卑怯者のワルツ【2】 手の平サイズの小さなカード。プレゼントと共に添えるには丁度良く、手紙としてはやや足りない。
だが、ほんの六文字を残すのであれば、むしろ多すぎるほどの余白。綴られた文字が、差出人の心情を表すように特に小さすぎるせいもあるだろう。
だが、リオセスリが手に取って真っ先に抱いたのは、字が小さいことの呆れでもなく、ましてや約束を破られた事への落胆でもなく……想定通りというだけ。
あるのは簡潔な謝罪だけ。お詫びの品も無ければ、差出人すら書いていない。
それでも、その相手を金髪の少女と結びつけられるのは、まさに今、自分の背後に本人が隠れているからだ。
息ごと抑え込もうとしているのだろう。恐怖を抱く者の反応を、リオセスリは理解している。それは、このメロピデ要塞を統括するよりずっと前から、それはもう語るのも馬鹿馬鹿しいほどに。
数多の修羅場をくぐり抜けてきた少女。かの自由の国では栄誉騎士の名を授与され、契約の地では魔神の封印に関与し、知恵の国では神の救出まで携わった。
達観しきっているわけではないが、純粋無垢とまでは言わず。女と言うには駆け引きに慣れておらず、少女と呼んで愛でるほどには幼くはない。
それでも、蛍という旅人は、強者に分類される側の人間だとリオセスリは認識している。
これまで何度も恐ろしい目に遭ってきただろう。命の危険も、あるいは貞操の危機だって。武力で解決できぬ事柄だって幾度と見舞われてきたはずだ。
では、そんな彼女がこれほどまでに怯えることをしたかと問われれば、個人的には否定したいところ。
リオセスリが彼女にしたことは、自分の想いを伝えただけだ。
たった一言、愛していると。余計な言葉は付けず、されど誤解される余地のないように。
その時点で予想していたのは持っていたカップを取り落とすか、聞き間違いかと目を白黒させるか。真っ赤になって何故どうしてと質問攻めにするか、あるいは赤くなったまま何も喋れなくなってしまうか。
それは、蛍が自分と同じ想いだと確信を得たからこその行動で、どんな反応でも対処できる自負があったからだ。
多少、彼女が卑屈になる可能性もあったが、それも想定内。信じられないのなら試しにデートでもと、少しずつ自覚させるつもりだった。
今思えば、あの時が一番の誤算だったとも言える。
伝えた瞬間、リオセスリが捉えたのは、綻びかけた笑顔が凍り付く様。
「――ぁ、」
息を飲み、眉を寄せ。動揺を悟られぬよう瞬く瞳が大きく揺れるところまで、余すところなく。
それ以上口を開けば漏れてしまうと、閉じた唇が震えるのを見て……これは、単純な話ではないと突きつけられた。
旅とは、目的があるからこそするものだ。そして、蛍がその目的に、彼女が語る以上の意味があることもリオセスリは察していた。
旅をしているから。いつかここを去ってしまうから。そんなの分かった上で想いを伝えていると、想定していた断り文句が、甘い認識であったことを突きつけられる。
「か、んがえさせて、ほしい」
長い長い沈黙。ようやく再開した呼吸と共に告げられたのは、遠回しな拒絶にも聞こえる言葉。
眉を寄せ、震えた声で言われればどれだけ察しが悪くとも断られたと思うだろう。俯いた視線が重ならないなら余計に。
だが、伝えるなり噛み締められる唇も、膝の上で揃えられた強張る手も。なにより、揺れる瞳が。今にも泣きそうな蜂蜜が、そうではないと伝えていた。
断らなければならない。だけど、断りたくないと。
もし勘違いであれば、リオセスリが己惚れた男だったという笑い話で済む。失うのは僅かなプライドであり、取り返しがつくものだ。
だが、目の前の少女への返答はそうではない。間違えれば最後と、男の直感は告げていた。
追い詰めてはいけない。だからこそ、一度は逃がした。
落ち着くだけの時間と、決めるだけの猶予を与えるために。同時に、見失ってはいけないと鎖も付けた。必ず返答は、対面で行うようにと。
とはいえ、これに関しては保険の意味合いが強かった。
