卑怯者のワルツ 手紙というのはとても便利で、同時に不便でもある。
声なら感情を読み取ることもできるし、同じ言葉でも真剣さを伝えることもできただろう。
逆に言えば、どれだけ真心を込めて文字を羅列しても、感情を補いきることはできない。ましてや、たった六文字で何を伝えようというのか。
それでも、机の上に置かれた紙を見て。そこに残された文字を眺める男は、きっとこう思っていることだろう。
あの旅人はなんて卑怯なのだ、と。
蛍が、このメロピデ要塞の主人であるリオセスリに想いを告げられたのは、もう一か月前になる。
夜の一時。恒例とは言えずとも、いつものと称せる程度に行われていたお茶の席で、まるで世間話のように軽く、愛していると。
否、そこに至るまでには多少の予兆はあった。
真っ直ぐ見つめる薄氷の瞳も、そこに込められた確かな熱も、蛍は気付いてしまった。
付き合おうだとか、好きだとか。なんとか湾曲できそうな言葉ではなく、確かにリオセスリは蛍に愛していると告げたのだ。
それに対する彼女の答えは、寄せられた好意に対する感謝でもなく、想いを受け入れられない謝罪もなく、考えさせてほしいの一言。
あの時、自分がどんな顔でそう告げたか、今でも蛍は覚えていない。
記憶に残っているのは『ゆっくり待つさ』と笑う男に、胸が締めつけられたこと。そして、返事は必ず対面でしてほしいとお願いされたこと。
そうして一週間が過ぎ、二週間が過ぎ。覚悟を決めるまでに一ヶ月もかかり……そして、蛍は彼に手紙を残したのだ。
たった一言、ごめんなさいと。
ああ、だからこそ。彼は今、卑怯だと怒っているだろう。散々待たせた挙げ句、唯一の約束さえも破るなんて。
もしここが璃月だったら、契約不履行と罵られていたっておかしくない。そうでなくとも、正義を理念とするこの国でも許されないことだ。
本当に誠実ではない。呆れられただろう。いや、嫌われたまでいったかもしれない。
そもそもの好意を裏切ったのは、他でもない自分。こんな断り方をしておいて、今までどおりの関係を望むなんて都合が良すぎる。
そう、蛍が固めていたのは断る覚悟ではなく、嫌われるための覚悟。
好意を寄せていた相手に。自分と同じ想いを抱いてくれていると知った彼に、突き放される覚悟。
最初は、リオセスリに想いを告げられて舞い上がった。同じ気持ちだったと、自分だけではなかったのだと。
無垢な少女のように喜び、疑いもなく。心臓は早鐘を打ち、幸せに溢れてしまいそうだった。
だが、同時に深く、深く。その想いを受け入れてはいけないことを、蛍は自覚していた。
……自分は、旅人だ。この世界に当てはまらない存在。本来ならば、もうここから去っていたはずの者。
自分が旅を続けているのは、兄を探すためだ。彼の残した言葉を。彼が見てきた世界を。そして、その真意を辿り、家に帰るため。
フォンテーヌに来たのは過程の一つにすぎず。そして、準備が整えばまた、この国からも離れていく。
モンドや璃月、稲妻のように、時折戻ることはあるだろう。だが、それも一時のこと。いつかは兄と再会し、この世界からも出ていく。
いつ戻るかもわからない相手を、誰がずっと想い続けるだろう。いいや、想い続けられるとして……それは、彼の幸せには繋がらない。
今ではない。だけど、いつか必ずその時は訪れる。そんな自分に、どうして彼を縛り付けられるのか。
公爵と一介の旅人。肩書きとしても釣り合っていない。
相手は大人で、彼に比べれば自分は遙かに子ども。言い訳なら山のように出てくるのに、それを口で伝えることは、どうしてもできなかった。
蛍は自分の強欲さを知っている。彼の言うとおり、顔を合わせて断ろうとすれば、きっとボロが出てしまう。
言葉巧みに本音を引き出されて、まんまと彼のペースに嵌まってしまうだろう。口で勝てた試しは一度もない。
