今だけはこのままゆったりとしたワルツが流れている。
ステップを踏むたび肩に置いた手が素肌に触れている感触を感じてしまい、嬉しいような後ろめたいような決まりの悪い感情が呼び起こされる。なんでこんな肩むき出しのドレスなんか着てるんだよ。似合ってるけど。すごく。
伏せた目の上瞼に乗ったアイシャドウかなにかが光を反射して煌めく。その星のような瞬きをぼんやり眺めていると、またあかりの足を踏んだ。あかりがこちらを見上げる。色素のうすい丸い瞳の周りにはくるりとカールした睫毛が縁取っている。きっとこんなことばかりに注目してるからうまく踊れないんだ。わかってる。わかってるけど。
「痛っ…これで5回目だよ、瑛くん」
「…ゴメン」
いつもより艶やかに色づいた唇を尖らせ、恨めしげに睨まれる。おまえを見てて集中してなかったなんて小っ恥ずかしいことが言えるわけもなく、俺は素直に謝った。ただでさえ苦手なダンスに加え、着飾ったこいつが自分の腕の中にいるんだ。こればっかりは本当にどうしようもない。
そもそも、俺がこんな事をやるハメになったのはだいたいこいつのせいなのだ。
「わたしね、学園演劇出ることにしたんだ」
あかりがはにかみながらそう言ったのは2週間前のことだった。
文化祭の準備が始まり学内に浮ついた空気が流れる中、俺たちは人目につかない中庭の片隅で昼食を取っていた。
この日はたしかクラスメイトの女子から誘いを受けないよう授業が終わると同時に人目の無い場所ーー俺の密かな昼寝スポット、安息の地である中庭の隅へ走り出したんだったか。毎日毎日女子と昼休みを過ごしてばかりで全く気が休まらないから、捕まらないよう先手を取ったというわけだ。まあ、結局そのぶり返しが翌日以降来てまた女子との昼食が定番化したんだけど。
それはさておき。
偶然逃亡先で弁当を広げていたあかりを見つけ、2人で昼食を食べていた時に学園演劇の話を切り出されたのだった。
「演劇?おまえが?」
「うん。せっかく高校最後の文化祭なんだし、目いっぱい楽しみたいなと思って」
「ふうん…お供のペット役でもやるのかよ」
そうからかうと、あかりは何やら得意げな顔になった。
いつもならぶすくれてハムスターみたいに頬を膨らませたりするのに。こいつを見ていると妙にげっ歯類の小動物が連想される。
「違うよ瑛くん。私が狙うのは主役だよ」
「主役!?おまえが?」
驚きのあまりなんだかさっきと同じような反応をしてしまった。あかりは俺のリアクションに満足したように笑みを深める。
「目いっぱい楽しみたいって言ったでしょ?やるからにはテッペン獲らないと」
「何者なんだおまえは…」
呆れる俺を尻目にあかりは大きめの卵焼きひと切れを一口で頬張った。口いっぱいにもぐもぐと咀嚼している。やっぱりこいつ、ハムスターに似てる。
しかし、こいつなら主役の座を射止めかねない。俺は紙パックの牛乳を飲みながらそう思った。
小動物然とした見た目とは裏腹に相当ガッツのあるやつなのだ。実際、一年のテストの順位は中の下程度だったのに三年の今ではすっかり俺と競うレベルまで順位を上げている。それに勉強だけでなく、運動や珊瑚礁でのバイト、その他俺にはよくわからない女子のあれこれについても毎日努力している。さらさらとして柔らかそうな栗色の髪も、俺より数段白いなめらかな肌も、手入れの行き届いた桜貝みたいな爪も、全部こいつの努力の賜物なんだろう。
このことに気づいているのは当然俺だけじゃない。「海野さんってかわいいよな」なんていう声は学年が上がるにつれ多く聞くようになった。
そんなあかりが本気で主役を目指すんだと言うんだから、結果は火を見るより明らかだ。…俺の贔屓目を差し引いても。
飲み終わりの近い牛乳パックが音を立て始めた。
「そっちのクラスはまだ文化祭のこと話し合ってないんだっけ。瑛くんは学園演劇出ないの?」
「…出るわけないだろ。今だって忙しいのに演劇の練習もなんて、これ以上やること増やせられない」
「文化祭終わったらまたテストもあるしね。しょうがないかあ…」
その声が残念そうに聞こえ、つい「なんだよ、俺に出てほしいのか?」と尋ねてしまう。あかりは俯かせた顔を少し上げ、視線だけでこちらを見た。ばちりと音が鳴りそうなほど目が合い、俺はつい視線をそらす。少しの間、沈黙がその場を支配した。なんとなく気まずいのを紛らすため、カレーパンに齧り付いた。今日は逃げるように教室から出てきて購買に行く余裕なんか無かったから、これは朝コンビニで買ったものだ。超熟カレーパンには劣るがフツーに美味い。ちらりとあかりの方を見遣ると言葉を探すように視線を彷徨わせていた。