冒険者教会でも評価の高い、優秀な旅人だ。依頼主に対しても、そして友人に対しても誠実である彼女なら、その程度の約束は守ってくれると信じていた。
どれだけその内に抱えているモノを恐れていても、必ず目の前に現れてくれると。
だからこそ……これはリオセスリにとって想定通りであり、そして、それ以上に悪い事態であった。
思わず漏れた息に、背後の気配が大きく揺れる。ああ、可哀想に。そんなに息を抑えては苦しいだろうに、それ以上に抱えているモノを恐れているとは。
本当ならすぐに立ち去るつもりだったのだろう。手紙を残し、何食わぬ顔をして水の上に戻り。そうして、次に会うときは友人として、何もなかったように。
彼女の心情を思えば、その方がいいのだろう。
このまま気付かぬふりをして部屋を去り、大人の対応を貫く。リオセスリが告白したことなんて最初からなかったことにして、お互い日々の忙しさに翻弄されるうちに記憶も薄れ。
そうして、忘れられた頃に改めて、気にすることはないと告げてやれば、それで全てが解決だ。
そうすれば彼女の中に禍根は残らず、表面上は変わらぬ付き合いをできる。
そう、彼女がそう望むなら。本当に、それを願っているのであれば。
「……そうか」
では、お望み通りにと。手紙を放り、階段を下り、扉を開いて……だが、身体は留まったまま。
足音を立てずに階段の下に戻り、荷物に背を預けて耳を澄ます。
いくら響きやすい材質といえ、もう何年も水の下にいれば気配を殺すぐらい容易いこと。盗み聞きなど最低と、罵られて当然。
「――ひ、ぅ……っ、ふぅ、ぁ……あああぁ……!」
引きつった声。溢れる感情を抑えつけて、それでも耐えられぬと漏れる悲鳴は頭上から。
ああ、ああ。可哀想に。泣くことすら満足にできないとは。その胸の内で、それだけの恐怖と戦っているのだろうか。
男の気持ちに応えられない苦しみと、嬉しかった事実と。それでも切り捨てなければならないと、一ヶ月もかけて固めたはずの決意は崩れている。
聞かなかったふりをして、全て気付かなかったことにして、このまま出ていくのが優しい大人の対応だろう。
その想いを踏みにじってはならないと見守り、時間が彼女の傷を癒やしてくれると信じて、快く見送る。それが、彼女がリオセスリに望んだことだ。
――だが、リオセスリは優しい大人でも、ましてや優しい男でもない。
凍り付く扉の音が、泣きじゃくる声に遮られて届かず。唯一の出口は、男の決意を表すように固く閉ざされる。
もし、ここで見逃して。彼女の望み通りにしてやって、いつまで彼女は自分を悔いてくれるだろうか。
細まる瞳の奥、透き通った薄氷は薄暗い欲望にゆらり、揺れる。
自分も同じ気持ちだったのに。それでも離れなければならないからと。思い返し、悔やみ、誰かとお茶をする度に蘇って……だが、いつまでそれが続く?
どんな恐怖もいつかは薄れる。それが強者であれば、己から乗り越えることだって。
そうして過去の男になって……その先、リオセスリがいたかもしれない位置に、他の男がいない保証は? そんなの、できるわけがない。
確かに、リオセスリは一度、蛍を逃がした。だが、見逃すつもりなど毛頭ない。
ああ、本当に可哀想に。
タイミングが悪かったばかりに、彼女は最後のチャンスまで逃してしまった。
分かっていたからこそ、あんなカード一つで別れを告げようとしたのだろう。
ここに来てしまえば。男に向き合えば、今度こそ逃げられないと知っていたから。耐え切れないと、分かっていたから。
全て分かった上で逃げ道を塞ぎ、追い詰め、捕まえようとしているなんて。卑怯な男と言われるだろう。
いいや、卑怯者で大いに結構。悪い大人と罵られても構わない。
彼女の中で過去になるぐらいなら。
この先ずっと、苦しむだろう彼女を見過ごすような最低な男になるぐらいなら、喜んで卑怯者にもなろう。
「もう一度だけ聞こう」
そして今。己の影の中、閉じ込めた少女に卑怯者が告げる。
「俺と楽しくお茶をするか。……それとも、」
もう逃げられないと。
「――覚悟を決めるか」