在りし日に手を振れ/皆守遠く広がる、夏の終わりを仄かに燻らせた空。
上を見上げている筈だが、腕を広げるとそのまま落ちてしまいそうな感覚に陥るほどに深い深い青藍が窓の向こうに見える。
午前中の授業を終え、気分転換をする為に屋上へ向かう。
階上へ向かえば向かうほどに、人の気配は徐々に薄れていく。
手に持った小さな手提げ袋の中には、購買で適当に買った紙パックの飲み物と、パンが二つ。
何も食べないで過ごすよりかは、空腹を紛らわせる程度に食べるのがちょうど良い。
重い屋上の扉を押し開けると、外の空気がさあっと吹き込む。
噎せ返るような青さと、分け隔てなく差し込む陽の光が目の奥を突き刺す。
風が吹くと、縁を囲むフェンスがガサガサと風に揺れている。
適当な場所に腰掛けていると、淡く漂う花に似た香りが鼻腔を翳める。
どこか心地良さを覚えるその香りは、教室に居た時にもしたものだと思い出すにはそう時間は掛からなかった。
視線がほぼ下を向いていた時、誰かが自分の背後に立つ気配がした。
それと同時に、漂う花の香りがぞっとするほど濃く感じられた。
「誰かと思ったら。
⋯こんな所に来るような柄じゃないだろ」
「好きで来てるだけ、ここからは退いてあげないよ」
「誰も退けなんて言ってないが」
「だってここ、皆守君の巣みたいな所でしょ?
荒らされるのが嫌だから来たのかなあって」
「⋯はあ?」
彼の顔には『何を頓痴気な』と言わんばかりの色が浮かぶ。
あまり見せないその表情と声色に思わず吹き出しそうになったが、自分の口元を緩めるだけに留めた。
「あ、⋯皆守君、これいる?
カレーパン」
「誰の差し金だ、八千穂か?」
「差し金ではないけど、さっき買ったばっかりだし、カレー好きでしょ?」
「⋯で、お前の分は?」
「ちゃんとあるよ。
カレーパンではないけどね」
まだほんのりと温かいカレーパンを差し出すと、彼も悪い気はしないのか素直に受け取ってくれた。
「良いのか?俺が貰っても」
「良いから気にしないで。
一緒に食べた方が美味しいし」
「人が良すぎやしないか、お前」
ふっと鼻で笑う様に呟くと、彼も隣に腰掛ける。
薄手の袋の中にあるパンを齧りながら、そっと彼に横目を向ける。
綽綽と食べる彼の様子は、胸のどこかで不安を思い起こさせる程のゆとりを持っていた。
食べながらお茶を飲んでいると、不意に彼が口を開いた。
風に交じりいる様な声が、静かに隣から聞こえた。
「⋯久しぶりだ、こんなに近くで誰かと飯を食うのは」
「そうなの?
⋯まあ、無理矢理かもしれないけど⋯、一緒に食べてくれてありがとう」
「そうだな、誰かさんが俺にカレーパンを寄越してきたからだ」
彼はわざとらしくこちらに視線を向けながら、最後の一欠片を口に放り込む。
私も急かされるようにパンを食べ終える。
「この後も授業に出るのか?」
口の中のものを飲み込んでいないので、声にも出せずその問いにただ頷く。
「少し羽目を外すのはどうだ?
今の時期ならここで昼寝をしても風邪はひかないぞ」
慌ててふるふると横に顔を振ると、その様子が可笑しかったのか口元を抑えて笑う。
幸い出席日数は十分に足りているが、進学のことも考えて休講のクセがついてしまわないように心掛けている。
「今のはお礼のお誘いなんだが」
「い、いや⋯休むのは⋯ちょっと⋯」
「⋯そうか、そんな顔をされたら仕方ない」
彼はフェンスの向こう側を見遣る。
その横顔がどうしようもなく寂しそうに、誰かの帰りを待つかのような面持ちに見えた。
「でも、⋯たまには息抜きしたいとは思うんだよね」
「早く慣れちまったら良いんだよ、お前は真面目すぎる」
「えー⋯?
