捕食 柔らかい風が、窓の隙間から鯉登の頬を撫で、次いで山積みになった書類をはためかせた。
暖かな息吹の心地よさに、鯉登は目を細める。その一瞬を、隣に補佐官は見逃さなかったらしい。
「鯉登少尉殿、眠いのですか」
叱責するような声色でもなく、月島は淡々と問いかけた。
「眠くはないが、朝からひとときも休まず判子を押すというのも疲れるものだな」
鯉登は木製の椅子を後ろに引き、腕を頭上へ掲げて背筋を伸ばした。
体の疲労は運動不足のせいもあるだろう。ここのところ書類仕事ばかりで、剣の稽古は以前ほどできていない。筋力が落ちないよう時間を見つけては筋肉運動をするよう心がけてはいるが——鯉登は考えながら、月島を見た。衣服を着込んでしまえば分かりにくいが、その下には隆々とした筋肉が備わっていることを知っている。目を凝らしてみれば、首周りや大腿部は盛り上がっているのを視認できる。
「……ちょっと待っていてくださいね」
月島は鯉登の側を離れると、茶箪笥から羊羹を取り出し、食べやすい大きさに切る。皿の上に乗せられた二切れのそれが、鯉登の前に差し出された。
「どうぞ。朝から書類仕事で疲れるでしょう」
「……ありがとう」
なんとなく鯉登は照れ臭くなった。黒文字で羊羹を刺し、口に運ぶと、甘さが口いっぱいに広がった。この朴念仁にも食べさせたい。
「月島も食べろッ」
「私は結構です」
「いいから口を開けろッ」
黒文字で刺した羊羹を、月島の口元に運ぶが、月島は開口しない。痺れを切らした鯉登は、月島の唇に、むに、と羊羹を押し付けた。
「美味いぞ? なァ、食べてみろ。月島軍曹」
何度か月島の唇に羊羹を押し付ける。すると、月島は鯉登を睨み、ついに口を大きく開いた。
犬歯、奥歯、それから口蓋垂が覗き見え、その肉肉しさに鯉登の腰が震えた。
——喰われる。
動物的な勘が、鯉登に告げた。
月島は、鯉登の指先のすぐ側までを口内に含んだ。鯉登の指先が微かに震えた。幼い頃、初めて真剣を持った時でさえ、震えなかったのに。
乾燥した月島の唇は、まるで飢えた肉食動物の口元のように思えた。逃げればよいのに、まるで縫い止められたように動けない。敵前逃亡をしないのではなく、できないのだ——鯉登はどこか遠いところで思考した。
間近にある月島の眸を覗いた。少し緑がかった深い闇の色をしたそれは、月島の感情を読み取らせてはくれない。代わりに、その中には鯉登自身が収められていた。それに気づいた瞬間、黒文字をつまんでいた指先が僅かに動く。
刹那、それを追って生温かいものが鯉登の親指と人差し指を撫でた。しかしそれはすぐに去っていった。てらてらと艶めかしく指だけを濡らして。
鯉登が顔を上げて月島を見れば、彼はなんともないという顔で、ゆっくりと羊羹を咀嚼していた。
「美味いですね、これ」
「ッ……、貴様」
月島は飲み込むや否や、山積みになった書類の一部を手に取った。
「私はこちらの書類を届けて参ります。すぐに戻りますので、あなたは少し休んでいてください」
遠くで、鯉登は扉が閉まる音を聞いた。やけに自分の鼓動が激しい。
金塊争奪戦後、月島が鯉登の側に戻ってきてからというもの、月島は過保護になった。いや、単なる過保護というより、いっときも目を離さない、の方が近い。月島に心情の変化があったのだろうが、それは暴くべきことではない、と鯉登は考えた。あくまで他者なのだ。どれだけ関係が深まろうと、鯉登は月島の上官だ。線引きはしなくてはならない。
(上官と部下なんて、あん頃は考えたこっがなかったな)
鯉登は、先ほど月島の舌が触れた指に目を向ける。そこは乾いており、月島の体温はすでに去った後だった。しかし、体の中心だけは燻り続けている。炎を上げることもないまま煙だけを燻らせて、焦らされながらも蝕まれていく感覚。
「は、ァ……」
