張飛×関羽の冒頭 その日は、明け方にかけて強い雨が降っていた。
そのおかげで空気中に泳ぐ砂塵が洗い落とされ、分厚い雨雲さえさってしまえば朝の空はむしろ晴れ晴れと、胸を貫くような青さであった。
惨劇の匂いがまだ染みついている都市の、無骨な骨組み達にも細かな雨粒が光り、僅かに煌めく。
――高層ビルの残骸。傾いたアンテナ。ひしゃげた鉄骨。崩れたコンクリート。割れた路面。
そのどれもが、かつてここに人の営みがあったこと、それらが無残に破壊されたことを無言で物語っていた。
ラクヨウ。
キングダムワールドでも随一の栄華を誇ったエリアは、かつて斜陽の影に覆われていた。正しく全ての発端が何であったかは、もう知るものはいない。だが、少なくとも、ここがキングダムワールドを襲った災禍である黄化トリニティの蔓延、その中心地であったことは間違いない。
黄化トリニティに汚染されたBUGから身を守るための防護壁は各地域で構築されたが、ラクヨウは一際高く、頑丈で、高性能の壁を二重に築き上げた。それでもただ閉じこもり、今の生活を守っているだけでは、いずれ終わりは訪れる。
第二防壁が破られたのは、今から二年ほど前のこと。
堰を切ったように、というのが相応しい勢いで、第二防壁内は破壊と混沌に包まれた。第一防壁内に逃げ込めたものはまだ運が良い。多くは第二防壁を細々と修繕しながら、襲い来るBUGの影に怯える暮らしを余儀なくされていた。
本来ならば領主が陣頭指揮を行い、人々の救済に当たるべきだった。度重なる襲撃により摩耗する第一防壁、その守りも万全ではない以上、対抗策を練るべきだった。しかし新しい領主たる董卓プロヴィデンスガンダムの関心は、そこにはなかった。あくまでその目が向けられていたのはラクヨウが蓄えた富、かつての繁栄の残り香、自己の充足のみにあり、退廃の遊びに明け暮れるばかりだった。
張飛ゴッドガンダムは、そんな状況を打破したいと望む関羽νガンダムと共に、ラクヨウから決死の思いで抜け出した。告発を恐れる董卓からの追っ手、そもそも数多はびこるBUGから逃げ延び、希望へと追い縋る――今思えば、なんとも無謀な旅だ。
だが、その旅の末、戦いの果て、ラクヨウにはようやく平穏が訪れた。
――高層ビルの残骸。傾いたアンテナ。ひしゃげた鉄骨。崩れたコンクリート。割れた路面。
だが、残骸は徐々に払いのけられ、アンテナも再建され、鉄骨は再生し、コンクリートは砕かれて、割れた路面にできた水たまりには、行き交う人々の足並みで波紋ができる。
遠くの作業現場で、誰かが立ち上がり、背を伸ばした。重機の音はまだ全ての地区には届いていないが、人々の動きはゆるやかに、しかし確かに再開されている。少しずつ、丁寧に、ひとつひとつ、崩れたものを拾い上げ、組み直すように。
すべては変わった。
失われたものは戻らない。
けれども。
残骸の中に、小さな意志が芽を出した。
そして、誰にも知られぬままに、けれど確かに――鉄と雨の街が、ゆっくりと脈打ち始める頃。
一つの感情が、水底から浮かび上がるように、静かに目を覚ましていた。
誰も知らぬその部屋で。穏やかすぎて、かえって心を掻き乱す。まるで小さな茶器に注がれた、止まぬさざ波のように。
「あー、これは……これはどこに回すヤツだ?やべ、わかんねぇ……」
机の前でひとり、頭を抱えるのは、張飛ゴッドガンダムである。
尋ねたくともデスクワークになれている部下達は既に出払っていて、誰に尋ねることもできず、しかたなくそっと机上の『未完了』と書かれたトレイに移す。もっとも、そのトレイは既にあふれかえっていて、『完了』のトレイはまだ数枚しか入っていない。それはまるきり、張飛の頭の中を表しているようで、がくりと肩を落とす。