……いいや、これすらも言い訳だ。
単純に、蛍は傷つきたくなかったのだ。
散々ひどいことをしておいて、何を今更。
付き合えない、ごめんなさい。そう言うだけで、今の自分はきっと泣いてしまう。
断られて傷つくのは彼の方なのに、それこそ卑怯ではないか。
前は。彼に会う前は、ここまで弱くなかったはずなのに。
もっと怖い思いだってしてきたし、もう駄目だと思ったことだって何度もあるのに。怖くて、怖くて、たまらない。
だから、蛍は逃げたのだ。それがより悪い結果になると理解し、葛藤し、天秤にかけ。何度も傾き、持ち直し。
最後には結局、彼に甘えた。
リオセスリは大人だ。どの相手に、どう対応すればいいか。どうすれば円滑に物事が進むか彼は熟知し、実行できるだけの忍耐もある。
私情を公の場にまで持ち出すことはない。だから、約束を破った相手だろうと、相応の対応をしてくれる。
普段通り変わらず挨拶をして、蛍ちゃんと声をかけ。近況を話し、からかい、何事もなかったように。何も、変わらず。
ただ、もう二人きりでお茶をすることがなくなるだけだ。
彼が授かった元素のように、透き通った氷のような瞳が柔く緩むことも。名前を呼ぶ声が優しく響くことも。
水の下とは思えないほどに温かく、落ち着くような空気も。彼と過ごすからこそ得られていた幸福感だって。全部、全部。蛍から、突き放すのだ。
呻きそうになり、咄嗟に唇を噛み締める。膝を痛い程に抱え、呼吸すらも止めて、緩みそうになる涙腺をなんとか抑えようと必死に。
泣くな。自分で決めたことだ。まだ耐えなければ。
だって、まだ自分はここにいる。このメロピデ要塞の、彼の執務室。手紙を見ている彼の――リオセスリのすぐ後ろに、いるのだから。
タイミングが悪かったのだ。長居するつもりなんてなくて、実際、置いたらすぐに地上に戻るつもりだった。
そうすれば最後だと。もうここには来ないと。なのに、今戻ってくるなんて思っていなかった。
咄嗟に椅子の裏にあった装飾に隠れたはいいが、いつ気付かれてもおかしくない。
足音を気にしすぎて、ソファーの裏まで回れなかったのだ。いいや、そうではなく、手紙を読まれる前に何食わぬ顔で部屋から出ればよかった。
たられば、など無意味。実際蛍はリオセスリの後ろにいて、もう彼は手紙を読んでいる。たった六文字、ごめんなさいの一行。
差出人も書いていない簡素な手紙。それでも、彼ならその意味を理解できるはずだと。蛍の確信に近い予想は、響く溜め息によって肯定された。
深い、深い。さらに深い水底へ落ちていくような、重たい響き。そこに込められるのは怒りか、呆れか。
わかっていたのに、突きつけられたせいで口から心臓が出そうな程に苦しくて、だけど息を漏らすこともできない。
まるで断罪を待つ咎人のようだ。もし裁判があったとして、下される判決は決まりきっている。
だからこそ早くトドメをと。だからこそ、聞きたくないと。矛盾する感情が胸元にせり上がって、耐えきれずにフ、と溶ける。
「そうか」
だが、それ以上に強い響きが、彼女の呼吸を止めた。
まるで頭を殴りつけられたようだ。怒りでもない、呆れでもない。至極どうでもいいと、そう告げるような、淡々とした言葉。
カンカンと、階段を下りていく音。そうして扉が開いて、閉ざされる音。どれも遠い世界のように聞こえて、現実味がなく。
……嫌われる覚悟ならできた? ああ、なんて甘い考えだったんだろう。
単純に好きの真逆だなんて、そんな。
あんな、あんなの、嫌われた方がよっぽどマシだった。
失望された。彼の信頼までも、全部、自分は捨ててしまったのだ。
最悪を考えていたなんて、嘘だ。だって、こんなの。こんなの、想像すら、していなかった、のに、
「――ひ、ぅ」
唇の隙間から声が漏れてしまう。
泣くな、泣くな。当然の結果だ。これを望んだのは、自分じゃないか!
