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鈍色の空からふわふわと雪が舞い落ちていた。
徐々に宵闇へと沈み冷えていく空気に、真っ黒な子猫は母猫の帰りを待っていた。先程から腹の虫がきゅるきゅると鳴いているが、子猫はまだ狩りができないため待つことしかできない。
しかし、ついに自分の体が見えなくなるほど暗くなっても母猫は戻らず、子猫はよたよたと寝床を抜け出した。
枯れた水路を抜けて寒空の元へと出れば、ひとつ、またひとつと白い雪が子猫の黒い毛の上に積もっていく。
小さな動物しか通れない細道から続く大通りへ出たところで、いよいよ子猫は座り込んでしまった。しばらく何も食べていない空腹は、自らの体についた雪を舐めとっても癒えることはない。
肉球の冷たさに耐えかねてふるりと震えると、体に巻き付けた自分のしっぽを手の下に入れ、目の前の大通りを行き交う大きなヒトの足を眺めた。
ここでまっていれば、母猫がきっといちばんに見つけてくれるだろう。そうしたらまた、あたたかい体に包まれて、おなかいっぱいに甘いミルクを飲んで、ゆっくり眠れるはずなのだ。
どれくらいそうしていたか、子猫にはもうわからなかった。
通りを行く人影はまばらになっていること。座っていたはずの自身がいつのまにかころりと倒れて、その上にこんもりと雪が積もっていること。そして雑踏のなかでひとつ、立ち止まった足がこちらへと向いたことにも、気づいてはいなかった。
意識が途切れかけたとき、不意にむんずと掴み上げられた感覚がして、僅かに呼吸を取り戻した。もう目を開けるのも億劫でされるがままにしていると、先程の乱雑な手付きとは変わって優しく子猫についた雪を払い、そっと頭を撫でてくれた。
その手は雪と同じように冷たかったが、子猫はきっと戻った母猫が舐めてくれているのだと嬉しくなって、ごろごろと喉を鳴らした。
それが子猫の最期の記憶だった。
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「いだーーーっ!!?!?!」
バタン、と扉が閉じる音と同時に、屋敷じゅうに少年の叫び声が響き渡った。
たまたま近くを通りかかっていた執事の斉達が足早に近寄ってくると扉を開け、挟まったしっぽが折れていないか、出血はしていないかと確認を終えると、大きなため息を溢した。
「まったく、学習能力が無いのかお前は……」
もはや宵がこれをやるのも二桁回めである。絶賛大号泣している宵を宥めようにも、つい説教が出てしまう。
「ヒトの身に慣れるまでかかるとはいえ、お前が冠星様に拾われその身体になってもう二ヶ月だぞ。いい加減扉を閉めるときの尾の扱いを覚えろ。というかそもそも扉をもっと丁寧に閉めれば痛い思いをすることもないのだ。あとは何度も言っているが大きな声は──」
「斉達、今は何を言っても無駄だ。やるなら後でこってり絞ってやれ」
遅れてやってきた冠星がおかしそうに笑いながら見下ろせば。
猫の尻尾は神経が多い敏感な急所らしく、大きな痛みでよほどショックだったのだろう、宵は泣きながらしっぽを抱えて放心していた。
「しかし何故わざわざ急所を晒して歩いているのかは、不思議でならないが」
「そろそろ切り落としてやった方がこれの為なのではありませんか?」
「きり……!?や……ごめんなさい!こんどこそ気を付けます!!」
命の危機を感じる言葉だけは耳に入るのか、宵は飛び上がってさらにきつくしっぽを抱き締めた。
「せめてズボンの中にしまったらどうなのだ」
「うーん、ムズムズして気持ち悪いです……それに、走ったりバランス取るのにも使ってるんですよ」
「やはり切りましょう、死にはしませんから」
「ヤダーーー!!」
ついに逃げ出した宵は驚きの速さで廊下を駆け抜け、二階だと言うのに窓から勢いよく飛び出すと、横に植わっていた高い木の枝へと飛び移った。
「なぜあの動きはできるのにああ鈍くさくなるのだ」
「……おい影、切られたくなかったら次からは気を付けろと言うことだ。わかったらさっさと戻ってこい」
厳しい寒さは抜けたとはいえ、今日も冬の終わりを告げるように強風が吹き荒れており、太い木の枝すら大きく揺れている。
「…………」
枝にしがみついたまま震え始めた宵に斉達と冠星は、そんなに寒いなら尚更早く戻ればいいものを、と呆れた視線を向けていたのだが。
(ど、どうしよう……すっごい揺れるし……思ってたより高すぎる~!!こ……怖い……!!!)
