嬉しいことがあった日に、気分が乗ってしまい、常ならぬ行動をとってしまうのは機関車だけに限らない。
先日、こんなことがあった。
二人で中華街近くの野球スタジアムの周辺をうろうろと散歩していた。スタジアムの周りは、花や低木が植えられて公園のようになっていて、昼間や日の高い時分ならば、もっと多くの往来があるだろう。薄暮れ時に綺麗に整備された歩行者路を歩くことは、まるで自分たちがいっぱしの社会人であるような気分を起こさせた。
野球はあまり詳しくはない。けれど、スタジアムに大々的に掲げられたポスターが今日の試合の注目度を喧伝していたために、それなりの大試合なのだろうと予想された。
もっとも、それほど注目の試合であれば、スタジアムに入れないまでも、現地の空気を感じようとファンは集まってくるのではないかと思え、あのポスターはおそらく誇大広告なのだろうと決めつけて、試合の行く末など気にかけずに、くっきりとした会場の光を眺めていた。
場内のアナウンスが拡散して、空中で細切れになり、耳に届くのは意味のとれない雑音だけだ。膨らんでは萎む歓声の方がよほど臨場感をもって、場内の様子を伝えてくれる。
現状に徐々に飽きが来ていたのは蜜柑の方だった。檸檬は空気にのまれているのか、大きな声援が上がるたびに少し腰を浮かせ、どんな様子なんだろうな、スタジアムで野球を見たことあるか、とお祭りめいた雰囲気に酔っているようだったので、帰ろうとも切り出しにくい気がした。いや、帰るぞと断じたのなら、檸檬も素直に着いてきただろうから、このつまらない時間を、蜜柑自身、嫌と思っていなかったのかもしれなかった。
残照も消えた頃、これまでにないほど喜色に溢れたうねりが、スタジアムの上空に噴き上がった。スーツ姿の通行人も、スタジアムへ顔を向け、一瞬足を止めている。そして、場外にも関わらず、一人驚くほどの熱量で立ち上がって歓声を上げる檸檬の方を努めて見ないようにして、最寄駅に向かって立ち去っていく。
もういいだろう、と嗜めようと檸檬の方へ顔を向けると、両手で顔を引っ張られるようにして、強引に唇を重ねられた。乱暴に押し付けられた唇は、キスというよりは接触に近く、即座に離れていく。
「すげえな、なんだか分からねえけど」
「なんだか分からないものに、よくここまで舞い上がれるもんだ」
「まあな。それより試合が終わったんなら、駅が混みそうだ。早く帰ろうぜ」
「電車に乗る機会を逃しながら、ここでずっと座ってたおまえが、それを言うのか」
二人は同じ方向の電車に乗り込む。電光掲示板には、早速、試合速報が流れている。蜜柑は、先ほどの檸檬の行動について考える。意図について、仮説を立ててみる。どれもが独りよがりの下らない想像に感じられて、元から陽気な振る舞いをする檸檬のことだ、大した意味はあるまい、と切って捨ててしまうのが、一番上等な推測のような気がした。
間もなく電車が蜜柑の最寄駅へ止まる。こんな日であっても、檸檬は平気でアパートまで付いてこようとする。常からの口癖で、帰れと言った。まあいいじゃねえか、と畳み掛けてくるのも普段通りで、蜜柑の作為ではない。その変わらなさが嬉しくもあり、では先だっての行動は何だったのかと、事態を一層複雑にさせているようにも感じた。
部屋には客人に供せるようなものなど何もないので、途中でコンビニに寄って炭酸水を買わせる。手土産などではなく、飲むのは檸檬ばかりで、そもそも部屋を都合している側の蜜柑が得るものが何もないではないか、と僅かばかりの不満が募る。かといってその不満は、例えば、ほら嬉しいだろうとばかりに肉まんを二つ抱えてコンビニから出てくる檸檬の安直さであがなえるようなものではない。せめて家に上がれる厚遇を有り難がるくらいの甲斐性があれば、まだ苛立ちの整理もついたのだ。
コンビニから部屋までは、公園のそばの道を通ればすぐである。夕飯時にも関わらず遊んでいる子供達は、羨ましげに二人の肉まんに目を留めた。すぐに遊びに戻る視線とはいえ、買い食いをする大人の気楽さを認められるのが鬱陶しい。飯を請われるわけではないのだが、物欲しげな目が嫌だった。
