とろける関係 カップルが愛を祝う日とされるバレンタインデー。
虎杖家のキッチンでは青年が何やら準備をしている。高い身長に鍛え上げられた肉体、鼻筋と目元に残る傷跡――長子の宿儺である。台上には丸と長角の型、搾り袋、オーブンペーパーなどが揃えられており、これから行われるのはお菓子作りだと分かる。
宿儺が背丈のせいで小さく見える冷蔵庫から生クリームや食塩不使用のバターを取り出していると、キッチンの扉が開かれた。
「ごめん宿儺、遅くなった!」
学生服に身を包んだその青年は伏黒恵。お隣の伏黒家の次子で、現在高校二年生。宿儺とは二歳違いの幼馴染だ。
現在時刻は午後三時半。帰宅時間としてはむしろ早いくらいだろう。伏黒と交流の深い宿儺もそれを理解している。
「気にするな。手洗いは済ませたか」
教科書の詰まった重そうなリュックを部屋の隅に置き、学生服の上着を脱いだ伏黒がこくりと頷く。
「ん、洗面所借りた。なぁ、それより…」
戸棚からグラニュー糖を取り出した宿儺が、そわそわと落ち着かない様子の伏黒に向かい合う。
「どうした伏黒恵」
「本当に時間貰っていいのか、宿儺も大学の試験で忙しいんだろ?」
何を今更、と口元を緩める姿に伏黒はぽうっと見惚れた。
「半日程度問題ない。何よりオマエからの頼みだ、この俺が断るわけないだろう」
毎朝どう頑張っても跳ねた髪を直せない頭を撫でられる。宿儺の言葉も相まって、伏黒の頬が淡く染まった。
「そっか…よろしくな」
「ああ任された。安心しろ、オマエの手先の器用さなら問題なくこなせるさ」
世話になっている奴に渡すのだろう?頬と耳に移動した大きな手が滑らかな肌を往復する。
されるがままの伏黒は控えめに微笑んだ。誤魔化すには口を閉じるしかなかったのだ。なぜか、それは世話になっている人物とは目の前の男で、本命チョコとして渡そうと思っているからだ。
渡す相手に菓子作りの教えを乞うなど中々の珍事だろう。伏黒もそう思っているし、こんな事態は想定していなかった。
最初は同級生の虎杖(宿儺の弟だ)と釘崎に相談した、そこから姉の津美紀に話が流れていって、自分の両親にバレてしまい……最終的に宿儺から「菓子作りをしたいのだろう、俺が教えてやる」と言われて今に至る。
シンプルに言おう、何でこうなった。
しかも互いの都合で教えてもらうのが、今日――バレンタインデー当日になってしまった。教えてもらいながら作ったその日に渡す羽目になるなんてどんな心持ちでいればいいのか、伏黒は正直今も分かっていない。
「これ材料費」
未だ撫でくり回されつつ封筒を差し出したが、受け取ってくれる様子はない。
「宿儺ぁ」
手触りの良いニットの裾をつかみ、背の高い彼の目を下から見つめる。手を止めた宿儺が一瞬ぐ、と息を詰まらせる。
小さな頃から可愛がってくれているからか、伏黒が甘えると大抵のことを叶えてくれるのだ。年上の、片思いの相手に、高校生にもなって甘えるなんてかなり恥ずかしいのだが、背に腹は変えられない。
「はー…オマエ、俺以外にそのような顔を見せるなよ」
一応預かっておくと宿儺は封筒をひらひらと振った。
どんな顔だとは思いながらも、おとなしく首を縦に振っておく伏黒である。元より甘える相手など宿儺以外ありえない。
「あ、エプロン持ってくるの忘れた」
「では俺のものを貸す。ほら、後ろを向け」
自分でできると抵抗しても宿儺にとっては小動物に絡まれた程度なのだろう。あっさりと後ろを向かされた伏黒の首元にエプロンの紐がかけられる。体格のよい宿儺に合ったサイズのそれは調節必須だ。紐の長さを整えられ、背後から回った宿儺の腕に抱きしめられるようにして、伏黒は心臓の音が伝わっていないかを心配しながら、時が過ぎるのを待った。腹の辺りで蝶々結びが出来上がり、大きな手が腹の上をするりとひと撫でして離れていく。
「さぁ始めるか」
作業台の前に移動する宿儺に、ぎこちなく返した恵もワイシャツの裾を捲って続いた。
「何からすればいい?」
「伏黒恵が何を作りたいかによる」
材料なら大抵揃えてあるぞと後押しを受けて、伏黒は意を決して質問した。
「あの、もしもの話なんだけど、例えば宿儺だったら何を貰うと嬉しい?」
片思い相手の答えを待ちながら、視線を彷徨わせる伏黒は恋する人間そのものだった。
宿儺がゆっくりとした口調で返すひとつひとつを頭にしっかり刻み、伏黒は事前に調べておいた菓子の種類を思い返す。
「じゃあ……」
□ ■ □ ■ □
伏黒は料理が得意ではない。適量とか、ひとつまみとか言われても感覚が掴めないのだ。しかしながら、お菓子作りには正確さが求められるため、うまくできるか不安だった伏黒でもなんとか手順通りに進められている。もちろん、料理も菓子作りも完璧にこなす宿儺の指導あってのことだが。
「えっと、クーベルチュールフレークと無塩バターを湯煎で溶かし終わったら」