「ごめんなさい!!俺これ……降りられません!!!!」
「は?」
宵が叫んだ直後、ごう、と一際強い風が吹き、宵は文字通り吹き飛んだ。
こうなる事を予見していたかのように既に走り出していた冠星は、迷わず窓枠へと足をかけると普段はしまいこんでいる翼を広げた。
身の丈ほどの蝙蝠の翼で風に乗り、落下を始めていた宵を空中で受け止められたものの。
「おわーーー!?冠星さま!」
「風が強すぎる!あと重い!!」
子供の未発達な翼ではこの業風のなかでは飛ぶのすら難しいというのに、もう一人を抱えてなど不可能だった。
「おちる!!おちます!!」
「うるさいぞ!」
冠星の翼のお陰で落下の速度は多少遅くなっているため死ぬことはないだろう、こうなれば自分がクッションになるしかない、と宵が冠星の下側にくるようにしがみつき、ぎゅっと目を閉じて力を込めた、ちょうどその時。
「全く、冠星様まで何をされておいでですか」
ふわりとした浮遊感。そしてしっかりとした腕に支えられると同時に、落下が止まった。
固く閉じていた瞼を開ければ、二人をまとめて抱えて、冠星とよく似た、けれども比べ物にならないほど大きな翼で滞空している斉達の呆れた顔があった。
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「わぁ~!すごい!あれも……あっちも……!いだだだだ!?」
「フラフラするなと、何度言わせる気だ」
今日もう何度目かの宵のみつあみを引っ張る冠星は、もはや叱るのも疲れたのか呆れたようにため息をついた。
「ごめんなさい……」
しゅんとして謝る宵だったが、その視線は既に次の興味へと移ろい始めていた。
今日はヒトの身体になって始めての外出だった。
子猫の時はあれほど恐ろしかった大通りも、視点が高い今となっては何もかもが新鮮で興味がそそられてしまい、屋敷を出発してから向こう、宵ははしゃぎ倒していた。
「斉達、予定を変更して先に仕立て屋へ行くぞ」
「何がご入り用でしたか?」
「……首輪とリードだ」
カランとベルが鳴り、仕立て屋の店内へと招かれる。
斉達の小脇に抱えられていた宵は、「店からは出るなよ」と釘を刺されてようやく地面へと下ろされた。
店主の明るい声に応じて店の奥へと向かった冠星と斉達を見送り、宵は入り口の方から順々に棚を見て回った。
色とりどりの布地に、ボタンやレース。少し進んだ先には既に形作られた服やドレスが頭のない人形に着せて飾られていた。
ローテーブルに並んだ帽子をひとつ手に取り、鏡の前で被ってみたものの。帽子のなかに押し込められた耳がもぞもぞと落ち着かず、すぐに外して元に戻すのだった。
(帽子はにがてだな~)
先程は周りの景色に夢中で二人の会話は半分も聞いていなかった。なにやら宵に買ってくれるためにこの店に来たらしいが、未だ戻ってくる気配のない二人に、宵は探索を再開することにした。
カラフルな布地の森を抜けて、店内の奥の方で少し開けた場所へと出た。そこは先程までとは少し雰囲気が変わり、色も少なく、静かで落ち着いた空間だった。
棚にも余白をもって商品が並べられており、おいそれと触れてはならないような気がした。
再び宵がキョロキョロ見回していると、不意に強烈に目を惹かれるものが映った。それは、ひとつのトルソーにかけられた、真っ黒なファーのマフラーだった。
フラフラと引き寄せられ、側で見上げると、店のなかでは風も吹いてないというのに、ゆらりとマフラーの裾が揺れたかのように見えた。
「宵、どこだ」
話がまとまり、店主と三人で宵に呼び掛けるも返事はなく。
「こんな静かなわけ……まさか外へ行ったのか?」
はしゃいでいたとはいえ呼び掛けに答えないなどということはこれまで一度もなかったため、一抹の不安がよぎる。
「お待ちください、探ります」
代々吸血鬼に仕える眷属である大蝙蝠の斉達は、呼吸や衣擦れ、更には心音ですら気配として正確な位置まで察知できる。
この布にかこまれた店内でもなんとか探り当てることができたらしく、「こちらです」と迷いなく先導した。
