Toccata./取手陽の差す廊下の中腹。
普段から音楽室の前を通る度に、中から聞こえる誰かの奏でる幽かで優美な旋律。
心地好く耳許を踊り抜けていくピアノの音色。
いつもその場に足を留めては、魅了されたかの様に聴き入ることしか出来なかった。
「⋯」
音楽室の戸の向こう。
目を凝らそうにも、肝心の奏者は見えない。
恥ずかしいことに、この様に中に見入ってしまったせいで、引き戸のガラスに額をぶつけてしまっていた。
戸の向こうの誰かがまだ演奏しているにも関わらず、私は恥ずかし気も無く扉を揺らし、がたり、と音を立ててしまった。
それと同時に、ピアノの音も止んでしまった。
傍から見れば、今の自分は悪戯で迷惑なことをしてしまった人間に過ぎないのだ。
気付いた時には、引き戸に手をかけて自然と音楽室の中へと踏み込んでいた。
「あ、あの、⋯ごめんなさい。
邪魔するつもりはなくて⋯」
「⋯君は⋯?」
仄かにくぐもった声、思わず声の聞こえた先を見遣る。
椅子に腰掛け、痩躯で黒々とした髪。
はらはらと降りた髪の隙間から覗く、大きく見開かれた瞳。
黒色によく映える青白い肌、前傾姿勢でこちらを凝視しているのが見て取れた。
彼の名は取手鎌治。
自分とは別のクラスで、特にこれといった接点は無い。
彼と会話を交わしたのも、今この瞬間が初めてだ。
慌てて自分の名を名乗ると、彼は警戒心を解いたのか椅子から立ち上がっていた。
「少し前から、ここの前を通る度に気になってたの。
いつも素敵な曲が聴こえてきて、⋯取手くんだったんだね」
「ああ、⋯君が気に入ってくれた様で何よりだよ」
壁に背を預けると、彼もまた同じように自分の隣に並んだ。
大きな背丈の彼を見上げると、ほんの少し柔らかな目をしているようにも見えた。
「その、邪魔だったら言ってね?
気が散る様なら出ていくから」
「好きで僕の音楽を聴いてくれている人を、追い出したりしないよ」
「あ、ありがとう⋯ちょっと、嬉しいかも」
正直なことを言うと、私は音楽は好きだがピアノそのものには疎い。
けれども、彼の織り成す旋律には人を惹き付ける何かがある。
一度聴くと、また聴きたいと思わせる様な何か。
その音色が、この世の全てを司っている様にも思えてくる程だ。
彼は椅子に座り、鍵盤の上に白く長い指を添わせる。
「僕、君の為に弾くから、⋯また、ここに来てくれるかい?」
「うん!⋯来てもいいの?」
「勿論だよ。
僕はここで、君を待ってるから」
***
⋯それから程なくして、私は音楽室へ頻繁に足を運ぶ様になった。
音楽室の主とも言える彼とはほぼ毎日会話を交わすようになり、なんて事ない日々の憂鬱や音楽への情熱を口に出し、そして彼の指先から奏でられる音色に聴き入った。
ただ静かに聴き入るその時間が、夢よりも素敵な時間に感じられたのだ。
彼は私の存在を邪険にするどころか、快く受け入れてくれた。
生来、気持ちの優しい人なのだろう。
彼の織り成す音の羅列もまた、どこか優しく導く様な余韻を持たせて響いていた。
だが、ある日を境にその平穏が崩れ去ってしまった。
いつも通りに彼の待つ音楽室へ向かおうとした時に、クラスメイトに無理矢理という形で仕事を押し付けられてしまった。
彼に会うのが遅れるだけならまだしも、その後も運悪く悪態が止まらない様子の教員に捕まってしまい、自由時間などはほぼ得られなかった。
⋯大好きな音楽に触れられなかった上に、彼と過ごす平穏な一時さえも許されなかった。
不運に不運を重ねたような厄日のように感じられたが、問題は自分の不幸よりも彼だった。
その日は彼の姿を見ることは無く、音楽室の外で挨拶を交わすことも無かった。
⋯今日は、いつも通りに音楽室に向かえる。
彼は待っていてくれるのだろうか。
もし仮に愛想を尽かされてしまったら⋯それまでの関係だったと思って、虚しくやり過ごすしかない。
音楽室の前、今日はまだピアノの音が聞こえない。
緊張で冷たくなった指先で扉を開ける。
閉め切られた空間の空気が、蜘蛛の巣の様に顔に纏わりつく。
ピアノの椅子の上で、寂しげに俯いている彼の姿が見えた。
「あの、⋯取手くん、昨日は来れなくてごめんね」
第一声。
自分の声が、恥ずかしい程に震えているのが分かった。
ゆっくりと振り向き、こちらに向けられた彼の目。
こちらの様子を伺い、大きな目が静かに瞬きを繰り返す。
「ああ、待ってたんだ。
⋯僕を忘れてたなんてことは、ないよね」
「まさか!
こんなに仲良くなれたのに、忘れると思う?」
「そうだね、⋯君の都合がつかなかった、それだけだ」
彼はすっと立ち上がったかと思えば、こちらへと歩を進める。
目の前に立ち塞がり、髪の下の湿った眼差しを交わし這わせる。
「君が居ない時に、気付いたことがあったんだ」
じりじりと迫り来る長身の彼に押されるように、私は自然と後退っていた。
口に出せないが、今目の前に居る彼は何よりも恐ろしく見えた。
「君は皆に必要とされているね」
「えっと⋯、あれは、ただの使い走りみたいなものだよ。
嬉しくも何ともなかったし」
「分かってる、⋯分かってるよ。
全部知ってる。
でも、僕に必要なのは君なんだ」
そっと彼を留めようとして伸ばした手を、大きな青白い手に掴まれる。
自分の手がすっぽりと覆い隠され、彼はゆっくりと自らの元へと私の手を近付ける。
「君は僕の運命なんだよ。
⋯だから僕は君を、君だけを必要としてたんだ」
「運命だなんて、そんな」
「そんなものは無いって言いたいんだね。
⋯大丈夫だよ、君はまだ知らないだけ。
きっと分かってくれる」
掌の如く見開かれた目の中に、自分が映る。
拒むにはあまりにも非力で、受け入れるにも重すぎる。
けれども、何処にも逃げ道は無い。
たとえ逃げたとしても、彼は蛇の様に追い詰めるはずだ。
「⋯大事にするよ。
君が、僕から離れて行かないように」
彼の目の中の爛々とした光が、蜷局の様に渦を巻く。
拒絶を許さない一方的な思慕の海。
その海に沈んだ様な途方も無く深く光差す事の無い心中の最中では、『逆らう』という選択肢ですらも、目の前で無惨に潰えてしまったのだった。