卑怯者! 泣く資格などないのに。傷付けたのは自分なのに!
「っ……ふ、うぁ……あ……!」
それなのに、一度漏れたらもう止められない。息が、声が、何もかも全部。抑えても抑えても、零れてしまう。
もう、謝る資格すらない。全部、全部自分で捨てたのだ。なんて自分勝手で、ひどい。
どれだけ自分を罵ろうと溢れる感情を抑えることはできず。だが、波はいつまでも高いものではない。
やがて涙が止まれば、胸を占めるのは底のない虚無感と、腫れた目の痛み。歪な呼吸の代償に、酸素の行き届かぬ手足に若干の痺れ。
呆然と自分の膝を眺めていたが、震える息を吐ききると共に軋む身体が動き出す。
……早く、ここを出ないと。
いつ彼が戻ってきてもおかしくはない。ここは彼の執務室で、蛍は侵入者。許可は与えられていたが、今となっては過去の話。
自分がすべきは、己の愚かさを噛み締めるのではなく、彼の領域から出ていくことだ。
カン、カン。足裏から伝わる鈍い金属音も、聞くのはこれで最後になるだろう。
この階段の上からかけられる出迎えの声も、漂う紅茶の匂いも、本当に好きだった。
彼の視線も、時折触れる手の温度も、名前を呼ぶ声も。全部、全部。
……なんて、惜しむ資格すら。もう。
かつん、と響く最後の一歩。振り返ることだけは押し留まり、今度こそ最後だと顔を上げて――ふと、違和感に気付く。
それは冒険者としての勘もあったのだろう。ほとんど無意識に、神経を集中させた先。元素視覚で捉えたのは巨大な氷。否。凍らされた、唯一の出口。
見間違いではない。肉眼でもわかるほど、扉は完全に凍っている。
ありえない。だが、どれだけ見つめても状況は変わらず、理解はできず。
だが、その答えはすぐに与えられた。
「――悪いな、少し手が滑って凍らせてしまった」
跳ねたのは肩か、心臓か。背後から聞こえたのは、幻聴か。
見たくないのに身体は動き、いるはずのない姿を捉えてしまう。
階段の下。雑多に積まれた荷物に背を預け、こちらを見つめる青。
それは紛れもなく、出ていったはずの、男で。
「こ……う、しゃく」
「まぁ、幸いなことに大して分厚くはないし、他に緊急性のある事もない。ゆっくりお茶を飲んでいる間に溶けるはずだ」
返事はない。あるいは、聞く気もない。つらつらと続く説明は、答えであって答えではない。
普段通り。いつも通り。そう錯覚するほどに変わりなく。浮かべている笑顔だって、そう思い込めてしまうほど。
「それで?」
だが、細めた瞳が。自分を見つめるその薄い青は違うと、彼女から逃げ道を奪う。
「隠れんぼはもうおしまいかい、蛍ちゃん」
荷物から背を離し、ゆっくりと近づく男に、戦慄いた唇から出る言葉はない。
気付いていた。いつから? きっと、最初から全部。部屋に入ったときからずっと、今に至るまで、何もかも。
「水くさいな、あんたと俺の仲だろう? 話したいことがあるなら直接言えばいい。とはいえ、謝罪の内容によっては、罰を与える必要があるかもしれない」
重い足音が、貫く瞳が近づいてくる。一歩目ならば耐えられて、二歩ならば耐えきれず。三歩となれば、後ずさり。
同じ分だけ下がり、視界に入った扉はまだ開かず。無意識に見た階段も、彼女を救うことはない。
壁は罪を受け入れろと冷たく少女の背を阻み、床は裁きの訪れを告げる。