「…うん。瑛くんと一緒に主演やれたら、楽しいかなって思ったの。その、やっぱり仲のいい人同士でやった方が緊張しないだろうし…」
仲のいい人。
喜ぶべきか嘆くべきか迷うワードチョイスだった。あかりには男女問わず友人…"仲のいい人"が多くいるから、嘆くべきかもしれない。
あかりは珍しく言葉を詰まらせていたが、話していて勢いづいたのかさらに続ける。
「それに瑛くんなら主役間違いなしでしょ?なんてったって羽学のプリンスだもんね。絶対王子役だってゲットできるよ」
「おまえは遊園地に飽き足らず学校でも俺を白馬に乗せる気か」
「ふふっ。だって似合うんだもん」
おまえな、と軽くチョップする。ふざけて小さく悲鳴を上げるのを見て、ふとあかりが主役の演劇を想像する。煌びやかな衣装を纏いスポットライトに照らされるその姿は、きっと大勢の目を奪う。
「でも、そっか…瑛くんが出ないならほかの人と一緒にやることになるんだね」
その一言で現実に引き戻された。そういえば、学園演劇は毎年ほとんど恋愛ものばかりだ。去年も一昨年もそうだった。演目によってはキスシーンがあるとかないとか、そんな話をクラスメイトの女子がしていたような気がする。先ほどの想像上のステージで、知らない男があかりに愛を囁く。華奢な体を抱き寄せ、そして…
ついあかりの唇に目がいく。見た目通りやわらかくてふわふわしていて、なんだかいい匂いがする。俺はそれを知っている。2年前のあの事故から…いや、はじめて出会った時から。
「瑛くん?わたしの顔になにかついてる?」
「べ、別に?なにもないよ…」
その後も2人で昼休みを過ごしていたが、俺は嫌な想像が頭から離れず上の空であかりの話を聞いていた。
その日、俺のクラスは午後の授業で文化祭について決めることになった。
「それでは、学園演劇に参加したい人はいますか」
「ねえねえ、佐伯くんは出ないの?」
隣の席の女子が弾んだ声で尋ねてくる。ついさっき聞かれたばかりの質問だった。
出たいわけ、ない。貴重な時間が練習で奪われるあげく見世物にされるんだ。俺には学校の行事なんかよりもっと大切なことがある。だからそんなことゴメンだと思っていた、そのはずだった。
俺は口角を上げ柔らかい声を意識して話した。
「そうだね、せっかくだし出てみようかな。これまであまり表に立って文化祭に関われていなかったからね」
「ほんと!?ねえ、佐伯くんが演劇出るって!」
その一言で教室が騒然とした。
「じゃあ私も出たい!」
「私も!!」
主に女子によって。思わず笑顔が引きつるが想定内だ。しょうがない。
我こそはと目をぎらつかせながら立候補する女子たちの間で仁義なき真剣勝負、じゃんけんが行われ、人数が規定まで絞られた。俺も参加すべきだったのだろうが、「佐伯くんは出なきゃダメ!!」という力強い言葉に甘えて不戦勝ということになった。こちらとしてはありがたい限りである。
参加者が決定したところで、実行委員が爆弾を投下した。
「ちなみに今回舞踏会でのダンスシーンがあるから、出演者の人たちはそのつもりでお願いします」
「え〜!じゃあドレスとか着るんだ!楽しみ〜」
「ずるーい!私も佐伯くんと踊りたかったなあ」
ダンス。
きゃっきゃと話す女子たちの声を聞きながら呆然とした。
自分で言うのもなんだけど、俺はわりとなんでもできる方だ。できるまでひたすらやる方と言えるかもしれない。時間をかけて取り組めば、だいたいのことはある程度できるようになる。勉強しかり、コツコツ積み上げていった努力が結果に現れるものは好きだ。
ただなんでも例外はあるもので、リズム感が必要になるものはてんでダメだった。それは例えば楽器を演奏することだったり歌を歌うことだったり…そこにはもちろんダンスも含まれる。
「どうしよう、私舞踏会のダンスなんてできる気がしないよ…」
「佐伯くんなら踊れそうだし教えて貰えば?ね、佐伯くん」
「ゴメン。僕もそういうダンスは経験がないから…でももしダンスシーンに出るなら精一杯やるつもりだよ。お互い頑張ろう」
話を振られて愛想良く当たり障りない言葉を返す。教えるなんて到底できない。むしろこっちが教えて欲しいくらいだ。そんなことを言う気にはとてもなれないけど。
ダンスなんかあるなら先に言っておいてくれと切実に思うが、決めてしまったからにはもう後に引けない。だって今出演をとり止めたら自分は踊れないと周りに知らせるようなものだ。そんなのは我慢ならない。いやになるほど高いプライドが邪魔をしてくる。
