初恋の瞬間「遠征に出ていた訓練兵たちが、本日中に帰還予定だそうだ。」
書簡を淡々と整理しながら、先輩騎士がこともなげに呟く。
「そうですか。」
平静を装って返事をしながらも、ランスロットは内心浮足立つ心を止められなかった。
野営訓練も兼ねた長い遠征。訓練兵たちが王都に帰ってくるのはおおよそ半年ぶりだ。その中にはヴェインもいる。
幼い頃は毎日ずっとヴェインと一緒に過ごしていたが、ランスロットが黒竜騎士団に入団してからはそうもいかなかった。ヴェインが暮らす村は王都からあまりに遠く、手紙のやりとりすら一週間に一往復がやっとだったのだ。
数年経ち、ヴェインはランスロットを追いかけて王都へやって来たが、同じ騎士団所属といえど立場が違う。副団長と一兵卒では行動も居室も噛み合わない。特にランスロットは多忙で、せっかく顔を合わせたのに挨拶をするのが関の山、ということも少なくなかった。
それでも何かと理由をつけてたびたび会っていたから、半年もまったく話さないのは今回の遠征が初めてのことだ。ヴェインのいない半年間は、思っていた以上に寂しかった。
いつも太陽のように明るい笑顔を振りまきながら、自分についてきてくれた可愛い可愛いヴェイン。きらきら、ふわふわと揺れる金髪に、若草を思わせる柔らかな色の瞳。目に入れても痛くないくらい大切な幼馴染は、ランスロットが愛情を注ぐと、いつも同じくらいの愛情を返してくれる。
最近は成長して青年らしくなり、むにむにだったほっぺたもだんだんと固くなってきてしまったが、やはり愛おしさに変わりはない。お隣の家に生まれた赤ちゃんの小さな手を初めて握ったその時から、ランスロットはヴェインのことを本当の弟のように思っている。
だからこそ会えない日が続くと、心配や不安、寂しさが募っていく。
遠征は最近始まった訓練で、ランスロットには経験がない。辛い思いをしていないだろうか。お腹は空いていないだろうか。ヴェインはおっとりしていて武芸には向かないかもしれない。毎晩、どうかヴェインが怪我をしていませんように、と祈りながら眠った。
そして、彼の笑顔を想う。貴族上がりの先輩騎士に嫌味を言われたり、パーシヴァルに手合わせで負けてしまったり、種類は違えど悔しいことは山ほどある。そんなときはヴェインがいつも笑顔で励ましてくれていた。半年の遠征でその笑顔からも遠ざかってしまい、自分がどれだけ彼から力をもらっていたのか痛感する。
そんな、目に入れても痛くないほど大切なヴェインと半年ぶりに会える。副団長としての責務をこなしながらも、ランスロットの胸は踊るばかりだった。
やっと仕事が終わり、さてどのようにヴェインを出迎えてやろうかと自分の部屋を見渡してみて絶句した。
普段は意識の外に追い出していたけれど、ランスロットの部屋は本や服が散乱して足の踏み場さえ怪しい。きれい好きなヴェインに見られたら怒られてしまうかもしれない。
「仕方ない、片付けるか。」
とりあえず本を積み上げ、服を端に寄せて足の踏み場を作る。世間一般的にはこれを片付けと言わないのは知っているが、訓練兵の帰還予定時間までもうほとんど猶予がない。どうしても積み上げきれなかった本はベッドの上に置いた。机の上にあったものも床かベッドに避けて、ようやく2人くらいなら向き合えるスペースを確保する。
「よし、完璧だな!」
ランスロットが満足そうに部屋を見渡したのを見計らったかのように、その時、トントンとドアを叩く音が聞こえた。
「ランちゃん、俺だよ!ただいま」
もう懐かしい声がする。村にいた頃よりもずいぶん低くなったが、明るくて愛嬌のある声は間違いなくヴェインのものだ。
「ヴェイン!開いているぞ。入ってくれ」
