。
「あーーーー!!」
切原が大きな声を上げ、パチンと両手で頬く。これには、気持ちを切り替える効果があるらしい。切原なりに、自分をコントロールしようとしているのかもしれない。
「ほら、汗拭きなよ。そうだ、これ……さっぱりするよ」
俺は、労うつもりで、鞄から制汗剤を取り出した。昔、新体操部で流行ってるんだと、彼女からプレゼントされて以来、お気に入りの制汗剤だ。だが、それを見た途端に、切原の目の端が赤くなっていく。
「えっ、ちょっと切原!? どうしたの?」
「ウルセ――――――!! 玉川お前もかよォ!!」
前言撤回。切原が感情をコントロール出来る日は一体いつになるんだろう。悪魔化まで時間の問題かもしれない。どうしたら良い? 戸惑っていると、今にも爆発しそうな切原の勢いが、急に止まった。ゼイゼイと呼吸をする切原を見る限り、高校生との練習試合は想像以上に体力を消耗するものだったようだ。
「何? どうしたの? 何かあった?」
「………………言いたくねぇ」
切原は、スライムのようにでろりと机に突っ伏してしまった。言いたく無いのなら、無理に聞かない。切原を含めた前レギュラーの間には、俺には分からない『何か』があるのだ。
「じゃあ、俺は先に帰るから。困ったことがあったらいつでも連絡して。鍵の返却は頼んだよ」
彼女の所属する新体操部は、もう終わっている時間なのだ。これ以上、彼女を待たせるわけにもいかないと、俺は荷物をまとめ、鍵を机の上に置いた。
「…………真田……ふ、副部長がぁ」
突っ伏したまま、切原は話を始めた。副部長は切原、君だよと思いながら、反論も手間なので、そこは聞き流しておいた。
「さっき、練習試合で……負けて。帰ろうとしたら真田副部長が、さっぱりするから使えって! その制汗剤出してきたんスよ!」
「真田先輩が? それはちょっと意外」
「だろぉ!? らしくねぇ~~! 高校デビューってやつっスか? って聞いたら、人から貰っただとか、体育と部活の後は許可されているのだとか、ウダウダ言うんスよ? 何なんすかね? マジ調子狂うわ……」
確かに、鍛錬用の大きな石が入っている真田先輩のラケットバッグに、制汗剤が入っているのは、イマイチ想像できないのだけれど。運動部なのだから、持っていたっておかしくは無い。
「でもさぁ、切原。そうやって人の親切心と、持ち物を茶化すのは良くないよ」
俺にとって、真田先輩の行動以上に理解できないのは、練習試合でボロボロに負けた後、その先輩を茶化せる切原の方なのだ。
「……って、こんな時間じゃないか! 支度して!」
俺は、唸る切原を急かして帰り支度をさせた。
「お待たせ」
「大丈夫、こっちも今来たとこ」
校門で彼女と合流する。彼女も新体操部の部長に就いて、お互い慌ただしい日々を送っている。
海沿いの青信号を待っていると、海風に乗って爽やかな香りが鼻孔をくすぐった。彼女の香りだ。ドキッとするより先に、切原から聞いた真田先輩らしくない制汗剤の話を思い出して、思わず苦笑いをしてしまった。
「なに、変な顔して」
「いや、ごめん。いい匂いするなって思っただけなんだけど……」
「なんだけど……?」
彼女が首を傾げながら、こちらを見つめて、話の続きを促してくる。
「それが……同じ制汗剤を、真田先輩が持っていて。それを切原が高校デビューだって騒いでて」
「へぇ。真田先輩って、テニス部の? 一つ上の?」
「そうだけど」
彼女の口の端がゆるりと上がり、「そっかぁ」と小さく呟く声が聞こえた。それから、飴玉みたいな瞳をきゅるきゅると大きくさせて、青に変わった信号を捉えると、ピンと伸びた脚でタンタンと軽やかに横断歩道を渡っていく。俺は、急いでそれを追いかけて行った。
これは後日、彼女から聞いた話だ。
彼女と友人がドラッグストアに寄った際に、制汗剤売り場で、幸村先輩に会ったことがあるらしい。年上の姉がいる彼女は、その制汗剤に『好きな人と蓋を交換して、使い切ると恋の願いが叶う』だなんて迷信を知っていた。そして、それを幸村先輩に話すと、意外な答えが返ってきた。
「うん。俺も知ってる」
聞けば、入院していた時に、看護師の方々との雑談で知ったらしい。幸村先輩と言えば、ふわりとした見た目に反して、現実的な思考をしている人と言うイメージがあった。そして、立海の校舎裏にある木の、告白成功率を著しく下げたと噂される人物だ。迷信や恋愛話には興味が無いと思っていたから、彼女の口から語られる幸村先輩の様子に、俺は心底驚いてしまった。
「じゃあ、幸村先輩も、誰かと交換するんですか?」
「……それも、良いかもしれないね」
その時の幸村先輩は、花弁のように柔らかい表情だったそうだ。
暫くすると、買い物カゴを持った真田先輩がやってきた。買い物カゴには、スポーツドリンクやテーピング、アイシングスプレーなんかが山のように積まれていた。
「必要なものは揃ったぞ」
「ねぇ、真田は、どの匂いが好き?」
制汗剤のコーナーを指差す幸村先輩に、真田先輩は、心底分からないとでも言うように、眉を顰めて答えた。
「こういったものは使わんから分からん」
「そうかい」
「おい、幸村。必要なものはもう揃ったぞ」
真田先輩は痺れを切らした様子だったが、幸村先輩はそれを全く気にせず、あれやこれやと商品を確認していた。暫くして幸村先輩は商品を二つ取り、買い物カゴに入れると「じゃあね」と、手を振ってレジに向かったそうだ。
「ねぇ、よしお君」
語り終わった彼女が、頬杖を付いて俺を見た。
「幸村先輩の願い、きっと叶うよね」
そう語る彼女の顔は、ハッピーエンドの映画を観た後と同じ、優しい顔をしていた。
幸村先輩と真田先輩の持っている、お揃いの制汗剤が空になったのは、それから一ヶ月後のことだった。