だが、悲しいことにそうもしていられない。『未着手』のトレイにはラクヨウ市民の生活復興に関する申請書、再建のための資材の割り振り、廃墟の撤去にかかわる報告書が積みあがっていた。張飛の今日の仕事はこれら全てに目を通し、不足や不正がないかを確認することである。だが、終わる気がしない。まるで、終わる気配すらない。
張飛は、腕に覚えがあった。ひとたび戦場に立てば他者を圧倒し、自慢の拳で全てを打ち砕く自信があった。だが、この手の仕事というのは荒事がいくらできようと全く意味がないのである。必要なのは数字を読む力、印を押す覚悟、無数の判断と決断であって、敵の動きを見破る眼力や地を蹴る足の力というのは何の役にも立ちやしない。
こういうとき、いっそ、
「俺にはこんなの向いてねぇ!」
……などと椅子を蹴飛ばして立ち去るような粗暴さを備えていればよかったのだが、生憎と、張飛はそこまでの破落戸(ルビ:ならずもの)ではなかった。それに、戦自慢であれば文筆に劣っていてもいい、などと、言えるはずもない。
「張飛、苦戦しているようだな」
不意に、低くも芯の通った声が、頭を抱えた張飛へとかけられた。
――なにせ、彼がいる以上。
関羽。関羽νガンダム。
張飛が義兄と慕う彼は、およそ欠点などない先導者であった。かつてのラクヨウの衛士の中では最強の武を誇り、厳格ながらも穏やかな人格は人々から尊敬を集め、しかもこの混乱のラクヨウにあって指導者としての役割も果たしている。当然、張飛が苦しめられているような書類仕事など朝飯前で、今もどうやら、自分の分の仕事を片付けて、張飛の様子を見に来てくれたようだった。『未完了』のトレイからごっそりと紙の束を拾い上げ、その中身をぱらぱらと眺めている目は真剣そのもので、そうして張飛が至らぬことを責めようともしない。
そもそも、このように仕事を分別するための仕組みを考えてくれたのも関羽である。張飛が混乱しないよう、少しでも仕事をしやすくなるよう、他にも細々としたやりかたを伝授してくれている。張飛はどうにも、それが居心地が悪くてならなかった。
――以前に一度、このように言い募ったことがある。
「ここまでして、俺がやる意味なんてあるのか?」
それは仕事への不服としか取れぬような響きであったが、義兄はあっさりとその中から張飛の不安を拾い上げ、優しく微笑みすらした。
「ある。頼りにしているんだから、そんなことを言うな」
そうして、励まして、張飛の頭を軽く撫でた。迷子の惑いを癒やすような何気なさであったから、張飛はその場では頷くしかなかったが、それからも今に至るまでまだ自信を持てずにいた。燻る熾火がそうであるように――息を吹きかけられればじわりと紅く滲むように、張飛の胸はずくずくと疼いた。
今もまた、同じ言葉が口を突いて出そうになる。だが、呑み込んで、手元へと目線を落とした。手はペンを握りしめたままで、そこで止まっている筆致はお世辞にも綺麗とは言えず、しかも心情を反映してか文字は余計に荒れている。自分の頭の中、そのままだ。
「……手が止まっているぞ」
慌てて顔を上げると、書類を検めていた関羽が、静かに張飛の方を見ていた。だが、非難の色はまるでない。
「あー……まあ、ちょっと、よ……」
誤魔化すようにペンをころりと机上に転がして、冗談めかして頭の後ろで手を組んだ。どうにも、兄の目を見るのが怖かった。しばし沈黙した関羽が、ぽん、と張飛の肩に手を置いた。
「少し休憩しないか」
「いや、でもよ、これもうちょいで……」
「ちょい、の量ではないな」
それはそうである。張飛はますます居たたまれなくなった。
「根を詰めてもミスが増えるだけだ。ほら、来い」