律儀にランスロットの返事を待って、がちゃりと開けられた扉の前には、訓練兵の鎧を着たままのヴェインがいた。着替える暇を惜しんで自分に合いに来てくれたのかと思うと、なんだか少し嬉しくて、思わず笑みが出てしまう。
「ランちゃん、久しぶり!…って、あちゃ~、やっぱり部屋が散らかってる!ベッドの上まで物がぎっしりじゃねえか、どこで寝るんだよ~」
部屋を見回して、慌てたようにヴェインが言う。やはりきれい好きの彼の目は誤魔化せなかったようだ。
「久しぶりだな、ヴェイン。…えっと、さっき片付けたぞ。ほら、2人ぶんのスペースはあるだろう」
悪びれもせずにそう言うと、ヴェインは少し目を瞠って、笑った。
「こんなの片付けてあるうちに入らないだろ~。後で片付け手伝ってやるからな!」
腕が鳴るぜ、と拳を作るヴェインは、部屋を散らかしてしまったランスロットに幻滅はしていない様子だった。ある程度予想していたのだろう。
「う…。よろしく頼む。」
年下のヴェインに部屋を片付けてもらうのは少し恥ずかしいけれど、今に始まった話ではない。ランスロットは昔から片づけが苦手で、家を散らかしては怒られていた。その時にいつも助けてくれたのは他でもないヴェインだ。
「でも、せっかくだし先にお茶にするか。遠征先のお土産があるんだぜ」
持っていた袋を持ち上げて言う。短期間の視察のときでも、お互いにお土産を買ってくるのはふたりの間で恒例行事になっていた。
「やった、ありがとう!甘いやつか?」
「甘いやつだぞ。俺はお茶でも淹れるから、ランちゃんはこれをお皿に盛りつけてくれるか?」
「もちろんだ」
甘いものが大好きなランスロットのために、ヴェインはいつも甘いものを持ってきてくれる。甘いお菓子に、ヴェインの淹れてくれたホットティー。最高のお茶会になりそうだ。
胸をはずませながら、ヴェインが差し出してくれた紙袋を受け取る。
その時、ランスロットの手のひらがヴェインの手に触れた。
(…あれ)
不意に触れてしまったヴェインの手は、記憶よりもずいぶんとごつごつしている。紙袋を差し出す腕だって、ランスロットの腕よりも少し太いようだ。
ふわふわと揺れる金髪。目に入れても痛くないくらい、可愛い可愛い幼馴染。小さな手のひらを握ったその日から、ずっと守りたいと思っていた。
「ヴェイン」
目線を少し上げると、エメラルドグリーンの瞳と目が合う。自分の瞳よりもほんのちょっぴりだけど、確実に高い位置にあるそれ。ヴェインも何かに気づいたのか、少し目を細めて、口元を緩ませた。
「俺、ランちゃんよりも大きくなれたみたいだ。なんかヘンな気持ちだな」
遠征に見送った日のことを思い出す。
柔らかな手を握り、自分より少し低い位置にある綺麗な目を見つめて、無事を祈ったあの日。
ぱっと見たただけでは気づかなかったけれど、近くに寄るとヴェインの体つきはあの日よりも確実に大きくなっていた。ランスロットの身長を少しだけ越してしまうくらい。
驚いて何も言えないでいるランスロットを見て、ヴェインはゆったりと微笑む。
「ランちゃん、俺、ちょっと前からどんどん背が伸びてきてさ。成長痛とかすごいんだぜ?筋肉だってついてきたんだ。…もっと大きくなりたいな。なれるといいな」
祈るように紡がれる言葉に、ランスロットは目を瞠った。騎士を志した日から、ヴェインが一生懸命体を鍛えていたことは、きっと誰よりも知っている。誰かを守りたいと必死にトレーニングを重ねるヴェインのことを、密かに誇りに思っていた。
改めてまじまじとヴェインを眺める。ごつごつとした手。伸びた身長。よく見ると、肩幅だって自分よりも広くなっている。あの、小さくて可愛いヴェインが…。
ランスロットの脳裏に、幼い頃のヴェインが浮かぶ。まだ少年だった頃、はらっぱに寝っ転がって他愛もない話をしていた時のこと。
