拠る岸辺(朝餉のシーン)「まだ少し時間があるんだ。朝餉にしよう」
昨夜の感傷に浸っていると、佐竹から朝餉の提案があった。日本がこんな状況に陥ったことで両親は出払っており、お手伝いさんもいない状況で一人家を守る勇は食事の支度が習慣となっていた。材料はいくらか残っているので、一人分なら増えても問題ないはずだ。
「わかりました。今作ります」
「俺も一緒にいいか?」
一緒に食事の支度をするなんて、最近うわさに聞く新時代の結婚生活のようだなと笑みが零れる。今はもう、佐竹と同じ時間を過ごせるならどんなことでも構わなかった。
佐竹が勝手知ったる足取りで氷冷蔵箱や貯蔵庫を確認している。どうしてうちの台所事情を知っているんだと考えつつその後ろに腰をさすりながらひょこひょことついていった。
「勇、朝と言ったら何が食べたい?」
全てを確認し終えた佐竹がこちらを振り返る。朝に自分が食べたいものなどあまり考えたことがなかったので、朝の定番料理をいくつか言うことにした。
「朝だったら…白ご飯とお味噌汁ですかね」
「味噌汁か、具は何がいい?」
「…葱と豆腐が好きです」
「そうか」
会話をしながら佐竹は必要な材料を取り出して並べていく。居間の机には現在、味噌と葱と氷冷蔵箱で冷やしていた豆腐が鎮座している状態だ。
「隆二さんの食べたいものはないんですか?」
「俺か?朝なら…卵焼きだな」
佐竹の口から「卵焼き」というかわいらしい単語が出てきたことに、心の柔らかい部分が刺激される。隆二さんは卵焼き食べたくなるんだ。ふ~ん、そっか。
「なんだその顔」
「いえなんでも。卵取ってきちゃいますね」
いつものように心を読まれる前にさっさと卵を取りに向かう。そういえば、卵焼きの味は甘いのとだし巻きどちらが好きなのだろうか。自分は甘い方が好きだが、佐竹はそうじゃないかもしれないな。
「勇!」
仕切りの向こうから佐竹が声を掛けてきた。どうやら何かもう一品分の食材を探しに行ったようだ。自分も卵を置いたら米を取り出しておこう。
「なんですか!」
「もう一品、魚系ならありそうなんだが何か希望はあるか」
魚は確かししゃもと鯵と鮭があったか。朝と言えばししゃもか鮭を焼いたものが定番だったはず。ししゃもは保存が効くので鮭から食べてしまいたい。それに、ほかの品から考えると鮭の口になる気がしている。あとどちらかと言えば鮭が食べたい。
「鮭ありますよね、鮭の塩焼きにしましょう」
「俺もその口だった」
佐竹が仕切りの向こうから鮭を持ってひょっこりと顔を出す。片手で鮭の切り身を持っていたので、開いている手に卵の籠を引っかけた。
「これお願いします。俺はかまどに火入れて米の準備しておくので、先に他の始めてください」
台所の準備を佐竹に任せ、自分は土間へと降りる。他の準備が終わってから米を炊き忘れるという失態を何度か経験したので、米は一番に支度するようにした。米を軽く洗い、お釜に入れて水を張る。そしてかまどに火を入れ薪で火を調整したら、上にお釜を置いてあとは待つだけだ。待ち時間に台所の準備へ向かおうと立ち上がるが、やはり腰の違和感は拭えない。
「米の準備終わりました。何から始めてますか?」
「ありが…身体、痛いんじゃないのか?あとは俺がやるから座っていても…」
「問題ないです。手伝います」
「…わかった。無理はするなよ。今は味噌汁を作り始めたところでな。勇はどの出汁がいい?」
身体は痛むが動けないほどではない。折角、最後の時間を貰えたのだ。許す限りはずっと隣にいさせてほしい。そんな気持ちを込めて言い切ると、佐竹も観念したようだった。