肩を二度叩き、関羽は踵を返す。少し考えて、結局張飛もそれに続いた。確かに、彼の言うとおりだと思ったからだ。
連れ立つようにして向かったのは、関羽の私室(傍点)だ。
元々ラクヨウの政庁舎は別のところにあったが、度重なるBUGの襲撃によりすっかり荒れ果ててしまっていた。ラクヨウ復興の司令塔として運用できる――つまり、大人数が様々な仕事にあたれるような、大規模、かつ、今もインフラ機能を失っていない施設として白羽の矢が立ったのが、ここ、ヴィクトリータワーである。用途変更に伴い多くの設備改修が行われたが、その内のささやかなる一つが、この部屋の改装工事だった。ヴィクトリータワーの十三階、エレベーターホールから角を二度曲がった、少し奥まった一室。元々は応接室として使われていたようで広さも十分、眺望も良く、仕事場(傍点)からほどよく離れている。
室内にはミニキッチンやソファ、テーブル、書架も備えていて、奥のついたての裏にはベッドまで置いてあり、文字通り、私室である。関羽以外の人間が立ち入ることはほとんどない、実にプライベートなスペースだ。
関羽がここに住むことになったのは、ある種の成り行きだ。
元々、ラクヨウを離れる前の張飛はこのすぐ側に私邸を持っていて、今もそこに住んでいる。一方、関羽は内部防護壁に近い場所に居を構えていたが、戻ってみると荒れ果てていて、とても住めるような状態にはなかった――BUGの襲撃、というよりも、一般人による略奪と、その果てに火が放たれたようであった。そう分析する関羽の表情が、今も張飛の脳裏に焼き付いて離れない。
代わりの家をどこか調達するかどうか、という話をしている間に時は進んで、加速度的に忙しくなって家移りの件がうやむやになっていき、関羽は自然とこの塔で寝泊まりするようになった。しかし、最高責任者たる彼が仮眠室と給湯室を往復しているのを見かねた職員の誰かが、
「それならせめてお部屋を決めましょう」
……と言い出して、張飛もそれがいいと乗っかり、関羽が制止するのも聞かずに部屋選びを始めて、この元来賓室らしき部屋が選定されたのだった。
誰もが、ラクヨウの為に身を粉にする関羽には、関羽にこそ、少しでも良い暮らしをして欲しがっていた。他の人間に侵害されない、彼だけの空間は絶対に必要だと皆が言って聞かず、とうとう関羽も押し切られていた。
張飛は関羽に連れられて、その部屋の中に入る。主に進められるまま、ソファにぼすりと腰を降ろした。座り心地が本当にいい。これに一度座ってしまうと、もう立ちたくなくなる。
部屋の改修をするにあたり、ヴィクトリータワーの中にある物資や家具を活用することとなった。つまり当然、特別質の良いものばかりが関羽のものになったのである。張飛は家具の善し悪しなど分からないと思っていたが、これが相当な贅沢品であることは流石に理解できた。
関羽が湯を沸かしているのを後目に、キャビネットに目をやる。小さな茶器、マグカップ、茶葉の缶などと並んで、随分と上等な酒瓶も並んでいる。関羽は、酒には強いがあまり飲むのを好まない。だれかからの贈り物だろうか、などと考えていると、
「酒はまだお預けだぞ」
と、関羽が言うものだから、張飛は拗ねたような声を作った。
「ちょっと見てただけだっつの」
「分かっている、また今度な」
よほど良い酒なのだろうか、ぜひ味見したいと考えていたのが顔に出ていたらしい。う、と張飛が言葉につまると、やはり関羽は楽しそうに笑った。
いつも冷静ながらも穏やかな義兄であるが、今日はことさら機嫌がよさそうである。何かあったのかと聞く前に、目の前に茶碗が置かれた。ちゃぷりと茶色の湖面が揺れて、そこからは白い湯気が立ち上っている。
「気を付けて飲め」
「ありがとよ」