「生クリームを加える、だな」
目の前に置かれた小さなパックを目にして、礼を言う。
「…これはどれくらい混ぜるんだ」
「ツヤが出るまで」
ボールを抱えて頑張っている間に、宿儺は次の工程の準備を進めてくれている。手際の良さは料理番組のアシスタントを超えるだろうと伏黒はぼんやり思った。
ツヤが出た生地を湯煎で温め、卵黄を加えたら、ホイッパーでよく混ぜる。用意してくれていたメレンゲを加えてざっくり混ぜ合わせていくところで、顔に生地を散らしてしまうハプニングがあったものの、順調に作業は進んでいった。
袋に入れた生地を型(セルクルというらしい)に絞り入れ、190℃に予熱したオーブンで焼く。時間は約15分。
焼き終われば、完全に冷えた後に型から外して完成らしい。手助けがあったものの、初めてといっていい菓子作りを無事終えられそうで伏黒はほっとした。
「宿儺、ありがとな」
エプロンを外してから洗い物をしている宿儺の元へ行くと、伏黒の顔を見るなり喉を震わせて笑った。礼を言った人間に対してその反応はどうなんだとムッとする。トントンと宿儺が自分の口元を指で叩いた。細めた瞳の赤が綺麗で、さっきまでムッとしていたことを忘れて見惚れてしまいそうだ。
「手で拭っただろう。まだ残っているぞ」
言われて漸く合点がいった。生地を飛び散らした時の取り忘れがあったようだ。穴があったら入りたい気持ちでいっぱいになり、誤魔化すように手の甲を顔に寄せた。
「こら、擦るな」
柔らかい口調とともに宿儺の指が頬をとらえる。向かい合い、伏黒の顔が少し上向きに固定された。反対の方の手が口元に伸ばされて、思わず伏黒は目を瞑る。水分に濡れた布がそっと口元に当たった後、ふに、と一瞬なにかが触れた。パチリと目を開くと吐息が触れそうな位置に宿儺の顔がある。
「すっ…!…ン、む」
開きかけた小さな口が今度はしっかりと覆われて、声は宿儺の口内へ消えていく。驚きに縮こまった舌が自分より長く厚い舌に絡め取られて、混ざり合う唾液の味を伏黒は初めて知った。こくりと喉を鳴らして唾液を飲み込めば、男が微かに笑った気配がする。息苦しさに眉根を寄せた頃にやっと解放されてプハッと息をした伏黒は、宿儺へ物申そうとした。
「すくな、…あッ」
ぎゅうと両手で抱きしめられて、身動きがとれない。ニット越しに感じるふかふかの胸筋が気持ちよかった。
頭上で宿儺が大きく息を吐き、ぴょんぴょん跳ねた伏黒の髪に頬を埋める。
「オマエは本当に愛らしいなぁ」
その言葉に伏黒はカチンときて、ぐっと宿儺の胸を押し返した。
「子供扱いすんな、高二の男だぞ!」
押し返されて数歩ほど二人の間に距離ができる。宿儺が片眉を上げた。
「俺がいつオマエを子供扱いした?」
「いつもだろ!今日だって、代金は後で母さん経由で返すつもりだって分かってるんだからな!それに…」
噛み付いた伏黒の言葉の勢いはすぐになくなり、俯いてしまう。
「俺が出来ないから世話かけて…宿儺にあげるチョコなのに……」
ぽそりと溢れた言葉と滲んだ涙を誤魔化すように、ばっと顔を上げた。
「今日作った分は虎杖にやっていいから!!」
よかったら宿儺も試験勉強の休憩に食べてくれ、矢継ぎ早に言うとリュックを手にしてキッチンを出ようとした。
宿儺がそれを許す筈もない。
「俺宛と言ったな?」
手首を柔らかく掴まれているだけだ。それなのに真剣な声と瞳に射抜かれて動けなくなる。せめて反抗したくてそっぽを向いたけれど、どうなんだと追撃されるともうダメだった。
「宿儺が、多少甘くてもよくて腹に溜まるものなら尚いいって言ってたから…」
「それに温めて食べるこれなら、寒い今の時期にちょうどいいかと思ったんだ」
ボソボソと言い訳めいたことを口にする伏黒を壁際に追いつめ、頬に一筋流れた涙を宿儺が拭い去る。
暖かな指先に伏黒の言葉は止まらなくなって、本当は内緒で作りたかったことも、ずっと好きだったことも、本命チョコだということも洗いざらいぶちまけてしまった。
「そうか…」
とりあえず言葉が受け取られたことに伏黒は安堵した。元々叶わない恋、後は野となれ山となれ、だ。
そう思っていたのに。
壁に背をつけた状態の伏黒の顔の横に、宿儺が片手をついた。
「俺はもう我慢せずともいいわけだ」
ニヤリと歪んだ目と口が宿儺の上機嫌を物語っている。
「もう子供ではないからなぁ。なあ、伏黒恵?」
オーブンが間抜けな音を立てて、菓子の焼き終わりを告げる。完全に冷めるまでどれくらいかかるのだろう。それまでの間に俺はどうなってしまうんだ。宿儺と壁の間に囚われて、ぼんやりと頭の片隅で思う。
鮮烈な赤に縫いとめられたまま視線が動かせず、近付いて焦点が合わなくなる顔を見る。
呼ぼうとした名前は一音も発せられないまま、伏黒の舌は思考ごと攫われていった。