買い食いなどしたので、腹も減らない。早々に風呂立てて、その間に数冊しかない蔵書の整理をした。昭和の文豪のように、部屋中に本棚が建て付けてあるわけではなく、買ってきたはいいものの、手をつけられていない文庫本ばかりが、カラーケースに無造作に並んでいる。
買ってきた順に並んでいたものを崩して、作者の五十音順にしてみたり、出版社順にしてみたり、背表紙の色調の通りに並べてみる。手持ち無沙汰なのだ。
読み途中のページを開く気分にはなれない。家主がこんな風に時間を潰していれば、客人の方こそ持て余すものだが、檸檬はあまり気にしない様子でソファに転がって、気に入って蜜柑の部屋へ置いたままにしているブランケットの毛玉を取ったりなどしていた。
やはり買ってきた順番にしよう、ともう一度文庫本を棚から取り出したところで、口を滑らせたのは蜜柑の方だった。
「なあ、檸檬。さっきのあれ、何なんだ」
「さっきの?」
漠然とした問いかけだが、その何も言い表さない状態こそが蜜柑の質問の本質だった。檸檬のことを理解できたことなどない。檸檬の行為はその結実として、分かりやすい形をとったに過ぎなかった。
檸檬は素直に、分からない、という顔でこちらを見る。
「肉まんの気分じゃなかったのか」
「肉まんじゃない」
ほんの二文字も口に出せないのか、と自らを叱咤して、「キス」と発した。
口に出してしまえばもう躊躇はなく、「スタジアムの側で。キスしてきただろう」と続けて聞く。何気ない風に聞きたかった。責めるような口調になっていやしないか、気をつけながら言葉を発する。
「ああ。あれ。嫌だったか。テンション上がっちまって」
「嫌、というか」
幾度も飲み込んだ言葉を吐き出すなら、今だろうと思う。
「勘違いするだろ」
「何が言いたいんだよ」
「もう、ああいうことはやるな」
「やっぱり怒ってるんじゃねえか」
ムッとした顔で睨みつける顔は、不愉快そうに見える。例えば、嫌悪や同情が顔に浮かんでも不思議はない。こういう単純なところに、蜜柑自身の安直な怒りを晒しても、お互いの関係に重たすぎる荷重をかけることにならない事実が、無意識の中で心地良いのだ。
「好きだ。だからもうやるな」
目も当てられない。本棚に本を詰める作業に戻る。背中を向けたまま、悪い、とだけ言う。謝ったところで白紙に返るわけもないセリフではあるし、狡い。
大した量のない本にかまけていたところで、何にもならないが、いまの数秒をはやく風化させたかった。
肩を檸檬に掴まれ、振り向かされて、もしかして殴るとか、叩かれるとか、そういった非難をされるのではないか、と身構えるが、もし暴力にうったえるつもりなら、背後から無言で行えば良いはずだ。一段階挟んだそれは、また違った緊張があった。
あるいは、眠いのか、だとか、元から何もなかったかのように済ます言葉が発せられるのかもしれないとも考える。どれも合わないな、と思う。檸檬が想定の範囲で行動したことなどない。
「好きだったらそう言えばいいじゃねえか」
次に蜜柑に干渉してきたのは唇で、ああ、やっぱり想定通りにはいかないのだ。
押し付けられた唇は一度触れ、二度、三度目には一番ぴったりとくる角度を見つけて、そこに吸い付いた。心地よさや、そこから伝わる感情ではなく、しっくりとくる場所なので、その落ち着きの良さに驚く。
「うん、キスならできるな」
もちろんあの、弾かれたように突然襲われるキスではなく、意図的なものとして目論んだ檸檬の感触は、できるか、できないかという実験的なもののわりに、寄り添おうとする心を宿していた。
檸檬がほんの少し開いたままの唇を寄せてくるので、蜜柑も応える。突き放すつもりで、蜜柑から舌を絡ませてやった。真意に反して、檸檬も同様に舌を押し付けてくるので面食らう。感情はついてこなかった。行為で精一杯だった。
自身の反応は当然だったが、檸檬もまた同様の興奮を宿しているのには驚いた。喜ぶべきか、あるいは自分の感情が生理の一環に成り果てたことについて沈むべきなのか。
「どこまでいけるか、試してみるか」