試しに少し口を付けるが、かなり熱い。だが、飲めなくはない。ちび、ちびと、強い酒を啜るような慎重さで飲んでいく。
茶というものが、張飛はさして好きではない。大体が薄すぎるか濃すぎるか、味の方も渋いか苦いかであり、あまりうまいと思わないのだ。ただ、関羽の淹れてくれる茶だけは何故か飲めた。むしろ、好きであった。
隣り合って座る二人の間にはしばらく沈黙だけがあったが、不意に関羽が手に持っていた茶碗を机に置いて、張飛へと向き直った。
「休めているか」
「なんだよ、急に」
「お前が無理をしている顔は、すぐわかる」
「いや、別に、無理なんか……」
張飛のごまかしを遮るように、関羽が小さく溜め息をついた。ぎくり、と身が固くなる。
「昔から、お前はそうだな」
少し低くなった声は、どこか咎めるような響きを帯びていた。また、ぎくり、とする。心臓が跳ねる。
「そうしてすぐに抱え込んで、考えすぎて、パンクしかける。俺にはなんでも話せといつも言っているだろう」
まったく、兄にはなんでもお見通しであるようだった。張飛のちょっとした意地や見栄のようなものを容易く片手で剥ぎ取って、机の上に並べてしまうのだ。残るのは、子供のころのままの、どうにも無力な自分である。
う、と小さく呻いて、それでも結局諦め、張飛は息と一緒に、弱音を吐き出した。
「関羽はよ……なんでそんなに、こう、ちゃんとできるんだよ」
「ちゃんと、か」
「仕事して、現場もいって、鍛錬もして……ちゃんとしてるだろ、毎日。俺は……駄目だ、どれかに気合い入れるとどれかがだめになる。兄貴と違って、俺は……」
関羽が、小さく首を振った。
「俺とて、全部をちゃんとできたことなどないさ」
「嘘つけよ」
「嘘じゃない、今日もぼんやりしてしまってな。仕事中にコーヒーを机に零したところだ」
「おいおい……」
「幸い書類も端末も無事だったが、なかなかに恥ずかしかった」
そのわりには、と思った。
「そのわりには、機嫌良さそうだな」
「そう見えたか?」
「ああ。……なんか良いことでもあったのか?」
「そうだな、あった」
息が苦しくなった。自分とは関係の無いところで、兄の周りではきちんと物事が動いているのを、なんだか突きつけられたようだった。俯いてしまった張飛の頭を、ぽん、と関羽が撫でた。
「張飛」
優しい声だった。教え諭すような調子である。
「お前は昔から、自信を無くすとすぐ聞いてきただろう。子供のときも、BUGとの戦いのときもそうだ。自分は役に立ったか、と」
そう言われてみると、思い当たることがいくらでもあったが、不意にうんと古い記憶が蘇ってきた。
――張飛は、孤児であった。そして、関羽もそうであった。もっとも、特別なことではない。似たような境遇の子供はいくらでもいた。親を失った子、子を失った親、兄を亡くした弟、妹を亡くした姉――皆、なにかしらの形で喪失を抱えている時代であった。
黄化トリニティによるBUGの発生密度は、それぞれのエリアによって異なっていたが、ひとたびBUGが生まれればそのコミュニティが大きな被害を受けることにさして変わりはない。つまりは、張飛も、関羽も、それぞれ別の場所でBUGにより親を失ったのである。
か細い縁を辿るようにしてやってきた小さなコミュニティで、張飛は関羽と出会った。
関羽は張飛よりほんの少し年上であったが、そうとは思えぬほど落ち着きのある少年だった。いつもじっと難しげな本を読んでいて正直近寄りがたかったが、他に似た年頃の男児はおらず、張飛はせめて彼と縁を結びたいと思ったのである。寄る辺が欲しかったのだ。
確か、字を教えてほしい、と頼んだのだ。唐突なことであったと思う。しかし、そう言われた途端、ずっと無表情に見えていた関羽がふっと顔を上げて、優しく微笑んだことを、今でもはっきりと覚えている。