「煮干しが好きです」
「なら煮干しにするか」
慣れた手つきで煮干しの出汁を取っていく。先程から思っていたが、こちらの好みを確認してから作っているのだろうか。自分で作るのだから好みの味にしてもいいのに、佐竹のそういうところが好ましい。
「葱切っておいてもらえるか」
「もう出来てます。豆腐もあとは入れるだけです」
「…手際いいな」
味噌汁の調理が済んだので、卵焼きと鮭の調理を分担して始める。鮭は勇、卵焼きは佐竹が作ることになった。鮭の下処理をしていると、卵焼きの味を決めていなかったことを思い出し横で卵を混ぜている佐竹に声を掛ける。
「隆二さん、あの…」
「知ってる。甘いの、だろ」
「え、なんで…」
佐竹に卵焼きの好みは伝えていないはずだが、勘だろうか。はたまた心を読んだのかと鮭を熱した油の上にのせながら考え事に耽る。
「この情報はな、お前の兄ちゃんとの死闘の末に手に入れたんだ」
なんだそれは。俺の卵焼きの好みを死闘で?佐竹は兄を止める側の人間だと思っていたが、認識を改める必要がありそうだ。予想外の理由に思わず佐竹の顔を凝視する。佐竹もこちらを見たかと思うと、少し下を見て、慌てた様子で声を張り上げた。
「おい勇!煙!鍋みろ!」
「え、あ⁉」
火力を上げすぎたのか、少し目を離したすきに鮭の片面が焦げてしまった。
すべての支度が終わり、机からはいい香りのする湯気が立ち込めている。煮干しの風味が効いた葱と豆腐の味噌汁、厚めに切った艶のある塩鮭焼き、ほかほかの白いご飯、混じりけの少ない黄色でふるりと揺れる甘い卵焼き。そして佐竹の要望で勇の好きな緑茶を入れて、朝餉となった。
「「いただきます」」
合図と同時にお互いが一斉に卵焼きに手を伸ばして一切れずつ取った。その光景に一拍おいて目を合わせ、笑い出してしまう。お茶を飲んで笑いを落ち着けると、卵焼きを一口食べる。出来立てだったので食べるにはまだ熱すぎたが、佐竹の作った卵焼きは今まで食べた中で一番おいしかった。白身の絡まりが少なく、口の中でほろほろぷるぷるとほどけていく。甘さも控えめで、勇の好きな和菓子のような味わいだった。
「隆二さんの卵焼き、美味しいです」
「二人で作ったから美味しいんだ」
「そういうものですか?」
「そういうものだよ。なんだか結婚したみたいだな」
佐竹がためらいもなく呟く。この夢のような時間は幸せだが、自分たちは結婚している「みたい」で終わってしまう。結婚にはたどり着かないのだ。だが、前に佐竹はこう言っていたはず。
「隆二さん。前にやりたいことをいくつか話したこと、覚えていますか?」
「…ああ」
「結婚したい、っていっていましたね」
「そうだな、それはもちろん結婚したいよ」
二人の箸が止まる。まだ食べかけの食卓が少しずつ冷めていく。
「なら帰ってきてください。結婚するために」
「それは…。それは約束できない」
やはり覚悟は揺らいではくれなかった。この時間を通して少しはこちらにも未練を残していってくれると思ったのに。もう自分も腹を決めなければいけないのだろうか。また箸を手に取り食事を再開する。
「「ごちそうさまでした」」
すべてきれいに食べ終え、挨拶をする。食器を片そうと立ち上がった時、先程から無言を貫いていた佐竹が口を開いた。
「次、何が食べたい」
「え?」
うまく聞き取れなかったが、今「次」といったのだろうか。次、つぎ?
「あのっ、次って」
「次何食べたいか、考えておいてくれ」
それだけ言い残すと、佐竹は支度のために部屋の奥へと戻ってしまった。