徐に、鯉登は指の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。砂糖を溶かしたときのような重く甘い香りが、鯉登の細胞を殺していく。他人の唾が乾いた跡など、絶対に、嗅ぎたくないのに。理性はとおに死んでいた。
「ン……」
鯉登は自身の指を見つめたのち、ぱくりと口内に咥え込んだ。
舌で、ゆっくりと親指と人差し指を舐め上げ、吸う。液体は蒸発したが、月島基を構築する成分はそこに残存していると考えて。
ちゅぷ、と漏れ出る音にも気づかず、夢中で指をねぶった。いつの間にか、燻り続けていた内臓は炎をあげ、確かな欲望へと変貌した。
「つき、しま……」
欲しかった。足りない。そのまま月島基の熱を、己の内側に落とし込み、直火で炙ってほしかった。
「はい」
「!?」
「何をなさっているのですか、鯉登少尉殿」
鯉登は、即座に口内から指を引き抜いた。動揺を悟られぬよう、平静を装う。
「……いつからそこにいた」
「たった今ですが」
いつもと同じ声色で、月島は淡々と言った。
——扉を叩いた音さえも、戸が開いた音さえも耳に入らなかったということだ。人の気配さえ、今まで気づかなかった。
(おいは、なにしちょっ……)
取り戻した冷静さが、己の痴態を残酷になじる。火は一瞬にして消化されたはずだった。
月島が、一歩ずつ鯉登の方へ歩み寄る。火は鎮火されたのに、生理現象はすぐに治まるわけではなかった。
(それ以上、近づくな。月島軍曹)
鯉登は、顔を見られたくなかったので俯いた。
無情にも、軍靴の鋲が床を鳴らす。月島に来てほしくない——はずなのに、月島との距離が縮まるほど、甘い鈍痛が心臓を打つ。鯉登の中で、相反する感情が渦巻く。
最後の鋲の音だった。
「鯉登少尉殿……」
「つきしま……」
鯉登が顔を上げると、月島は真隣にいた。視線が絡む。逸らしたいのに、逸らせない。何かを言いたいのに、言えない。
軍において、規律は重要だ。階級による序列は絶対だ。しかし、この瞬間だけは、月島基と鯉登音之進の関係が、すべてだった。
月島が、ふ、と吐息だけで笑った。それは沈黙の終わりを告げ、鯉登は次に発せられる月島の言葉に全身で集中する。
「……書類を届けている最中、ちゃんと休んでいたのですか」
月島が、少しだけ口角を上げた。
「な……ッ、お前、見てたんだろ!」
「何も見てませんが。あなたが心身ともに健全でいてくだされば、私はそれでいいのですよ」
揶揄っているのか、と月島を一瞥すれば、その表情は、あまりにも鯉登を慈しんでいるように感じたので。
鯉登は観念し、椅子ごと体を月島の方へ向ける。
「……これが、健全に見えるか」
鯉登は浅く腰掛け、背もたれに寄りかかる。
徐に、股を開く。慎ましやかに、それでも視認できる程度には、欲は膨れ上がっていた。月島が息を呑んだ。
「どうすればいい」
「…………さあ」
「お前が考えろ、月島軍曹」
ばち、と、まるで電流が走ったかのように視線が絡む。
月島の瞳は、相変わらず深い闇が広がっていた。しかし、そこに炎がちりちりと燃えているのが瞬間的に垣間見えた。
「…………わかりました」
月島が、無言で膝を床につけ、鯉登の両膝に手をかけた。鯉登の息が上がる。心臓が煩い。
両膝に触れている月島の両手に、力が込められる。咄嗟に鯉登の身体がこわばったが、理性でもって、すぐに弛緩させた。
「……後悔、なさらないでくださいね」
荒い息遣いだけで構成された言葉は、直接鯉登の脳内に吹き込まれた。
「そげんこっ、せん……」
鯉登は目を閉じた。
月島が、鯉登の袴の釦をひとつずつ外していく。
(もう、純粋な上官部下といった関係には戻れないだろうなァ)
それでもいいと思った。
たとえどのような形になろうとも、月島基が隣にいてくれるのならば、鯉登音之進は役目を全うできる。そして、月島基は、何があっても鯉登音之進の側に立っている。
そんな予感があったから。