それから、二人は兄弟になった。いつも一緒だった。なにかと喧嘩っ早い張飛を関羽が宥め、穏やかな関羽が理不尽を堪える時は張飛が代わりに声を上げた。
ある日のことだ、関羽が風邪をひき、寝込んでしまった。大人達は皆忙しく、誰も自分の子でもない少年に気をかける余裕などなかった。だから、張飛が世話をした。水を汲み、食事を運び、汗を拭き――そんな看病をする中で、関羽に礼を言われた。それに張飛は、代わりに問うた。
〝なあ、兄貴。俺、ちょっとは役にたてたか?〟
張飛は、はっとした。そのときも、今も、変わらず関羽は困ったように微笑んでいた。
「俺は、いつもどう答えていた?」
「……頼りにしてる、って」
「それは今も変わらない。いつだってだ」
暖かい言葉だった。だが、張飛は今、それを素直に受け取ることができなかった。それほど、気が弱っていたのである。小さく首を振った。
「……でもよぉ、兄貴……俺、一枚報告書を書くんだって、めちゃくちゃ時間がかかっちまうしよ。頭がグルグルするっていうか、腹の立つことばっかでさ……」
だが、関羽は変わらなかった。弟のこうした、一度後ろ向きになるとなかなか立ち直れないところなど、もう慣れっこなのだろう。それどころか、むしろ愛おしむようですらあった。
「それでもお前は投げ出さないだろう」
「そりゃ……任されてるわけだしさ」
「それでいい、お前は。もしかしたらお前は苦しいかもしれないが……それでもがむしゃらになっているから、お前は人の支えになれる」
関羽は一度言葉を切り、しっかりと張飛に向き直った。張飛もつられるようにして背筋が伸びた。
「少なくとも俺は、お前に支えられているぞ」
張飛は、目を丸くした。
「兄貴が?」
「そういっているだろう?」
とんでもないことのように思えた。喜びよりも驚きの方がよっぽど上回っていた。きっといつもの――つまり、自信に溢れているときの張飛なら、当たり前だろ、この張飛様についてこい、とでも胸を反らしたかもしれなかったが、なにせ今の張飛はすっかり意気消沈としていたものだから、そんなことを言われるとは思いも寄らなかったのだ。
やれやれと関羽は小さく首を振って、黙り込む。
自分の義弟が知らない間にそこまで落ち込んでいたこと、そしてそんな張飛にどう自分の思いを伝えるべきか、考えあぐねてるようだった。
そうして、張飛の左手を両手でとり、ぐっと握った。
「良いことがあったか、と言っただろう。俺はな、お前が仕事をやっているのが、嬉しかった」
「え……」
「はじめはほとんど出来ていなかったのが、今はあれだけの数を出来るようになっている。しかも中途半端にならぬよう、自分ではわからないことは留め置いて、きちんと全てを見ようとしている。それがわかり、嬉しかった」
繋いだ手は、暖かかった。関羽の気持ちがそのまま乗ったように、力強く、しかし柔らかくもあった。
「それに、俺だけじゃない、お前がまっすぐに、心のままに動いている姿は他の人間にとっても活力になる。……先月、第五ブロックの視察に行ったときのことを覚えているか?」
そうして、関羽が語り始めたのは、張飛にとっては意外な話だった。
第五ブロックはかつてのラクヨウの商業的中心地であったが、今や崩れ落ちた鉄骨やコンクリ片が無造作に積み上がり、誰もがここは最後でいいだろう、と口にしていた区画である。単純な被害の大きさもさることながら、もはや原形を留めないその光景はかえってかつての栄華とのひどい断裂を産んでいて、元々ラクヨウで暮らしていた作業員たちの士気を削いでいたのである。