「ヴェイン、ヴェインは大きくなったら何になりたい?ケーキ屋さんか?ヴェインがつくったケーキは世界でいちばん美味しいもんな!」
無邪気に笑いかけたランスロットを見て、少し逡巡したあと、小さな少年は少し頬を赤らめてこう言った。
「ランちゃん…。おれ、いつかおおきくなって、ランちゃんをたすけられるようになりたいな…。」
そうだ、ヴェインは俺を追いかけて、村から王都までやって来てくれた。
小さくて可愛いヴェイン。親友として、幼馴染として、ときに優しすぎる彼を守るのは自分の役目だと思っていた。
でもきっとヴェインにとっては違ったのだ。
次第に心臓がどくどくと音を立て、顔が熱くなってくる。
なぜこんな気持ちになるのだろう。ランスロットはわけがわからなくなり、赤くなっているであろう顔を隠すために俯いた。
「ランちゃん?どうしたんだ?」
いきなり黙って俯いたランスロットを心配して、ヴェインが声をかけてくれる。昔よりもずっと低い声。今はその声にさえ動揺した。
もしかしたらこれは、恥ずかしさなのかもしれない。対等なはずの幼馴染を、自分勝手に庇護対象と定めていたことについての恥ずかしさ。
いや、確かに守りたいと思ってはいたが、それは兄弟を見つめるような純粋な愛情であり、上下関係を定義するものではなかったと断言できる。…では、この気持ちはなんなのだろう。
頭をフル回転させて答えを探すが、どうしても見つからなかった。いや、認めたくないだけだ。俺はこの答えを知っている。
「すまない、ヴェイン。…なんだかちょっと体調が悪いみたいだ。大したことない、少し休んだらお前の部屋に行く」
しばらく逡巡したあと、絞り出すように言う。
「え、ランちゃん、大丈夫か?ていうか、ベッドがあんなんでどこで寝るんだよ。俺の部屋で休む?訓練兵の寄宿舎だからちょっと遠いけど…」
ヴェインは心底心配しているようで、ランスロットの背を撫でながら慌てたふうに言った。
その瞬間、自分の全神経が背中をなぞる手に集中していることに気づき、ランスロットは誤魔化すように叫ぶ。
「すぐ直るから大丈夫だ!安静にするからお前は部屋に戻ってくれ」
自分でもめちゃくちゃで、下手をするとヴェインを傷つけかねない言動をとっているのはわかっていたが、顔を赤くしたみっともない姿を見られるのにはなんだか耐えられそうになかった。俯いたまま、まだ心配してこちらをうかがっているヴェインをぐいぐいとドアの外に押し出す。
「ランちゃん、…俺、自分の部屋で待ってるな。お大事に」
寂しそうなヴェインの声と、とぼとぼと遠ざかっていく足音が聞こえる。悪いことをしたとは思いつつ、ランスロットはようやくほっとため息をついた。
心臓はまだどくどく鳴っている。頬を撫でると、やはり顔は熱いままだった。
ドアにもたれかかり、ずるずると崩れ落ちる。
なんと名前をつけたらいいかわからない、悲しいような、切ないような、情けないような気持ちに全身を支配される。ヴェインにどう言い訳をすればいいのかも今は考えられそうにない。
ヴェインと会うたびに自分を満たす、胸がいっばいになるような愛情。この気持ちを、可愛い弟分に向ける感情だと思い込んでいた。
自分よりも大きくなった体つきを見た瞬間、自分よりも小さなものに向ける慈愛のまなざしは砕けちってしまった。自分さえ偽って誤魔化してきた気持ちが飛び出してくる。
一切のまざりけのない純粋な慈愛を向けているような顔をして、俺は一体いつから__ヴェインに恋をしていたのだろう。
気づいてしまえばもう、これまで彼に向けていた感情全てが、汚くて狡猾で醜いものに思えて仕方なかった。自分がとんでもない嘘つきに思えてしまってしょうがない。
泣きたい気分だった。