何か、そっちに引きずり込もうとしてない?」
「人聞きの悪い⋯」
図星だったのか、彼は横目でこちらを見る。
彼の甘言に流されてこのまま休みそうになってしまった。
「そろそろ下に戻るよ、またね」
「おう。
⋯また来いよ」
休憩が終わってもまだここにいるつもりらしい彼は、こちらに軽く手を上げて振る。
元から同じクラスで当たり障りのない会話はしていたが、今日はそれ以上に彼を知れたような気がした。
***
冷たい風が秋を手招く頃。
時折思い立って休憩時間に屋上へと赴くと、大抵は彼が居た。
彼は私を追い出す訳でも無く、『また来たのか』と呟いてはぽつりぽつりと会話をしてくれた。
彼と仲が良いのかを問われると、まだ深い段階には至れていない距離感。
けれども、自分の場合はこの距離感が丁度良いものだった。
過度な干渉を受けず、かと言って無視もされない。
世間話をしていただけでも、心穏やかな時間であったと思える。
── 体調が悪い訳では無いが、どうしても次の授業で使う教室に移動する気が起きない。
苦手な科目でもなく、これと言って得意でもない。
自分の机の上には教科書が糊で貼り付けられたかのように座している。
徐々に人も疎らになりつつある教室を背に、重たい脚を動かして廊下へと向かった。
教科書を持って教室に駆けていく他学年の生徒や、準備室に出入りをする教員を横目に屋上へと向かう。
禁忌とされた行為に及ぶ時の、遅い非行に走る高揚感と罪悪感が胸を高鳴らせた。
***
屋上に着くと、ラベンダーの香りが誘うように漂っていた。
授業の開始を伝える鐘の音にその香りが掻き消されそうになる。
空は灰色の雲を湛え、自分の心模様を表しているかのように思えて少し気を塞いだ。
「ん、⋯なんだ、お前か。
授業は良いのか?」
眠たげな目をしながら、ふらりと現れる。
彼に問われて不意に思い出す。
初めて授業を無断で休んでしまったが、あまり考えたくはなかった。
後ろ手に閉めた屋上の扉は重く閉まった。
「うん。
⋯何もやる気が起きなかったから、って言ったら怒られるかな?」
「良いんじゃないか?
俺にとってはいつもの事だが、⋯まあ、一回くらいならお咎めは無いだろうよ。
真面目だしな、お前は」
「だよね、⋯もっと早くこういうことをしたかったな」
私のぼやきを聞いて、彼はふっと笑う。
彼にとっては当たり前の行為を、目の前に居る者は素直に出来ないのだから。
彼の隣に並ぶと、薫る煙がはらりと踊る。
「まさか、授業をすっぽかしてここに来るとはな」
「だって、息が詰まりそうだったから」
「まあ⋯、こんなトコに居りゃあ、な」
「でも、ここは好きだよ。
屋上に居ると、ちょっとだけ自由になれた感じがして⋯あと、皆守君が居ると落ち着くし」
「⋯そうかよ」
隣にいる彼を見上げたが、彼は直ぐに地面を見つめてしまった。
行き違った視線に少し落胆していると、彼は静かに呟いた。
「聞きたいことがあるんだが、良いか?」
これまで自分から話題を切り出さなかった彼が、不意に動きを見せた。
少し驚きながらも、私はその傍らで頷いた。
「⋯どうして俺に関わるんだ。
どうして、俺に近付くんだ」
「俺なんかと居たら、お前がダメになるかもしれないのに」
苛立ちと苦悶を織り交ぜた言葉が漏れる。
俯き気味に呟く彼は、今にも押し潰されそうに見えた。
「そこに皆守君が居たから、今こうしてる。
⋯むしろ、皆守君に救われてるんだよ、私」
「⋯⋯」
押し黙った彼は、漸くこちらに視線を向ける。
深く濁った墨のような眼差しに、思わず息を潜めた。
「俺の気持ちなんて、何一つ知らないのがオチだな」
低く呟かれたその声に、ある種の恐怖を抱いた。
命の危機とまではいかないが、身体が勝手に後退りをする程の恐怖だった。
静かに鼻で笑うその仕草はいつもと変わらない。
目の奥に満たされた暗闇だけが、彼を別の者へと変貌させているように見えた。
「こんな気持ちを抱いて、戻れなくなった俺が馬鹿だった。
お前は、お前だけは⋯全て理解ってくれると」
私の両肩に降りた彼の手が、強く骨が軋むほどに掴む。
呪いで動きを封じられたかの様に、彼の目を見たまま口を開けなくなってしまった。
「俺は、⋯俺は、お前が思う様な人間じゃない。
お前の隣にいちゃいけない人間だ。
だが、もう俺にお前を手放す気は無い。
⋯誰が一番悪いか、分かるだろ?」
何も言わずに頷くと、そっと手を降ろされる。
その腕は抱き締めようとする時のような素振りを見せたが、何か考えたようで直ぐにその腕は下に降りた。
代わりに、冷えきった私の手に大きな彼の手が触れた。
残酷な温もりと、籠った手の力が如実に伝わる。
「行かないでくれ、⋯何処にも行かないって、約束してくれ」
力弱く呟かれたその声。
深く暗い海の底へ、共に縺れて溺れていく時にも似た諦めを携えながら、私は彼の手を握り返した。