その日、張飛は単純な進行度合いの視察という名目で、第五ブロックを訪れていた。普通ならば作業主任と共に作業の遅れを指摘し、なんならば作業員を一喝して終わる、そんな視察である。
だが、張飛は違った。
まず現場に立ったその時に、くしゃりと表情を崩した。彼は、泣いていたのだ。張飛にとってはあまりに情けないことだったからなんとか隠そうとしていたが、作業員は皆、それを見てしまった。
その後、張飛はまったく自然に、作業に加わっていた。重機が入り込めない場所を確認し、慣れた手つきで瓦礫を退け、手作業で片付けを進めていた。重たいコンクリートの塊を抱えては降ろし、折れた鉄筋を脇に寄せ、その身体に粉塵がいくらまとわりつこうと、気にもしなかった。
最初は困惑していた作業員達も、なんとなく担当の区画に踏み込まないでいた作業員達も、誰ともなく立ち上がり、工具を手に取り、あれこれ理由を付けて休ませていた重機に乗り込んだ。皆、沈黙していた。だが、確かにその日、あの場所には熱気があった。折れてなるものかという情熱が灯っていた。
その日を境に、第五ブロックの作業は急速に進んでいる。遅れていた分を取り戻すかのように。
「お前のおかげだと、皆言っているらしい。お前が導いてくれた、と」
張飛は言葉が出なかった。きっと声が震えてしまうからだ。気づけば、ぐす、と涙ぐんでいた。
別に、そんなに立派な気持ちでやったわけではない。
第五ブロック。張飛にとってもそこは思い出深い場所だった。関羽と共にラクヨウで勤めるようになってからは、何度も買い物に訪れた。愛用の品をいくつも買った。今は亡き――BUGとの戦いの中で命を落とした友とも、足を運んだ場所だった。その変わり果てた有様に、とても耐えられなかったからだ。だから思わず泣いてしまったし、動かずにはいられなかった。自分の力でできることは、なんでもやりたくなっていた。
そんな単なる思いつきの行動が、誰かにとっては意味のある行為になっていたという事実で、なんだか、たまらなくなってしまった。胸が一杯になってしまって、溢れてしまいそうで、こらえきれないものがあった。
それに、なんとも現金なことに、それを関羽が認めてくれているというのも、張飛の心を満たしていた。
張飛は、とうとう何も言えなくなってしまった。
これ以上自分を卑下する言葉など、吐き出しようがなかった。
代わりに、関羽としっかりと目を合わせ、大きく頷いた。関羽もそれを見て、頷いてくれた。
張飛は深く、決意した。必ずや、関羽が仕事を終えるその時まで自分は傍らに立つと、支えると、伴にあると。
ラクヨウはもう終わりだと、董卓が吠えていたことを思い出す。
終わりなわけがない。終わらせるわけがない。
高い塔の上から見下ろせば、確かに、そうも見えるだろう。高くそびえた二重の防護壁、その外側は壊滅的な被害を受けた。今はほとんど廃墟であり、瓦礫が山と積み重なり、人間が住める状態にはない。色を失ってひっそりとして、かつては人々が足早に通り過ぎた大通りも、活気が溢れて歓声に満ちていた広場も、ただただ、風に褪せるのを待つのみにしか見えないだろう。壁の内側もまた、破滅に浸蝕されつつあって、喧噪の名残さえ過ぎ去って、ただ夕闇に沈むばかりだっただろう。
だが、そんな時間も、そう長くは続かない。
今はまだ、世界が失ったものと、取り戻すべきものとが、静かに均衡を保っている。
だが、必ず、石塊は取り除かれる。水が通い始める。声も響き渡る。
全ては前に進んでいく。進めていく。そのように、導かれるのだから。
「俺と一緒にラクヨウを立て直してくれるか、張飛」
「当たり前だ、……関羽」
――そして、紛れもなく、このときだった。
否応なく、気が付いたのだ。
自分の胸の中に、ちりちりとするような、恋情があることに。