「備品でも壊したか? 囚人に危害を? それとも、この執務室から極秘情報でも持ち出そうと? もしそうなら一大事だな。……それで」
視界に影が重なり、そうでなくとも視界は黒と赤に埋め尽くされる。鼻腔を擽るのは、紅茶と香水の混ざり合った甘く深い匂い。
こんな時でさえ好きだったと、そう考えてしまう自分は本当に、救いようがないのだろう。
「なんに対しての、『ごめんなさい』だ?」
顔を上げれば、咎める瞳に貫かれてしまうだろう。たとえ蛍が見ずとも、その目で見られている事実からは逃げられない。
それでも顔を上げられないのは、この期に及んでまだ逃げようとしているからだ。
自分の口から拒否することを。突き放すことを。そうして、彼を自分の言葉で傷付けてしまうことを。そのせいで、自分が傷つくことを。
本当に、なんて卑怯だ。こんな卑怯者が彼と付き合っていいはずがない。
だからこそ言わなければならないのに。今度こそ覚悟を決めなければいけないのに、何もできない。
少しでも唇を開けば、また泣きそうになってしまうから。零れそうになって、しまうから。
「なるほど。下手に言い訳をするぐらいなら、沈黙するのは確かに利口だが……今回に限っては最善じゃないな」
頭の上に腕をつかれ、影が一層濃くなる。ただでさえ猶予のなかった距離は縮まり、身をすくめても背中は冷たく押し返されるばかり。
もう捕まっているも同然。少しでも身動げば触れてしまうほどに近いのに、互いを繋ぐものは何もない。
「お茶会の気分じゃないなら、氷が溶けるまで俺と鬼ごっこでもするかい? ちょうど身体も鈍っていたところだ。俺が鬼をかってでよう」
左は階段。右は氷漬けの扉。後ろは拒絶するばかりで、前にはすでにリオセスリ。
端から逃がす気などないと、声の調子だけはいつも通りで。だけど、違っていて。
「ただ逃げるっていうのも味気ない。もし捕まったら……その謝罪の意味を洗いざらい吐かせた後に、既成事実でも作るか」
「っ、な……!」
何てことをと、非難する声は音になることはなかった。
反射的に見上げてしまった顔。貫く薄氷の瞳。ただ冷たいだけと、そう思っていた光の熱さに焼かれた喉が震え、狭まる。
怒っている。それは当然だ。それだけのことを、蛍はリオセスリにした。許されるとは思っていない。許されてはいけない。
だけど、この熱は怒りだけではなく。それを何とたとえるかを蛍は知らない。ただただ強く、熱く、それ故に恐ろしく。
確かに蛍の認識は間違っていない。リオセスリは大人であり、情報戦に優れ、適切な振る舞い方も熟知している。
だが、同時に彼女は忘れていたのだ。
いいや。その認識も含めて、彼に甘えていたのだろう。
リオセスリという男が、ただの大人ではなく――悪い大人、ということを。
「もう一度だけ聞こう」
選択肢を与えながら、その実、その余地がないと。本人に自覚させることこそ、まさにその一例。
「俺と楽しくお茶をするか。……それとも、覚悟を決めるか」
何をとは言わせないと。薄氷の瞳の中、その欲が揺らめく様を、蛍は見た。見てしまった。
***
【補足】
・リオセスリの名誉の為に言うと、既成事実はメイクラブではなく外堀埋めるぞ的な奴なのでご無体はしません。
・扉を凍らせたのは蛍ちゃんが泣いた直後。つまり見極めた結果の追い打ち・
このあとちゃんと楽しく()お茶してハッピーエンドです。
・需要があればリ視点も多分書きます。多分。