その先では宵が、時が止まったかのように立ち尽くしていた。
ぼんやりと見つめ続けている視線の先には、宵の尻尾を彷彿とさせるようなふわふわとした細く長めのファーマフラーがあった。
見上げる宵の横顔は一見珍しい無表情のようであったが、冠星にはこれまでに見たことがないような物憂げでありながら不思議そうでもあり、けれどどこか懐かしさに微笑んでいるようにも見えた。
「それが気に入ったのか」
すぐ側まで寄り声をかけたことでようやく冠星に気づいたようで、宵は大袈裟に体を揺らすと、呼吸すら忘れていたのか大きく息を吸った。
「冠星さま!……うーん、そうなんですかね?わかりません」
「……」
少しそなたの尾に似ているな、とつまんで見せれば、「そうですか?」とようやくいつもの笑顔になって勢いよく尻尾を振った。
「そういえば何を買いに来たんですか?」
宵が振り返り、冠星の後ろで品物を手に持ち控えている店主へと目を向けた。
店主の手にはいくつかの首輪があり、冠星が選んだ候補の中から宵本人に決めさせようと思っていたのだが。
「店主、すまぬがそれらは不要だ。代わりにこのマフラーを貰う」
「承知しました……そちらもその使い魔用でよろしかったですか?」
「そうだ」
店主は嫌な顔をするどころか一層嬉しそうに頷くと、マフラーを手に取り、丁寧に梱包していく。
側で興味津々に眺めていた宵に、店主が囁いた。
「君、とても大切にされて幸せ者だね」
突然の言葉に宵は小首をかしげた。
確かに自分は冠星に救われた。本来ならばあの夜、雪の下でひとちぼっちで朽ちていくはずだったところを、冠星の使い魔として生き返らせてもらったのだ。勉強もヒトの身体を動かす練習も見て貰っている。
しかし店主にはそんなことは一言も喋っていない。そんな宵の疑問を察してか、店主が更に声を潜めた。
「このマフラー、使い魔に買う人なんてきっとあの方だけだよ。これがあれば小さな家なら建っちゃうくらいの高級品なんだから」
正直なところ、猫の宵は未だにお金の価値というものがよくわかっていなかった。けれど、語りかける店主の顔をみていれば、それがどういうことなのか、少しわかる気がした。
じわじわと温かいような、くすぐったいような気持ちが沸き上がり、ぶわっと毛が逆立った。
「あ、あの!それ、今すぐつけたいです!」
「とのことですが、よろしかったですか?」
思いの外声が大きかったらしく、離れた位置で商品を眺めていた冠星が振り返った。
「好きにすると良い」
「だって。よかったね」
「はい!……あっ、せっかく箱にいれて貰ったのに、ごめんなさい」
気にしないでと笑いながら、店主がマフラーをかけてくれる。
「これは特に長いから、今はまだ二重にしても引きずりそうだから……後ろで蝶結びにしておくね。これなら大人になっても使えるよ」
「ありがとうございます。一生大事にします!」
「……だからといって寝床にまでマフラーを持ちこむ奴があるか」
「ダメですか?すごくふわふわで安心するんです」
見ていれば、無意識なのか丸めたマフラーをにぎにぎと揉み続けている宵に、叱ってみたものの悪い気はせず、もう勝手にしろと冠星はさっさと横になった。
宵もそれを許しと理解して嬉しげに礼を告げると、マフラーに顔を埋めて眠るまでゴロゴロと喉を鳴らしていた。
翌朝、長いマフラーに絡まりに絡まった冠星が九尾の尻尾に捕まった悪夢を見た、とベッドでのマフラー禁止令を出したことにより、今後一人のお昼寝でしか使えなくなることはまだ知らない。
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「いだーーーっ!!?!?!」
とっぷりと日も暮れて灯りのともりはじめた屋敷に、宵の叫びが響いた。
「なんだ……うるさいぞ…………んん……?」
隣で寝ていた冠星もその声に起こされ文句を言いつつ起き出したが、口内に違和感を覚えたようでぺっと舌を出すとしかめた。
「おい、口の中に毛が入った。きちんと毛繕いしろとあれほど」
