『夜桜、月下』 何時の時も、魈には鍾離の真意が分からない。当たり前だ、彼の方は仙祖『岩王帝君であり、あの魔神戦争を勝ち抜いた岩の魔神モラクスである。一介の夜叉である魈とは生きてきた時間も、その長い時間の全てを費やすようにしてきた『在り方』も、違うのだ。
ゆえに、どうしてこのような状況に自分は置かれているのか、今の魈には分からなかった。
具体的に言うならば、何故か魈は現在、鍾離の持つ洞天の一つに招かれ、彼と隣り合うように腰を下ろしながら花を見ているのである。
花、と一概に言っても、それは璃月でよくみられる草花ではない。他国には多く在るという、枝の先に花をつけるようなタイプの広葉樹である。それも、確か――……。
(鍾離様のお話では、これは『櫻』と言われる植物であるらしい。稲妻地方でよくみられるものだとか)
『この木を原料としている木材を“夢見材”と言ってな。それらを使って作られた調度品は、春のような温かい夢を齎してくれると言われているんだ』
少し前にそう言っていた鍾離の話を思い出しながら、魈は顔を上げる。自分たちが座っている場所の背後に聳え立つ櫻から、はらはらと。櫻の花びらが零れ落ちる。
空には月。しかし現実にはあり得ない三日月の姿は、太古の昔、月がまだ欠けては満ちてを繰り返していた時代のものであり、この場所が外景経――心像を使ってそれぞれの宇宙を創り出す仙術であり、かつての岩王帝君が大戦の折、ほんの束の間でも仙人達が休息を得られるようにと与えた“祝福”の一つである――によって創られている事を示していた。
つまり、ここにある自然は全て、人工物なのである。どれだけ本物のように見えても、夜の色を背負う空も、その中央にて鎮座する三日月も。自分達の周りで花を開かせている櫻の木々も、その花びらを受けては水面の上に波紋を作る川の流れも。
その全てが洞天の主である鍾離の『想像』によって作り出されたものなのだ。
魈がそのてのひらで受け止めた一枚の花弁も、その花びらを揺らし落とした『風』すらも、だ。
(だが、たとえその全てが作り物なのだとしても。……この場所は、とても綺麗だ)
もしかしたら洞天とは、作り主の心を映し出す鏡であるのかもしれない。作り物で在りながらも秀麗で、心落ち着かせる風景をその目に収めていた魈は、ちらりと己の隣にて、手酌で酒を飲んでいる鍾離を見る。
(鍾離様は、もしかしたら。我にこの美しさを見せようと、誘ってくださったのだろうか)
思っていると、目が合った。澄んだ石珀色の瞳がゆるりと笑みの形に細められて、魈の胸がトクリと鼓動を刻む。はらはらと花弁を零す夜桜の下、黒の龍袍に身を包み、普段は結んでいる長い髪を解いた状態で片膝を立てるようにして座る鍾離の姿は、何処からどう見ても様になっていた。まるでこの色鮮やかで綺麗な世界の全てが、彼を彩るために存在しているようだ。
「魈も一杯、やるか?」
「いえ、我は、酒はあまり……」
「そうか? 花見酒と言うのも悪くはないぞ」
「……では、一献だけ」
そう答えた魈の目の前で、鍾離は己が手にしていた杯に酒を注ぎ、おずおずと両手を伸ばしてきた少年へと差し出す。けれど両の手で杯と徳利、二つの酒器を受け取るつもりだった魈は、敬愛なる相手に酒を注がせてしまった事に背筋を伸ばしたものの、「頂きます」とその杯をやはり両手で受け取り、唇へと運んだ。
……けれど、はらりと。また一枚花弁が落ち、魈の手の中にある杯の中に浮かぶ。
「はは……、絶世の美少年と謳れし降魔大聖殿には、櫻の花びらすらもが吸い寄せられてしまうと見える」
思わずそのまま動きを止めた魈を見て、鍾離は笑いながら指を寄せ、杯の中にて揺れていた花弁を取り除いた。ぺろり、と。鍾離の赤い舌が花びらについていた酒の水分を舐めとったのが見えて、魈は何やらぞくぞくとしたものが背筋を上りあがっていったのを感じる。
今度は舌の上にくっついたらしい花弁を取り除こうとしている姿でさえ艶めかしくて、なんだか見てはいけないものを見てしまった気分だった。
ゆえに、なるべく相手の顔を見ないようにしてちびちびと酒を飲んでいた魈は、けれどふいに杯を地面の上に置くと、鍾離のほうへと手を伸ばした。
「それは貴方もでしょう。……我は帝君にこそ、『美しい』という表現が似合うと思うのですが」
そう告げて、鍾離の前髪に乗っていた薄紅色の花弁を除いた魈は、伸ばしていた腕を鍾離の手に捕らわれ、引き寄せられるような形で鍾離の腕の中へと招かれる。
……本当に、今日の鍾離様の行動は、分からない。そう思ったとしても、魈は特に逃げようともせず、鍾離に抱きしめられるがままに言葉を聞いた。
「俺は今や、ただの凡人だがな。だから、そう……こんなふうにお前に触れるのは、不敬なのかも知れない」
近い距離で聞こえる声は何処までも優しく、穏やかで、心地良い。触れ合う箇所から少しずつ伝わる温かさだって、間違いなく鍾離の体温からなるもので、魈は固くなった身体からゆっくりと力を抜き、薄く笑んだ。
「……お戯れを。肩書きがどう変わろうと、我にとっての帝君は、あなただけです。鍾離様」
これではまるで、『そんな事はない、だから触れて欲しい』とでも言っているようだと思いつつ。
けれどけして間違いではないのだからと、言葉にした魈は、視線の先で「そうか」と嬉しそうに笑った鍾離を見上げる。その背後ではらはらと花びらを降らせる櫻の美しさは、やはり鍾離にこそ相応しい。
――そう思いながら、見惚れて、どれだけの時間が経ったのか。抱きしめられる事で少しずつ増えていく温かさと、少しとはいえ久しぶりに口にした酒気のせいか、魈は久しぶりに『眠気』というものを感じ始めた。とろりとした空気が琥珀色の眼差しに纏わりつき始めた事を察した鍾離は、とん、……とん、と。まるで子どもをあやすかのようにその背を軽く叩き始める。
ゆったりとしたリズムで動きを繋げるその手は、大きく、命の持つ確かな温度と重さを持っていて、魈は誘われるままに瞳を閉じそうになる。
「……駄目です、鍾離さま。どうして我に、このような……」
「さて、どうしてだろう。だが、……どのような命にも、穏やかに夢を見る権利くらいはあるのだろうと、俺は思うんだ」
そう言った鍾離の真意が、魈には分からない。当然である、別個の命なのだから。どれだけの年月を共にしていたとしても、己以外の心を――ましてや、自分自身の『心』すら、あまり考えて来なかった魈には――まるごと理解する事など、出来るはずがないのだ。
それでも、分かりたいと思う時がある。そしてその先で、けして彼の心を慮る事が、できなくとも――。
(叶うのならば、もう少しだけ。……このような時が、続けば良いと)
願い、祈り、瞳を閉じてしまう時が、魈にだってあるのだ。
たとえば、そう。こんなにも美しく、穏やかで、春の訪れのように温かな。
あの魔神戦争の折には考えられないほどに、平らかなる時間の流れを身に受ける時……などに。