それに、と昼休みのことを思い出す。もし、俺があいつと踊るんだったら。
あかりを抱き寄せその手を取るのは他のやつじゃなくて自分自身だ。
あいつはいつも恥ずかしげもなくベタベタ触ってくるけど、ダンスで密着したらさすがに照れるだろうか。
なんだかそれは悪くないことのような気がした。
放課後。学園演劇の出演者と運営委員の打ち合わせが終わったのは店の時間に間に合うかギリギリの時間だった。出演を決めたのは自分自身だからしょうがないけど、これからは今まで以上にハードなスケジュールになりそうだ。
足早に昇降口へ向かうと、あかりが所在なさげに立っていた。
「なんでそんなとこでぼーっと突っ立ってるんだよ」
「瑛くん!」
話しかけるとぱっと顔を上げた。
「あのね、瑛くんを待ってたんだよ。ちょっと話したいと思って…」
「…そうか。今日は時間ないから敵情視察はできないけど、一緒に帰るくらいなら、まあ」
「よかった!じゃあ早歩きで行こう!」
あかりは先ほどとは一転して顔を輝かせた。いつもより気持ち早めの歩調で歩き出す。ちょこまかと動くのがリスみたいで面白い。
もしかしてと少し期待をしていたけど、マヌケな勘違いに終わらなくてよかった。
「瑛くん、なんで学園演劇出ることにしたの?」
「なんだよ、いきなり」
「それはこっちの台詞だよ」
歩き出してすぐにあかりが切り出してくる。
「お昼のときは出ないって言ってたのに」
「それは…そうだけど、気が変わったんだ」
こちらを怪訝そうに見上げるあかりの視線が痛い。
「あんなに嫌がってたけど心変わりすることがあったの?」
「まあ…そんな感じ」
「それって…」
「そんなことより!」
納得してない様子だが、このことについて追及されたくない俺は遮って別の話題を振った。
「ちゃんと主役ゲットしたな、おまえ。やるじゃん」
「うん!みんなに推してもらえて助かったよ〜」
あかりは宣言通り、見事ヒロインの人魚姫役を勝ち取った。Vサインを決めながら満足げな表情で俺を見上げてくる。
本人が言うように周囲からの圧倒的な推薦を受けての決定だった。こいつは俺のことをプリンスだの人気者だの言ってくることがあるが、正直人のこと言えないと思う。
「でも、瑛くんも主役になっちゃったね?」
「まあな…」
一方の俺はというと女子に推され王子役になってしまった。王子というのが気に食わないけど、これはこれで悪くないかもしれない。俺が王子役だったら人魚役のあかりと踊るのは俺だけだろう。もしキスシーンなんかがあったとしても、それを演じるのは俺となわけで…
「そういえばダンスもあるけど大丈夫?瑛くん、ダンスはちょっと無理があ…イタッ!」
制裁のチョップを食らったあかりは頭を押さえる。
「…今に見てろよ。絶対ダンスでぎゃふんと言わせてやる!」
「ふっ…望むところだぜ。オレの動きについて来られるかな?」
「ほんとに何者なんだおまえは…ダンスパートナーなんだから動き合わせろよ」
その日、俺達はそんなことを話しながら2人で下校したのだった。
あの時の意気込みも虚しく、今俺は必死にあかりの動きについて行っている。情けないことにエスコートしてもらっている状態だった。
あかりのちいさなつむじを見下ろす。肩が出ているドレスだから、いつもは服に隠れている透けるような肌が見えている。…だめだ、あんまり見てるとまた足を踏む。
しかし、こうしてみると本当に人魚姫みたいだ。じいちゃんが昔読んでくれた絵本を思い出した。離れ離れになって、そのあとは誰も知らないふたり。
俺は昔約束を交わした人魚にまた巡り会えたのに、まだ迎えに行けそうにない。
こいつは覚えてるんだか覚えてないんだか思わせぶりなことばかりするし。一緒にいると楽なはずなのに自分の小ささを思い知ってしまうし。思ったことはそのまま伝えられないし。
本当に、うまくいかないことばかりだ。
3年に上がって、進路や店のことについて親からせっつかれることが前より増えた。いつまでも意地を張るなと言われた。その通りかもしれない。今までずっと反発してきたけど、親が言うようにもう大人にならなくちゃいけないんだろうか。
それに最近じいちゃんは何か悩んでる。悲しいことに原因には心当たりがあった。それは俺だ。たぶん、勉強と店とでいっぱいいっぱいになってるのに気づいてるんだ。俺の意地のために、じいちゃんを苦しめてる。
俺はどうしたいんだろう。どうすればいいんだろう。もうずっとわからない。
それでも。今だけは、何も考えずただ2人で踊っていたかった。