「冠星様が寝ぼけて俺のしっぽに噛みついたんですよ!?」
痛かったぁ……と半べそで握っているあたりを見れば、黒くてわかりづらいものの微かに血が滲んでいるようで、好物の香りが冠星の鼻腔を擽った。
「よこせ」
「ええ……しっぽはちょっと……。ほら、また口に毛が入っちゃいますよ?いつも通り首の方がいいんじゃ……」
「うるさい、私に命令するな」
こうなると冠星は譲らない。五年の付き合いでよく知っている宵は、おずおずとしっぽを差し出す他なかった。
冠星はするりと黒い尾を軽く握ると、指先で優しく毛を掻き分けて傷へと舌を伸ばした。
「……っ」
ぴりりと小さく痛んだのも一瞬で、冷たい肌とは対照的にほんのりと温かい舌が這い、唇で軽く吸われると、くすぐったいようなむずむずとなんとも言えない感覚へと変わった。
つい反射的に尻尾が逃げようとしてしまうがしっかりと握りこまれてしまい、冠星の手の中でうねうねと動かすことしかできない。そんな様に冠星が愉快そうに目を細めたのを見て宵はさらに居たたまれない気持ちになり、目を反らした。
とはいえ尻尾には太い血管はないため血はすぐに止まったようで、さっさと解放されて安堵の息を溢した。
案の定口に入ったらしく、ぺっぺと毛を吐き出す冠星にハンカチを渡すと、今度は尻尾の根元近く、最も敏感な部分をぎゅっと握られた上に、あろうことかぐいと引っ張られ、びくりと体が跳ねた。
「~~……ッ!!冠星さま!?」
「足りぬ」
散々そこはやめてくださいと言っているにも関わらずの暴挙に批難の視線を向けるも、それに気づいた上で良い笑顔を返されてしまい、嫌な予感に思わず口を噤んだ。
「ほ、ほらやっぱりしっぽより首の方がよかったですよね?どうぞ!」
だからその手を離してほしい……とチラチラと尻尾を握る冠星の手を見やるも、冠星「ああ」と頷き、綺麗な笑顔のまま更に弄び始めた。
「ん……っ、な……なん、で……っ」
「大事な尾を噛んでしまった詫びだ、すまぬな」
「うぅ……それなら、離して……」
「何故だ?こうされると嬉しいのだろう?」
いつの間にか無意識で上げていた尻の、尾の付け根を軽く叩かれれば、びりびりと大きな快感が生まれて、思わず尻尾はぴんと立ち上がり揺れてしまう。
「~~~~っ!」
嬉しいとかじゃなくて、体が勝手に、というか今起きたばっかですよ……などと弁明したくとも、それは楽しそうに弄る手を止めないご主人様のせいでなにも言えない。今口を開けたら言葉ではない何かが出てしまいそうで、必死に堪えるしかなかった。
そんな努力を嘲笑うかのように、口元を押さえていた宵の手を払い除けると、冠星が宵の顎下にも手を伸ばした。
「何を今更隠す」
無駄だと言うのに、とは言われずともわかっている。わかっているが恥ずかしいものは恥ずかしいのだから仕方がない。
喉に触れられてしまえばもうごろごろと鳴っていることは隠せない。さらに指や手の甲で擦られれば、その音はもはや隠せないほどに大きくなってしまう。
結局は冠星の言う通りなのだ。いつだってどこだって、触れられるのは好きだし撫でられれば嬉しい。実のところ否やなどありえないのだ。──それが冠星のみである、というところまで知られているかはわからなかったが。
ついに観念して抵抗をやめ、ふにゃふにゃになった頃、冠星がどすりと無遠慮に乗り上げてきた。
「うっ……こんどはなんですか……」
「足りぬと言ったはずだが?」
言いつつ宵の襟口をぐいと引っ張ると、迷わずその首筋へと牙を突き立てた。
それには慣れたもので泣くこともないが、思い出したように尻尾いじりを再開され宵は目を剥いた。
「……はぁ……か、冠星さま、もう、しっぽは……」
「こうひはほうが、ひがようへむ」
「吸いながら、しゃべらないで下さい……」
ずっと強制的にドキドキさせられているのだから血も巡って出は良くなっているだろう。……出すぎて貧血になりたくないんですけど……というぼやきは心中に納めて、主人の食事が済むのを待つ他ないのだった。