『深夜に隊長のパンツを洗うカブのお話』・
それは転落から四日目の夜だった。
「う……」
今夜も軽いマッサージで寝落ちたはずのミスルンが、小さく呻いた。諸々の後片付けをしていたカブルーは、足音を立てないようにそっと近付いて様子を窺った。ただの寝言なら起こすのは忍びない。というか、ここで起きてしまわれてはマッサージの甲斐が無い。
借り物の上着と寝袋にくるまったミスルンをじっと観察する。見たところは異常がない。先ほどの一言以外には声も出さない。が、油断はできない。何せ目の前の人物はあらゆる欲求を感じなくなっているのだ。本人が不快に思っていないだけで、何らかの生理現象が起きている可能性はある。
食事もさせたし、寝る前にはトイレにも行かせた。あとは。
「うーん……」
顎に拳を当て、カブルーは小さく唸った。一つ、思い当たることがある。
いわゆる人間の三大欲求というものは、食欲と睡眠欲と、あと一つ。ミスルンの体はあらゆる欲求をなくしているとのことだが、食事と排泄は必要、それはつまり、人体の生理現象は常人と同じく起こるということだ。そして男には、男であるが故の厄介な生理現象がある。
それじゃないといいな、と願ったところでミスルンが寝返りを打った。
「……あ」
ニチャ、だか、ネチョ、だか。確かに聞こえた。ほんの微かな、けれどハッキリとわかる粘着質な水音。
カブルーは天を仰いで深いため息を吐いた。グリフィンの卵でたんぱく質を摂取させたからだろうか。いや、まだ確定ではない。ないけれど、多分間違いないだろう。欲求が無くとも起こってしまう厄介な男の生理現象、そう、夢精だ。
現状のミスルンが『健康』かどうかはさておき、機能不全でもない成人男性なら、その体内では日々精液が生産されている。出さずに貯めておける量には個人差があるものの、トールマンならばおおよそ三日で一杯になると医師に聞いたことがある。それ以上は蓄積過剰で再度体に吸収され、それでも余った分が押し出される形で勝手に排出されるというわけだ。エルフ男性の貯蔵量がどのくらいかはわからないが、人体の構造的にそう大きな差は無いだろう。
夢精。それは当人の意思に関係なく起こる生理現象で、だからこそ厄介なものだ。カブルーも過去に何度か覚えがあった。朝一番に感じる、何とも言えない下履きの中の不快感。もう小さな子供ではないのに(子供ではないからこその現象なのだが)自分の体さえ満足にコントロールできないふがいなさ。義母は勿論、絶対に誰にも知られたくないという焦燥も相まって、まるで盗みに入ったコソ泥のようにビクビクしながら下着を洗ったものだ。
出来れば忘れたいくらいに苦々しい青春の1ページを思い出し、カブルーはグッと歯噛みした。
とにかく、起きてしまったことは仕方がない。下着を洗ってからまた寝かせればいい。そう思って声を掛けたが、起きない。肩を揺すろうが、寝袋を剥ごうが、こんなときばかり何故か起きない。それだけ疲労が溜まっているということでもあるのだろう。十分な食事がとれない中、連日魔力切れ寸前まで無茶をしているのだから無理もない。少しでも眠らせてやりたいのは山々だが、この状況をどうしたものか。
眉間に皺を寄せて数秒思案してから、カブルーは意を決してミスルンの服に手を掛けた。
***
脱がせた下着を手早く洗って、焚火の近くに干した。
ノーパンのまま上着と寝袋でくるんだミスルンは、今もすやすやと眠っている。下半身を丸出しにするまで脱がせたのに起きないとは思わなかった。てっきり途中で起きて気まずい空気になるか、寝起きの混乱混じりにどこかに転移させられるかと思っていたのに。はぁ、と疲れを滲ませた溜息を吐いて、カブルーもその場に腰を下ろした。
なんだか、どっと疲れた。
何で起きないんだという苛立ちと、今この状況を誰かに見られたら……という謎の緊張で、随分と精神力が削られてしまった。生来の観察眼と放ってはおけない性分のせいで、ここ数日のカブルーは人生の経験値をものすごい速さで積み上げている。否応なしに。
朝になったら正直に話して謝ろう。いや、何も悪いことはしていないのだけれど、あまりにもプライベートな部分に触れてしまったことは確かだ。自分だったら、いっそ死にたいと思うか、相手を生かしてはおけないと思うだろう。決して彼に対してやましい気持ちがあったわけでは、ない、と言い切れないのも辛いところだ。
つい先ほど見たミスルンの肢体が目に浮かんで、カブルーはフルフルと頭を振った。
肉付きの薄い太腿だった。白くて柔らかくて、でも女性の柔らかさとは全く違う。もっとずっと生々しい、しなやかな筋肉の感触だった。体毛だって驚くほど薄くて、ふわふわで柔らかい銀色の毛が焚火の明かりにゆらゆらと煌めいて、絞った手巾で拭いながら「こんなところまで綺麗なのか」なんて思って。
ごくりと喉が鳴るのがわかった。でも聞こえないふりをした。さっきのあれはあくまで善意の介助であって、性的な行為ではない。ないはずだ。そう思うものの、心臓が今もうるさいくらいに鳴り続けているのは一体どうしてなのか。そして本当に不本意だけれど、下履きが少し窮屈な気がするのは……。
「あ~~、もう!」
両手でガシガシと頭を掻いて、カブルーは小声で叫んだ。すぐ横で安らかな寝息を立てるミスルンに、キッと抗議の視線を向ける。
この人が俺の前で夢精なんかするから悪いんだ。他人のそんなところを見せられれば誰だって動揺するだろう。動悸の理由はきっとそれだ。ちょっと反応してしまっているのは、えーとそれはあれだ、俺もご無沙汰だからだ。
そもそも夢精なんて単なる生理現象なんだから、恥ずかしがることじゃない。そう思えばこの人も大変だな。性欲を感じられないんだから自己処理のしようがない。その気は無いのに、溜まれば勝手に出てしまうんだ。……意志を伴わない強制的な射精って、何だか必要以上に卑猥な気がするな。
「って、ああもう、違う違う!」
ごちゃごちゃと煩い思考を無理やりに閉じて、カブルーはギュッと目を瞑った。より窮屈になり始めた下半身には気付かないふりをした。とにかく朝になったら謝るんだ、それで終わりだ。何度もそう自分に言い聞かせた。
ところが。
目が覚めたら互いに別の種族になっていて、とても言い出せる状況ではなくなってしまった。告げるべきタイミングを逃した告解は行き場を失くし、やましい色の棘のように、カブルーの胸の奥深くに刺さり続けることとなった。
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